2019.1.20「福音宣教 ローマ10:8-15」

 先週は「証人になる」というテーマで学びました。福音宣教となると、福音の内容を伝えなければなりません。ということは福音の中身を知っていなければなりません。しかし、福音の中身を頭で知っていたとしても、いざ人に伝えるとなると勇気が必要です。「もしかしたら、拒絶されるんじゃないだろうか?」と恐れます。ですから、伝えるためには愛、情熱、聖霊の力が必要となります。イエス様は「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と命じられました。福音宣教はオプションではなく、どうしてもしなければならないことです。

1.福音とは何か

 私たちは人に福音を伝えるためには、自分が福音とは何か理解していなければなりません。福音とはgood news「良い知らせ」です。たとえて言うと、「良い知らせ」というパッケージに入った品物です。だれでも、「良い知らせ」だったら聞きたいと願うでしょう。あなたも、かつては良い知らせを聞いて、信じて救われたのですから、恐れる必要はありません。私たちにとって「良い知らせ」とは何でしょう?使徒パウロはこのように述べています。Ⅰコリント15:2「私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです」。すごい。パウロはこの福音には人を救う力があると言っています。では、その福音とは何でしょう?Ⅰコリント15:3-4「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと…」このことは、パウロがだれかから聞いて、そして自分がコリントの教会に伝えたということです。「キリストが聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」です。なんとシンプルなのでしょう。あなたも言えるはずです。「キリストは聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれ、三日目によみがえられました。このお方を信じるなら、救われます。」ローマ10:13「『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです」と書いてあります。アーメン、ハレルヤです。

 でも、「救われる」というのが分かりません。一体、何から救われるのでしょうか?神さまはすべてのものを持っておられますが、人によって求め方が千差万別です。言い換えると、救われるテーマが違うのです。もちろん、クリスチャンになってから「救われる」ということが何なのか分かります。でも、はじめて福音を耳にする日本人は、「救われるって何?」と聞くでしょう。イエス様も人のニーズに答えています。ニコデモは誰からも尊敬される宗教的な人でした。でも、イエス様は「新しく生まれなければ、神の国にはいることができない」と言われました。これは「新生」という救いの側面です。また、サマリヤの女性には、「私が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧きます」と言われました。彼女は「私が渇くことがないように、その水を私に下さい」と願いました。これは「永遠のいのち」という救いの側面です。またルカによる福音書では、いなくなった一匹の羊、なくした一枚の銀貨、そして家出した弟息子のたとえ話をされました。イエス様は神から離れている人は失われた存在であると言っています。ここで分かるのは、救いとは神さまに見出され、神さまのものになるということです。でも、使徒パウロはユダヤ人が分かるような用語で説明しています。ローマ3:24「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」パウロは神さまから義と認められることが救いだと言っています。これは日本人には一番わかりません。ヨハネ福音書では「キリストを信じれば良い」と言われていましたが、その根拠がパウロの手紙に書かれています。それは、キリストが私たちの代わりに十字架について罪を贖われたということです。実は、罪という問題が分からないと、福音も分からないということになります。なぜなら、福音とは「キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」だからです。私たちが罪を赦され、神の前に義となるために、キリストが十字架で死ぬ必要があったということです。キリストの死は身代わりの死であり、私たちの罪を贖うためであったということです。最初から、このことを理解して信じる人は少ないのではないでしょうか?私もそうでした。洗礼を受けて半年くらいたってから、「十字架の悩みは、我が罪のためなり」と賛美して泣きました。でも、ここまでいかないと、救いの確信を持つことができません。十字架の贖いが分かるとキリスト様から、簡単に離れることができなくなります。「躓いても、倒れても、叩かれても、離れられない!」

