2019.2.17「進化論を斬る 詩篇8:3-9」

 私は小中学のときは理科が5でした。当然、進化論についても知っていました。先生がキリンの首がなぜ長くなったのか教えてくれました。ピテカン・トロプス・エレニクスと言う名前も覚えています。ですから、24歳のとき職場の先輩が「神が人間を創った」と言ったときに反論しました。その後、神さまがこの世界を、そして、この私を造られたと分かってから、人生が変わりました。不思議なことに、生きることに目的が生じたからです。 

1.進化論の歴史 

進化論はどのようにして生まれたのでしょうか?近代科学は17世紀ヨーロッパで誕生しました。そして、近代科学誕生の思想的基盤はキリスト教でした。ちなみに、ニュートンはすばらしいクリスチャンです。この時代の科学者たちは、神の創造した自然界と秩序を見出そうとし、計り知れないほど大きな神の英知の一端を知ろうとしました。ところが19世紀になると、科学にも哲学にも大きな転回がやってきます。西洋のキリスト教的基盤が弱くなり、進化思想がそれにとってかわっていきます。ちょうどその頃、日本が明治の世になって開国し、西洋の科学的技術を輸入しはじめました。もともと進化論と呼ばれている理論は、生物の種類の多様性を説明する一仮説に過ぎません。ところがそれが発表されるやいなや、産業革命後の社会風潮と相まって、適者生存、弱肉強食と公式化され、個人間や国家間の競争を是認する社会思想として急速に広まって行きました。日本は開国後、殖産興業、富国強兵を国の柱にしていたので、進化論を科学的真理として喜んで受け入れました。学校では進化論が生物学の基盤となっていますが、本来は社会学的なものであり、科学ではありません。ダーウィンが発表した学説が世の中の風潮に合致したということが言えます。ナチスは、「適者生存」に関するダーウィン進化論に基づいた社会ダーウィン主義の見解を採用しました。そして、遺伝的に劣性と見なす身体障害者や精神障害者、常習犯罪者をガス室に送りました。ヒトラーはドイツ民族を世界で最も優秀な民族と捉え、それ以外の民族、ユダヤ人などを絶滅させようと企てました。これが悪名高き、悲惨なホロコーストです。

 これが、進化の大問題、新しい種の起源に対してダーウィンが与えた答えです。「自然界のいたるところで、また地球の歴史のあらゆる時点で、そこに生息している動植物は絶えざる生存競争に巻き込まれてきた。それぞれの世代ごとに、最適者だけが勝ちをおさめた。これら適者は、両親よりもどこかしら秀でていた。目が良かったり、より速く走れる長い足を持っていたり、突然の寒気にも耐えられる葉をもっていたりした。きわめて徐々にではあるが、これらの新しい特徴は次第に蓄積していき、その結果、やがて新しい種類の動物や植物が出現するようになった。これら新しい生物は、数百万年前の遠い祖先とは全く異なっていた。自然界の戦いから、飢えと死から、より高等な動物がやがて生じてくる。」彼がこの考えを発表するやいなや、当時の世界は狂気して受け入れました。ダーウィンはビーグル号に乗る前は、牧師になりたいと思っていました。ところが、ビーグル号の5年間が彼を変えてしまったのです。彼自身が突然変異したのです。

2.進化論のまちがい

 進化論の間違いを4つだけ取り上げて説明したいと思います。第一は進化論を証明する化石が発見されていないということです。フランシス・ヒッチング著『キリンの首』にこのように書かれていました。ダーウィンは、何度も化石の記録に立ち戻って、自説を支持する証拠を探し求めました。彼は小さな単細胞生物から、無脊椎動物、魚類、両生類、爬虫類、鳥類と爬虫類という進化系列はつながっていると信じていました。つまり、魚類が両生類に、両生類が爬虫類に、爬虫類が鳥類に変わったということです。ダーウィンは、この過程は少しずつ進行したのだと確信していました。今日ほとんどの博物館や教科書は、自然淘汰と同様に、この漸進主義を無批判に受け入れています。となると理論的には、こうした着実な前進は化石の記録にも現れるはずです。ダーウィンの説が正しいとしたら、あるグループからより高次の複雑な体系を持つグループまで、徐々に変わる化石をすべて見ることができるはずです。世代ごとに生じる小規模な「改良」または「前進」も、種それ自体の進化と同様保存されているに違いありません。ところが、実際はそうではありません。種と種の間を埋める移行的な化石を見つけることができません。主要な動物グループの間をつなぐ化石をいくら探しても、そんなものはほとんど、あるいは全くと言っていいくらいに、存在しないのです。始祖鳥が化石として発見されたとき「これにまさる中間生物の例はない」と言われました。しかし、始祖鳥はその当時生息していた多くの奇妙な鳥の一種に過ぎないという可能が高まり、中間生物ではないと結論されました。

