2019.1.27「神の敵を知る エペソ6:12-17」

 サタンとは元来、「敵対者」という意味です。サタンは神に敵対し、神の子どもである私たちをできるだけ神さまから離そうと、今も働いています。また、サタンは新約聖書においては「悪魔」とか「誘惑者」と呼ばれています。イエス様や弟子たちを絶えず誘惑しました。エペソ6章で、パウロは「悪魔の策略に対抗するために神の武具を身につけよ」と言っています。私たちはある意味では、霊的戦いの渦中にあるということです。何でも悪魔や悪霊のせいにしてはいけませんが、私たちの周りには見えない敵、見えない誘惑者がいるということを知る必要があります。

1.サタンの経歴

 聖書にはサタンの経歴careerについて明確に述べていません。それでも、私たちはある程度、彼のことを知ることができます。イザヤ書14章にはバビロンの滅びが預言されていますが、これがサタンの堕落を暗示しています。イザヤ14:12-15「暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。あなたは心の中で言った。『私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。』しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。」彼はおそらく天使長の一人で、賛美を司っていたのではないかと思われます。ところが「神の星々のはるか上に私の王座を上げ、…いと高き方のようになろう」と心の中で高ぶりました。星々というのは天使たちのことであり、彼らの上に王座を上げ、神のようになろうとしました。つまり、サタンは高慢になったために、よみに落とされたということです。でも、サタンは一人で反逆したのではありません。黙示録12:4「その尾は、天の星の三分の一を引き寄せると、それらを地上に投げた」とありますので、天使の三分の一がサタンと一緒に落とされたのでしょう。彼らが今日、悪霊と呼ばれています。多くの人たちは、サタンは醜い顔をしていると思っています。しかし、そうではありません。エゼキエル28:12,13「あなたは全きものの典型であった。知恵に満ち、美の極みであった。あなたは神の園、エデンにいて、あらゆる宝石があなたをおおっていた。」と書かれています。エゼキエル28:17「あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。」サタンはあまりにも美しく、知恵がありました。そのために高ぶって堕落したのです。箴言16:18「高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ」と書かれていますが、私たちも気を付けなければならないことです。

 その後、サタンはどうなったのでしょうか?創世記3章には蛇に化けたサタンが登場します。ということは、人間が造られる前に、どこかにいたということです。創世記1章2節は神学者の間でも物議をかもす箇所であります。1節では「初めに、神が天と地を創造した」と書かれています。ところが、2節になると「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり」と書かれています。ウィットネス・リーは1節と2節の間に膨大な時間があり、このときサタンが堕落し、2節は再創造であろうと言います。ジョン・ミルトンは『失楽園』という本の中で、サタンは「宇宙の反対側へはるばると吹き飛ばされ、荒涼たる辺境(リンボ)に結局到達する」(P.114)と書いています。本来この地上は人間のために造られました。ところが、アダムとエバが堕落したために、その支配権を失いました。サタンはそれを横取りして、「この世の君」となったのです。エペソ2章を見ると、彼は「空中の権威を持つ支配者」と呼ばれています。そのため、生まれつきの人間はサタンの支配下におかれ、暗闇の王国の中にいるのです。人間はもはや自由ではなく、罪過と罪の奴隷なのです。イエス様はルカ11章で「しかし、もっと強い者が襲って来て、彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます」と言われました。私たちはかつてサタンの持ち物でした。しかし、イエス様は私たちを解放するために来られたのです。

