2019.2.24「神の一般恩寵 伝道者9:1-10」

 先週は、進化論は聖書的ではないということを申し上げました。本日は、創造主なる神が私たちを造られたゆえに、このような恵みがあるということを聖書からメッセージしたいと思います。言い換えると、他の動物にはない人間に対する特典です。創世記1:27「神は人をご自身のかたちとして創造された」とありますが、言い換えると、人間は神さまに似たところがあるということです。アダムの堕落のゆえに、人類に罪と死が入りました。生まれつきの人間は、神から離れて生きていますが、それでも神さまの恵みを受けています。これを神の一般恩寵と言います。 

1.知性と才能

 詩篇8:5,6「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。」このみことばから分かることは、人間は神さまよりいくらか劣るものとして造られたということです。他の動物と違い、人間には神さまからの栄光と誉の冠がかぶせられているということです。進化論を信じている人は、「猿と人間はいくらも違っていない」と言うでしょう。確かに猿と似ている人はいます。犬と似ている人もいれば、クマに似ている人もいます。なぜでしょう?それは造り主が同じだからです。作者が同じなので、どうしても似ているものを造ってしまいます。でも、神さまは人間だけに栄光と誉れの冠をかぶらせました。そして、動物や自然界を支配するように、多くのわざを管理させました。他の動物と違って、人間に与えられている最高のものは「知性と才能」です。人間はものごとを考え、そして作り出すことができます。知性は頭の脳の重さではありません。進化論者は「だんだん脳が大きくなったので、知性が増したんだ」と言います。アダムは造られたときからことばを発し、すべての動物に名前を付けることができました。そして、エデンの園を管理しました。堕落前のアダムは脳を100%使うことができました。ある人はアダムのIQは1000あったのではないかと言います。堕落した人間であっても、天にも届く、バベルの塔を作ることができました。ノアは巨大な箱舟を造りました。船の長さと幅と高さの比率、30:5:3は、現在のタンカーの比率であり、最も安定する黄金比だそうです。

 伝道者の書をみると、神さまから知恵をいただいたソロモンのことが書かれています。彼はアリストテレスのように動植物や自然界を研究しました。また、偉大な建築家のように神殿や宮殿、そして庭と園を造りました。彼は偉大な文学と哲学と芸術家でもあり、数えきれないほどの歌や箴言を作りました。また、彼は軍備を整備し、海外と交易をなし、事業を拡大し、国を発展させました。彼は裁判官でもあり、国民をさばきました。他に農業開発、牧畜、遊戯(ハーレム)もしました。歴史上、ソロモンほどの偉大な成功者はいないでしょう。でも、これが、神さまが与えることの恵みであります。私たちはソロモンほどではなくても、知性と才能を神さまからいただいています。私たちは、他者と比べないで、自分が神さまから与えられたものを再発見すべきであります。学校教育は進化論に立っていますので、「適者生存」「弱肉強食」を是認するように仕向けています。そうではありません。私たちひとり一人は神の作品であり、どんな人であっても、光る宝石が隠されているのです。教育のラテン語は「ひきだす」という意味があるそうです。つまり、神さまから与えられたものを、その子から引き出してあげるのが教育であります。つめこむのが教育ではありません。神が与えた良きものを引き出すのが教育です。アーメン。東大先端科学技術研究センターでは「異才発掘プロジェクト」というものをやっています。中にはボールペンでひたすら構造物を書いている少年がいます。13歳の天才画家、濱口瑛士君がいますが、彼は発達障がいがあり、小学校でいじめに合い、不登校になったそうです。財団のホープページには「たとえば、引き篭もり、不登校、窓際族。実は、こういう人こそ『変わっているけどすごいポテンシャルのある人』だったりする」と書いてありました。

