2019.1.6「新しい皮袋 ルカ5:33-39」

 古い皮袋というのは当時のユダヤ教でした。彼らは言い伝えや伝統を重視するあまり、イエス様の福音を受け入れることができませんでした。一方、新しいぶどう酒というのは発酵している状態で、これは福音が持っているいのちを象徴しています。福音が「喜びの訪れ」という意味ですから、暗い、堅い、つまらない宗教に入れることはできません。しかし、福音を入れる入れ物も必要です。残念ながら、入れ物は、最初は新しくても、だんだん古くなります。言い換えると宗教的な要素が強くなって、福音を入れておくことはできなくなります。

1.新しい皮袋

 第一に、新しい皮袋とは礼拝が祭典的であることです。使徒15章には異邦人の問題を扱ったエルサレム会議が記されています。議長のヤコブが言ったことばがとても印象的です。使徒15:16「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。」このみことばは、アモス書9章からの引用ですが、終わりの時代そのようなことが起ると言う預言です。ダビデはその当時、画期的な礼拝をささげました。レビ人を組ごとに分けて、24時間、神さまを礼拝するようにしました。また、ダビデが推奨した礼拝は賑やかな礼拝でした。詩篇150篇には、「角笛、十弦の琴、立琴、タンバリン、緒琴、笛、音の高いシンバルで、鳴り響くシンバルで神をほめたたえよ」と書かれています。また、他の箇所には、叫べ、歌え、手を打ち鳴らせ、踊れとも書かれています。実際、ダビデが神の箱を迎えるときに、あらゆる楽器を用いて主を賛美し、自分自身も踊りました。

ところが、いつの間にか、礼拝が形式的になっていきました。特にローマ・カトリック教会になってからは、荘厳で、儀式的になりました。16世紀、宗教改革が起こりましたが、その時に儀式的なものをかなり排除しました。ルターはみんなが歌える賛美歌をたくさん作りました。ジョン・カルヴァンはパイプ・オルガンを捨てて説教を強調しました。残念ながら、聖公会はカトリックとあまり変わりません。祭典的というのは神さまを喜び、お祝いするという意味です。これに対して、礼典的というのは儀式的でプログラムががっちり固定されているということです。交読文で「叫べ」「踊れ」「手を打ち鳴らせ」と言いますが、実際にはやりません。当教会では説教の途中に、「ハレルヤ」とか「アーメン」とか言いますが、改革派やルター派の教会に行ったならつまみ出されるでしょう。他の人が当教会の礼拝に来ると、「ここは韓国の教会ですか」とか「ペンテコステ派ですか」と言われます。韓国の教会は50年前にリバイバルが起きて、どの教団教派も元気な賛美を歌うようになりました。ペンテコステ派の教会は聖書から「ダビデの幕屋の回復」ということを主張しました。彼らは教会にドラムとかギターをいち早くいれました。新しい賛美も数多く作り、ダンスも取り入れています。私はペンテコステではありませんが、礼拝において彼らから学ぶ要素がたくさんあると思います。

 第二は新しい皮袋とは新しい歌です。詩篇には「新しい歌を主に向かって歌え」と何か所も書かれています。リック・ウォレンが書いた本が1998年に『健康な教会へのかぎ』という題で翻訳出版されました。ところが「求道者向けの礼拝」「音楽を吟味する」「教会につながっていない人への説教」の三項目が割愛されていました。3年後に小冊子として日本語で出版されました。おそらく、「いのちのことば社」が日本の教会には過激だと判断したからでしょう。小冊子から少し引用します。教会史をたどってみると、偉大な神学者たちは、その当時のスタイルの音楽にのせて神の真理を宣べ伝えました。マルチン・ルターの「神はわがやぐら」の旋律は、彼の時代に流行した音楽からの流用です。もし、今日ルターがいたら、地域のカラオケバーから曲を拝借したかもしれません。チャールズ・ウェスレーは英国の居酒屋やオペラハウスで聴かれていた流行曲を数曲用いています。ジョン・カルヴァンは、世間で活躍する音楽家を二人雇って、彼の神学を歌に盛り込ませました。英国女王はこうした低俗な「メロディー」に怒ってカルヴァンの「ジュネーブ舞曲」と嘲笑したと言われます。おそらく一番信じがたいのは、ヘンデルの「メサイヤ」が当時の教職者たちによって「大衆劇」と酷評されていたことでしょう。現代音楽のコーラス部分と同じように、当時はメサイヤも繰り返しが多すぎてメッセージ性に乏しいと非難されました。