 パウロは福音には力があると言いました。ローマ1:16「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」ここに書かれている「力」はギリシヤ語でデュナミスであり、ダイナマイトの語源となったことばです。しかし、どうして福音が救いを得させる力なのでしょう?パウロは救いということをこのようにも述べています。使徒26:18「それは彼らの目を開いて、暗やみから光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたしを信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なるものとされた人々の中にあって御国を受け継がせるためである。」これは、生まれつきの人が盲目であり、暗闇の中で生きているということです。サタンに支配され、罪と死の奴隷であるということです。救われるために、霊的な目が開かれてキリストのことが分かってきます。パウロが言う救いとは、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返ることです。また、救いとは、罪の赦しを得、御国を受け継ぐ者になるということです。なんと、福音には人をそのようにさせる力があるのです。本人はキリストを信じるだけで良いのですが、神さまの方がいっぱいやってくれているというということです。これらのことは信じて救われてから分かることです。信じる前は「私は自由であった。そんなに悪いこともしていなかった」と思っています。ところが、信じた後、「ああ、私は暗闇の中にいた。ああ、罪に縛られていた」と分かるのです。福音は「良い知らせ」というパッケージに入っています。でも、中味はものすごく豊富で力強いものなんだということです。

2.福音を宣べ伝える

ローマ10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」ここには、「福音を聞かないと信じることもできない。そのためにはだれかが福音を宣べ伝える必要がある」という前提があります。教会では「伝道」ということばをよく使います。聖書には「伝道」ということばはありません。「宣べ伝える」はギリシヤ語でケーリュッソーです。「告げ知らせる」「宣教する」「説教する」という意味もあります。「伝道する」は教会用語です。私は「伝道」と聞くと緊張して、嫌な気持ちになります。神学生の頃、伝道実習というのがあって、道行く人たちを集めて話しました。また、教会主事の頃は、特別な集会があるとチラシを3000枚くらい配りました。教会に集っている求道者に個人伝道するということが主でした。でも、伝道というのは、正直、嫌いです。去る6月、淀橋教会でトーチという集会がありました。トーチというのは次の世代にバトンを渡すということです。岸義紘先生がサックスを吹き、大川牧師がメッセージしました。その後、日本基督教団の若い牧師が日本基督教団風の説教をしました。それはともかく、大川牧師が「教会が成長しないのは伝道しないからだ」とおっしゃいました。グサッときました。「ああ、伝道していないなー」と思いました。久しぶりに緊張しました。私は「伝道」ということばが嫌いであって、福音を宣べ伝えるということはすばらしいことだと思います。

では、なぜ「伝道」が良くないイメージなのでしょうか?伝道というのは、道を伝えるということです。別に悪くない感じがします。しかし、一昔前の伝道について聞いたことがあります。日曜日の夜は伝道集会を持っていました。集会の前に町に繰り出して、チラシを配ったり、集会の案内をします。その時、提灯を持ち、太鼓やラッパを吹きながら練り歩くのです。しかも、道路の辻に立って、救いの証をさせたれたりします。『塩狩峠』という映画では、路傍伝道している牧師に、「耶蘇教やめろ」と石が投げつけられていました。昔はそれでも人が集まったようです。しかし、伝道というのがそういうものだったら、恥ずかしくてできません。1999年に韓国の牧師と宇都宮に路傍伝道に行きました。本当に道路の辻に立って説教しました。「私は中日の落合選手と同じ高校出身で、同級生です」とか言ってはじめました。中学生の女の子が信じて、お祈りをしてあげました。人の家に入って、ご婦人の膝の癒しのためにも祈りました。5日間の旅でしたが、「もう、いいや」と思いました。あまりにもプレッシャーで、「自分には賜物がないなー」と思いました。宣教師の賜物の人はできますが、私は無理だと思いました。自分ができないのに、みなさんに「伝道しなさい」とは言えません。でも、言い訳のように聞こえるかもしれませんが、福音を宣べ伝えるということはすばらしいことであり、これは主の命令なので是が非でもしなければなりません。福音は宣べ伝えれば、宣べ伝えるほど、宣べ伝えたくなるからです。

