2019.1.1「年末年始の棚卸 イザヤ55:8-11」

一般に棚卸とは、在庫を調べることです。もし、これを自分の人生に適用するならどうでしょう?あの時はうまくいったけど、もう古くて役にたたないものがたくさんあるかもしれません。「これを棄てよう。いや、これは捨ててはならない。これは守っていくべきだ。」それは、人間関係にもいえるかもしれません。自分にぶら下がってくる人は捨てましょう。操り人形の糸を切りましょう。逆に自分がだれかにぶらさがっているなら独り立ちしましょう。イエス様に依存しているなら全く、問題はありません。きょうは私が気付かされている5つのことを取り上げます。みなさんの中にも、チェックが必要であるかもしれませんのでお聞きください。

 

1.後ろと前

 ピリピ3:13,14「うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」このことは、昨年の12月2日にすでにお話ししました。前に向かって進むためには、使用価値のない古いものは捨てなければなりません。Let it go.「手放す」「あきらめる」ということです。過去のいやだったこと、自分を傷つけた人、裏切った人のことを手放しましょう。思い出したら、そこで座って見るのではなく、リモコンでチャンネル変えましょう。前のものに向かって進むためには、夢や幻、そして情熱が必要です。情熱という英語は、enthusiasmですが、もともとは、2つのギリシャ語からなっています。エンとセオスです。エンは「〇〇の中に」です。セオスは「神」です。2つを合わせると、「神の中に」「神がかった」という意味です。つまり、神さまがその人に情熱を与えるときは、年齢は関係ないということです。ある学者が「人間の脳はどんな頭の良い人でも5%も使っていない」と言いました。私も物を忘れますが、それ以上に覚えたらどうでしょう。私は英語を一生かけて勉強しています。この間、学んだ単語を忘れます。でも、また覚えるのです。「三歩前進、二歩後退」ではありませんが、忘れる量よりも、覚える量を増やすと良いのです。体の筋肉も使わないと衰えてきます。だから、ストレッチしましょう。ちょっと無理するくらいが良いのです。三浦雄一郎氏は80歳で三度目のエベレスト登頂に成功しました。だれか忘れましたが、ある婦人は80歳からピアノを習い始めました。絶えず、何かにチャレンジ、能力開発をすることが老いに勝つ秘訣です。詩篇103:2-5「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、鷲のように、新しくなる。」

2.動と静

 マルコ福音書は、イエス様が「神のしもべ」として牛のように働いているように書いています。その証拠に、イエス様は、すぐに行動をしています。たとえば、マルコ1章には「すぐに」が8回でてきます。英語の聖書はimmediatelyであり「直ちに、すぐさま、早速」です。葛飾区役所に「すぐやる課」というのがあります。ホームページに「区民の皆さんからの相談やご意見・要望に対し、各課と連携してスピーディに対応します」と書いてありました。私は年のせいもあり、「さっき何をするつもりだったんだろう」と忘れることがあります。また、すべきことを先延ばしにすると、忘れてしまいます。それを防止するために、私は気づいたら、すぐやることにしています。また、計画の実行をさきのばしにすると、情熱が失せてしまい、もうやる気がなくなります。ぐずぐずして、決断ができない人がいます。私はいろんな団体の世話役(幹事)を任せられました。どこかで一、二泊しながら研修会を持つことがありました。すぐに申し込む牧師もいれば、直前まで、迷っている人もいます。「どっちなんだ。行くのか、行かないのか、はっきりしてくれ!」とイライラします。もちろん、すぐ決断して、失敗したことも度々あります。車の運転は、すぐ決断しなければならないので疲れます。運転中、後ろから話しかけられたりすると、ドキッとします。でも、最近は「慎重さも大事だなー」と事故を重ねた結果、教えられています。ともかく、すぐしないこと、遅延というのは良くないです。時間の約束も守る必要があります。お金も清算もすぐしたら良いです。宿題やレポートも、すぐにやったら良いです。私などは説教を1年後先までできています。なので、土曜日は全く、イライラしていません。