 もう少し、引用しますが、このことが割愛された理由だと思います。教会で用いる音楽スタイルを決定するほど、重要であり、かつ議論を呼ぶものは他にないでしょう。教会が今後どのような人々をキリストに導けるか、また教会が成長していけるか否かは、音楽によって決まると言って過言ではありません。教会の音楽は、その教会が伝道の対象としている人々に合わせていくべきです。音楽はまた、その地域における教会の位置づけをします。どのような教会であるかは音楽によって表されます。いったん礼拝に用いる礼拝のスタイルを決めると、あなたが理解するよりはるかに多くの点で教会の方向を決めてしまいます。どんな人々が教会に集まり教会に残るか、またどんな人々が教会を去っていくかは音楽によって決まります。…教会は、特定スタイルの音楽だけが「神聖」でないことを認める必要があります。音楽を神聖にするのは、その使信です。音楽を霊的にするのはその歌詞です。「キリスト教の音楽」というものはありません。あるのは「キリスト教の詩」です。引用は以上です。当教会では2000年から亀有ゴスペルクワイアを創設ました。若い方がたくさん救われ、その当時の礼拝形式が合わなくなりました。2003年から司会者を下げて、ワーシップリーダーが賛美を導くようにしました。元気な賛美を立て続けにするので、嫌になって帰る人もいました。今では当たり前になっていますが、若い人たちにターゲットを当てるためでした。先輩クリスチャンはその分、我慢することになり、感謝しております。聖書では「新しい歌を主に向かって歌え」と書いてあります。賛美こそは新しい皮袋だと信じます。

 第三は新しい皮袋とは教会の組織です。西暦313年コンスタンティヌス帝が、キリスト教を国教にしました。そのおかげで、それまで続いていた迫害が止みました。ところが、コンスタンティヌス帝はローマのミトラ教の神殿を手本として、神聖な儀式を司る有給の聖職者を雇いました。一方、一般の信徒たちは黙って傍観するだけの存在になりました。やがて、一般信徒は、集会中に歌うことも許されず、音楽は専門の聖歌隊が担当しました。また、だれでも勝手に集会を開くことは許されず、国から認定された聖職者が導くものでなければなりませんでした。異教の風習と偶像礼拝が教会に持ち込まれると、聖霊は離れ去って行きました。1000年の束縛と死を経た後、神さまは回復の御業をはじめました。紀元1500年頃を皮切りに、すばらしい聖霊の働きが起こり、神さまは教会を回復しはじめました。マルチン・ルターが聖書から信仰義認を発見しました。彼は聖書をドイツ語に翻訳したので、普通のクリスチャンたちが聖書を読めるようになりました。彼は、だれでも神さまに近づき、奉仕できると言う万人祭司説を称えました。18世紀はジョンウェスレーによる聖めのリバイバルが起きました。19,20世紀には聖霊の力を回復しはじめました。しかし、教会の組織はローマ・カトリック教会のものを払拭できず、聖職者と一般信徒と二つに分けています。教皇はいなくなりましたが、この世の議会政治や民主政治を取り入れています。司祭の代わりに、牧師が教会を指導し、使徒や預言者が排除されています。牧師が霊的な奉仕をして、信徒には任されていません。何か問題があったら、「牧師のところへ行って相談しなさい」と言われています。

 半年前に『使徒的教会の台頭』という本を読みました。この本の著者は、新しい皮袋とは、「キリストのからだなる教会である」と言いました。これも、昔から書かれていることでしたが、どうしてもこの世の組織や政治形態しか思い浮かびませんでした。ちょっとは改善しても、教団やその委員会がピラミッド式に治めています。では、どのような組織が新しい皮袋なのでしょうか?教会のかしらなるキリストが、教会を治めるために、「キリストの賜物」(エペソ4:7)を与えました。エペソ4:11 「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。」この人たちが、教会を運営するためにキリストがお建てになった「五役者」なのです。ところが、現在の教会が、牧師がほとんどの働きをしており、使徒や預言者がいません。新約聖書を見ますと、使徒が87回、預言者が157回、教師が121回、伝道者が3回、牧師が1回です。聖書で1回しか述べられていない牧師が、教会の中心的な職務に据えられています。ある統計によると、アメリカの教会の牧師の70%は、牧師の働きを辞めようかと定期的に考えているそうです。また、80%が鬱あるいは落ち込みで苦しんでいるそうです。この本の著者は、使徒的教会こそが牧師の働きを活性化すると言っています。牧師中心の教会は、教会員を一般信徒と見なします。一方、使徒的教会では、全てのクリスチャンが働き人と見なされます。牧師中心の教会では、牧師の役割は聖徒たちを気遣うことです。一方、使徒的教会は、奉仕のためにひとり一人の聖徒が整えられることを望みます。古い皮袋の教会では、牧師という一人の人が働きます。一方、新しい皮袋の教会では、全ての信者が働きに向けられて整えられます。私たちはもう一度、教会がキリストのからだであり、私たちすべてが、その器官であることを覚えて、それぞれの使命を果たしたいと思います。

