2019.2.3「霊的解放 ルカ11:24-25」

 私たちはキリストと共によみがえらされ、キリストと共に天のところに座らせて下さった存在です。ですから私たちが悪魔と悪霊に立ち向かうとき、下からではなく、上から立ち向かうのです。まず、このことを知ってから、悪しき霊からの解放について学ぶことができます。きょうは悪霊によって支配されている程度の重いものから順番で学びます。第一はとりつかれる。第二は場所を与える。第三は思いです。

1.とりつかれる

 「クリスチャンは、悪霊にとりつかれることがあるのか?」という疑問があると思います。答えはそうでもあり、そうでもないということです。そもそも、「とりつかれる」とはどういう意味でしょう?マルコ4章にゲラサ人の地にいた人のことが書かれています。彼は汚れた霊につかれた人であり墓場に住んでいました。彼はたびたび足かせや鎖につながれても、鎖を引きちぎり、足かせも砕いて、だれも彼を押さえるだけの力がありませんでした。彼は、夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていました。イエス様が「お前の名は何か?」とお尋ねになると「私の名はレギオンです」と答えました。「レギオン」はローマの軍隊では、6,000人の兵士の単位です。イエス様は本人に名前を尋ねたのですが、内側にいた悪霊が答えたのです。英語の聖書では、マルコ5:15「とりつかれる」はpossessed withとなっており、「所有されている」という意味です。彼は人格まで支配されていたのですから、よっぽど重症の人でした。また、ルカ13章には「18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女性」のことが記されています。英語の聖書は「持っている」と書かれています。彼女は病をもたらす悪霊を内側に持っていたということです。それで体を伸ばすことができなかったのです。

 ルカ福音書の11章の物語は、一見、たとえ話のようでありますが、霊的な事実を私たちに教えています。家というのは私たちの肉体のことです。このお話しの前で、イエス様は口をきけなくする悪霊を追い出しています。その後、イエス様は強い人が十分に武装して自分の家を守っているというたとえ話をしています。イエス様はより強い者であり、彼の武装を解除して、分捕りものを分けます。それはサタンに捕えられていた人を解放するという意味です。その後、家から出ていた悪霊の話をしています。この話をしている対象はイエス様に悪口を言った宗教家であろうと思います。彼らは聖くなろうと悔い改めをしていたに違いありません。でも、家の中は空っぽで掃除がしてありました。すると、一度出て行った悪霊が、他の霊を七つ連れて来て、みな入り込んでそこに住みつきました。それでその人は前よりももっと悪くなったということです。それがイエス様を批判した宗教家たちのことを指しているのは間違いありません。この地上は真空を嫌います。彼の家は空っぽだったので、悪霊が入り込んできたのです。最良の道は、イエス様を家の主人にお招きすることです。もし、家がイエス・キリストのものになっていたなら、イエス様が「何しに来たんだ。勝手に入るな。これは私の家だ」と悪霊の侵入を許さないでしょう。

 クリスチャンも、悪霊にとりつかれることがあるのでしょうか?多くの場合、クリスチャンになる前のことが原因になっています。イエス様を主と告白して、洗礼を受ける時、多くの霊的なものが排除されると信じます。でも、ある悪霊は、その人の中に居続けることが可能です。その一番の原因は、未信者の時に行っていた偶像礼拝です。クリスチャンになってから、偶像礼拝する人はいないでしょう。悪霊に入られたのは、クリスチャンになる前です。日本の家々には仏壇があり、先祖崇拝をします。新年は神社に行って参拝し、厄年などは御払いに行くかもしれません。当教会には、神輿を先頭で担いでいたという姉妹もいます。占いや呪文、魔術にはまった人もいるでしょう。また、七五三などでは、両親が子どもを神社に行って「守って下さい」と拝みます。もし、そこに悪霊がいたなら、悪霊と契約を結ぶことになり「よし、わかった。一生面倒見てやる」と言うでしょう。本人ではなく、両親が結んだ契約ですが、生きている間、有効になっている場合があります。そういう場合には、悔い改めて、主イエスの名前によって契約を打ち破る必要があるでしょう。また、偶像崇拝や占いをした罪を悔い改める必要があります。今から20年前に「解放のキャンプ」というのがインドネシアから入りました。私はインドネシアでその現場を直接見ました。200人のキャンパーが洗礼を受ける前に、解放のミニストリーを受けていました。メッセージの後、100人位が前に出て、もだえ苦しみながら解放を受けていました。中心的な原因は偶像礼拝と性的な罪からくる束縛でした。解放を受けてから、イエスを主と告白し、プールで洗礼を受けていました。

