2019.1.13「証人となる 使徒1:8」

 証とは、自分がキリストとどう出会ったか、自分にとってキリストはどういう方かを身を持って語ることです。説教のように勧めたり、信仰告白に導く必要はありません。食べ物やサプリメントと同じでその人が良いと思えば、いただくでしょう。教会では「行いが伴っていない」とか、「証になっていないから」と断る人がたくさんいます。何も自分のすばらしいことを語るのではありません。こんなダメな自分を神さまがどれだけ愛しているか、そのことを語れば良いのです。

1.証の原点

 第一のポイントは、ペンテコステの前における「証」であります。つまり、証の原点について学びたいと思います。証とは見たこと聞いたことをだれかに告げるということです。裁判の席においては「証人」とも呼ばれ、大変重要な役割を果たします。なぜなら、この人の証言によって罪にもなるし、無罪にもなるからです。もし、偽証をたてるなら、あとでその人自身が裁かれるでしょう。十戒の9番目に、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」とありますが、元来は裁判と関係があります。そうであるなら、単なる嘘では済まされなくなります。もし、証の原点は自分が見たこと聞いたことをだれかに伝えることであるとするなら、そんなに重たい気持ちにはなりません。なぜなら、それを聞いた人が何か徳を得るかもしれないからです。

旧約聖書のⅡ列王記7章には、4人のらい病患者が出てきます。大飢饉にみまわれ、町には食べるものがありませんでした。この4人は「このままではどうせ死ぬのだから」と、冒険を犯しました。その時は、アラム軍がイスラエルを取り囲んでいました。4人のらい病患者は、食べ物を奪おうとアラムの陣営に潜り込みました。なんと、そこにはだれもいませんでした。なぜなら、主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので「イスラエル軍が攻めてきた」と思って、持ち物を全部おいて逃げ去った後だったのです。4人は一つの天幕に入り、食べたり飲んだりして、そこから、銀や金や衣服を持ち出し、それを隠しに行きました。また、戻って来ては、ほかの天幕に入り、そこから持ち出し、それを隠しに行きました。彼らは互いに言いました。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」(Ⅱ列王記7: 9)。彼らは町に言って、「アラムの陣営にはだれもいませんよ」と告げました。イスラエルの人たちは、アラムの陣営に行って、衣類や武具、そして小麦をたくさんかすめ奪いました。それで飢饉から脱出できたのです。彼ら4人は「私たちのしていることは正しくない。だまっていたなら罰を受ける」と考えました。なぜなら、町には飢え死にそうな人たちがたくさんいたからです。このように証とは、良いことを独り占めしないでだれかにも知らせるということが含まれます。

 新約聖書のヨハネ4章にはサマリヤの女性が登場します。彼女はわけありの女性でした。なぜなら、夕方の涼しい時ではなく、だれもいない日中に水を汲みに来たからです。イエス様はそんな彼女に「水を飲ませてくれ」とお願いしました。彼女は「ユダヤ人が自分に声をかけるなんて」と驚きました。なぜなら、ユダヤ人はサマリヤ人が霊的な混血だったので軽蔑していたからです。イエス様は井戸水ではなく、渇かない「生ける水」について話しました。彼女は「私にその水をください」と願いました。そうするとイエス様は思いもかけないことばを彼女に発しました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と言いました。彼女は「私には夫はありません。」と答えました。するとイエス様は「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」と言い当てました。彼女はびっくりして「あなたは預言者だと思います」と答えました。その後、彼女は自分の水がめを置いて、サマリヤの町に出かけました。そこには彼女を嫌っている人たちが大勢いたことでそう。しかし、彼女はイエス様のことを告げずにはおられませんでした。ヨハネ4:29,30「『来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。』そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。」…ヨハネ4:39「さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。」ここで重要なのは、サマリヤの女性が自分が出会ったイエス様のことを伝えたことです。その時、彼女は「私のしたこと全部を私に言った人がいる」と告げました。彼女のしたことというのは、夫を5人も替え、今6人目と同棲していることです。自分の恥をさらしてまで伝えたかったのです。その後、サマリヤの人たちは直接、イエス様のところへ行って、イエス様のことばを聞いて信じました。でも、サマリヤの女性が証しなければ、彼らは救われなかったことは確かです。サマリヤの女性は自分の喜びを独り占めしないで、町の人たちにも知らせたかったのです。そのためには、自分の恥などどうでも良かったのです。