2.新しいぶどう酒

 第一は福音の喜びです。「福音」自体の中に「喜び」がはいっているのに、おかしいと思うかもしれません。ところが、キリスト教会は聖書の福音をそのまま語っていません。そのため、皮袋がパンパンになるくらい膨らまないのです。イエス様は「新しいぶどう酒」と言われました。ということは「古いぶどう酒」もあるということです。イエスさまは、1つ前に「新しい着物と古い着物」についてもおっしゃっています。2つのたとえは同じことを言っています。古いぶどう酒と古い着物は、旧約聖書のことを指していると考えられます。その当時は、旧約聖書の中心はモーセの律法でした。一方、新しいぶどう酒と新しい着物は、新約聖書のことを指していると考えられます。その当時はまだ「新約聖書」は完成していませんでした。イエス様は「御国の福音」を持ってこられました。福音(エウワンゲリオン)のもともとの意味は「戦争に勝ったという勝利の知らせ」でした。ギリシャ時代たくさんの戦争がありました。もし、戦争に敗れたなら町は略奪され火で焼かれます。捕えられた人たちは奴隷になるしかありません。戦地から「戦争に負けた」という知らせを受けたなら金目のものを携えて一目散に逃げるしかありません。紀元前450年のマラトンの戦いでは、一人の兵士がひたすら走り、勝利を伝えると息絶えてしまいました。彼が走ったマラトンからアテナイまでの距離が、マラソンの距離になったと言われています。「勝利の知らせ」こそが、福音であります。では、イエス様は何に勝利されたのでしょうか?死と悪魔に勝利されたのです。イエス様は人類が負っている罪と死を十字架で破ってくださったのです。イエス様が死からよみがえられた後、神の国が力強く臨んできました。この地が神の国によって侵略されているのです。ですから、私たちの福音は単なる福音ではなく、「御国の福音」です。

 残念ながら、教会は「福音」をとても小さく扱うようになりました。罪が赦されて、天国に行くという魂の救いだけにフォーカスをあててしまいました。ということは、「人は洗礼を受けたら、あとは好きに暮らして、最後は天国に入れば良い」ということになりました。これは、怠け者を作り出す福音です。確かにイエス様を信じるだけで天国に行くことができます。しかし、神さまが願っているのはそれだけではありません。マタイ28:18-20「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」ここにはあらゆる国(国民)を弟子とせよと言われています。これは個人の救いだけではなく、国全体が変革されるということです。もう1つは「イエス様が命じておいたことを守るように教えよ」と言われています。イエス様は福音をただ宣べ伝えただけではありません。しるしと不思議、癒しと力あるわざを行って、御国が来ていることを証明されました。パウロも言っていますが、私たちの福音は「知恵のことばではなく、御霊と御力の現れ」が伴うべきだということです。これが新しいぶどう酒です。

 第二、新しいぶどう酒とは聖霊の力です。新しいぶどう酒は「聖霊の力」を象徴していると考えられます。単なる聖霊ではなく、聖霊の力です。なぜかと言うと、聖霊は創世記1章から記されていますが、新約の私たちには違うかたちでやってきたことを知らなければなりません。その革命的な出来事はペンテコステの日に実現されました。使徒2章にそのことが記されています。使徒2:1-4「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」ここに「天から激しい風が吹いて来た」と書かれています。聖霊が天から激しく下って来られたということです。イエス様がヨルダン川で洗礼を受けられたときも似たようなことが起こりました。マタイ3:16「すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった。」イエス様のときは、天が開け、神の御霊が鳩のように静かに降って来られました。一方、ペンテコステの日は、天から激しい風のごとく下り、炎のような分かれた舌が現れ、ひとりひとりの上にとどまりました。弟子たちのときは、激しい風のように、火のように下ったということです。何を言いたいのか?どちらも、神さまの働きをするための原動力になったということです。イザヤ書61章に「主はわたしに油をそそぎ」と書いてありますが、これは聖霊の油そそぎであります。