 進化論では、地層の一番下が単純な生物の化石、地層が上になって行き次第、複雑で高等な生物の化石が発見されるであろうと考えられてきました。なぜなら、進化が時間の経過によって、行なれたという前提があるからです。ところが、全世界の地層を見ても、彼らの考えた通りの順番に発見されていません。それが全く逆であったり、単純な生物も高等な生物も混ざり合っていること言うことが分かりました。シルビア・ベーカーという人は、全世界に及んだ大洪水説を唱えています。死んだ動物や魚はそのままでは化石にならないということです。なぜなら、他のものに食べられてしまうからです。化石を生ずるのに最も良く、可能性のある過程は、生物が死んだとき、または死の直後に突然堆積層の中に埋没することだということに大方の意見が一致しているそうです。化石化した魚が堆積岩の中に見出されますが、それらが腐肉を食う生物の攻撃を受けた兆候は何もなく、苦悶の状態で見出されています。また、恐竜の化石は猛威による突然の死であるかのような状態で発見されています。マンモスは温暖なところに住み、青草を食べていました。しかし、突如として大洪水に襲われ、凍結してしまったと考えられます。だから、胃の中にはキンポウゲなどの青草が見つかりました。石炭と石油は共に大量の生物の残骸であり、これも大洪水のゆえであろうということです。かつて「系統樹」なるものがあり、下等なものから高等なものに進化していく樹木の絵がありました。しかし、その化石が見つかっていないので、1950年代のものは樹木としての面影は残っているものの、「枝」はつながっていません。

第二は、生命が偶然に発生するということはありえないということです。進化の考えは、ダーウィンが始めたものではありません。それ以前にも、多くの科学者や哲学者が進化を信じており、古代ギリシャで最初起ったものです。ヒトは魚から進化したとか、動物は植物に由来していると主張する人もいました。紀元前400年、アリストレテスは自然発生説を提案しました。なぜなら、彼は泥の中から昆虫やハエが突然出現するのを見たからです。もし、昆虫が自然発生によって生ずるとしたら、他のすべての生物にも同じことが起こらない理由があるだろうかと言いました。長い間、自然発生説が受け入れられていましたが、19世紀にパスツールが自然発生説の誤りを証明しました。生命はどのように誕生したのでしょう。1950年二人の科学者(スタンリー・ミラーとハロルド・ユーレイ)がメタン、アンモニア、水素から成る混合気体、いわゆる原始のスープに雷を模した電気放電を当てたところ、アミノ酸などの有機体ができました。無機物から生物を創ったということで、世界中に報道されました。しかし、今では生命の発生の解釈としては、何の価値もないという結論に落ち着いています。

『進化論を斬る』という本で稲垣久和氏はこう言っています。ところでこのように原始地球上で、また分かっていない化学的メカニズムでアミノ酸が生じたとしても、生命の誕生にほど遠いのです。それを納得するために単純な確率の計算をしてみましょう。生物体の基本物質であるタンパク質は、アミノ酸という分子が鎖のようにつながった巨大分子です。アミノ酸は20種類ありますが、これがどういう順序でつながっているかが生物機能にとって本質的に重要です。そこで原始地球上で無秩序(ランダム)な化学反応の結果、アミノ酸の百個つらなった特定の小さなタンパク質分子ができる確率はいくらか?これは一列に百個並んだ座席を想定して、そこに人をひとりずつ座らせていきます。そうすると一番端には20通りの座り方、二番目も20通り、三番目も20通りという具合に20を百回掛けただけの並び方があることがわかります。計算すると、10の130乗種類のものから一個を選び出す操作に等しいのです。今、地球の年齢の約45億年を秒に換算すると10の17乗秒しかなりません。そこで一秒間に一種類の組み合わせを数えていったとしても、10の17乗種類しか数え上げることができません。地球の年齢のかわりに宇宙の年齢150億年をとっても、10の18乗秒以下ですから答えは同じです。このような簡単な確率の計算から明らかなように、無秩序とか偶然とかの考えの基礎にしてしまうと、特定の小さなタンパク質すら生じないのです。ましてやタンパク質やそれを同じような高分子である核酸が複雑に有機的に組み合わさった生命というものが、このような偶然によって生じるなどと主張することは科学ではなく、偶然の哲学、または進化主義とでも呼べる1つの哲学的立場の表明です。

イギリスの天文学者のフレッド・ホイルは、「もし細胞が偶然できるというのなら、『竜巻が鉄くず置き場の鉄くずを巻き上げて、竜巻が去ったら、偶然、ジャンボ・ジェット機ができていた』というようなものだ」と言っています。ジャンボ・ジェット機を作ったのは、竜巻ではなく、知恵のある人間です。そして、その知恵のある人間を創造されたお方がおいでになるのです。

