2019.3.3「神の特別恩寵 ローマ4:1-8」

 先週は神の創造から来る、一般恩寵についてお話ししました。創造主なる神さまは全ての人に命を与え、喜びや楽しみを与えておられます。確かに、ひとり一人与えられたものは違います。でも、そこには不完全でありながらも、神が人に与えた栄光と誉れの冠を見ることができます。まさしく、天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるお方です。でも、神さまはご自分を信じる者たちに、一般とは違う、特別な恵みを与えてくださいます。それはキリストによって贖われた者だけが持つ特権です。

1.特別な知性と才能

 前回のメッセージでは「知性と才能」でしたが、本日のものは「特別」がついています。旧約聖書には神さまから、特別な知性と才能が与えられた人たちが何人も登場します。一番、有名なのは神さまから知恵が与えられたソロモンです。神殿や宮殿の建築、海外との交易、事業の拡大、軍備、裁判、芸術、農業なんでも行うことができました。彼は歴史上、最も富んだイスラエルの王でした。それから、バビロンに捕えられたダニエルと三人の若者たちです。ダニエル1:20「王が彼らに尋ねてみると、知恵と悟りのあらゆる面で、彼らは国中のどんな呪法師、呪文師よりも10倍まさっていた」と書いてあります。ダニエルは敵国にありながらも、4代の王様を助けました。また、主は、幕屋の調度品を作らせるためにベツァエルを召しました。出エジプト31:3-5「彼に知恵と英知と知識とあらゆる仕事において、神の霊を満たしました。それは、彼が金や銀や青銅の細工を巧みに設計し、はめ込みの宝石を彫り、木を彫刻し、あらゆる仕事をするためである。」また、ダビデは優れた戦士であり、最も尊ばれた王でした。ダビデは北イスラエルとユダの統一国家を作りました。ダビデは音楽にも優れ、数えきれない歌を作りました。このように旧約聖書を見ると、神の霊が彼らの上にあったので、普通の人にできない知性と才能を発揮しました。神さまはご自身の目的を果たすために、神の霊をお与えになったと言うことが分かります。

 その考えは新約聖書にも見られます。イエス様の弟子たちのほとんどがガリラヤの漁師たちでした。イエス様は彼らを3年半、訓練したのち天にお帰りになられました。復活後も、弟子たちは人々を恐れて隠れていました。ところがペンテコステの日、彼らの上に聖霊が降りました。リーダー格のペテロが集まって来た人々の前で説教しました。あのペテロがキリストの十字架の死と復活の意味を聖書から解き明かしたのです。人々は胸を打たれて、3000人の人がバプテスマを受けました。その後、ペテロとヨハネが生まれつきの足なえを歩かせたので、さらに5000人がイエス様を信じました。その後、大迫害が起こって、ペテロとヨハネが捕えられました。民の指導者、長老、学者たちは何と言ったでしょう。使徒4:13「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。」「無学な普通の人」とは「律法を専門に学んでいない素人」と言う意味です。聖書の専門家が、無学な弟子たちに、返すことばがなかったのです。

 しかし、特別な知恵と才能は初代教会の弟子たちだけではありません。現在の私たちにも与えられているのです。今日、まことに残念ですが、それらを過去のものだと認めない教会もあります。「聖書が完成してからは、目覚ましい奇跡やしるしが必要でなくなった」と言っています。現代こそ、目覚ましい奇跡やしるしが必要な時代は他にありません。人間の科学や知恵では、不可能なことが多すぎるからです。私たちは、台風1つでさえどうすることもできません。いつ大地震が来るか恐れて生活しています。いつ癌になるか恐れて生活しています。現代ほど、恐れに満ちている時代はありません。そのため、体ばかりか精神が病んでいます。イエス様は天にお帰りになられましたが、その代り、別の助け主、聖霊が与えられました。教会はキリストのからだであり、各器官がイエス様の代わりに働くように召されています。各器官にあたるのが、聖霊の賜物です。それは旧約聖書の人たちが与えられていた特別な知恵と能力です。Ⅰコリント12:7「しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。」これは、クリスチャンであるなら、もれなく、例外なく与えられているということです。このところには、知恵のことば、知識のことば、信仰の賜物、癒しの賜物、奇跡を行なう力、預言、霊を見分ける力、異言、異言を解き明かす力が挙げられています。他にはローマ12章、エペソ4章、Ⅰペテロ4章にも記されていますが、聖霊の賜物は、合計30種類以上あると言われています。