 もちろん、聖霊は力だけではありません。聖霊は人の中に住むようになり、人は神の神殿となりました。聖霊はイエス様と同じような助け主であられ、私たちを慰め、あらゆる真理へと導いてくださいます。旧約聖書の「神が共にいる」と言うことが、聖霊によって実現されました。しかし、これらは聖霊の静的、staticな面であります。ところが聖霊は動的、dynamicな面があることを忘れてはいけません。初代教会の頃は、聖霊のdynamicな面が強調されていました。彼らが迫害されたときどのように祈ったでしょうか?使徒4:29-31「『主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください。』彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」アーメン。弟子たちが迫害されたのは、人格的にきよめられたからではありません。ペテロが奇跡を行なって、大勢の人たちがイエス様を信じたためです。弟子たちは迫害に屈せず、「イエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行わせてください」と祈りました。そうすると、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだしました。聖霊こそ、福音宣教と神のわざを行うための原動力だということです。昔、サブリツキーという伝道者が日本に来られたことがあります。コテコテのペンテコステの人でした。サブリツキーはとてもハスキー低音でこう言われました。Power is Holy spirit. Holy is power. Power is Holy spirit. Holy is power.と何度も語りました。とっても単純でしたが、聖霊は力を与えるお方であると分かりました。

 第三、新しいぶどう酒とは主の臨在です。主なる神はエデンの園でアダムとエバと親密な関係を持っていました。ところが、二人が知識の木の実から食べたため、罪が入って神との関係が遮断されました。二人はエデンの園から追い出され、サタンがこの地上を支配するようになりました。主はアブラハムを選び、その子孫であるイスラエルの中に住もうと幕屋を建てさせました。ソロモンが神殿を奉献したとき、主の臨在があまりにも強くて、祭司たちは立って奉仕することができませんでした。しかし、バビロンによってエルサレム神殿が焼かれてしまいました。最後に神の御子が肉体を持ってこの地上にお生まれになられました。イエス様の中に神さまが臨在されました。神が共におられるイエス様こそ、私たちの模範であります。そのことが実現するようになったのが、ペンテコステの日からです。天から御霊が降り、120人が聖霊に満たされました。言い換えると、120人の中に主が臨在しました。エルサレム中の人たちが物音を聞いて集まりました。人々は、120人が集まっているところに、主が臨在しておられることを知ることができました。この間、キリストを十字架につけた人たちが、ペテロの説教を聞いて「私たちはどうしたら良いでしょうか」と言いました。ペテロが「悔い改めなさい」と勧めたら、3000人の人たちが信じてバプテスマを受けました。この時からキリスト教会が誕生したのです。

 主はどこにおられるのでしょうか?コロサイ1:27「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」。Ⅰコリント6:19「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮である」と書かれています。つまり、私たちの間に、主が臨在してくださるということです。神さまは偏在なるお方でどこにでもおることができます。しかし、キリスト様を信じる共同体の中に臨在してくださるということです。歴史の中で主の御霊が激しく臨んだことが何度もあります。人々は主の臨在を肉眼でも見ることができました。病が癒され、盲人が見え、聾唖者が聞こえ、足なえが歩き、死人が生き返りました。これを私たちはリバイバルと呼んでいます。そのリバイバルを喜べない人たちが必ずいるものです。「神学的におかしい、これでは無秩序になる」と否定します。なぜなら、人々が倒れたり、痙攣したり、大きな声で笑ったり、ころがったりするからです。そういう現象だけを見て、主がなさっておられる御業を否定するのです。イエス様がおられたとき一番の敵は当時の宗教家たちでした。私たち教会は、リバイバルのためには伝統や制度、神学さえも捨てる覚悟がなければなりません。天が地上に侵略するときは、異状なことが起るのは当然であります。ビル・ジョンソンが書かれた『主の臨在をもてなす』から引用致します。「神ご自身をお招きするということ以上に大きな特権はない。そして、それ以上の責任もない。神は圧倒的に善であるお方、最高に尊厳があり、可能な限り驚異的なすばらしい方である。力強くかつ紳士的、積極的でありながら繊細な方。しかも完全でありながら、不完全な私たちを抱きしめて下さる。けれども、この神をお招きし、おもてなしをするという任務について気づいている人は少ない。神の臨在の現れなしに、私たちの個人や人格が完全になることはない。神をお招きするということを学ぶのは、私たちの任務の中心である」。