 パウロはローマに行ってぜひ、福音を伝えたいと思っていました。なぜでしょう?ローマ1:14「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。」パウロは「返さなければならない負債を負っている」と思いました。借金です。借金だったら返さなければなりません。でも、それは「福音を伝えなければならない」という負債を負っていると言う意味です。命令とか律法ではありません。内側から湧き上がる、負い目であります。私たちはキリストによってすべての罪を赦された者です。イエス様が十字架ですべての負債を払ってくれたからです。でも、まだ負債を負っているとはどういう意味でしょうか?パウロはⅠコリント9章でも似たようなことを言っています。Ⅰコリント9:16「というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしも、私には務めがゆだねられているのです。」パウロは、イエス様から直接、異邦人の宣教を負わされました。かつてはキリスト者を迫害した、いわばキリストの敵であります。パウロは勘違いしてやっていたことですが、的はずれの熱心からでした。おそらく、パウロはこんな者に、福音宣教をゆだねてくださった神さまに申し訳ないと思ったのかもしれません。信仰を持ち始めた頃、羽鳥明牧師の「私は福音を恥としない」というメッセージテープを聞いたことがあります。熊本県かどこかの集会だったと思います。「イエス・キリストは一国の大統領でもなく、総理大臣でもなく、熊本県知事でもなく、こんな私に福音をゆだねてくださったのです!」とメッセージしておりました。

 私たちは福音を人に語ると、その人は「信じるか、信じないか」「受け取るか、拒絶するか」どちらか選択に迫られます。「そんなの信じないよ」と言われたら、友達関係がなくなるかもしれません。親戚だったら、「もう来るな!」と言われるかもしれません。でも、福音を信じるならば、その人は救われ永遠のいのちをいただくことができます。もし、福音を信じないなら、その人は神によってさばかれ永遠の滅びに行くことになります。そんな大事な福音を委ねられているとしたら、「かたじけない」と言うしかありません。でも、そのとき聖霊が働いてくださることを忘れてはいけません。ヨハネ16:8「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」とあります。「あなたには罪がありますから、キリストの贖いが必要です」とはなかなか言えません。「馬鹿にするな!」と言われるでしょう。でも、聖霊がその人に働くなら、「ああ、私には罪がある。このままでは神さまの前に立つことができない。私はキリストが必要だ」と求めるでしょう。喉が渇いていない馬は、川の側に連れて行っても、水を飲まないそうです。聖霊によって飢え渇きを覚えている人がチャンスです。イエス様は「主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油をそそがれたのだから」(ルカ4:18)とおっしゃいました。そうです。私たちは心の豊かな人にではなく、貧しい人に福音を伝えるべきなのです。

3.福音宣教の原動力

 「伝道しなければならない」と律法的に捉えると、口がこわばって、かえって語れなくなります。でも、私たちが伝えるのは「良い知らせ」です。この世の人たちは、「宗教はこわい。そんなうまい話なんかあるもんか?」と信じようとしません。私も救われた頃は一生懸命伝道しました。兄弟たちにも大川牧師の礼拝テープを送りました。郷里に帰って伝道しました。しかし、断られたり無視されるとだんだん辛くなります。「伝道」ということばが重くのしかかってきます。でも、福音説教と言い方を変えたら、気軽にできるのでしょうか?やっぱり勇気が必要です。私はこのすばらしい福音を宣べ伝えるためには、愛と聖霊からくる情熱が必要であると信じます。

 三浦綾子さんはが『道ありき』の「青春篇」に彼女がどのようにしてイエス様を信じたのか書いてあります。綾子さんは小学校の教師で、軍国主義の教えを子どもたちに熱心に教えました。ところが戦後、その教科書のほとんどが墨で塗られてしまい、愕然として教師を辞めました。綾子さんはその後、肺結核を患い、療養所に入りました。そこに、幼馴染の前川正さんも同じ病で入居しました。彼は北大の医学部の学生でとても美男子でした。彼は熱心なクリスチャンで、自暴自棄で暮らしていた綾子さんのことを気にかけました。「綾ちゃん、いったいあなたは生きていたいのですか、いたくないのですか」「そんなこと、どっちだっていいじゃないの」「どっちだってよくありません。綾ちゃんお願いだから、もっと真面目に生きてください」「正さん、またお説教なの?まじめっていったいどんなことなの?何のために真面目に生きなければならないの?戦争中、私は馬鹿みたいに大真面目に生きて来たわ。真面目に生きた結果はどうなったの?…」前川正さんはことばが出なくなり、はらはら泣いていました。綾子さんはそれを皮肉な目で眺めながら煙草に火をつけました。「綾ちゃん!だめだ。あなたはそのままではまた死んでしまう!」そして、何を思ったのか、彼は傍にあった小石を拾い上げると、突然自分の足をゴツンゴツンと続けざまに打ちました。さすがに驚いた綾子さんは、それを止めようと彼の手をしっかり握りしめました。「綾ちゃん、ぼくは今まで、綾ちゃんが元気で生き続けてくれるようにと、どんなに激しく祈って来たか分かりませんよ。…けれども信仰のうすい僕には、あなたを救う力がないことを思い知らされたのです。だから、不甲斐ない自分を罰するために、こうして自分を打ちつけてやるのです」。このとき綾子さんは、「私を女としてではなく、人間として、人格として愛してくれたこの人の信じるキリストを私なりに求めたい」と思ったそうです。

