2019.4.14「キリストが負ったもの イザヤ53:1-6」

今週は受難週で、来週の日曜日はイースター(復活祭)です。復活の前には十字架を語る必要があります。というわけで、きょうは旧約聖書のイザヤ書から、キリストが十字架で私たちのために負ってくださったものをいくつか学びたいと思います。つまり、キリストは2000年前に、これらのものを負ってくださったので、私たちはもう負う必要はないということです。ということは、私たちは信仰によって、解決されたものを受け取れば良いのです。

1.

 イザヤ53:4「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。」何かの間違いではないでしょうか?イザヤはやがて来られるメシヤは、「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」と預言しています。ということは、イエス・キリストは十字架で私たちの病を負ってくださったということです。すべてのキリスト教会は、「キリストは私たちの罪を負ってくださった。だから、信じれば罪が赦される。罪の問題は解決済みである」と言います。この事実は福音の中心であります。しかし、キリストが「私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」とは、あまり聞くことがありません。「聖書は神の霊感によって書かれた誤りのない神のことばである」と信じている教会が、あるところは信じて、あるところはomit除外するとは何事でしょう?それは、すでに他の考え方があり、そのゆがんだ考え方によって聖書を読んでいるからです。聖書にそう書いてあるのに、「そんなことはない」と無意識に飛ばして読んでいるのです。「病のことは別問題だ」とthroughしているのです。では、なぜこんな間違いを犯してしまったのでしょう? 20世紀前後に聖書の霊感を信じる保守的な学者たちから、cessationism「休止説」が出てきました。彼らは「使徒たちが天国に帰って、新約聖書が完成した後は、目を見張る奇跡や聖霊の賜物は不要になった」と主張しました。おそらく、Ⅰコリント13:8「預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。」のみことばを根拠にしたのでしょう。しかし、そのみことばは、イエス様が再臨なされる終末時であって、今の時代ではありません。キリスト教会の歴史をたどっても、使徒後教父たち、中世の教会、宗教改革者たち、18,19世紀にイギリスとアメリカに起った大覚醒運動、20世紀以降はインドネシヤ、南米、中国、アフリカにしるしと奇跡の伴うリバイバルが起きました。イエス様や弟子たちがなされた病の癒し、悪霊の追い出し、死人のよみがえりがどんどん起こっています。まさしく、ヘブル13:8「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」アーメン。

 では、なぜ、イザヤ53:4「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」を信じることが大事なのでしょうか?第一は、イエス様ご自身がこの地上でイザヤの預言を成就されたからです。マタイ8:16,17「夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみないやされた。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」福音書を読むと分かりますが、イエス様のミニストリーの三分の一が病の癒しと悪霊の追い出しです。他の2つは教えと福音宣教です。イエス様は福音宣教だけをしたのではありません。御国がこのところに来ていることを証明するために、病の癒しと悪霊の追い出しをなされたのです。人々は目に見えない御国を癒しによって体験したので福音を信じるのが容易になったのです。第二は使徒ペテロもそのことを教えています。Ⅰペテロ2:24「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」ペテロはイザヤ書53章を引用して、キリストが私たちの罪を負われたので、私たちが義のために生きることができることを述べています。それだけではありません、「キリストの打ち傷のゆえにあなたがたは癒されたのです」と完了形で述べています。ペテロは罪の問題も、病の問題も十字架で解決済みであるとはっきり述べています。それなのに、「罪の赦しは受けますが、病の問題は自分で解決します」と言うのでしょうか?それは傲慢であるとしか思えません。

 私は聖霊の賜物による癒しを信じており、しばしば癒しの祈りをさせていただきます。これまでは、私の信仰によって癒すのであって、その人の信仰についてはあまり強調しませんでした。なぜなら、「癒されないのは私の信仰が足りないからでしょうね」と懸念する人たちがいるからです。だから、「こちらの信仰によって癒しますから、あなたは、ただ受け取れば良いのですよ」とミニストリーをしてきました。ところが、福音書を見ると、イエス様がしばしば「あなたの信仰があなたを癒したのです」と言われたのを発見することができます。そして、生まれ故郷のナザレでは大きな奇跡を行なうことができませんでした。原因は、彼らの不信仰でした。ということは、癒しを受ける方にも信仰がいるということです。それは、「癒しを受け取ります」という以上の信仰です。「キリストは2000年前、私の病を十字架で負ってくださった。病の問題はすでに解決済みである。私は病気でいる必要はない」ということを認めるということです。クリスチャンが「私の罪はキリストの十字架で支払われている」と信じるのと同じです。つまり、「キリストは既に十字架で私の病を負って下さっている。アーメン」と信じるなら、神の癒しがぐっと臨むということです。これは、癒し手が自分の聖霊の賜物で癒すということではありません。主の臨在がそこに現れて、主ご自身がその人の病を癒してくださるということです。なぜなら、イエス様は「その人自身の信仰によって癒された」とおっしゃっており、ご自分の癒しの力ではないような言い方をしているからです。つまり、このイザヤ53章の「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった」という聖書のみことばの上に信仰を置くならば、もっと癒しのわざが起るということです。どうぞ、この受難週に改めて、イエス様が私の病と弱さを十字架で負ってくださったことを感謝しましょう。そして、解決済みの事実を信じることによって、大胆に主の御名による癒しを求めましょう。

2.

