2019.2.10「エペソ教会と日本 使徒19:1-6」

 ここ2回にわたりサタンとか悪霊からの解放について学んできました。実はエペソの教会がそのことを体験した教会です。そして、そのことは日本の教会に対する模範にもなります。日本の教会は長い間、リバイバル(霊的復興)を望んでいますが、なかなかその兆しがありません。「神の時である」と言えばそれまでですが、いざリバイバルが起こる時はこのようになるということを知っておく必要があります。もちろん、近年、各国で起こっているリバイバルからも学ぶ必要があります。でも、私たちは聖書から根本的な要素を捉えておくということがとても重要です。

1.エペソ教会のはじまり

 聖霊が降ったペンテコステから20年以上たっていたと思われますが、エペソにはまだ、そのことが起こっていませんでした。アポロという有能な教師がエペソに来て、キリストの福音を宣べ伝え、そこに信仰者の群れができました。しかし、その信仰は不完全でした。アポロがコリントに行ってから、パウロが奥地を通ってエペソにやって来ました。そして、幾人かの弟子に出会って「信じたとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。そうすると、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした」と答えました。パウロは「では、どんなバプテスマを受けたのですか」と聞くと「ヨハネのバプテスマです」と答えました。そこで、パウロは「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです」と言いました。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けました。ここには明らかに時間のズレがあります。時代遅れと申しましょうか、受けたのはヨハネのバプテスマであり、イエス様のそれではなかったということです。では、その両者は一体どこが違うのでしょうか?ヨハネのバプテスマは「悔い改めのバプテスマ」です。イエス様が来られる前、人々は罪を告白してヨルダン川でバプテスマを受けました。いわば罪の赦しのためのバプテスマです。しかし、ヨハネは「その方は聖霊と火とのバプテスマをお授けになります」と預言しました。そのことが、ペンテコステの日に成就しました。エペソの人たちは、その出来事を知らないで、ヨハネのバプテスマしか受けていなかったのです。今度は、改めてイエス様の名前によるバプテスマを受けました。そうすると、彼らの中に聖霊が入り、彼らは霊的に新しく生まれ変わったのです。この経験は現代のクリスチャンが普通に体験することです。※バプテスマ=洗礼

 しかし、問題となる表現が、パウロの「信じたとき、聖霊を受けましたか?」という表現です。ペンテコステ派の人たちは、福音派の人たちに「あなたは聖霊を受けましたか?」と聞きます。すると、「もちろん受けていますよ?」と答えます。すると「いつですか?」と聞かれます。「はい、イエス様を信じた時ですよ」と答えます。すると「そんなことはないでしょう?では、その時、異言が出ましたか?」と聞かれます。「え?異言って何?」というと「じゃあ、あなたは聖霊を受けていませんよ」と言われます。何かここにちぐはくさが見られます。この「受ける」という表現が問題です。このことに関しては既に何度も話していますが、私たちは2重の意味で聖霊を受ける必要があります。第一は内側に受けるということです。このことは私たちがイエス様を信じるとき、聖霊が私たちの内側に入り、私たちは霊的に新しく生まれます。パウロはローマ8章で「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。」(ローマ8:9)と言っていますので、クリスチャンは例外なく聖霊を内側にいただいている、受けているということです。でもここで満足してはいけません。私たちは上からも受ける必要があるからです。残念ながら、ビリー・グラハムが書いた『聖霊』という本では、内側に受けることだけしか書かれていません。聖霊で満たされるとは内側から満たされることであると言っています。この考えは、ほとんどの福音派の教会に受け入れられています。だから、ペンテコステ派が言う「聖霊を受ける」という表現が全く理解できないのです。