 でも、イエス様はちゃんと静まる時も持っていました。時々、寂しいところに退いて、父なる神さまと交わっていました。また、日中は忙しいので、朝早く起きて祈っていました。どこからともなく、人々が「病を癒してほしい」「この問題を解決してほしい」と詰めかけて来ました。もし、彼らの要求のまま生きているなら、父なる神からいただいた目的を達成できません。イエス様は、人々のニーズに押し流されないように、静まる時をもっていました。インターバル・トレーニングが参考になります。働いたら、止まって、生き抜きすることが必要です。私は夕ご飯を作っています。それで、お昼前と夕方に買い物に行きます。ある場合は、閉店前の半額のときも行きます。買い物と料理は気分転換にとても良いです。会社でも、お昼あるいは午後、ちょっとだけお昼寝することを勧めています。脳波がぐっとアップするからです。体も同じ姿勢でいると、良くないので、ストレッチが大事です。睡眠も十分取りましょう。何故、寝ると良いのでしょう?それは免疫力がアップし、病気にならないからです。疲れたら寝る、風邪気味だったら寝る。詩篇127:2「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」とあります。どうでしょう?睡眠不足の人は、「私は〇〇時には寝るぞ!」と決断したらどうでしょう?体内時計というのがあるそうですが、朝6時には起きて、朝日を浴びるのが良いそうです。とにかく、「動と静」のバランスを考えましょう。

3.ゆずれないものとゆずれるもの

 私たちにはゆずれないものがあります。それはキリストを信じる信仰です。極論はそうですが、信仰生活の中でも、ゆずれないものがいくつかあると思います。ヘブル6:19「この望みは、私たちのたましいのために、安全で確かな錨の役を果たし、またこの望みは幕の内側に入るのです。」日本語よりも、ニュー・キングジェームスが良いです。This hope we have as an anchor of the soul, both sure and steadfast, and which enters the Presence behind the veil.直訳すると「私たちが持っているこの希望は、確かで固定した魂の錨のようなものです」となります。船の錨はとても重要です。そこに留まりたいなら、錨をおろしておかないと流されてしまうからです。この世の道徳や価値観は相対的であり、時代とともに変わります。もし、私たちが人の顔色や評判を気にしていたなら、とたんに不安になるでしょう。たとえ、99人が右を向いても、自分だけが左を向くということもあるでしょう。なぜなら、日本にクリスチャンは1%もいないからです。多数決では絶対負けてしまいます。ジョエル・オスティーンが「神さまと私で大多数」と言っています。どうぞ、「みんながそうしている」でだまされないようにしてください。「みんな」ではなく、聖書が何と言っているか、神さまが何と言っているかということに錨をおろすべきです。聖歌508「うきよの風と」があります。「うきよの風と波にもまれて、ふながかりせる小舟にとりて、強き錨ぞ、ただ頼みなる、罪の嵐はいかに吹くとも、岩なるイエスに錨降ろせば、ながさるることなし。我が魂は、波にもまれて、幾度か死を覚悟したれど、錨、この身をゆかしめざりき、罪の嵐はいかに吹くとも、岩なるイエスに錨降ろせば、ながさるることなし。」

 一方、私たちには、ゆずるべきものがあるかもしれません。それは、私たちの中にある信念です。信仰と信念はとても似ていますが、異なるところもあります。ある時は、私たちの信念が、正しい信仰生活の妨げになります。「敵は本能寺にあり」ではないですが、神の敵が自分の信念になっていることもあるのです。信念とは何でしょう?一般に「信念」とは、「正しいと信じている自分の考え」です。この場合、その人にとっては真理かもしれないけど、聖書が言う真理ではないかもしれません。つまり、神の真実と自分の信念が食い違う場合があるということです。これまで『思考の変革』で何度も学んだことがあります。私たちの自動思考を生み出している核(コア)の部分があります。これを核信念(コア・ビリーフ)というと申し上げました。実は、私たちの核信念は歪みがあり、こだわりがあり、一定の傾向があります。その人の経験、その人の性格、その人が体得してきた知識と関係があるからです。もし、「自分の信念がゆがんでいるなー」と気づいたら、進んで、譲歩する心が必要です。ヤコブ3:17「しかし、上からの知恵は、第一に純真であり、次に平和、寛容、温順であり」とあります。「温順」は英語の詳訳聖書でyield to reasonと訳されています。これは「道理に対して、譲歩する」という意味です。ことわざにも、「無理が通れば、道理がひっこむ」とあります。自分では間違っていると分かっている。でも、後に引けないので、意地を張って貫き通す。これが「信念」であります。みなさんもこういう信念というか、こだわり、1つや2つは持っているのではないでしょうか?しかし、私たちは「これが私の生きる道」とばかり、開き直る場合があります。私たち?私がそうです。家族は良く知っています。ちなみに、私はテレビドラマと演歌は大嫌いです。なぜでしょう?上から二番目の兄の影響です。兄は42歳のとき事故で亡くなりましたが、非常にプライドの高い人でした。何故かというと、長男と長女が優秀だったので、その反動として自分なりの信念を持ったのだと思います。どういう訳か、下の私は二番目の兄を慕ったところがあります。正統な理由はないですが、兄の遺志を受け継いでいるのかもしれません。だから、つまらない信念かもしれません。これくらいなら良いかもしれませんが、信念が自分のエネルギーになっている場合もあります。それが正しければ良いのですが、怒りや「見返してやるぞ」という負のエネルギーでは良くありません。上からの知恵は、温順とあります。yield to reason「道理に対して、譲歩する」ということが必要ではないでしょうか?あなたにとって絶対ゆずれないものは何でしょう?あなたにとって、ゆずるべきものがあるでしょうか?棚卸をしてみてください。