 第三は、進化論は熱力学第二法則に反しているということです。ジェレミー・リフキン著『エントロピーの法則Ⅱ』という本があります。東京大学名誉教授で、『ニュートン』の編集長の竹内均氏が訳しています。第二法則を一言で言えば「覆水盆に返らず」という諺のとおり「エネルギーを使用すればするほど、そのエネルギーはより質の低いエネルギーへと変換されていき、ついには使用不可能になってしまうということです。つまり、物質は絶えず老化していくということであり、地球上では「エントロピーが増大している」ということになるのです。ダーゥインの進化論は、「最初の生命は偶然の化学変化によって生じたものであり、それが何代も積み重なって進化し、ついに最も複雑で興味深いもの―私たち人間が出現したのだ」と言います。進化という考えは、エントロピーの法則と真逆です。なぜなら、無秩序から秩序へとだんだん良くなると考えているからです。しかし、実際、この世界は秩序から無秩序へとエントロピーが増大していきます。新築の家でも50年もたつと、雨漏りがしたり、床が落ちたりします。新車でも10年も乗ると、エンジンや足回りにガタが来ます。しかし、実際に生物は、進化はしないけれど、生命を一生懸命に保っています。植物は太陽からエネルギーを取っています。動物は何かを食べて生き続けています。生物は機械と違い、自己復元能力を備えています。でも、進化ではなく、全体の形も各部分も、特長もそのままです。

『エントロピーの法則Ⅱ』の本に「遺伝子工学は『エントロピーの法則』にどこまで挑戦できるか」ということが書かれていました。日本政府と多くの大企業は、日本を工業化社会から脱皮させ、遺伝子工学社会に突入させようとしています。遺伝子工学によって、私たちは生物資源を合理的かつ効率よく、よりスピーディに産業利用できるようにしようとしています。ところがその場合、将来の生態系そのものへの悪影響が及ぶ可能性などは、ほとんど考慮されていません。1970年代のアメリカで、遺伝子操作でとうもろこしの改良を行い、「スーパー・コーン」の大豊作を試みました。ところが、新型の病気が流行したときに、スーパー・コーンは脆弱で、全然抵抗力のないことを農業関係者は思い知らされました。いわゆる欠陥遺伝子を全面的に排除してしまうと、短期間的には効率の高い種ができるが、長期的には種の生存能力が弱まるのです。要するに欠陥遺伝子を排除することは、種に死刑宣告を与えるに等しいのです。つまり、種の中から、環境の変化に合わせて順応するための遺伝子形質をはく奪してしまうからです。

 私は英知に富んだ創造主がこの世界、そして生物を創造したと堅く信じています。人間は無から有は創造できないのです。生物を造っている基本的要素である、遺伝子を壊したり、組み合わせたりすることは簡単です。でも、一度壊れてしまった遺伝子を再生することは不可能です。私も子どもの頃、だれかの腕時計をばらばらにしたことがあります。でも、それを元通りにすることはできませんでした。人間は様々なクローンを作っていますが、映画のようなバイオ・ハザードが起こるかもしれません。私たちは神よりいくらか劣るものとして造られましたが、決して、神ではありません。創造主が造られたものを正しく管理することが求められているのです。

 第四は、遺伝子は進化論に反対します。フランシス・ヒッチング著『キリンの首』より。ダーウィンは「同種の異なる個体や別種の個体のある特徴が、ある時は遺伝し、ある時は遺伝しないのは何故なのか」分かりませんでした。彼の理論から行くと、より長い足、より優れた視力といった好ましい新特性は、その動物の子孫に次々に受け継がれなければなりません。ところが、実際は元の変質は混ぜ合わされてしまうのです。彼の死後、メンデルがエンドウのいろいろな品種を交配し、遺伝子のもとの考え方を発見しました。遺伝学は、生命そのもののしくみを記述する学問だと言われます。この学問は、人間は一つの種として、サルは別な種そして、そしてクラゲは全く異なる種そして、それぞれに存在していることの理由を説明してくれます。事実上すべての生物は、細胞からできています。各細胞の核の中には、動植物の種ごとに独特な情報の暗号である遺伝子がおさまっています。ここに遺伝の鍵があります。細胞は定期的に自身をつくりかえています。遺伝暗号は、そのたびことに同じものをつくりかえるにはどうするかを指令します。私たちは生まれながらにして持っている指紋を一生持ち続けたまま死にます。遺伝子が、生涯を通じて皮膚細胞の個々独特のパターンを保持させるからです。各細胞の性質と仕事を決定する遺伝暗号の実態は、化学物質DNA(デオキリシボ核酸)であり、二重らせんの形をしています。

