2019.3.24「~ハバククの預言~」

◆聖書箇所: ハバクク書2章1-4節

2:1

私は、見張り所に立ち、とりでにしかと立って見張り、主が私に何を語り、私の訴えに何と答えるかを見よう。

2:2

主は私に答えて言われた。幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。

2:3

この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。

もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。

2:4

見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。

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週報に記載されている通り、3/19(火)に鈴木先生が左頭部硬膜下血腫の緊急手術をなさったので、先週は驚きと心配の数日間を過ごしました。しかしみなさんのお祈りが聞かれ、昨日無事退院というマッハな回復が与えられました!ハレルヤ!

木曜日にお見舞いに伺った時は、ICUから出たばかりでしたが、もうすでにすごく元気でした。

ドクターから、「ベット上で安静にして、お手洗いも付き添いをつけてください。」と言われたそうですが、先生はウロウロ歩き回って談話室でテレビを観ていたそうです。

看護師さんに見つかって叱られたそうですが、実に先生らしいエピソードですね(笑)。

来週は元気にこの講壇からメッセージを語ってくださると思います。主に感謝します。

そういうわけで、本日は私が礼拝メッセージを担当させていただきます。

さて、昨年から12の小預言書を順番にメッセージさせていただいています。

「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」「オバデヤ書」「ヨナ書」「ミカ書」「ナホム書」と続きました。今日は8番目の預言書、「ハバクク書」の一書説教です。

ハバククという預言者は、前回のナホムよりも後の時代の預言者で、ちょうど、預言者エレミヤと同じ時代に活動した人です。エレミヤと言えば、ヨシア王(B.C.640年-609年)の時代に神様から召し出され、南ユダ王国がバビロンに捕囚されて滅びるまで、ひたすら南ユダの民たちに神の言葉を伝え、悔い改めを説いた預言者です。

ハバククはそのエレミヤの預言者活動の地盤がある中で、預言活動をした人です。

ハバククは3章から成り立っています。

1章~2章前半は、ハバククが神への問いかけをして、神がそれに応えているという様子が記されています。

2章後半は、悪者に対するさばきの宣告がされ、3章は「ハバククの祈り」と呼ばれる詩篇となります。

ハバククは、詩が優れているので、もしかしたら神殿に仕える聖歌隊に関係する人だったかもしれません。

ハバクク書には、有名な聖句やパウロが引用している箇所もありますので、順番に見て行きましょう。

 

◆ハバクク書から救いと希望をいただきましょう。

①神は敢えてどん底を見させる御方。(1章5節)

 

ハバククの時代は古代となります。敵となった近隣諸国(エジプト、アッシリア、バビロニア、ペルシャなど)の古代の歴史文献や遺跡にも、聖書の史実を裏付けるものが多く残っていますが、歴史研究家から見れば、私たちが読んでいる、この旧約聖書も貴重な歴史文献です。特にダビデ王の時代あたりからは、遺跡などもかなり見つかっています。

このように旧約聖書の一部は、歴史的裏付けがあると認められています。それは嬉しいことですが、私たちが聖書を読む時に気をつけなければならないのは、歴史文献ではなく、今も生きておられる神からの啓示の書、いのちあふれる御言葉として読むことです。そうすると、聖書の意味合いも重みも違ってきます。

さて、神は私たちにハバククを通して何を語られているのでしょうか。

預言者ナホムの時代は、北イスラエル王国は滅び、アッシリア王国が絶大な力を誇っていました。

その後、アッシリアの首都ニネべは、新バビロニア王国によって陥落し、アッシリアは滅ぼされました。

預言者ハバククの時代には、アッシリアに変わり、新バビロニア王国が南ユダ王国を脅かす国となりました。

ハバクク書を見ていくにあたり、年代とイスラエル周辺の敵国の情勢を考えると解りやすいので説明します。

<イスラエル統一王国 → イスラエル分裂王国(北イスラエル王国・南ユダ王国)>

      • 北イスラエル王国   VS  敵国:アッシリア帝国

B.C.722年敵国:アッシリア帝国に滅ぼされる。

  

【預言者ナホム・エレミヤ】の時代の周辺諸国の動き 

B.C.609年 ヨシア王、敵国:エジプト王国との戦いで戦死(メギドの戦い) 