 イザヤ53:5,6「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」私たちは新約聖書から「罪」と言いますが、旧約聖書にはもっとたくさんの罪があることが分かります。イザヤ書53章を見ると、代表的な罪が3つ記されています。第一は「そむきの罪」です。ヘブライ語ではペシャと言い、意図的に犯す罪です。英語ではtransgression「制限無視」「違反」です。イスラエルの人たちは、まことの神を知りながら、偶像の神に走りました。パリサイ人たちは、自分たちの言い伝えのために、神の戒めを破りました。知らないで犯す罪よりも、知っていて犯す罪の方がよい重いのは当然です。第二は「咎」です。ヘブライ語ではアーオーンと言い、「曲げる、何かをゆがめる」という罪です。英語ではiniquityであり、「不正」「不法」です。カインは弟アベルを殺しました。そのため地は呪われ、土地を耕してもその力を生じなくなりました。創世記4:13「カインは主に申し上げた。『私の咎は、大きすぎて、担いきれません。』」。カインが犯した罪によって、土地の性質がゆがめられてしまったのです。私たちも先祖が犯した咎によって、報いを受けている場合が多々あります。偶像礼拝の罪がその1つです。出エジプト20:5「わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし…」と書かれています。第三は「罪」です。このみことばは、イザヤ53:12「彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」にあります。ヘブライ語ではハタートと言い、「本来の目的からはずれること」「目的に達しないこと」。英語ではsin「道徳・宗教上の罪」を意味します。ローマ3:23「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…」とあります。これは、神さまと交わることのできる状態から落ちているという意味です。これら3つの罪は、この世でよく言われる「犯罪」「罪悪」とは随分と違うなーと思います。聖書はもっと根源的な罪を扱っているのでしょう。

 これらのことを考慮して、イエス様が2000年前に私たちの罪を負ってくださったということを深く考えるべきです。私は洗礼を受けてクリスチャンになってから、「キリストの十字架が私の罪のためだった」ということを悟ったのは半年かかりました。キリストによって完成された救いを、ただ受け取れば良いという信仰でした。キャンパス・クルセードの「四つの法則」というのがありました。4つとは、神、罪、キリスト、信仰の4つです。罪はイエス様が十字架で負ってくださった。罪の代価はすでに支払われている。救いの手立ては出来上がっている。そういう教えでした。だから、信じたときは涙も出ませんでした。もちろん、悔恨の涙は聖書的ではありません。でも、なんだか「ところてん式の福音」みたいな感じがします。四角い透明なものを、箱に入れて、棒を押し込むと、ところてんができあがります。救いを「四つ法則」と片付けるのは、安直しすぎるような気がします。救いは確かに恵みですが、私たちの罪が赦されるために、イエス様が十字架で死なれたということが分かるのは時間がかかると思います。そして、「私のあの罪、この罪、いろんな罪のためだったんだ」と分かって来ると、救いの有り難さが分かってきます。私が小学生の頃、中学生二人と3人で「めんこ」を遊びました。私はズルして片方の中学生のめんこを隠しました。もう一人の中学生は、「お前が隠したんだろう」と言いました。「いや、俺じゃない」と彼が答えました。それが1時間くらい続き、すっかり暗くなりました。一人の中学生は「白状しろ!」ともう一人の友人の首を絞めていました。私の兄が「お前ら、何をやっているんだ」と家から出てきました。訳も聞かずに、二人の中学生を殴りつけ、解散させました。後味の悪いのは私です。二人の友情を壊してしまったからです。彼らは私がめんこを隠すはずがないと思っていたのでしょう。もう、何十年も昔のことでしたが、心の中にしこりとして残っていました。イエス様にお詫びしました。でも、二人に会ってお詫びもできません。そのとき、罪というのは、簡単に赦されるものではないのだと思いました。咎という問題は、エリヤハウスで取り扱うことができました。父が酒乱で子どもや母をよく殴りました。私はそんな父のようにはなるまいと思っていました。とろころが、長男が何か悪いことをしたとき、叩きませんでしたが、首をぐっと絞めました。家内と喧嘩したときも、殴りたくなりました。その時、私は驚きました。「父親と同じ血が流れているんだ。父のようになるまいと思っていても、そうなるように轍(わだち)ができているんだ」と恐ろしくなりました。大人になっても父を赦せませんでしたが、なんとか赦しました。そうしたら、咎から解放されました。エリヤハウスから教えられて、父親との間に十字架を立てて、悪いものが流れてこないようにと祈りました。

