2019.3.10「神の主権 ヨハネ黙示録20:11-15」

 主権ということばは日常あまり使わないと思います。主権はもともとフランス語から来たもので、「至上、最高、他より上位の」という意味なようです。たとえば、国民主権というと、主権は国民にあるという民主主義の考えです。でも、神の国の場合は、主権は神さまにあります。イスラエルでは、神さまは「主(ヤーウェ)」と呼ばれ、神が治める国でした。しかし、人々が他の国のように王様を求めてから堕落しました。キリスト教会においては単純ではありませんが、父なる神とキリストが王です。しかし、このことは本来、全世界、全宇宙にあてはまることなのです。

1.神のさばき

 神の主権の一面は、神のさばきに関係があります。そのことが記されているのは、創世記2章です。創世記2:16、17「神である主は人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。』」と書いてあります。エデンの園の中央にはいのちの木と善悪の知識の木が植わっていました。善悪の知識の木は、神の主権を象徴していました。その意味は、善悪は神さまがお決めになるということです。でも、サタンに誘惑されて、アダムとエバはその木から実を取って食べました。食べたということは、神の主権を犯すということであり、自分たちが善悪を判断するということです。これは神さまに対する反逆であります。しかし、神さまはなぜ、そのような木を生えさせておいたのか疑問であります。「その木がなければ、堕落することもなかったのに?」と悔しくなります。でも、園の中央にあった二本の木は、アダムとエバに教えていたのです。命の源は神さまにあること、そして主権は神さまにあることを示していたのです。「なぜ、いのちの木から食べないで、善悪の知識の木から食べたのだろう?」と理解に苦しみます。とにかく、人類が善悪の知識の木から食べて以来、神から独立して生きるようになりました。その一番の証拠は、善悪の基準を神さまに求めないで、自分たち人間が勝手に決めるようになりました。国家間においてもそうですが、個人の生活においてもそうであります。私たちは自分勝手に人を善とし、自分勝手に人を罪に定めて生活しています。「それは良い」とか、「それは悪い」とか判断して生きています。

 神さまにはどうして主権があるのかということを少し考えてみたいと思います。旧約聖書で「神(エロヒーム)」は天地万物の創造者です。そこには、「究極的なもの、絶対的なもの」という意味があります。しかし、日本語で「カミ」には、そのような考えはありません。日本人の神々は、すべて人間的・相対的な存在です。だから、神の主権とか尊厳という考えがなかなか生まれません。もう一つ、旧約聖書では神さまが「主(ヤーウェ)」と呼ばれています。モーセは神さまに、「イスラエルの民が『あなたの名は何ですか』と聞かれたら、何と答えたら良いでしょうか?」と尋ねました。すると、神さまは「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト3:14)とお答えになられました。「わたしはある」というこのことばから、「主」という呼び名が生まれました。主という意味は、だれからも存在させられない、「自存性」という意味があります。また、主は「契約の神」という意味もあります。イスラエル、そしてユダヤ人は「主(ヤーウェ)」という名前を呼ぶのを恐れ、代わりにアドナイと呼びました。アドナイは「所有権」を表しており、主人とか所有者という意味です。これらのことから考えますと、神さまを「主」とは簡単に呼ぶことはできません。この世の多くの人たちは「神さま」と呼ぶかもしれませんが、「主」とは呼ばないでしょう。なぜなら、主の中には「所有者」とか「主人」という意味がこめられているからです。旧約聖書から、2つだけ神さまの名前の意味を紹介しました。まとめると、「神」には「究極的なお方」「絶対者」という意味があります。また「主」は契約の神「所有者」「主人」という意味があります。