 最近、日本の教会ではそのような「解放のキャンプ」をしなくなりました。インドネシアなどは、霊的な解放に対してとてもオープンです。罪を告白し、赦しと解放を受ける教会の文化ができています。しかし、日本は「あの人、悪霊につかれていたの?怖い!」とか言われて、特別扱いされる恐れがあります。しかし、クリスチャンになる前の私たちは悪霊にやられていることは間違いありません。それを解放のキャンプのように集中して行うか、毎週の礼拝などで、少しずつ解放されていくかどちらかです。牛久の大喜多牧師は大学生のとき、イエス様を信じました。泊りがけの修養会に青年たちと参加しました。大喜多青年は、布団に寝ながら、牧師の悪口をさんざん言っていました。隣に寝ていた先輩ががばっと起きて、大喜多青年の頭に手を置いて、「悪霊を出て行け!」と祈ってくれました。大喜多青年から黒い煙のものが「ばーっ」と出て行ったそうです。次の朝、彼はすっきりして、何で自分が牧師のことを批判していたのか分からなかったそうです。牧師に対して、無性に逆らいたい気持ちのある人は怪しいです。イエス様を礼拝しようとすると混乱があり、集中できないというのも悪霊が原因している可能性があります。私も教会に来たての頃は10分位、集中的なくて、後半からやっとメッセージが入りました。色々原因があると思いますが、これまで偶像礼拝や占いをしたことのある人は、その名前を上げて、悔い改め、主イエスの名前によって関係を断ち切りましょう。自分で自信のない人は、信頼のおける人から断ち切りの祈りをしてもらったらとても効果があります。

2.場所を与える 

 

 エペソ4:26,27「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」ここで言われている「機会」は、ギリシャ語でトポスです。トポスは「滞在や居住のための場所や部屋」という意味があります。文脈から考えると、怒ること自体は罪ではありませんが、そのまま放置すると、そこに悪魔が場所を設けて、その人を支配することになります。日が暮れるというのは、次の日まで持ち越すということです。すると、心の中に怒りが留まり、悪魔が悪さをする場所を設けるということです。怒りだけではなく、トラウマ、罪責感、悲しみ、赦せない心、ねたみ、心の傷など…そういうものが悪霊の餌になります。たとえば、生ごみをそこに放置したらどうなるでしょう。カラスやネズミが集まって来るでしょう。あなたは、いつもやって来るカラスやネズミを追い出すべきでしょうか?それとも生ごみを片付けたら良いでしょうか?もちろん後者でしょう。生ごみにあたるのが、怒り、トラウマ、罪責感、悲しみ、赦せない心、ねたみ、心の傷などであります。処理されていない罪や心の傷があるので、悪霊がやってくるのです。そのために、まず罪を告白し、赦しと癒しを受けるべきです。その後、場所を設けていた悪霊は簡単に出て行くでしょう。

2001年、蒲郡の石原牧師が『解放のミニストリー』という本を書きました。そこには「足場」あるいは「要塞」と書かれていました。その本から少し引用いたします。「私たちはキリストの贖いをとおして、神によって無条件の罪の赦しを受けていますが、実生活の中で、悪魔は私たちの過去に行ってきたすべての罪の行動を見てきたので、その罪を持ち出して訴えます。それはちょうど敵のために用意された要塞のようであり、建築中の足場のようです。悪魔は私たちの過去の偶像との契約や罪、心の傷を足場として用い、救いを受けた後でも容赦なく、その人を縛り、自由を制限し、神の栄光のために生きられないように邪魔をするのです。自分の側に悪魔が居座るための要塞や足場を残したままにしておけば、悪霊どもは私たちとの関わりをそのまま持ち続け、影響力を行使できます。それゆえ、私たちはキリストにある自由を自分自身のものとするためにも、要塞をつぶし、足場をできる限り、取り外す必要があります。その方法は、告白という武器を用い、キリストの御名の権威を用いて、悪霊とのかかわりを断ち切って行くことです。」アーメン。私も蒲郡や他の場所で開かれた、解放のキャンプに参加したことがあります。しかし、最後に石原牧師が「共依存」や「ひきこもり」の方にウェートが行きました。確かに、日本人にはそのような傾向や必要性はあると思います。しかし、教会を離れてミニストリーをするようになってから、バランスに欠けるようなところが見えてきたように思えます。