 神さまは全宇宙を創られたお方なので、英知に富んでいらっしゃいます。そのお方よりもいくらか劣るものとして私たち人間が造られました。だったらどんな人でも、光るものがあるということです。私が小学生のときの担任が池田絹子先生でした。私が一番叱られ、一番可愛がられたのではないかと思います。池田先生は音楽の教師だったので、私は朝礼で校歌を歌う時、友達と二人でアコーデォンを弾かされました。学芸会でも大太鼓やティンパニーが担当でした。どういう訳か音楽が私から離れず、座間キリスト教会では聖歌隊に入らされました。芸大卒の関根さんから色々教わりました。亀有教会に来てからも、メンバーが足りなかったので聖歌隊に入りました。2000年のゴスペルからもテナーを歌わされ、やめることができません。でも、ふと「ああ、池田絹子先生、草葉の陰から、やっているね」と見ておられるのではないかと思う時があります。そういう意味で、「学校の先生は重要なポストについているのだなー」と思います。でも、親は子どものことをよく理解できません。子どもが「あれをしたい」と言うと、「そんなんで、食っていけるの思っているのか」と否定します。子どもは小さいとき、サッカーの選手とか、歌手になりたいとか言います。確かにいくら目指しても、プロになれる人は1万人に一人いないかもれません。でも、すぐそれで「食べていけるか」で夢を摘むのは一種の虐待であります。なぜなら、子どもは親のものであって、親のものではないからです。父親が子どもに「リンカーンが君の年だったとき、彼は暖炉の火で勉強していたそうだよ」と言いました。息子は 「リンカーンがお父さんの年だったとき、彼は大統領だったよね」と答えたそうです。

 ジョエル・オスティーンは「私たちには父なる神さまのDNAが組み込まれている」と言っています。でも、それはキリストを信じて新生した後のことなのか、生まれた時からなのか分かりません。私は可能性の種だけは宿っていると思います。神さまを信じていなかったときも、ある程度、紆余曲折もありながら成長するでしょう。でも、ある時、創造主とキリストを信じると、止まっていた運命の時計の針が動き出すのではないかと思います。「ああ、私はこのために生まれてきたんだ。この知性もこの能力も神さまの栄光のために用いるべきなんだ」と分かったならなんと幸いでしょう。

2.命と楽しみ

 創造主なる神さまは私たちに命を与えてくださいました。世の中でも「1つしかない命を大切に」と言います。でも、若い時はその命を粗末に扱いがちです。でも、年を重ねてくると、「命というのはかけがえのないものなんだなー」と思うようになります。私は子どもの頃、川に行って魚を釣っていました。夏は昆虫採集のためセミ、蝶、とんぼなどを捕えました。パチンコを作って、それをすずめや猫に向けていました。しかし、年を取って来ると、生き物が可哀そうになります。雨上がりの後、かたつむりが路上で這っていると、つまんで花壇の中に入れてあげます。神さまがすべての生き物に命を与えたんだと分かっているからです。でも、すべての人間が、自分のいのちは神さまの贈り物であると思っている人がどのくらいいるでしょうか?ある人たちは、命を無駄に使い、ある人たちは自らの手で命を絶っています。「死んでも、生まれ変われば良いいんだ」と悪魔のウソを信じています。そうではありません。地上の人生は一回だけです。神さまは等しく、ひとり一人に1つの命を与えておられます。命の長い短い、太い細いはありますが、全ての人に、もれなく1つの命を与えておられます。私たちは神から与えられた命をどのように使うか、任されているのではないでしょうか?ちゃんとこの命を最後まで全うするという責任があると思います。

 英語で命をlifeと言います。でも、lifeは日本語に翻訳するとき、とてもやっかいなことばです。あちらではみんなlifeで通じるのですが、日本語に訳すと幾分か違ってきます。Lifeは命のほかに、生活、人生、生涯、寿命という意味があります。文脈を理解しながら、訳していかなければなりません。伝道者の書11:8-10「人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。」ここには、「生きているうちにできるだけ楽しめ」と言われています。聖書にこんなことが書かれているなんて信じられるでしょうか?キリスト教会ではすぐ「死んだのちのさばきを受けるから、早く、キリストを信じなさい」と言います。しかし、それは半分おどしであります。特に若い人というのは、死んでから先のことを考えていません。今が良ければ良いと思って生きています。現代、国民年金に入っていない若者がたくさんいます。彼らは自分たちが年取ったら、きっともらえないだろうと思っているからです。イソップ童話の「アリとキリギリス」みたいであります。伝道者の書を見て分かるのですが、「若者よ、おもいのまま生き、いっぱい楽しめ」と言っています。最後に「神のさばきを受けることを知っておけ」とピリッとしたことを言っています。