 
やっぱり愛なんですね。福音に対して人の心が開くのは愛なのです。中国のような大陸の人は、その人がどんな人であろうと言っていることが真実であれば信じるそうです。しかし、日本人は、その人が信じるに値する人なのか、その人を見てから考えます。私たちの動機がさぐられます。「一人でも救って、教会を大きくしてやろう」ではダメです。私たちは神さまからくる愛、神さまからくる熱心が必要です。Ⅱコリント5:13,14口語訳「もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。」パウロは人から気が狂っていると言われるくらい熱心でした。でも、その理由は「キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである」と言っています。私たちは福音を伝えるべきか、あとにすべきか二の足を踏むときがよくあります。他のことは何でもしゃべることができますが、「キリスト」となると「キ、キ、キ」と出て来ません。でも、パウロのようにキリストの愛が私に強く迫っているとなると、押し出されて、語らずにはいられなくなるのです。エレミヤがこう述べています。エレミヤ20:9私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」もう、福音をしまっておくことができないのです。私たちもそのようになりたいと思います。

 福音宣教の原動力のもう1つは聖霊の力です。イエスさまがガリラヤの会堂で引用したイザヤ書61章です。「神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え」と書いてあります。イエス様がヨハネのバプテスマから洗礼を受けました。マタイ3:16「すると、天が開け、神の御霊が鳩のように下って、自分の上に来られるのをご覧になった」と書かれています。ということは、イエス様の宣教活動の力の源は、聖霊であったことが分かります。また、弟子たちにもこのように言われました。ルカ24:49 「さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」このことが、ペンテコステに成就しました。天から激しい風のように、炎のように弟子たちの上に降りました。あの臆病だった弟子たちが一変し、迫害も死も恐れずに世界の果てまで福音を宣べ伝えに行きました。鍵は聖霊です。聖霊に満たされたら、福音を宣べ伝えずにはおれなくなるということです。私が一番感謝している人は、私に福音を伝えてくれた増田さんという人です。私は「神さまがいるなら見せてみせて下さい、そうしたら信じますよ」うそぶいていました。毎日、会社で福音を語られるのですから、お世話にもなっているので、聞かないわけにはいきません。1年半くらいたってからでしょうか?やっと一緒に座間キリスト教会の礼拝に出席ました。大川牧師のマシンガンのような説教を聞いて、引きつけられ、半年後に洗礼を受けました。でも、決心するときは大変でした。日曜日の午後、9時間も語られ、根負けして「じゃあ、信じるよ」と言いました。それだけ私はクリスチャンになりにくいタイプの人でした。増田さんは牧師にならないで、私が牧師になりました。彼は55歳のとき心筋梗塞で天に召されました。私が彼の代わりに、こうやって福音を語っています。どういう訳か亀有に来て、この教会だから救われたという方も大勢いらしゃいます。でも、最初は増田さんが根気よく、私に福音を伝えてくれたからです。その延長線上に、今があるのです。だから、私も負債を負っている一人です。みなさんもそうではないでしょうか?キリストの愛が私たちに強く迫っているので、いのちをもたらす福音を語らずにはおれません。