 私は1979年6月に洗礼を受けました。その当時、水曜日の夜と、金曜日の午前に祈祷会がありました。前半の30分くらいは証の時があり、兄弟姉妹が日常の出来事から、救いの証まで自由に分かち合っていました。佐伯兄弟というとても熱心な人がいました。彼が少年のとき、お母さんが鉄道自殺して、自分がこおり籠をもって、遺体を運んできたという証を聞きました。ものすごく強烈でした。またある息子がお父さんを殺そうと包丁で額に切り付け、クリスチャンの娘が教会にみんなを連れて来たという、これまた強烈な証でした。ある姉妹は洗濯機が壊れて、修理屋さんを呼んだという証をしました。見てもらうと「靴下がそこにひっかかって故障したんだ」と言うことでした。姉妹は「ああ、パンツでなくて良かった」言いました。もう、どうでも良いものから、過激な証までどんどん飛び出しました。でも、共通して言えることは、自分の恥や罪を隠さないで伝え、その代り、イエス様がどんなにすばらしいかを伝えていたことです。極端になると、自分がどんなにひどかったか、そちらに重点が置かれるものもありました。この世の中では決して聞かれない恥や罪の自慢です。でも、それだけイエス様がすばらしいということを伝えたかったのです。このように証とは自分が体験したことを率直に伝えるということです。

2.証人となる

 使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」ここで言われている「証人」というギリシャ語は、「殉教者」という意味もあります。これは、「キリストがポンティオ・ピラトのもとで告白した血のあかし」(Ⅰテモテ6:13)と同じ意味です。つまり、「いのちがけの証」ということになります。毛沢東が文化大革命を起こしましたが、その時、多くの教会が迫害されました。大勢のクリスチャンが捕えられ、「キリストを否んだら助けてやる」と当局から迫られました。でも、否まなかったために、殉教した人がたくさんいます。私たちももし、そのような立場になったら「どうしよう?」と思います。実は、イエス様の弟子たちはイエス様が捕えられたときみんな逃げました。イエス様が復活したことを知ったにも関わらず、彼らは部屋の戸を閉じて隠れていました。イエス様が彼らの真ん中に入って来られ、「平安があるように」と言われました。さらに彼らに息を吹きかけ「聖霊を受けなさい」と言われたのです。おそらく、この時、11人の弟子たちに聖霊が内住の御霊としてお入りになったのだと思います。そのとき、彼らは霊的に生まれ変わりました。でも、それだけではまだ不十分でした。ルカ24章に書いてありますが「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都に留まっていなさい」と言われ、天に昇られました。彼らは共に集まり、祈って待っていました。五旬節の日、突然、激しい風のような響きが起こり、彼らの上に聖霊が降りました。イエス様が天に昇られた日から10日目のことでした。まさしく、聖霊が彼らの上に臨まれて、力を受けて、キリストの証人となりました。彼らはいのちがけで、世界の果てにまで出かけていきました。かつての臆病な弟子たちと同じ弟子たちとは思えません。

 ここで重要なのは、「わたしの証人となる」ということばです。「証人となりなさい」という命令ではありません。言い換えると、私たちの上に聖霊が臨むと自然に「キリストの証人」になるということです。しかし、キリスト教会は使徒1章2節を別の言葉で訳しています。「聖霊が臨むと地の果てまで伝道するようになる」と「伝道」にしています。次週「伝道」についてはお話ししますが、まずクリスチャンは「キリストの証人」になるべきだということです。言い換えると、伝道よりも、まずキリストの証人になることが基本だということです。では、「キリストの証人」とは何なのでしょう?最初に申し上げましたが、「証人」の動詞形が「証人である」「証言する」です。ヨハネ1:7「この人はあかしのために来た」とありますが、これはバプテスマのヨハネのことです。ヨハネは何をしたかと言うと、ヨハネ1:34「私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです」とあります。つまり、バプテスマのヨハネは、「天から御霊がくだって、その上にとどまるのを見たので、この方が神の子である」と証言したのです。証言とは自分が見たキリストに関することをそのまま言うということです。私たちのことで言うなら、自分にキリストが何をしてくれたのか、自分のことばで言うということです。これがキリストの証人になるということです。私たちは伝道と証を一緒に考えてしまうので、苦しくなります。伝道とはキリストが一体だれで、何をしたのかという「使信」を宣べ伝えることです。一方、証はキリストが自分に何をして、自分がどのように変えられたのか言えば良いのです。言い換えると、伝道は自分が体験していなくても語ることはできます。一方、証はキリストが自分に何をしてくれたのか体験がないと語れないということです。