敵国:エジプト王国とアッシリア帝国の連合軍・・・B.C.605年敵国:新バビロニア王国に滅ぼされる。

   (カルケミシュの戦い)

      • 南ユダ王国  VS  敵国:新バビロニア王国

B.C.586年敵国:新バビロニア王国に滅ぼされる。バビロン捕囚。エルサレム神殿破壊。

【預言者エレミヤ・ハバクク】の時代の周辺諸国の動き 

敵国:新バビロニア王国・・・B.C.539年敵国:ペルシア帝国に滅ぼされる。(オピスの戦い)

      • B.C.539年ペルシャのクロス王によって捕囚の民は解放され、エルサレム帰還が許される。

※捕囚期間70年とは、B.C.586年のエルサレム神殿破壊からではなく、B.C.609年にヨシア王が戦死した時からの期間を指します。(B.C.609年~B.C.539年の70年間)

 

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この捕囚期間70年を見ても解るように、ヨシア王はキーマンとも言えます。

ヨシア王は、南ユダ王国最後の良心とも言える王様で、主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれませんでした。

ヨシア王は主の目に悪を行なった先王のマナセ王やアモン王の影響で霊的に衰退しきった南ユダを立て直しました。律法の書(申命記だと考えられている)を発見し、宗教改革を行ない、偶像を取り払ったので、国も繁栄し、霊的にも回復を得ました。

しかし、ヨシア王がエジプトとの戦いで戦死したあとに立てられた4人の王は、いずれも「主の目に悪であることを行なった」王たちでした。ついに、4人目のゼデキヤ王の時代に、南ユダ王国は滅びてしまいました。

このようにヨシア王の戦死からすでに神の目から見ての捕囚は始まっていたのです。

預言者ハバククは、預言者エレミヤがヨシア王の時代から続けてきた預言者活動の地盤がある中で、活動を行いました。ヨシア王が戦死して、律法は力を失い、偶像崇拝が再び始まり、霊的にも国としても衰退していく南ユダのあり様を見て、ハバククは神に問いかけをします。

<ハバクク1:1-4>

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1:1

預言者ハバククが預言した宣告。

1:2

主よ。私が助けを求めて叫んでいますのに、あなたはいつまで、聞いてくださらないのですか。私が「暴虐」とあなたに叫んでいますのに、あなたは救ってくださらないのですか。

1:3

なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。暴行と暴虐は私の前にあり、闘争があり、争いが起こっています。

1:4

それゆえ、律法は眠り、さばきはいつまでも行われません。悪者が正しい人を取り囲み、さばきが曲げて行われています。

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「あなたはいつまで聞いてくださらないのですか」「なぜ、あなたは私に、わざわいを見させ、労苦をながめておられるのですか。」というハバククの切実な問いかけに対して神はこのように応えられました。

<ハバクク1:5-6>

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1:5

異邦の民を見、目を留めよ。驚き、驚け。わたしは一つの事をあなたがたの時代にする。それが告げられても、あなたがたは信じまい。

1:6

見よ。わたしはカルデヤ人を起こす。強暴で激しい国民だ。これは、自分のものでない住まいを占領しようと、地を広く行き巡る。

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この1章5節は、パウロが使徒の働き13章40-41節でアンテオケのユダヤ人会堂で語った時に引用しました。

そして、1章6節ですが、この「カルデヤ人」というのは、新バビロニア王国のことです。新バビロニア王国は、カルデヤ王国とも呼ばれています。

神は狂暴で激しいカルデヤ人にイスラエルの民たちを支配されるようにすると言われました。

先ほども説明しましたが、カルデヤ(バビロニア王国)は、エジプトとアッシリアの連合軍を「カルケミシュの戦い」で滅ぼし、絶大な力を誇っていました。

バビロニア王国の王、ネブカデネザル王は、ダニエル書にも出てきますし、黙示録では「大バビロン」という言葉も出てきて、良い意味では使われていません。

南ユダの民たちにとっては、エルサレム神殿が破壊され、バビロンに捕囚されるということは、まさにどん底を見せられる屈辱です。しかしそれはイスラエルの民を矯正し、神に立ち帰らせるという神の目的の故でした。