 パウロはエペソの人たちに、もう1つの別のことをしています。使徒19:6「パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」これが聖霊を上から受けるという、第二の恵みです。使徒の働き1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」とありますが、上からと書かれています。上はギリシャ語で「エピ」です。そして、パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が「エピ」上から臨んだのです。ウィットネス・リーは「聖霊の二種類の満たし」ということを述べています。内側の満たしはギリシャ語で「プレロー」です。もう1つ「プレソー」というギリシャ語があり、それは「外側を満たす」という意味です。たとえば、バブテスマ槽は内側で水に満たされますが、だれかがバプテスマ用の水槽の中にバプテスマされる時、彼は内側ではなく、外側で水に満たされます。私は、外側で満たされる経験を聖霊のバプテスマと呼ぶべきではないかと思います。なぜなら、そのことこそ、イエス様が弟子たちに望んでおられたことだからです。イエス様はかつて「あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)と言われました。そのことが、ペンテコステの日に成就したのです。ですから、エペソの人たちはパウロが手を置いて祈ってくれたので、聖霊が上から臨んで満たされたのです。その結果、異言や預言という聖霊の賜物が現れたのです。これがクリスチャンの標準であります。内側に聖霊をいただいて新生し、外側からも聖霊をいただいて力を受けるのです。聖霊のバプテスマは奉仕のための賜物と力を与えます。福音派の教会は聖霊が内に満たされ、キリスト品性、聖さが現れることを願い求めます。ガラテヤ書5章には「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です」と書いてあります。しかし、私たちは同時に、奉仕のための賜物と力が必要です。Ⅰコリント12章には「みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです」とあり、知恵のことば、知識のことば、信仰、いやしの賜物、奇蹟を行う力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力など9つの賜物が記されています。エペソの教会のはじまりは、キリストの御名によるバプテスマと、聖霊が上から臨む聖霊のバプテスマの2つがありました。私たちはこの2つの聖霊の経験を持つことを標準にしたいと思います。

2.エペソ教会の発展

 エペソ教会はどのように発展したのでしょうか?使徒19:8-12「それから、パウロは会堂に入って、三か月の間大胆に語り、神の国について論じて、彼らを説得しようと努めた。しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしったので、パウロは彼らから身を引き、弟子たちをも退かせて、毎日ツラノの講堂で論じた。これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた。神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行われた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。」パウロの伝道法はまず、ユダヤ人の会堂に入り、彼らに福音を語ることでした。その当時、ユダヤ人の会堂はいたるところにありました。かつてエルサレム神殿が破壊され、世界に散らされたことのなごりです。しかし、ユダヤ人はキリストの福音に反抗的であり、エペソにいたユダヤ人も全く同じでした。「この道をののしった」というのは、「キリストの福音をののしった」ということです。それで、パウロはしかたなく、異邦人に向けて福音を語りました。パウロたちは「毎日ツラノの講堂で論じた」とありますが、これはギリシャ人が自由に政治や哲学を論じることのできた講堂があったということです。「これが二年の間続いたので、アジヤに住む者はみな、ユダヤ人もギリシヤ人も主のことばを聞いた」とありますが、彼らがみんな信じたわけではないけれど、小アジアにすむ人たちみんなが、主のことばを聞いたということです。そして、パウロは福音を宣教しただけではなく、しるしと奇跡を行いました。かつてイエス様が弟子たちにお命じになられたように、病をいやし、悪霊を追い出しました。人々はパウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てました。すると、その病気は去り、悪霊は出て行ったということです。アーメン。リバイバルが起こるとこのようなことが普通に起こります。奇跡が日常茶飯事に起こったらすばらしいですね。

 でも、ある事件が起こりました。使徒19章13節から16節にしるされています。エペソの魔術師たちが、人々が教会によって悪霊から解放されているという話を耳にして、確かめに行きました。彼らは、クリスチャンたちがイエスの御名によって癒しと解放を行っているのを、目の当たりにしました。そこで、エペソの町で著名な魔術師の幾人かが、イエスの名によって悪霊の追い出しをしてみました。「パウロの宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる!」。すると悪霊は、とりついた男性を通して答えました。「自分はイエスを知っているし、パウロもよく知っている。けれどもお前たちは何者だ?」そして、悪霊につかれている人は、彼らに飛びかかり、彼らを打ち負かしました。魔術師たちは裸にされ、傷を負ってその家から逃げて行きました。この出来事は、またたく間に町に広まったと書かれています。使徒19:17「このことがエペソに住むユダヤ人とギリシヤ人の全部に知れ渡ったので、みな恐れを感じて、主イエスの御名をあがめるようになった。そして、信仰に入った人たちの中から多くの者がやって来て、自分たちのしていることをさらけ出して告白した。また魔術を行っていた多くの者が、その書物をかかえて来て、みなの前で焼き捨てた。その値段を合計してみると、銀貨五万枚になった。こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った。」