 ダーウィンの追従者たちは、「突然変異こそが、進化になるのだ」と言いました。彼らに言わせると、偶然生じた有利な突然変異が、自然淘汰によって選択されることによって、新種が形成されると考えました。ダーウィンの時代以後も、植物や動物に交配と選択によって、品種改良を行ってきました。しかし、そうした場合でも、小麦はあくまでも小麦のままであって、グレープフルーツなどにはなりません。進化にこのような行き止まりが存在する理由は簡単に説明できます。要するに、各生物の遺伝システムには、独自の制約が組み込まれているのです。それぞれ動植物がその平均からあまりはずれないように、ストップがかかっていると思えば良いのです。最近の遺伝学の進歩によって、さらに分かってきました。人為的に作りだされたものは、繁殖能力や生存能力が劣るため、普通は死んでしまうか、すぐにもとにもどってしまうのです。

 昨年の5月28日、科学メディアPhys.org に「生物種の全面的な遺伝子調査により、生物進化の新しい側面が明らかに」という記事が掲載されていました。10万種以上の生物のDNAとアメリカ政府の遺伝子データーバンクにある500万以上のDNAの断片を徹底的に調査しました。そこから、現在地球にいる大半の生物(人間を含む)が地球上に登場したのは、10万年~20万年前の間だとわかりました。そして「中間種は存在しない」ということでした。これはつまり、この地球の生物の90%以上は「それ以前への遺伝子的なつながりがない」ということです。地球のほとんどの生命は20万年前以降に「この世に現れた」のです。現行の科学で言われている人類誕生までの歴史では、46億年前から始まり、35億年前くらいに最初の生命が誕生し、そこから徐々に進化してきたというものです。しかし、今回の大調査の結果わかることは、「徐々に」進化していないということなのです。…遺伝子は進化論を否定しているといことが科学でも証明されています。

3.創造論に立つ

 今日、子どもたちは学校でヒトは類人猿から進化したのが事実であり、歴史の授業で、ローマ帝国が存在したことが事実である、と教えるのと同じような確かさをもって、猿人が存在したと教えられています。事実、私たちの社会全体は進化論の観点に影響されています。つまり、「創造者はいない、ヒトは絶えず進化しつつあって、ヒトの悪い行為はヒトが過去に動物であった時の遺物に過ぎない」と言うのです。人が罪を犯すのは、進化の途中、進化が不十分なせいなのでしょうか?そうではありません。人間は創造主を離れ、堕落してしまったからです。生まれつきの人間は、創造主なる神を認めたくないのです。ダーウィンが「種の起源」を発表したときは、論争が嵐のように巻き起こりました。当時の著名な科学者の多くは、ダーウィンの学説に反対していました。しかし、それは産業革命後の社会にはうってつけの学説でした。「適者生存」が競争社会を正当化させました。また、科学の発展や遺伝子操作が人間に幸福をもたらすと考えました。そして、人間は「やっと神から自由になれた!」と喜んだのです。

 かなり前に稲垣久正氏が書かれた『進化論を斬る』という本を読んだことがあります。この方は、東京都立大卒の理学博士で、国際基督教大学の講師をなされ、専攻は理論物理学と教理生物学です。稲垣先生は科学的な面から、進化論が未だ証明されていない仮説であり、日本の富国強兵を正当化したとおっしゃっています。キリスト教会はどうでしょう?創造論を信じる人たちをキリスト教原理主義と馬鹿にしました。そして、教会は「有神論的進化論」という妥協案を考え出しました。神が進化によって人間を含む生物を創造したとする説です。この立場では、創世記の天地創造を寓意的に解釈します。そうなると、「神が天地を創造し、私たちを神のかたちに創造された」とはっきり言えなくなります。中間の化石がないこと、偶然による生命の発生がありえないこと、熱力学第二法則は進化と真逆であること、遺伝子は進化論に反対すると4つのポイントで申しあげました。学校では「進化論」を証明された事実のように教えているので、学力一辺倒の教育、おちこぼれ、弱い者いじめにつながっていると思います。教育の土台は創造者なる神を恐れることです。箴言1:7「主を恐れることは知識の初めである」と書いてあるからです。進化論の「適者生存」は社会福祉と全く反する考え方です。なぜなら、子どもや老人、障害者は存在する価値がないからです。本当の社会福祉は神が人間を創造し、命を与えたゆえに、どんな人であっても生きる価値あるという考えが土台です。詩篇8:4-8「人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。」人間は自然の一部ではなく、自然をちゃんと治めるように神さまから造られた尊い存在です。もし偶然で人間が誕生したのなら人生に目的がありません。でも、創造主が人間を創られたのなら、人生に目的があります。