 一番、容易なのは「イエス様を信じてどう変えられたか?」ということです。「イエス様を信じる前はこうで、イエス様を信じたあとどのように変えられたか?」です。自分の体験を語れば良いのです。私の場合は「人間は死んだら、全部おしまいだ」と思っていました。ところが、イエス様を信じたとき永遠のいのちが与えられたと実感しました。ということは、人生は無駄ではないということが分かったということです。私の家内はイエス様を信じて、罪が赦されたということでした。よっぽど罪深い人生を送っていたのでしょうか?そうではなく、十字架による罪の赦しは救いの基本形であり、このことが分かると信仰の道をはずれることはありません。他には、思いわずらいから解放された、先のことをくよくよ思わなくなったというのもあります。生きる意味とか目的が与えられたという哲学的なものもあります。劣等感から解放されたとか、病気が癒されたというのもあります。かなり前に、タンザニアのガジマ牧師のメッセージを聞いたことがあります。死んで四日目に生き返った女性のことを話していました。彼女は「出生証明書と死亡証明書の2つを持っているのは私だけだ」と言っていました。そういえば、ヨハネ福音書には、死んで4日目によみがえったラザロのことが記されています。聖書にはラザロが、何を言ったかひとことも書かれていません。彼はイエス様と共に食卓に着いている人々の中に混じっていただけです。しかし、ラザロがイエス様の生き証人でした。ヨハネ12:9「大ぜいのユダヤ人の群れが、イエスがそこにおられることを聞いて、やって来た。それはただイエスのためだけではなく、イエスによって死人の中からよみがえったラザロを見るためでもあった。」ラザロは無言の証人であります。死んでよみがえったラザロの存在そのものに力がありました。私たちも「キリストによって変えられた私を見て下さい」と言うことができます。1980年のミス・アメリカの証を聞いたことがあります。彼女は10代の時、自動車事故に遭い、衝撃で、彼女はフロントガラスを突き抜けて背中を壊し、左足をつぶしました。彼女の顔には100本以上の縫い目が必要でした。医師は両親に、決して歩くことができないと話しました。彼女の左足は弱く、しかも右足よりも6センチ短かったのです。リハビリのため何年も費やしましたが、高校3年生のとき、癒しの集会に出て、骨盤が癒され、片足が6センチ伸びました。彼女は学校に行って、校門の前に立って「私は足が伸びたのよ」とみんなの前で証をしました。ミス・アメリカに選ばれた時も、その証をしました。彼女はやがて伝道者の妻になり、その当時、癒しを信じていなかった教会に向けて、「今も奇跡は起こる」と証言しました。このように、キリストを体験したなら、キリストのことを証言せずにはおれなくなるのです。

3.証の方法

 私たちがすべき基本的な証とは、「自分がどのようにキリストを信じて、救われたか」を誰かに話すことです。公の場合もあれば、きわめて個人的なときもあります。私たちは何から救われたのか、一人ひとりテーマが違うと思います。でも、「救い」には多くのものが含まれています。公の場合は自分のベストなテーマで構いません。でも、個人的に誰かに話す場合は、その人のニーズに合わせる必要があります。ベストなものじゃないけど、相手に合ったテーマを選ばなければなりません。大伝道者でも自分の救いからメッセーをする場合、2つ、多くて3つしか語れないと言われています。私も8人兄弟の7番目で生まれたとか、小学校5年生のとき切手を焼かれたとか、ボクシングでTKOで敗れたとか話しますが、みなさんはもう耳ダコではないかと思います。それでも、私は私のイエス様を自分の生涯を通して、証したいのです。聖歌232「罪とがをゆるされ」という賛美があります。日本語は「日もすがらあかしせん、夜もすがら主をほめん」ですが、原曲はもっと感動的です。This is my story, this is my song, praising my savior all the day long.「これが私の物語です。これが私の歌です。日々末永く、私の救い主をほめたたえます。」となります。そうです。自分の証は物語です。物語は起承転結が基本ですので、自分の証も、そのように組み立てることが重要です。