 このところに私たちがこれまで学んできた、サタンと悪霊からの解放が記されています。チャック・ピアスが書いた『使徒的教会の台頭』にこのように書かれています。エペソは女神アルテミスの神殿があり、ローマ帝国における異教の中心地でした。それに加えて、魔術やオカルトの拠点としても知られていました。魔術というのは、手品のことではありません。魔女や魔術師、魔法や占いのことです。エペソは霊的に暗い場所でした。ローマ社会では、まじないや呪文、魔法の本は「エペソの書物」と呼ばれていました。エペソは、そのような評判を持つ町だったのです。古代社会では、確かに呪いをかけたり、悪霊をはらいたいとき、エペソの魔術師なら願いを叶えてくれるという望みを持って、人々はエペソに行きました。エペソは、教会開拓者にとっては屈辱的な場所だったに違いありません。繁栄し、巨大で誇り高く、オカルトや異端が支配的な町だったからです。しかし、その霊的に暗いエペソの町に、神は光を灯し、地域全体を照らしました。事実、エペソは、もっとも重要な使徒的センターでした。「アジアに住む者はみな、ユダヤ人もギリシャ人も主の言葉を聞いた」のです。黙示録1章から3章には、小アジアの7つの教会が列挙されていますが。それらの教会は、恐らくこの二年間にエペソから遣わされた複数の使徒チームによって開拓されたのです。アーメン。

 私は、エペソは霊的な意味で日本に似ているのではないかと思います。日本人は教育があり文化的な生活をしています。しかし、首相をはじめ大臣たちのほとんどは神道系の宗教団体に属しています。政治や企業のトップが占いや霊能者のお告げで方針を決めているそうです。日本では毎朝テレビで「きょうの占い」が放映されています。ゲームや漫画には魔術やオカルト、ニューエイジがからんでいます。日本は偶像崇拝の国であり、人はもちろん、山や動物、なんでも神さまにして、拝んでいます。神仏に手を合わせることが、信心深くて良いことになっています。このような日本に、「天地を造られた神はおひとりしかいない。救いに至る道はキリストしかない」と言うなら、「なんと狭い宗教なんだ」と排斥されるでしょう。しかし、エペソでパウロたちは何をしたのでしょう?なんと、偶像の神ではなく、生きているまことの神さまをデモンストレーションしました。パウロは主のみことばだけを伝えたのではありません。病人をいやし、悪霊を追い出しました。さまざまな奇跡やしるしが起こり、人々は、「自分たちは間違った神を拝んでいた」と告白しました。それだけではありません。魔術の本をかかえて来て、みんなの前で焼き捨てました。その金額は銀貨5万枚ですが、5万デナリで現在の5億円です。彼らは悪霊と関係を断ち切ったのです。日本にもこのような劇的な回心が必要です。なぜ、日本のクリスチャンはなまぬるいのでしょうか?それは偶像礼拝や過去の罪を断ち切らないために、悪霊がどこかに住んでいるからです。人格の一部を、心のどこかの部屋を、思いを支配されているからです。私たちは本物のクリスチャンになるために、偶像礼拝を悔い改め、悪しき霊からの解放が必要です。

3.エペソ教会の危機

 使徒19:20「こうして、主のことばは驚くほど広まり、ますます力強くなって行った」とハピーエンドで終われば良いのですが、そうではありませんでした。前にも申しましたが、エペソは女神アルテミス(ダイアナ)を祀っている神殿がありました。この神殿はアテネのパルテノン神殿の三倍の大きさがありました。この神殿を見るためだけに、ローマ帝国から人々がやってきました。この期間にエペソ教会が急成長したために、町の経済が荒廃しました。エペソの主要産業の一つは、女神アルテミス像の制作でした。パウロの二年間に及ぶ伝道の終わり頃には、多くの人が主を信じるようになり、偶像を買う人がいなくなりました。偶像職人たちは、文字通り町中で騒動を起こし、自分たちの商いを守ろうとしました。使徒19:26「ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で作った物など神ではないと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせているのです。これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです。」そう聞いて、彼らは大いに怒り、「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と叫び始めた。私はエペソの背後にいる悪霊が巻き返しを図ろうと、群衆を扇動しているとしか思えません。「偉大なのはエペソ人のアルテミスだ」と二時間ばかり叫び続けた」(使徒19:34)とあるからです。しかし、幸いなことに町の書記役が出て来て、騒動が納まりました。個人の救いだけではなく、社会のしくみが変わる、トランスフォーメン(変革)がリバイバルのゴールです。