 ビル・ジョンソンのある本に「優れた弓」という記事がありました。マットという人は、音楽を通して福音を伝えたいと思っていました。ところが、奉仕だけでは生活ができず悩んでいました。ある時、神さまが「私はあなたのビジネスを成功させます。そして、あなたが献金をもらわなくてもミニストリーをできるように助けます」と言われました。若い頃からマットは複合弓を作って射ることを趣味としていました。マットは「より良い弓を作るにはどうしたら良いか」神さまに尋ねました。数週間後、朝の三時ごろに目を覚ますと、目の前に一枚の紙がぶらさがっているのを見ました。ノートから破られた一枚のように見えました。その紙には、複合弓に関する新しい概念がスケッチで描かれていました。妻のシェリーが何をやっているのかと尋ねたとき、「幻を見ているみたいだよ」と答えました。マットの祈りに答えて、神は新しい弓の概念を示してくださり、弓術の歴史を変えるような発見を与えて下さったのです。その結果、マシュ・アーチェリー・カンパニーという会社が誕生しました。今日、マーシュの会社は世界一大きな弓の会社となりました。大量に売るだけではなく、優れたデザインと機能をもった製品を扱っています。弓術の道具を作るのに用いられた創造性と優れた技術は、そのままアコースティックギターを制作するのにも用いられました。今日、マットとシェリー・マクファーソン夫妻は、自由に音楽のミニストリーをし、巡回奉仕をし、世界中で福音を伝える働きを支援しています。

 かつて、神さまがマットに語られたことばです。「私は世界のすべての問題に対する答えを持っています。もし人が私に求めさえするなら、その答えを与えるでしょう」。私たちは神さまの子どもであり、求めるなら、世の人々にはない、特別な知恵と才能を与えてくださいます。

2.特別な命と楽しみ

 前回のメッセージでは、「神さまは等しく、ひとり一人に1つの命を与えておられます。命の長い短い、太い細いはありますが、全ての人に、もれなく1つの命を与えておられます」とお話ししました。まことに残念ですが、その命と楽しみは、ひとり一人違います。生まれつき障害をもって生まれる人もいます。何かの事故や災害で、人生の半ばで死ぬ人もいます。貧しい家庭環境で育ち、満足な教育を受けられない人もいるでしょう。そういう意味では、この世はまことに不平等であります。残念ながら、これはアダム以来、人間が神さまから離れて生活しているからです。この世の神が私たち人間を支配し、私たちは罪と死の中で暮らしています。それでも、神さまの一般恩寵があるので、程度の差はあれ、自分の一生を楽しんで生きられるようになっているのです。ヨハネ9章には生まれつき盲人であった人のことが記されています。彼は自分で生活ができないので、物乞いをして生きていました。弟子はその人を見て「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と聞きました。ユダヤ人の中にも因果応報という考えがあったのかもしれません。日本でも「生まれつき不幸な星のもとに生まれた」という表現もあります。ある人たちは不幸な運命の犠牲者のように生きています。ところが、イエス様はこのように言われました。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです。」アーメン。長い話を短くすると、彼は目が見えるようになりました。そればかりか、霊の目も開かれて、イエス様を信じて救われました。イエス様は地上の運命をひっくり返して、その代り、豊かな報いを与えて下さるお方です。