 そのお方が、イスラエルの民と契約を交わしたとき、十戒を中心とする律法を与えられました。私は、十戒を中心とする律法こそが神さまが、イスラエルだけではなく、人類に示した善悪の基準ではないかと思います。もちろん、異邦人に全部あてはまらないものもあります。そこには、キリスト論を通して解釈適用することが必要です。でも、十戒を中心とする律法こそが善悪の基準であると思います。人類が罪を犯す前のエデンの園では、これらの律法は不要でした。でも、人類が神から離れ、自分たちで善悪を決めるようになりました。そうすると、人類は歯止めがきかず、罪に陥り、滅びてしまうでしょう。主である神さまは、そうならないように、判断基準として、イスラエルに十戒を中心とする律法を与えられたのだと信じます。私たちは善悪を判断するとき、自分たちが勝手に決めるのではなく、「聖書は何と言っているだろう?」と聞く必要があるということです。人間が作った法律や倫理道徳は時代によって変わります。しかし、イエス様はこのように言われました。マタイ5:18「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。」神のことば、律法をどう解釈するのか、そう簡単ではありません。でも、十戒はとても明快であり、やってはならないことの柱になっています。そのため、人間が作った法律の柱は十戒から来ていると言っても過言ではありません。でも、人間は知識の木から取って食べたために、とてもこざかしくて、なんとか法の網を潜り抜けようとしています。そればかりか、究極的な善悪の基準、さばきの権威が神さまにあるということを認めたがりません。

 非常に大風呂敷を広げてしまって、どう着地すべきなのか分からなくなりました。もし、私たちが神の主権を認め、「究極的には神さまがさばかれる」と考えるならどうなるでしょうか?私はクリスチャンになる前、「どうしてこの世にはたくさんの悪がはびこっているのだろう?そして、裏でさんざん悪いことをしているのにどうしてさばかれないのだろう?」と義憤をいだいたことがあります。アメリカのヒーローものは、みな悪事をさばいています。スーパーマン、スパイダーマン、バットマンたちはみな正義の見方です。日本のアニメではゴレンジャーとか、ウルトラマンがいます。時代ものでは、「必殺仕置き人」「暴れん坊将軍」「大岡越前」「遠山の金さん」がいます。しかし、現実は、ちゃんとしたさばきが行われていないように思います。ほんの1部だけが、テレビのニュースに取り上げられているように思います。みなさんも、「この世の不正や悪なんとかならないのか?」といらだっておられるのではないでしょうか?大丈夫です。神さまがさばきます。この世で無理であったなら、やがて神さまが終わりの日にさばいてくださいます。ヨハネ黙示録20:12「また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。」ですから、世界中に起っている不平等や悪に必要以上に思い悩むことはないということです。神さまがいずれさばいてくださるからです。

 問題は私たちです。新約聖書の私たちはキリストを信じたゆえに、全ての罪が赦され、さばかれることはありません。その根拠となるみことばを二つだけ上げたいと思います。ヨハネ5:15「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」エペソ1:7 この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。キリストが私たちの罪を負ってくださったゆえに、キリストが代わりにさばかれました。父なる神はこのキリストを信じる者の罪を赦し、義と認めてくだいます。ですから、やがて神さまのみ前に立つ時が来ても、すべてのさばきが免除されるのです。もし、絶対者なる神が「キリストのゆえに、あなたの罪を赦す」と宣言してくだるのです。そうすれば、悪魔からも、自分の良心も、人からも、だれからも咎められることはありません。これは、社会的な罪に対する償いを言っているのではありません。地上で犯した社会的な罪は償われる必要があります。でも、それらを含めてすべての罪が神の前で明らかにされる時が来ます。すべての人はそこで犯した自分の罪に対して申し開きをしなければなりません。でも、キリストを信じる者はさばかれることはありません。なんというすばらしい神の主権ではないでしょうか。

パウロが私たちこのように命じています。Ⅰコリント4:5「ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。」アダムとエバの堕落以来、人間は神さまぬきで善悪を決めるようになりました。言い換えると、それは自らがさばき主なる神になるということです。私たちは究極的に罪を裁くお方は、神さまであることを認め、神さまに審判をゆだねる必要があります。ですから、私たちは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。このように神さま主権の一面である、神のさばきに服して生きるとき、まことの平安がやってきます。私たちはキリストにあってさばかれることはありません。しかし、神さまの主権を認め、正しい意味で、神さまをおそれて生きる必要があります。そうすれば、安全で平和で暮らすことができます。