民たちは70年後にエルサレムに帰還することができました。「それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(エレミヤ29:11)

<エレミヤ29:10-14>

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29:10

まことに、主はこう仰せられる。「バビロンに七十年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。

29:11

わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。──主の御告げ──それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。

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賛美伝道者のメグ&ピアノコウジさんの曲に、このエレミヤの御言葉から作られた、「あなたの祝福」という賛美があります。

「主はひとりひとりに計画をもっている♪わざわいではなく~♪平安を与えてくれる恵みの約束~♪」

・・・っと、元気よく歌うんですが・・・

でも、本当に、とてつもないどん底にいる時に、このエレミヤの御言葉を思い出せるでしょうか。

70年は、かなり長い苦難です。捕囚の地で生まれ、エルサレムに帰れないままそこで死んだ人たちもたくさんいたことでしょう。

ペルシャのクロス王からエルサレム帰還を許されたときは、捕囚の地での生活に慣れてしまって、帰還しなかった人も多くいたようです。

しかし、気の遠くなるような長い長い苦難の後に、神は必ず希望を与えてくださいます。

このU字型とも言える型は、神が見せてくださる希望の型です。それを信じるのです。

聖書には、このU字型の希望がたくさん描かれています。ヤコブやヨセフの人生も、ヨブの人生もU字型です。究極には、イエス様の十字架の苦難と復活の勝利もU字型です。

これは私たちの人生にも当てはまります。

たとえ私たちの人生がどん底に落ちたとしても、逆転勝利を信じるならば、けっしてどん底で終わることはありません。なぜなら聖書にそう記されているからです。

 

◆ハバクク書から救いと希望をいただきましょう。

②正しい人はその信仰によって生きる。(2章4節)

 

ハバククは、神が語られたカルデヤ人からの捕囚については納得しましたが、さらなる疑問を抱きました。

イスラエルの民を矯正し、神に立ち帰らせるという神の目的のためとはいえ、あの狂暴な偶像礼拝者カルデヤ人を侵入させ、繁栄を許すとは、神のきよさと矛盾するのではないかということです。

そこで、神にふたつめの問いかけをしました。

1章12節-2章1節がハバククの問いかけですが、1章13節をみてみましょう。

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1:13

あなたの目はあまりきよくて、悪を見ず、労苦に目を留めることができないのでしょう。

なぜ、裏切り者をながめておられるのですか。悪者が自分より正しい者をのみこむとき、なぜ黙っておられるのですか。

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神の応えはこうでした。本日の聖書箇所です。

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2:2

主は私に答えて言われた。幻を板の上に書いて確認せよ。これを読む者が急使として走るために。

2:3

この幻は、定めの時について証言しており、終わりについて告げ、まやかしを言ってはいない。

もしおそくなっても、それを待て。それは必ず来る。遅れることはない。

2:4

見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。

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2章4節は、パウロが、ローマ書1章17節、ガラテヤ書3章11節、ヘブル書10章38節で引用しています。

いずれも、信仰によって義と認められるということを語る時に引用しています。

ただハバクク書では、信仰義認の意味合いよりも、2章3節の「定めの時」や「終わりの日」、つまり、イエス様の再臨の時について語っているのではないか思われます。

2章4節の「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない。」の「心」はヘブライ語でנֶפֶשׁ(ネフェシュ)と言います。この言葉は旧約聖書中に多く出てきますが、人間の欲望などを表しています。

同じネフェシュは、2章5 節にも、「のど」と訳されて使われています。

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2:5

実にぶどう酒は欺くものだ。高ぶる者は定まりがない。彼はよみのようにのどを広げ、死のように、足ることを知らない。彼はすべての国々を自分のもとに集め、すべての国々の民を自分のもとにかき集める。

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カルデヤ人は高ぶり、よみのように「のど」を広げと書かれているように、主は2章の後半では、カルデヤ人の繁栄は長くは続かせず、さばきに遭って滅びの道を歩むことを語られています。