 イエス様はパンの奇蹟を与えたとき、このようにおっしゃいました。ヨハネ6:51「わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」いのちのパンであられるイエス様を食べるということは、信じるということです。イエス様を信じるとどうなるのでしょう?その人に、永遠のいのちが与えられ、永遠に生きると約束されています。そもそも、「永遠のいのち」とは何なのでしょう?この肉体をもって、1000年以上ずっと長生きするということではありません。「永遠のいのち」とは神のいのちであり、豊かないのちです。そのいのちを神さまは、キリストを信じるものに与えるとおっしゃるのです。これは一般恩寵ではなくて、特別恩寵の世界です。私たちは地上で生きるいのちは1個しかありません。地上の寿命はひとり一人異なります。障害者のことも話しましたが、地上での「いのちと楽しみ」はまことに不平等です。でも、イエス様が生まれつきの盲人の目を開けてあげました。それと同じように、神さまは私たちに永遠のいのちと永遠の御国を用意しておられるのです。御国ではこの地上の不平等がひっくり返されます。不幸な人ほど豊かな報いを受けるのです。イザヤ35:5-6「そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。」アーメン。

 神さまが与える特別な命と楽しみとは何なのでしょう?それは神さまご自身が持っておられる永遠のいのちです。私たちは肉体のいのちを持っています。この命は地上のいのちで限られたいのちです。死んだらなくなってしまういのちです。医者が問題にしているのは、この生命のいのちです。しかし、父なる神さまはもう1つ、レベルの違ういのちを与えたいと願っておられます。これはアダムが失ってしまったいのちよりも勝ったものです。イエス様はアダムが失ったいのち以上のものを与えるために十字架で私たちの罪を贖ってくださいました。堕落前のアダムと私たちはどこが違うのでしょうか?私たちはやがて、イエス様と同じ栄光のからだが与えられます。死なないからだというよりも、復活のからだです。さらにはエデンの園よりもすばらしい、天のエルサレムに住むことができます。天のエルサレムにも川が流れており、いのちの木があります。でも、規模が全く違います。黙示録22:2-4「都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。」エデンの園の場合は、サタンが近くまで来て、アダムとエバを誘惑しました。しかし、天のエルサレムにはそのような敵は存在しません。私たちは神さまの御顔を仰ぎ見ながら、神さまに仕えるのです。

 私たちはこの地上において2ついのちと2つの国籍を持ちながら生きています。一般恩寵はこの地上で生きるための肉体のいのちだけです。しかし、私たちクリスチャンは永遠のいのちを持ちながら生活しています。この地上のいのちを失っても、永遠のいのちは失いません。パウロは、「私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物がある」(Ⅱコリント5:1)と言いました。また、私たちは日本と言う国籍をもってこの地上で生きています。しかし、私たちの国籍は天にもあります。ピリピ3:20「けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」アーメン。私たちは日本という国の法律に従い、義務を負っています。同時に私たちは神の国の法律に従い、義務を負っています。献金は税金ではありません。献金は感謝と御国への投資です。イエス様は「自分の宝は天に蓄えなさい。…宝のあるところに、あなたの心もあるからです」(マタイ6:20,21)と言われました。では、私たちの喜びとは何なのでしょう?クリスチャンは天国に行くまで、歯を食いしばりながら、禁欲的に生きるのでしょうか?そうではありません。詩篇16:11「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」私たちの喜びや楽しみはどこにあるのでしょうか?主のみ前にあります。主の臨在、主と共に歩むならば、喜びと楽しみが両脇にころがっているということです。喜びと楽しみは人生の目的ではありません。主を愛し、主と共に歩むならば、ボーナスとして喜びと楽しみがやってくるのです。たとえこの地上で不足するときがあったとしても、主が共におられるならば、豊かないのちを満喫でき、喜びと楽しみのある生活を送ることができるのです。