2.神の選び

神の主権のもう一面は、神の選びに関係があります。このことが記されているのは、ローマ9章から11章です。このところにはイスラエルの選びと回復について書かれています。そして、このところには神さまはある者を選び、ある者を捨てると書いてあります。ジョン・カルヴァンは「神の予定」をとても強調した宗教改革者です。カルヴァンは「神の救いにあずかる者と滅びに至る者が予め決められている」という二重予定説を唱えました。これに対して、オランダのアルミニウスは、人間の意志を強調しました。キリスト教会は、左は二重予定説から、右は人間の意志という幅の中で、自分たちの立場を保持しています。私は二重予定説は信じませんが、神さまの選びは確かにあると思います。なぜなら、そのことが聖書に書かれているからです。それを示す箇所をお読みいたします。ローマ9:10-16このことだけでなく、私たちの父イサクひとりによってみごもったリベカのこともあります。その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、行いにはよらず、召してくださる方によるようにと、「兄は弟に仕える」と彼女に告げられたのです。「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と書いてあるとおりです。それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。」創世記を読むと分かりますが、神さまは兄のエサウではなく、弟のヤコブを選びました。なんと、母リベカのお腹の中にいるときに、ヤコブが選ばれていたのです。ヘブルの記者はエサウにもその責任があったことを示唆しています。ヘブル12:16「また、不品行の者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」

 もう一箇所、「神の選び」を言うときに引用される有名なみことがあります。ヨハネ15:16 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」このことばは、イエスさまが弟子たちにむけておっしゃったことばです。でも、私たちは弟子たちに語られたことばは、イコール私たちにも語られているのだと解釈して読んでいます。そうでないと、聖書は昔の書物になってしまうからです。ただし、イエス様のことばが私たちのことばになるためには、聖霊が私たちに働くことと、それを信仰によって受け止めるという2つのことが必要になります。私はイエス様があなたを、私を選んでくださったと信じます。もし、「私がキリストを救い主、そして神さまとして選んだ」とするならどのような信仰になるでしょう?これはさきほど引用したオランダのアルミニウスの説です。彼は人間の意志を強調しました。もちろん、私たちはイエス様を信じるときに自分の意思を用いて決断しました。そのことは間違いありません。私も信仰を持ちたての頃は、「私がイエス・キリストを信じた」と思っていました。しかし、信仰の先輩たちがヨハネ15章のみことばを引用して、「選んだのは私ではなくキリストです」と証をしていました。はじめ、彼らのことばを「嘘っぽい。俺たちはロボットじゃないぞ!」と思いました。でも、信仰生活を送って行くうちに、「ああ、本当だなー」とだんだん思えるようになり、最後はヨハネ15章のとおりだというところに落ち着きました。なぜでしょう?もし、「自分がキリストを選んで、自分が信じた」と考えるならどうでしょう?ある時、「いや、そうでなかった。私が間違っていた」となって信仰を捨てるかもしれません。なぜなら、自分が決めたからです。でも、「キリストが私を選んでくださったのだ」というのであれば、私の信仰がおかしくなっても大丈夫です。向こうが私を信じて、選んでくださったのですから安心です。