4.出ると入る

 「出ると入る」はoutとinです。聖書では、私たちの肉体や心が家にたとえられています。みなさんの家には扉doorがあるはずです。外部と完全にシャットアウトしている家はないでしょう。そこには出入りができる扉doorがあるはずです。「良いものはドアを開けて入れて、悪いものはドアを閉じて入れてはいけない」ということを前に学んだことがあります。それでは、自分の家あるいは部屋の中を見て、棚卸をしてみましょう。私はいつまでもこの教会にいるわけではないので、数年前から整理をしています。古いカセットテープやCD、どこかで学んだファイルが山のようにありました。しかし、まだまだ残っています。脚立が必要な棚の奥に、まだたくさんあります。80歳過ぎたら捨てられないと聞いたことがあるので、60代のうちに何とかしたいと思っています。きょうお話ししたいのは、心の棚卸です。心の中にある不用品を出さないと、新しいものを入れられないという真実があります。ルカ2章にキリストの誕生のいきさつが記されています。なぜ、ヨセフとマリヤは家畜小屋でイエス様を生むことになったのでしょうか?宿屋がいっぱいだったからです。英語の聖書にはno roomと書かれています。何故、宿屋の主人は二人を締め出したのでしょうか?もし、彼らを入れたら、今泊まっている客に出て行ってもらわなければならないからです。産気づいたカップルを入れると面倒だという理由もあったかもしれません。その結果、宿屋の主人は、キリスト誕生のためにお役に立てなかったのです。さて、私たちの中にしまってあるもので、本来ならダンシャリすべきものは何なのでしょうか?おそらく、自分に無礼なことをした人のことではないでしょうか?あいつから不当な扱いを受けた、虐待された、大事なものを奪われた、プライドを傷つけられた。負の遺産があるでしょう。英語ではいろんな表現があります。まず、赦せない心はbitterness(苦い)と言います。憤りはresentment、憎悪はhateです。そして、恨みはgrudgeです。Grudgeは「人に(物を)与えるのを喜ばない、与えたがらない、出ししぶる」という意味もあります。本当は気前よく与えるべきなんですが、その人だけには与えるのを控えます。favor好意、親切を与えないで、仕返しをしているわけです。そうしなければならない義務はないので、与えなくて良いかもしれません。でも、心の中には隠された恨みがあります。英語で船を停泊させるとき、harbor ということばを使います。Harborは名詞形では港です。三郷の中川にヨットハーバーがあります。たくさんのヨットが係留されています。Harborの動詞形は「隠す、かくまう、収容する」という意味でもあります。さらには、「恨みや憎しみを抱く」という意味もあります。心の港に恨みや憎しみをつないでいるのです。でも、そういうものがあると、新しいものをあなたの家である心に入れることはできません。既に、他の客でいっぱいでふさがっているからです。