 ヨブ記を見ると分かりますが、旧約時代、サタンは神さまの前に行くことができたようです。ヨブ1:6,7「ある日、神の子らが主の前に来て立ったとき、サタンも来てその中にいた。主はサタンに仰せられた。『おまえはどこから来たのか。』サタンは主に答えて言った。『地を行き巡り、そこを歩き回って来ました。』」とあります。サタンは「あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を打ってください。彼はきっと、あなたに向かってのろうに違いありません。」と言いました。それを神さまが許したので、ヨブはすべてのものをなくしました。それでも、ヨブは神さまをのろいませんでした。黙示録を見るとさらに分かります。黙示録12:10「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」とあります。サタン、あるいは悪魔は、「兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者」と言われています。サタンの武器は私たちの罪を神の前で訴えることです。神さまは義なるお方ですから、その罪をさばかない訳にはいきません。でも、聖書の最後の書物を見て分かりますが、サタンはもう神さまのところへは行けなくなりました。なぜなら、イエス・キリストがすべての罪を贖ってくださったからです。おそらく、サタンは、キリストが十字架で死んだとき喜んだでしょう。「キリストは死んだ。これからは俺のやりたい放題だ!」と思ったに違いありません。サタンは知りませんでしたが、十字架こそがサタンの武具を奪うことになるのです。つまり、キリストがご自身の血を流し、すべての罪を贖いました。神さまはキリストの贖いをご覧になって、ご自身の義が満たされました。もう、人類を罪によってはさばかないとお決めになられました。だから、もうサタンは兄弟たちの罪を神さまのところに持って行けなくなったのです。サタンの最後はどうなるのでしょうか?黙示録20:7「しかし千年の終わりに、サタンはその牢から解き放され、…」黙示録20:10「そして、彼らを惑わした悪魔は火と硫黄との池に投げ込まれた。そこは獣も、にせ預言者もいる所で、彼らは永遠に昼も夜も苦しみを受ける。」最後は、サタンと悪霊どもは、永遠の火の池に投げ込まれます。サタンは最後に完全に滅ぼされるのです。でも、サタンは自分だけで滅びたいのではなく、一人でも多くの人間を巻き添えにしたいのです。これがサタンの経歴careerです。

2.悪魔の策略

 サタンは完全にいなくなったわけではありません。もしそうであれば、何も問題なく信仰生活を謳歌できるでしょう。しかし、私たちはサタンの経歴の最後のところで生活しています。エペソ2:1,2「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。」サタンは「空中の権威を持つ支配者」として今も不従順の子らの中に働いています。サタンは神を信じていない人たち、つまり、自分の罪過と罪との中に死んでいる者たちを所有しています。「イエス・キリストが十字架ですべての代価を払ったにも関わらず」です。ギリシャ時代は、奴隷が市場で売買されていました。自由人は奴隷の品定めをして、「これを買う」とバイヤーに告げます。そうすると、その奴隷が入った鉄格子の上に「売約済み」という札が貼られます。その奴隷の所有者が代わったわけです。イエス様が十字架で死なれる直前、「完了した」と叫ばれました。これはギリシャの商業用語で、テテレスタイと言います。テテレスタイとは「一度で全部を支払った」という意味であり、まさしく「売約済み」です。十字架以降に生まれた人たちは、「売約済み」という札のかかった鉄格子の中に入っています。もう、鍵はかかっていません。「ああ、そうですか」と出てこれば、その人の贖いが完了します。しかし、サタンは「そんなのウソだ。ここが一番、幸せなんだ。」と嘘をついて捕えたままにしています。

 私たちがすべき宣教は、キリストが成し遂げられたことを知らせることです。福音宣教こそが私たちが悪魔との戦いで、もっともなすべき優先順位だということです。でも、悪魔は指を加えて、見ているのではありません。Ⅱコリント4:4「その場合、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。」「思い」というのは、mindであり、知性とか考えであります。人間の知性を支配できたら、その人全部を支配できます。悪魔は間違った情報を、私たちの思いにばらまいていると言うことです。特に「キリストの栄光にかかわる福音」です。人々は「キリスト」と聞いただけでむっとします。そして、「宗教なんか必要ない」と言うでしょう。そう言われると、こちらはひるんでしまいます。何故、人々は宗教が嫌いなんでしょう?それはこれまでさんざん偽物を掴まされてきたからです。でも、偽物が多いからと言って本物がないということではありません。たとえば、一万円の偽札があるとします。でも、人々はそんなの気にしないで一万円札を使っています。何故でしょう?偽物もあるけど、本物もあると信じているからです。ところで偽札を作る人は、千円札を作りません。なぜなら、コストが高くて元を取れないからです。では、百万円札だったらどうでしょう?それだったら、明らかに偽札とばれます。だから、紙幣で一番高価な一万円札の偽札を作るのです。同じように、キリスト教の偽物が多いのはそのためです。明治以降、日本にたくさんの新興宗教ができました。そのほとんどが、聖書の良い教えを集めたものです。たった1つないのが、罪を贖われたキリストのことです。この世の宗教には罪の贖いがありません。なぜなら、それを信じたら本当に救われてしまうからです。