 このことを支えるみことばがあります。Ⅱテモテ2:13「私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」英語の聖書では、If we are faithless, He remains faithful; He cannot deny Himself.となっています。「真実である」はfaithfulですから、信仰に満ちているというニュアンスがあります。イエス様はfaithfulです。私たちは自分の意思で自分の信仰で、イエス様を信じます。アーメンすばらしいことです。一方、イエス様はそういう私たちを受け止めてくださいます。私たちの信仰は65%くらいかもしれません。でも、イエス様が私たちの信仰を100%として受け止めてくれたらありがたいですね。それだけではなく、これはイエス様の真実が一度信じた私たちを離さないと言う意味でもあります。ある時、ペテロがガリラヤ湖を上を歩きました。ペテロは勇敢にもイエス様からおことばをいただいて、水の上を歩いたのです。でも、途中、風を見てこわくなり沈みかけました。ペテロが「主よ。助けてください」と叫びました。すかさずイエス様が手を伸ばして、彼をつかんで引き上げてくださいました。このことを書いた絵を見たことがあります。イエス様がペテロの手首をつかんでいます。ペテロもイエス様の手首をつかんでいます。これはどういう意味でしょう?手の平だったらツルっとすべります。手首だったら大丈夫です。また、このような状態ですと、ペテロがうっかり手を放しても大丈夫です。なぜなら、イエス様がペテロの手首をつかんでおられるからです。この状態こそが、私たちの信仰を表しているのではないかと思います。私たちはイエス様を信じました。そして救われました。それだけではありません。イエス様の真実、イエス様の信仰が私たちを救っているのです。だから、私たちの信仰が左前になっても、大丈夫です。もし、私たちの救いが私たちの信仰次第であるというなら、あぶなっかしいです。イエス様の真実、イエス様の信仰が私たちを絶えず支えておられるなら安心です。これがキリストの選びです。

 パウロはもっとすごいことを言っています。エペソ1:4-6「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。」アーメン。旧約聖書にはエレミヤの召命の記事があります。エレミヤ1:5「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」なんとすごいことでしょう。お腹に宿る前から、エレミヤは預言者として召されていたということです。私たちはもっとすごく、世界の基の置かれる前から、つまり、天地が造られる前から選ばれていたということです。こうなると頭がおかしくなります。「こんなちっぽけな私をそのように選んでくださっていたとは!」おどろくばかりの恵みなりきです。でも、自動的に私たちが選ばれていたということではありません。このところには、「私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました」と書いてあることがミソです。キリストがすべての接点であります。キリストと出会って、キリストを信じたからこそ、神の選びが発動してくださったと考えるべきです。でも、私たちがキリストと出会い、キリストを信じることも神さまが導いてくださったということも事実です。やっぱり、このことを考えると頭がおかしくなります。ただ、いえることは「有り難いなー」ということです。私は25歳でイエスさまを信じました。しかし、彼女と親友は信じないで去って行きました。私はキリスト教にかぶれて頭がおかしくなったと思われたのです。『いつくしみ深き』を歌う時、「わが友は笑い、迫害すれど」でいつも思い出してはぐっときます。本当に不思議です。人々がキリストの福音を聞いても、一方は「これはすばらしい」と信じ、「こんなのおかしい」と信じない人が出てきます。

『那須のぞみキリスト教会』のブログにこのような記事がありました。あるテレビ番組にミス・ユニバースに選ばれた女性とその家族が出ました。そのとき司会者がその女性にこう質問しました。「あなたがこんなに美しいのはお父さんに似たからでしょうか?」するとカメラがこの女性の脇に座っていた父親をアップでとらえたのです。しかし、横にいたお父さんはロバのような顔で、どう見ても父親に似たとは思えません。そこでさらにこう質問しました。「それではお母さんに似たのでしょうか?」するとカメラが、今度はお母さんの顔を映しましたが、お母さんの顔もイマイチぱっとしません。一体なぜこの女性がこんなにも美しいのかわからない司会者こう言いました。「たぶん、親戚に美しい方がおられるのでしょう」。これはどういうことでしょうか。これは、原因が見いだせないなら、とりあえず何か適当な理由でもくっつけておこうという態度です。これは私たちが救われた理由を扱うときにも現れます。私たちが救われたのはどうしてか?それは私がしっかりしていたからだとか、一生懸命に生きていたからだ。あるいは、私はもともと出来が良いから救われたんだ。さらには、我が家はなかなかの家系だからだ…というふうにです。しかし、聖書はそれが間違いだと言います。聖書は私たちが救われたのは私たちの内側に何か救われるための根拠があったからではなく、一方的な神様の選びによるというのです。アーメン。まさしくそのとおりだと思います。私たちは、キリストさまによる、神の選びを信じます。神さまは、「こんな者を選んでくださった」いや、「あなたは高価で尊い」と選んでくださいました。