3.特別な善と愛

 特別な善と愛とはどのようなものなのでしょうか?まず、そのことは信仰の父アブラハムに見ることができます。アブラハムは75歳のとき、主から召された人です。その時、「私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう」と約束されました。その時から、アブラハムは神さまから特別な善と愛を受けるようになりました。新約聖書でアブラハムは信仰の父のように尊ばれていますが、何度か失敗をしたことがありました。アブラハムが、ゲラルというところに滞在中、自分の妻サラのことを「これは私の妹です」と言いました。エジプトのパロにも同じ嘘をついたことがありました。ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れました。ところが、夜、神さまがアビメレクに現れて「あなたが召し入れた女のために、死ななければならない。あの女は夫のある身である」と言われました。驚いたアビメレクは、銀1000枚の他に、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与えました。この箇所を見るとどうしても不公平のように思われます。アビメレクはウソをつかれたので、サラを召し入れたのです。なのに、「アビメレクとアビメレクに属するすべての者も、必ず死ぬ」と言われました。間違ったことをしたのはアブラハムなのに、アビメレクが悪者になり、たくさんの品物を差し上げて、「ここから出て行ってくれ」とお願いする羽目になりました。これはあきらかに神さまの「えこひいき」です。えこひいきを英語ではfavorと言います。実は英語の聖書にはたくさんfavorが出てきますが、日本語の聖書には「恵み」としか訳されていません。

 ダビデも主からたくさんのfavorを受けたイスラエルの王様です。イスラエルの初代の王はサウロでした。しかし、サウル王は2つの失敗を犯したために、神さまから捨てられました。第一は、祭司しかできない、全焼のいけにえを勝手にささげたことです。第二は、アマレクを全部滅ぼせと言われたのに、羊と牛の最も良いものを生かしておきました。このようにサウル王の罪は不従順です。それに比べて、ダビデはウリヤの妻バテシバを寝取りました。バテシバが妊娠すると、ウリヤを戦場から呼び出して、家に帰って休みなさい」と言いました。しかし、ウリヤは家に帰らず、王宮の門のそばで寝ました。ダビデはヨアブに命じて、ウリヤを激戦の真正面に出し、彼が打たれて死ぬように仕向けました。ウリヤが戦死した後、バテシバを妻として迎えました。あとから預言者ナタンがやってきて、ダビデが犯した罪を証ました。ダビデは自分の罪を告白しただけで赦されました。サウルとダビデを比べて、明らかにダビデが犯した罪の方が重いです。サウルは不従順の罪、ダビデは姦淫と殺人という大罪を犯しました。なのに、ダビデは赦され、イスラエルで模範的な王様として高められました。明らかに不公平です。しかし、これがfavorというものです。ローマ9:14-16「それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、『わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ』と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」このところには、神の選びから来る善と愛が記されています。

 では、新約聖書に記されている特別な善と愛とはどのようなものなのでしょうか?ローマ4章にアブラハムとダビデのことが引用されています。ローマ4:1-8それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。」アブラハムとダビデは聖書を見ますと、二人は不完全であり罪も犯しました。でも、どうでしょう?アブラハムは、神を信じて、義と認められました。ダビデは行いではなく、信仰によって、罪赦され、義と認められました。このように何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。言い換えると、イエス・キリストを信じることによって義と認められるということです。そのことによって、神さまが私たちの父になり、私たちは神のこどもになります。当然、この世の人たちとは違う、特別な善と愛を受けることができるようになります。

 ローマ8:28「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」とあります。だれにでも、すべてのことが益になるわけではありません。この世においては、失敗は失敗、損失は損失、喪失は喪失で終わってしまいます。もちろん、例外もありますが、そんなに多くはありません。私たちは新聞やテレビのニュースから、不条理が満ちていることをいやというほど知らされます。人々が悲惨な事故や災いになすすべなく、飲みこまれています。善人が悪人に滅ぼされ、「本当に神はいるのだろうか?」と疑いたくなります。でも、これが世の常というものです。でも、私たちにはもう1つ別のライフ・ラインがあります。私たちはこの世で生きていながら、この世で生きていません。パウロは「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18)と言いました。どういうことかと言うと、私たちは神の国の国民であり、父なる神さまの特別な善と愛を受けている存在です。だから、神さまがすべてのことを働かせて益としてくださるのです。世の人にとってはマイナスであっても、神さまが全能の御手をのばして、プラスにしてくださるのです。それは誰にでも起こる訳ではありません。神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためです。私たちはキリストにあって、神の愛と愛顧favorをいただいている存在です。それは地上に住んでいるときから、天に帰るまで永遠に続くのです。