 でも、このところから分かることは、神さまは人生を楽しむように必要なものを与えておられるということです。私は「若さ」こそが神さまが人に与えた最高のプレゼントの1つではないかと思います。私は朝と夜に散歩をしています。すると、足の長い中高生の女の子が自転車をこいでいます。その時、私が思うのは、「若いって良いなー。神さまが与えてくれだんだよな!」と神さまを賛美します。なぜ、そう思うのか?80歳ぐらいのおばあちゃんが、なんとか歩いているのを見るからです。あのおばあちゃんも、中高生の時代があったのです。若い時は、若い事のすばらしさが分かりません。でも、だんだん足腰が痛くなる年齢になると、その価値が分かるのです。神さまは人生を楽しむように、一般恩寵をだれにでも与えておられます。なのに、どうして、悲しみ、悩み、痛むのでしょうか?私は3匹の猫を飼っていました。猫から多くのことを学びましたが、1つのことは「彼らは明日を思い患っていない」ということです。だれかがエサを与え、だれかがドアを開けてくます。「ありがとう」と言うことは決してありません。食べたら、寝ます。その寝顔は、全く平安そのものです。「それに比べ、人間様はなんと悩みが多いのだろう」と、がっかりします。猫から学んだことは、「私たちには神さまがついているだろう」でした。人間はかしこいので、どうしても先々のことを心配して、思いわずらい、今日という日を楽しむことができません。楽しみは海外旅行しなくても身近にあります。一家だんらん、日差しのもとで寝っころがること、ご飯を食べられること、自分で排せつができること…みんな感謝なことです。

私は当教会が100名礼拝になることを必死に願い求めて来ました。100名に満たないので、いつも不満と恥ずかしさがありました。大川牧師が7月14日の創立記念礼拝に来られます。「ああ、また言い訳がましいことを言わなければならないのか」と暗くなりました。でも、ふっと思いました。「教会が大きくなくて良かった」と。私が座間キリスト教会で奉仕していた頃は、集会がたくさんあり、その準備にあけくれていました。平日でも朝早くから教会に人々がおり、気を使わなければなりませんでした。特に、スタッフの間にはライバル心がありました。しかし、当亀有教会は平日は人はいません。牧師室でゆっくり本を読み、説教を作ることができます。これまでも、いろんなセミナーに出かけ勉強することができました。役員会と総会はちょっとだけ嫌ですが、他は気をつかうことがありません。フラストレーションをためることなく、マイペースで奉仕できるのは、「教会が小さかったからだなー」と感謝しています。もちろん、リバイバルは信じています。リバイバルが来たら忙しくなるでしょう。でも、そのために蓄えてきた知識や経験がたくさんあります。ひょっとしたら、神さまはそのために私を準備してくださったのではないかと本気で思っています。これまで燃え尽きないで、生きて来られたのは主の恵みです。

神さまは人に一個のいのちを平等に与えておられます。嬰児でなくなる人もいれば、100歳まで生きて天寿を全うする人もいるでしょう。健康な人もおれば障害者で生まれる人もいます。知能が高かったり、低かったり、才能が豊かだったり、なかったりと、確かに不平等です。でも、神さまは人に一個のいのちを平等に与えておられます。神さまはそのいのちを楽しむように願っておられます。もし、不平等だと感じたら、キリストにある特別恩寵をいただくしかありません。

3.善と愛

マタイ5:45「それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。」このみことばは、神さまの一般恩寵を表している典型的なみことばです。このところに、父なる神さまが善なるお方であり、どんな人でも愛しておられるということが表明されています。私たちは「正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」のみことばを誤解しています。「憎い人の上に集中的に雨が降るように」と願うかもしれません。しかし、パレスチナの地方は雨があまり降らないので、雨が降るということは恵みなのです。ここで言われていることは、イエス様は「神の子どもは、自分を愛してくれない人でも愛しなさい」と教えておられます。しかし、きょうのテーマは神さまの一般恩寵であります。このところに神さまは「悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださる」とはっきり書いてあります。多くの人は「神さまがいるなら見せてみろ」とか「もし、神さまがいるなら、何故、こんなひどいことが起るのだ」と文句を言います。しかし、神さまは悪い人の上にも太陽が上り、正しくない人にも雨を降らせてくださるお方なのです。聖書の神さまは善なるお方であり、愛なるお方です。