 ニール・アンダーソン師は「赦さない罪こそが最も、その人を束縛する場所になる」と言っています。私たちクリスチャンは「人がした悪を赦さなければならない」ということを頭では理解しています。「主の祈り」でも毎週、その箇所を賛美しています。しかし、賛美しながら「そのことは別だよ」と、スルーしているのではないでしょうか?私たちは人を赦す前に、「赦しとは何でないのか」、「赦しとは何なのか」を正しく知る必要があります。第一に赦しとは、罪をがまんする、罪を大目に見るということではありません。神さまは罪に対して、刑罰というかたちで取り扱います。大事なのは私たちが自分で復讐するのではなく、神さまにお任せするということです。ローマ12:19「愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。』」つまり、自分が復讐する権威を神さまの前に放棄するということです。第二に赦しとは、相手が罪を認めて謝ったなら赦してあげるということでもありません。もちろん、そのような和解が来たら一番幸せですが、その日がいつ来るかわかりません。もしかしたら、一生来ないかもしれません。今も、その人は自分が犯した罪を忘れて、涼しい顔をしているかもしれません。相手のことを関係なく、こちらが赦すということです。第三は、自分の中に赦す気持ちが起きたら、赦すというものがあります。これが最も厄介であります。なぜなら、赦すのは意志の問題であり、感情ではないからです。感情がそのように望んでいなくても、神さまのご命令ですから「赦します」ということが重要です。第四、赦しとはその人の罪を忘れることではありません。赦す行為は必要ですが、忘れることは自分の記憶の問題ですから、意思とは関係ありません。私たちは過去のことを思い出すことがあります。その度に、神さま「私は既に赦しています」と委ねるべきなのです。そうしていくうちに思い出す回数が少なくなっていくでしょう。

ニール・アンダーソン師は、赦しとは何なのかこのように教えています。罪が犯されたときには、加害者と被害者がいます。そして、この罪によって二人の間に、鎖が出来てしまいます。加害者があなたに悪いことをしました。あなたを言葉で傷つけたり、あなたの権利を奪ったり、あなたをだましました。あなたの腕には傷があり、加害者に対するうらみがあります。それが目に見えない鎖になっています。鎖の反対側はあなたを傷つけた加害者にあります。鎖の先が首輪のようにその人にはまっています。距離的に離れていても、その人とは鎖でつながっています。二人の間には霊的なそして情緒的なつながりがあります。ですから、赦しというものは意志によって、選択すべきこと(選び取るもの)です。赦しとは、被害者と加害者との問題というよりも、むしろ被害者と神さまとの問題なのです。たいてい加害者は被害者の痛みなど全く知らないで、のほほんと暮らしています。被害者の苦々しい思いや恨みは加害者にどういうダメージをもたらすでしょうか?もたらしません。あなたを苦しめ、あなた自身に毒を飲ませているのです。霊的に、情緒的に、そして肉体的なダメージを与えてしまいます。ある医者さんは「怒りをどういうふうに処理したら良いか、ちゃんと教えることさえできたら、患者の80%ほど退院させることができる」と言っていました。神さまとの関係において、赦そうと決めるのです。その人にかぶせていた非難と憎しみを取り去って、神さまの御手におゆだねします。思いの中で、相手の罪の首輪をはずしてあげます。そうすると、被害者であるあなたの腕から鎖がはずれてあなたは自由になります。その結果、あなたを縛っていた悪霊が足場をなくすので、もう去るしかありません。

3.思い

Ⅱコリント10:3-,5「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させる」。このみことばこそが勝利の秘訣です。私はパソコンを使っていますが、パソコンの中にウィルスを駆除するソフトが入っています。インターネットやメール、だれかのUSBからウィルスが入ります。感染すると自分のパソコンがダメになるだけではなく、だれか他の人にも害を与えてしまいます。ウィルスは1つのソフトみたいで、それを開くと、独自の働きをするようにプログラムされています。私たちの思いも同じで、だれかによってマインド・コントロールされることがあります。そうすると自分の意思や考えではなく、勝手に動いてしまうのです。「思い」は英語でマインドですが、思考、知性、頭、心のことです。私たちはすでに人間の魂の構造について学びましたので、省略します。結論から言うと、私たちの思いはたえず悪霊の攻撃にさらされています。言い換えると、私たちの思いは戦いの場であるということです。戦いは会議室ではなく、頭の中で起っているのです。悪魔は汚れた思い、疑い、恐れ、違った教え、惑わし、失望落胆、邪悪な思いを雨あられのように、私たちの思いにぶちまけています。私たちはこれを自分の思いのように錯覚して、「なんて私は汚れているんだ」、「なんて私は不信仰なのだ」と自分でがっかりします。悪魔が、あなたの思いを支配したら、あなたをほとんど支配したことになります。なぜなら、人間は神に近い知的な生き物だからです。