 新しいものとは何でしょう?キリストの誕生です。あなたはキリストを締め出して、離れの家畜小屋に追いやっているのではないでしょうか?いや、これは私の問題でもあります。メッセージしている私自身も問われる内容です。お互いにきついです。「ああ、テレビのお笑い番組を見ていれば、良かった」と思っている人もいるかもしれません。エペソ人やコロサイ人への手紙を見ますと、古い肉の性質を脱ぎ捨てて、キリストにある新しいものを着なさいと書かれています。どういうものがあるのでしょう。親切、優しさ、赦し合い、善意、正義、真実、深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、愛などです。私たちはガラテヤ5章の「9つの御霊の実」を上げますが、他にもたくさんあるということです。Ⅱペテロには徳、知識、自制、忍耐、敬虔、兄弟愛があげられています。前に引用したヤコブ3章には、純真、平和、寛容、温順がありました。全部を実らせるのは当然無理です。でも、果物にはいろいろな種類があります。花にもいろいろな種類いがあります。あなたにはあなたのvariationがあって良いのではないかと思います。どういうことかと言うと、その人の傷が癒されると、同じような人に対する同情心や気配りが生まれます。私のように不当な扱いや虐待で苦しんだ人はどうなるでしょう?私の家では父が酒を飲み暴れました。仕事もあまりしませんでした。夫婦仲も良くなく、兄弟同士も喧嘩をしていました。つまり、父がちゃんと家庭を治めていなかったので、家の中が荒れていたのです。私は旧約聖書のヨセフにとっても魅力を感じます。私のテーマは「正しく治める人がいなければならない」です。私は学校のときは、リーダーシップのない子どもでした。自分勝手な行動をして先生をいつも困らせていました。しかし、クリスチャンになってから変わりました。loyalty忠誠であれば良いなーと願っています。結論として、悪いものをはきだしたので、その分、良いものが入って来たということです。まだまだ、クリスチャンになる前の積残しあるかもしれません。役に立たない不用品は捨てましょう。その代り、神さまから新しい、役に立つものをいただきましょう。

5.オープンとクローズ

 詩篇119篇をみますと、神さまに心を開いて求めています。よく出てくることばが、「みおしえ」「さとし」「おきて」「仰せ」「悟り」「救い」などです。詩篇119:18「私の目を開いてください。私が、あなたのみおしえのうちにある奇しいことに目を留めるようにしてください。」ニューイングジェームス訳は、Open my eyes, that I may see Wondrous things from Your law.となっています。Wondrous thingsというのは何か興味がわきます。神さまは絶えず私たちに何かを示そうとしておられます。何かのアイディアであったり、これから起ることであったり、警告すべきこと、あるいはすばらしい奥義を示そうとしておられます。ところが、こっちは聞く耳持たずというか、この世のことに目を向けています。心も感情的に乱れて、神さまからの情報をキャッチできないでいるときがあります。主の御声に耳を傾けましょう。主が示してくださることにオープンでありましょう。箴言2:1-5「わが子よ。もしあなたが、私のことばを受け入れ、私の命令をあなたのうちにたくわえ、あなたの耳を知恵に傾け、あなたの心を英知に向けるなら、もしあなたが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、銀のように、これを捜し、隠された宝のように、これを探り出すなら、そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、神の知識を見いだそう。」主はどこでも、いつでも、常に語りかけておられます。こちらが聞こうとすれば、教えてくださいます。私は外を歩いているときも、買い物をしているときも、たえず主と会話をしています。「これはどうでしょうか?」「あのことはどうしたら良いでしょうか?」すると、何らかの考えが浮かんできます。私は子どものときから、落ち着きがないというか、集中力がありませんでした。今でいったら、ADHD学習障害だったかもしれません。作文でも絵でもテストでも、時間内に完成できません。なぜなら、頭と心が混乱していたからです。しかし、クリスチャンになって癒されました。とても集中力が付くと同時に、神からの知恵が与えられるようになりました。神さまは隠されたことを私たちに示そうとしておられます。申命記29:29「隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。」とあります。箴言25:2「事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。」とあります。神さまは、私たちにそれを発見してもらいたいと願っておられるのです。もちろん、天国に行かないと分からないこともあります。それは主が私たちのために隠しておられるからです。でも、多くの場合、主は出し惜しみしないで、奥義を私たちに示してくださいます。

 しかし、シャットアウトすべきものもあります。悪魔は私たちの霊に悪いものをたえずばらまいているからです。恐れ、混乱、破壊的な考え、否定的な考え、情欲、中毒、憎しみ…これらは悪魔から来るものです。ヨハネ10:10「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。」とあります。盗人とは悪魔のことです。私たちは悪魔によって、ついつい、欺かれてしまいます。「欺き」これが、悪魔の最大の武器です。私たちの思いの中に、疑いをばらまいています。私たちの思いは戦場といっても間違いありません。私たちはこの思いを守らなければなりません。箴言4:23「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」アーメン。