 ロイド・ジョーンズという人が『キリスト者の戦い』という本を書いています。彼は有名なイギリスの説教家でその説教集の1部です。ロイド・ジョーンズは、悪魔は人間の知性を攻撃すると述べています。なぜなら、知性こそが人間の最高の賜物だからです。悪魔が人間の思いをくらませるとありますが、彼は6つ取り上げています。第一は、悪魔は疑いを巧みに入り込ませるという方法を最初に取りました。彼はエバのところに来て「神は本当に言われたのですか」と言いました。ペテロはイエス様が死んでよみがえるとおっしゃったとき、「主よ。そんなことがあなたに起るはずはありません」と言いました。主は「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われました。サタンはペテロの思いの中に疑いを入り込ませていたのです。第二は恐れの霊をもって私たちを圧倒し、キリストを否認しようとさせます。ペテロは、少し前は、大胆で自信にあふれていました。ところがイエス様が捕えられたとき、三度も知らないと呪って主を否みました。第三は、間違った教えを吹き込むということです。Ⅰテモテ4:1「しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。」第四は、悪しき思いを頭にばらまくということです。しかし、悪しき思いに誘惑されるからと言って、自分はクリスチャンではないと結論してはいけません。それこそ悪魔の思うつぼです。第五は、失望落胆です。それは悪魔の働きを最も顕著に示すものであり、クリスチャンにも未信者に対してもこの方法を用います。過度に自分自身に集中させ、してはならないことをしてしまった過去にこだわらせます。第六は、自尊心です。悪魔の常套手段は落胆ばかりでありません。正反対のことを行うことができます。それは自尊心を助長させるとことです。ダビデは「イスラエルの人口を数えよ」というサタンからの誘惑を受けて、民全体が裁かれることになりました。

 神さまは私たちに神の武具を与えてくださいました。エペソ6:13-17「ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」「救いのかぶと」とは思いを守るヘルメットです。「キリストによって私は救われている」と、知性を守らなければなりません。「胸当て」とは私たちの心臓を守る武具です。「私はキリストによって是認されている」という信仰です。「真理の帯」とは、「私は真理に従う、真理はキリストである」という生活の土台です。「足の備え」とは、悪魔を踏みつけるキリストの権威です。「信仰の大盾」とは、「キリストの真実が私を捕えて離さない」というキリストの信仰です。悪魔に打ち勝つことのできる御名は、キリストです。主イエス・キリストの御名こそが、私たちを悪魔から守る唯一最大の武具です。

3.霊的戦い

 近年、日本でも「霊的戦い」と言うことが言われるようになりました。エペソ6:12「私たちの格闘は血肉に対するものでなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また、天にいるものもろの悪霊に対するものである」と書かれています。サタンにはピラミッド型の霊的な階級があるようです。大都市を治めているもの、宗教や教育を治めているもの、個人にとりついているものがいるようです。ある人たちは霊的地図を書いて、戦いのあった場所や魔術が行われている場所でとりなしの祈りをしています。また、悪霊追い出しを専門に行っているグループもいます。そういう特別な使命を持っているなら別ですが、私たちは霊的過敏症になってはいけません。残念ながら、キリスト教会では2つの極端があります。1つは、「サタンと悪霊は全く存在しない。あれは古代の人たちが勝手に作った迷信である。悪魔は悪の擬人化したものである」という考えです。これは理性を中心とする自由主義神学者たちが言うことです。私たちを誘惑し、束縛する悪霊は今も存在しています。もう1つの極端は神とサタンが互角のように考えている人たちです。そのため、サタンとその悪霊にいつも怯えて暮らしています。イエス様よりも、悪霊の仕業に注目し、何でも悪霊のせいにしています。これも良くありません。ヘブル12:2「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と命じられています。私たちは悪霊がどう働いているかということよりも、イエス様がどのように導いておられるかということに注目すべきです。