使徒パウロがどのように救われたか、彼の証が使徒の働きには3回記されています。使徒9章はルカが客観的に書いたものです。そして、使徒22章と26章はパウロ自身が語ったものが収められています。開かなくても結構ですが、使徒26章からパウロの証の方法を学びと思います。第一は、パウロは自分が救われる前のことを話しています。パウロはパリサイ人であり、熱心に神に仕えていました。熱心さのゆえに「道の者たち」を迫害しました。私たちもどこの生まれで、どんな生き方をしてきたのか簡単に紹介する必要があります。でも、これまでの過去の人生を語ったなら3時間あっても足りないでしょう。前もって選んだテーマに必要なものだけをピックアップする必要があります。死の恐れとか、劣等感、人間関係の問題、悪習慣、生きる意味の模索などです。そして、できれば具体的なエピソードがあれば良いです。田原米子さんは、高校生の頃、生きる目的が分からなくなり、いろんな哲学書を読みあさりました。先生に聞いても、「よけいなことを考えないで勉強しろ」と言うだけです。それで彼女は線路に飛び込み、自殺を図りました。

第二はキリストとの出会いです。パウロはダマスコに行く途中、まばゆい光が天からさしました。パウロは地にたおれ「サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか」という声を聞きました。パウロが「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、「私はあなたが迫害しているイエスである」と言われました。パウロは目が見えなくなり、アナニヤという人のところへ祈ってもらうために手を引かれて行きました。その時、パウロは「あなたは異邦人のところへ福音を宣べ伝えに行くのです」という使命も一緒に受けました。私たちはパウロほど劇的な出会いはないかもしれませんが、何らかのきっかけがあるはずです。だれかから紹介されたとか、ゴスペルのコンサートに誘われたとか、あるはずです。先ほどの米子さんの場合は、気が付いたら病院に寝かされていました。気づいたら、両足がなく、左手も有りませんでした。もう一度、死のうと睡眠薬をためました。そこへ宣教師と若い青年がお見舞いに来ました。そして、小さな聖書を置いていきました。彼女は「人の弱みにつけこんで、だから宗教は嫌いなんだ」と思いました。しかし、ある晩、「神さまがいるなら教えてください」と一言、祈って寝ました。次の日、思い切って聖書を開いて読みました。Ⅱコリント5:17「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」という聖句が目に飛び込んできました。彼女はそれまで「五体満足でも生きていけなかったのに、こんな体になってしまって」と落胆していました。何とそのとき、「まだ右手に3本の指がある」と気が付きました。これが米子さんのキリストとの出会いです。

第三はそれから、どうなったかです。パウロは「天からの啓示にそむかず、ダマスコにいる人々をはじめ、エルサレム、ユダヤ全地方、さらに異邦人にまで悔い改めて神に立ち返るように宣べ伝えて来ました」と言いました。パウロの場合は裁判にかけられていましたので、弁明の形になっています。結論はこうです。使徒26:22,23「こうして、私はこの日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです。そして、預言者たちやモーセが、後に起こるはずだと語ったこと以外は何も話しませんでした。すなわち、キリストは苦しみを受けること、また、死者の中からの復活によって、この民と異邦人とに最初に光を宣べ伝える、ということです。」パウロの場合は、キリストの福音まで伝えていますので、証から伝道になっています。でも、パウロは「この日に至るまで神の助けを受け、堅く立って、小さい者にも大きい者にもあかしをしているのです」と言いました。つまり、パウロが福音を宣べ伝えるときは、必要とあらば、自分のあかしを交えているということです。ある人たちは、「説教は神のことばであり、自分のことを話すべきではない」と言います。では、パウロはどうなんでしょうか?パウロは説教の中に、このように自分のあかしを入れています。米子さんはすでに天に召されました。でも、私は米子さんが、三本の指で、リンゴを剥いている姿を思い出すことができます。彼女は人生の意味をキリストに見出しました。本来なら、ハンディを負って、人のお世話になりながらひっそりと暮らす人生だったでしょう。でも、義足を履いて、日本全国を歩き回り、キリストにある新しい人生を証しました。自分が救われた証を人と比較する必要はありません。ミッションバラバの鈴木啓之先生はヤクザから救われました。博打と覚せい剤の人生でした。でも、育ちの良い人は「私はそんなに悪くないのでキリストは必要ない」と言うかもしれません。だから、そういう人は、育ちが良くて普通の証で救われるのです。世界中のどこかに、あなたの救いの物語を必要としている人が必ずいます。あなたの証は神さまの栄光のために必要なのです。This is my story, this is my song,「日もすがらあかしせん、夜もすがら主をほめん」です。