私たち人間は、神さまに似せて造られた存在です。ですから父なる神さまの属性である、善と愛を幾分か受け継いでいます。なぜ、そんなことが分かるのですか?このところに、「自分を愛してくれるものを愛する」と書いてあります。条件付きではありますが、人を愛する愛はあります。「取税人でも同じことをする」とありますが、マタイ7章には「悪い者であっても、自分の子どもには良い物を与える」と書いてあります。どんな悪い親でも、自分の子どもを愛するのです。「異邦人であっても、兄弟にあいさつする」とは、異邦人でも兄弟愛はあるということです。教会はこの世の人に向かって、「愛がない」とか「罪人である」と言いがちです。限定的で不完全であるかもしれませんが、善の心があり、愛の心があるのです。何故でしょう?それは神さまがご自身のかたちに人間を造られたからです。私はヒューマニズムのことを言っているわけではありません。ヒューマニズムというのは、神さまなしの考え方であって、それは正しくありません。私たちはその人がどんなに悪い人であっても、神さまの善と愛のかけらがあることを発見してあげる必要があります。私は中学の時、高校の時、先生方からひどく叱られました。その時の彼らの目が、犯罪人でも見るような冷たい目でした。愛のひとかけらもありませんでした。私はここでは「先生」と呼ばれていますが、「学校の先公みたいになってはならない」と自戒しています。

昔、カトリックの井上洋治神父が、神さまは大地のような包容力があると言いました。カトリック教会の信仰は、神さまの善と愛をたたえ、私たちもそのように生きることを勧めています。プロテスタント教会と比べて、「キリストしか道がない」というように対決しません。しかし、井上洋治神父の晩年の姿を見て、やっぱり私たちの信仰と違うと思いました。彼は人の悲愛を説き、父なる神を「アッバ」(お父さん)と親しみをこめて呼び、仏教との接点を見出し、死に到るまで「南無アッバ」の祈りを唱えました。法然が唱える「南無」の意味はよくわかりませんが、汎神論的な神観があります。自分が無になって神と一体になるというのは、キリスト教の考えではありません。私たちは神さまの一般恩寵は認めます。どんな人でも神さまは愛しておられ、善きものを与えようとされています。しかし、一般恩寵だけで神さまを理解しようとすると、救いの考えが全く違ってきます。井上洋治神父の救いは神さまと一体になることです。南無は帰依と言う意味があるようですが、この神さまに帰依するということなのでしょう。また、井上神父は風のようになるとも言っています。遠藤周作氏とともに、西洋のキリスト教をなんとか日本の風土に合わせようとする努力は認めます。でも、私たちはキリストの贖いがなければ、決して、父なる神さまに近づくことはできません。キリストの贖いなしでも、善と愛は受けられます。でも、それは一般的なものであり、この世だけのものです。神さまは、本当は私たちの人生を、この世だけのもので終わらせたくないのです。伝道者の書の記者は、「人生がこの世のものだけと考えるならば、好きなことをして楽しみなさい」と言っているのです。多くの人は「死んだら終わりだ」と考えて生きています。だから、一生懸命生きて、自分の人生を全うするという生き方が生まれます。でも、それは神さまの一般恩寵のレベルだということを知らなければなりません。

伝道者の書に本当に神のみことばなのでしょうか。伝道者の

書は「空しい」「空しい」と度々出てくるので、まるで仏教の教えのようです。後のユダヤ人がこの書を聖典に入れるべきか大変迷ったそうです。ところが、この1節があったので、やはりこの書を聖典に入れるべきだと考えたそうです。伝道者の書12:13「結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」口語訳は「これはすべての人の本分である」となっています。本分は2つの意味があるようです。1つは「人が本来尽くすべきつとめ」であり、2つ目は「そのものに本来備わっている性質」です。確かに人間は、神のかたちに似せて造られました。だから、人間には知恵と才能、命と楽しみ、善と愛が備わっています。神さまはそれをだれにでもお与えになりました。私たちは一生、この神さまの恵みを使って生きることができるのです。しかし、これは神さまを発見するための、資源であり材料です。神さまはこれらを使って「あなたの創造者がだれかを覚えよ。わざわいの日が来ないうちに」(伝道者12:1)と勧めています。また、「神を恐れよ。神の命令を守れ」これが人間の本分であるとも言っています。このことばに、神さまの知恵と才能、命と楽しみ、善と愛の極限がつまっています。これは神が私たちに与えたいと願っておられる、神の特別恩寵への道です。一般の人には与えられない特別な恵みです。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」