 ビル・ジョンソンは、「私たちは勝利のために戦うのではなく、勝利から戦うのである」と言っています。彼が書いた『天が地に侵入するとき』から少し引用させていただきます。「イエスは全てのもの、地獄の力、墓、罪、そして悪魔を征服されました。イエスは死からよみがえり、父の右の御座に着座され、全てのものに勝って栄光をお受けになったのです。全ての名と力はイエスの足元に置かれました。このイエスは、私たちをご自分の『体』だと呼んでいます。体には足があります。比喩的に表現すると、この世のもっと高いとされる権力でさえ、体の一番低いところに位置する足の下に置かれたと言うことです。この勝利の意味は、私たちの生活には戦いがないというのではなく、私たちの戦いの勝利が保証されているということです。」アーメン。詩篇23篇は私たちに勇気と信仰を与えてくれます。詩篇23:4「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」経験豊かで力のある大牧者であるイエス様が私たちと共におられます。そして、むちと杖をもって、悪霊どもを蹴散らしてくださいます。23:5 「私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。」敵がまわりにいます。でも、イエス様は「私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます」。たとえ敵がまわりにいても、イエス様のもとでは食事を楽しむことができるということです。

 最後に私たちが霊的戦いにおいて知るべき2つのことをお伝えしたいと思います。ヤコブ4:7「ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」アーメン。私たちが神に従えば従うほど、悪魔に対する権威が与えられると言うことです。神に従うことと、神から与えられる権威は正比例の関係があります。自分が神さまにぜんぜん従っていないのに、「悪魔よ、退け」と言っても無理です。悪魔が「お前こそ、退け」と言うでしょう。そうではなく、私たちいつでも、全面的に神さまに従うのです。そうすればおのずと、悪魔に対抗する力と権威が与えられます。イエス様はマタイ28章でこのように約束されました。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ…」私たちはイエス様の権威を信仰によっていただくべきです。イエス様はあなたに「『守って下さい』とだけ願うのではなく、私の名前によって命じなさい」と言われます。そうです。私たちには主イエスの御名の権威が与えられています。きゃしゃな婦人警官と11トンダンプトラックでは、力ではトラックがはるかにまさっています。しかし、彼女の胸には警察官のバッチがついています。彼女が「ピー」と笛を吹いて、手をあげると、11トンダンプトラックは従うのです。私たちもイエスの御名の権威によって、「悪魔よ、退け!」「悪霊よ、私から離れ去れ!」と命じるのです。神さまに願うのではなく、命じるのです。

第二は自分の霊的立場を知るということです。エペソ2:6「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」テモテ・ワーナという人が「聖書的世界観」について教えています。世界は神がおられる天と、御使いの領域、そして人間と物質の領域の3つに分けることができます。御使いの領域は「第二の天」とか「中間世界」と言います。西洋では啓蒙主義から合理主義が生まれ、目に見えないものは存在しないと言いました。そして、天使や悪霊の存在をあざ笑い排除しました。しかし、今も悪魔と悪霊は不信者たちを支配し、神から引き離しています。私たちクリスチャンにも誘惑や恐れを与えたりします。すばらしいことに、聖霊と神の天使が私たちを助け導いてくださいます。でも、それにも勝って、私たちは自分たちの霊的な立場を知る必要があります。私たちはキリストと共によみがえらされ、キリストと共に天のところに座らせて下さった存在です。私たちの肉体はこの地上にありますが、目をつぶると、イエス様がすぐ隣におられるのです。私たちはイエス様の御座の隣に座っているのです。アーメン。ですから私たちが悪魔と悪霊に立ち向かうとき、下からではなく、上から立ち向かうのです。下に住んでいる人たちは「えー?私が悪魔に立ち向かうなんて?」と言うでしょう。しかし、その人が、「自分は天のところにイエスさま共に座っている者なんだ」と理解しているなら、王座から、王座の力をもって悪魔に対抗して行くことができます。「私は神の子どもである。悪い者は私に触れることができない。主イエスの御名によって、私は敵に立ち向かう」と言うことができるのです。確かに私たちは霊的戦いの渦中にあります。でも、イエス様が勝利を収めてくれたので、私たちは勝利のために戦うのではなく、勝利から戦うのです。アーメン。