ジョイス・マイヤーという人が『思考という戦場』という本を書いています。そこに「メアリーの物語」が書いてありました。メアリーと夫のジョンの結婚生活はうまくいっていません。二人の間には、絶えず争いがあります。二人とも怒りっぽく、互いに相手に対して苦々しい気持ちを抱き、恨み辛みの思いが相当たまっています。二人の子どもも、家庭内のごたごたから、間違いなく何らかの影響を受けています。メアリーの問題は、夫のジョンを家長の座に座らせることができないということです。つまり、彼女は何でも自分で仕切りたいのです。家計についても、子どもの教育についても、すべて自分で決めたいと思っているのです。また、自分が自由に使える「自分だけの」お金を持つために、外で働くことを考えています。つまり、彼女はだれにも頼ろうとせず、何かといちゃもんをつけるうるさ型で、人に対する要求も高く、いつもがみがみ言うタイプなのです。メアリーの思考には要塞が築かれていました。その要塞は、もう何年ものあいだずっとそこに居座っています。どうやってその要塞が築かれたのか、本人でさえわかりません。反抗的になったり、ガミガミ小言を言ったり、高圧的で高飛車な態度は良くないとわかっていても、どうすれば自分を変えることができるのか全く分からないのです。ある状況になると、どうしても自分を抑えられなくなり、衝動的に醜態をさらしてしまうからです。メアリーが自分の行動を律することができないのは、自分の思考を制することができないからです。なぜ、自分の思考を制することができないかというと、幼い頃、悪魔が彼女の思考の中に要塞を築き上げたからです。

サタンは、彼女がまだ幼いときに、周到に練り上げた計画を実行に移し、巧妙に仕組まれたうそ偽りという種を蒔き始めました。つまり、メアリーが今悩んでいる問題の原因は、彼女の子ども時代にまでさかのぼることができました。メアリーの父親は非常に支配的な性格で、自分の機嫌が悪いと言うだけで彼女をぶつことも多々ありました。もし少しでもおかしなことをいうものなら、ありったけの怒りを彼女にぶちまけたのでした。何年ものあいだ彼女は、自分と母親に対する父親の傍若無人な態度に、絶望的な思いで悩み続けてきました。父親は、娘や妻の人格を否定し、人を食ったような態度を取り続けたに対し、兄に対しては接し方が全く異なりました。まるで、男の子であるというだけで、えこひいきしているかのような有様でした。16歳になる頃までには、メアリーはサタンが何度も繰り返し囁いたうそ偽りにすっかり洗脳されてしまいました。「男なんて威張っているだけよ。みんな同じ。信用してはだめ。結局はあなたを傷つけ、あなたを利用するだけだから。あなたが男だったらうまくいったのにね。好きな事をやりたい放題できたのに。人に命令し、威張り散らし、自分の思い通りに人を操り、だれも(特に、妻や娘たちは)何も言えなくて、ただ言いなりになるだけなのにね」。その結果、メアリーは「大きくなって家を出たら、二度と人に振り回される人生は送らないわ!」と心(マインド)に堅く誓ったのでした。サタンは、メアリーがまだ幼い時から、彼女の思いに戦いを仕掛けてきたのです。そんな状態で成長し、いざ結婚して、従順でかわいらしく、性格の良い妻になれるでしょうか?メアリーと同じような問題を抱えている人たちは、これから先どうすれば問題を解決できるでしょうか?

イエス様はこのように言われました。ヨハネ8:31,32「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」このところでイエス様は、どのようにしてサタンの偽りに勝つか伝授しておられます。それは、神の真理を知り、それを自分のものにし、みことばによって思考を一新することによります。そして、最初引用したⅡコリント10章4,5節を武器にして、敵の築いた要塞を打ち壊し、神の知識に逆らうあらゆる高慢と高ぶりを打ち砕くのです。ここで言う「武器」とは、教会での説教や聖書の教えを通して、あるいはキリスト教書籍やテープ、個人的なディボーションの中で受け取ったみことばです。しかし、ただ受け取るだけではなく、御霊の啓示により自分にとっての真理になるまで、みことばにとどまらなければなりません。そうです。継続は力なりです。私たちは耳にする真理に対して、どれだけ考えたか、あるいは学んだかによって、私たちのもとに帰ってくる量が決まるのです。私たちはみことばの武器を絶えず使い続けることが重要なのです。思いにおける悪しき霊との戦いは、いわば真理の戦いです。「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」アーメン。