実際バビロニア王国は、B.C.539年にオピスの戦いでペルシャ帝国に滅ぼされました。

ここで大切なのは、その人間の欲望、ネフェシュからどうやって解放されるかです。

人の心は欲望で満ちているので、そういった意味では正しい人などひとりもいないと言っても過言ではないでしょう。それでもイエス様の再臨を信じて待ち望む者、神の王国の到来に希望をもつ者は、主の救いと恵みと回復の中で生きることができるのです。「正しい人はその信仰によって生きる」という御言葉の通りです。

ハバククは、このように、主の壮大なご計画と、将来の希望について理解し、納得しました。

それゆえ、3章では、主を高らかに賛美しています。

 

◆ハバクク書から救いと希望をいただきましょう。

③俯瞰(ふかん)的に見ると見えてくる景色。(3章17-19節)

3章は「ハバククの詩篇」です。前半は嘆き、後半は神を讃え、感謝の賛美になっています。

3章の前半は、神がご自分の民を救うために出て来られる様子が歌われています。

「この年のうちに来てください。」とハバククは言います。神は反逆する諸国を踏みつけます。

その際に反逆者たちは、神の民たちをほしいままにし、絶滅させようと荒れ狂います。

<ハバクク3:17>

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3:17

そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。

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17節は、イスラエルの民が、とんでもない苦難に遭うことを表しています。

「無花果」・・・ムカカ・・・これで「いちじく」と読ませるのは無理があるといつも思います。

「花の無い果実」と書くように、一見いちじくには花がないように見えますが、花は実の中にあるそうです。

ハバククが「花が咲かない」と歌ったのは、実がならないという意味です。

ぶどうの木も実をみのらせず、イスラエルの象徴であるオリーブの木にも実りがない。作物は実らず、動物もいなくなる。という未曾有の恐ろしい事態がやってきます。ハバククは耐え忍びます。

そこで、ハバククの信仰が顕わにされます。18,19節は、ハバククの信仰告白です。

<ハバクク3:18-19>

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3:18

しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。

3:19

私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。

指揮者のために。弦楽器に合わせて。

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ハバククは18節で、「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。」と歌っています。

こんな状況でも喜ぼうと歌っています。それはハバククが主にあって勝利を得ることを信じているからです。

U字型の希望は、奇蹟です。奇蹟は奇蹟が起こると信じる人にしか起こりません。

そして注目していただきたいのは、ハバククの視点が、目の前の未曾有の困難にあるのではなく、俯瞰(ふかん)的であるということです。俯瞰(ふかん)的・・・とは、難しい表現かもしれませんが、物事を高い所から見下ろす、あるいは広い視野で物事を見ることを指します。

私たちは人生の歩みの中で、目の前の課題をクリアする事ばかりに囚われ、大切なことを見落としてしまうことがあります。ハバクク書の最後に書かれている、「私に高い所を歩ませる。」(3:19)とは、私たちが主に信頼し、主にあって喜び歩む時に、まるで展望台から見る景色のように人生全体を見渡すことができるということです。そこで新たな気づきが与えられます。

私たちが日常生活の中で、知らず知らず植え付けられているマインドをリセットしましょう。

他人から見て、私は何者だと思われて見られているのだろうかと気を揉むのではなく、神様が造ってくださった私とは、いったい何者なのか・・・私は何をすべきなのか・・・ということを考えましょう。

また、ハバククのように、困難を喜びに変える信仰は、私たちの日常に起こる様々な大変な出来事の受け止め方を変えてくれます。何かうまくいかない問題が起こってしまった時、マイナスに考えてしまうのではなく、この問題を通して私は造り変えられ、成長するんだという恵みに変えることができます。

私たちが自らの人生を俯瞰(ふかん)的に見ることにより、神が用意してくださった素晴らしい御計画がいっそう鮮明に見えて来るのです。逆に言えば、俯瞰(ふかん)的に見ることができなければ、神の素晴らしい御計画を見落としてしまうことになります。・・・それはもったいないです・・・

困難を喜びに変えられるように、神の素晴らしい御計画を知ることが出来るように、祈り求めましょう。

「私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。」

主が与えてくださる恵みと癒しと回復を信じて、ハバククのように主から力を得て、雌鹿のように飛び跳ね、主を高らかに賛美し、喜んで神がご計画された道を歩んでいきましょう。