 キリスト教会史において、エペソのようなリバイバルが各国で起こりました。しかし、ジョンウェスレーのリバイバルが30年間で最も長く、世界のリバイバルの平均寿命は3年から5年、長くて10年です。なぜ、リバイバルが急速に衰え、その火が消えてしまうのでしょうか?その最大の原因は教会に対する迫害よりも、同じ教会からの非難や中傷であります。今から25年くらい前、カナダのトロントでリバイバルが起きました。その名前は「トロント・ブレッシング」と呼ばれています。リバイバルはトロント・エアポートチャーチで始まりました。ジョン・アーノットが主任牧師です。そこへ4日間の約束でイリノイ州の小さな教会からランディ・クラーク師が招かれました。そこに聖霊の火が下り、集会は40日間に及びました。癒しや奇跡がどんどん起こりました。人々は床に転げ、笑いながら、転げながら、泣き続けていました。ものすごい聖霊の油注ぎがあり、世界から100万人くらいが聖霊の力をいただきに訪れたと言われています。ところが、ミニストリーを受ける人たちの中に、笑い転げ、動物の声で叫んだり、動物のように床を這うような人たちも現れてきました。トロント教会は「それはホーリィ・ラーフィングであり、解放と癒しが起こっている証拠だ」と言いました。ところが、ヴィンヤード・チャーチの指導者たちは、「ヒステリックで霊的に危険である」と批判しました。その結果、トロント・エアポートチャーチはその群れから追い出されてしまいました。

 エディ・レオ師は「リバイバルは神さまの一方的な恵みであるが、リバイバルを継続させるのは私たちの責任である」と言いました。リバイバル、それは聖霊の圧倒的な現れです。リバイバルが起こると、良いものだけではなく、カオス(混沌)も一緒に訪れます。神学的におかしなことも起こり、あきらかに行き過ぎだと思えることも起こります。教会にはブルドックのように、伝統や教義を守る番人がいるものです。特に、その教会が大きな教団に属していると、やり玉にあがります。どんな立派な人でも、神さまに用いられている人に対しては、ねたみ心が起こります。そして、小さな問題を、主要な出来事として批判するのです。「あれは聖霊ではなく、悪魔がやっていることだ」と言うのです。福音書にありますが、イエス様が口をきけなくする悪霊を追い出したことがありました。パリサイ人は「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ」と批判しました。イエス様は「人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、御霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません」(マタイ12:32)と言われました。混乱を避けたい、善良な人たちによって、聖霊の火が消されてしまうのです。

 ビル・ジョンソン師は『天が地に侵入する時』という本でこのように警告しています。行きすぎた行為を恐れるために、多くの人はどっちつかずの中間さをバランスが取れた考え方のように採用しています。そのような恐れは、自己満足することを徳とします。行き過ぎた行為に対する恐れは、変化に反対する人々を高潔な心を持った者のように見せてきたのです。しかし、行き過ぎた行為がリバイバルを終わらせた訳では決してありません。ウィリアム・デ・アルディガは、「偉大なリバイバルは、極端な人々の故に終結したのではない。それは、反対者たちの糾弾によったのです。分裂は、霊的なことを計る物差しとして、知性に最高の価値を与える時にはいつでも起こることだ。分裂は、多くの人が非難するように、聖霊の賜物が用いられたことによるのではない」と言っています。…私たちの完璧さに対する脅迫観念が、リスクを冒すための余地を消し去ってはなりません。完全さということに関して付け加えて言うなら、それは宗教の霊に余地を与えることです。一歩踏み出して神に用いられることを拒む人は、それを行う人を非難する側に回ります。危険を冒す者は、神の心を興奮させると同時に、危険を冒すことのない、決して失敗しない人々からの攻撃の対象となるのです。

 教会の多くは、聖霊の偉大なリバイバルを求めています。しかし、自分たちの神学や考えに合わないと、「もう結構です」と拒否してしまいます。リバイバルが起こると、良いものだけではなく、カオスも一緒に訪れます。「肉は食べて、骨は口から出す」ということわざがあります。現象を見てさばくのではなく、聖霊様がなさっている癒しや解放、救いを見るべきです。日本の教会はあまりにも知的で神学的です。人間の小さな頭で、どうして聖霊の偉大なリバイバルを把握できるでしょう。あえてリスクを冒すような冒険心、聖霊様にどこまでも期待する飢え渇きが必要です。日本にもエペソ教会に起ったようなことが起りますように願いたいと思います。