 私が一番ショックだったのは、イエス様が私たちの罪を負われただけではなく、罪そのものとなったということを知ったときでした。Ⅰコリント5:21「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」救いを受けた私たちは、どうしても自分の方からしかイエス様の十字架を見ません。しかし、イエス様ご本人はどんな気持ちだったのでしょう。自分が何も悪いことをしていないのに、人々の罪をかぶるとはどういうことでしょう?自分が犯した罪じゃないのに、裁かれて死ぬというのは、どんな気持ちなのでしょう。「私は悪いことをしていないのに、何でだよ」と思うのが普通でしょう。でも、父なる神さまが、私たちの罪を赦し、私たちを義とするためには、その道しかなかったようです。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました」と書いてあります。罪を知らない方とはイエス様のことです。さらに、イエス様は、私たちの代わりに罪そのもとされましたのです。その時、イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神。どうして私をお見捨てになられたのですか?)」と叫ばれました。日中だと言うのに、全地が真っ暗になっていました。罪の醜悪さ、罪の重さ、罪の残忍さ…一口ではいえません。あの罪、この罪、いろんな罪のためにイエス様は身代わりに死んで下さったのです。イエス様が私たちの罪を負ってくださり、罪そのものとなってくださいました。救いの道がそのように開かれたことを感謝します。

3.悲嘆と悲しみ

 キングジェームス・ヴァージョンのイザヤ53:4は日本語とかなり違います。イザヤ53:4 Surely He has borne our griefs and carried our sorrows;Yet we esteemed Him stricken,Smitten by God, and afflicted.直訳すると、「確かに、彼は悲嘆と悲しみを負われた」となります。そこには、日本語訳のように、病とか痛みとは書いていません。でも、なぜキングジェームスはそのような訳し方をしたのでしょう?ヘブライ語の聖書は、最初に負ったものが「ハリー」であり、これは「不健康」「病気」「苦しみ」という意味です。次に負ったものが「マクオーブ」であり、これは「痛み」「病気」「苦しみ」という意味があります。すると、キングジェームス訳は、肉体的なものではなく、精神的なものに置き換えてしまったのではないかと思います。New English Bible、モファット訳、New American Standard、New International Version…みな「悲嘆と悲しみを負われた」と訳しています。病気を負われたとは書いていません。これは、あきらかにキリスト教が西洋周りでやってきたことの弊害であります。現代のキリスト教会が、肉体の病の癒しを軽く扱うのは、そのためです。いつの間にか、キリスト教の救いを精神的なものにしてしまったのです。その点、日本の新改訳聖書、口語訳、新共同訳は「病を負った」とはっきり訳しています。しかし、きょうのメッセージは聖書を批判するためのものではありません。第一のポイントでキリストは病を負って下さったとはっきり言明したのですから、第三は精神的なものでも良いのではないかと思います。良く考えると私たちの人生において、病気になるのは嫌です。でも、悲嘆や悲しみも深いダメージを与えることは確かです。私たちの人生において悲嘆や悲しみはできるだけ少ない方が良いにきまっているからです。

 では、あえてキングジェームス・ヴァージョンや西洋の聖書を尊重して、イザヤ53:4からメッセージをさせていただきます。キリストが最初に追われたgriefは、「深い悲しみ」であり、「悲嘆」であります。その次はsorrowですが、「悲しみ」「悲哀」「哀悼」であり、griefとほとんど同じです。そして、両者とも家族や愛する人を亡くした時に用いられることばです。それでは、イエス様が悲嘆と悲しみを実際に負われたのでしょうか?確かに、福音書にあります。最初はイエス様がナインという町に入ろうとした時です。ルカ7:12-15「イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、『泣かなくてもよい』と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、『青年よ。あなたに言う、起きなさい』と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。」やもめの一人息子が死んだのですから、これほど悲しいことはありません。その死体は町の外の墓地に運ばれようとしていました。本来なら汚れるのに、イエス様は棺に手をかけて、埋葬の行進をストップさせました。そして、「青年よ。あなたに言う、起きなさい」と言って、青年をよみがえらせました。重要なのは、イエス様が「泣かなくても良い」と言ったことばです。イエス様はただ口でお母さんを慰めたのではありません。私がよみがえらせてあげるから、「泣かなくても良い」とおっしゃったのです。この奇跡はあきらかに、イザヤ53:4の「悲嘆と悲しみ」を負われるという預言の成就ではないでしょうか?福音書を見ると、会堂管理者ヤイロの一人娘のよみがえり、そして、死んで4日もたったラザロのよみがえりの記事があります。そちらの方も、人々が死んだ人に対して、悲しみ嘆いています。でも、いのちであられるイエス様は、喜びと賛美に変えてしまいました。

 私たちにはこれまでの人生において、「私は悲嘆や悲哀をなめさられた」という人は、一人も例外なくおられることでしょう。家族の死別もあるかもしれませんが、親から見捨てられ、虐待され、人々から不当な扱いを受けたことがたくさんあるでしょう。裏切り、喪失、軽蔑…それらも「悲嘆と悲しみ」に入ると思います。ということは、肉体の病気の癒しも必要ですが、このような精神的な苦痛も馬鹿にできないということです。むしろ、後者の方は薬や医者では治すことができません。どこにそれらの痛みを持っていったら良いのでしょうか?やっぱり、キリストの十字架ではないでしょうか?イザヤ53:3「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」とあるからです。そのお方は、私たちと同じことを体験されたので、私たちの悲嘆と悲しみをご存じであり、深く同情してくださいます。でも、それだけではありません。イエス・キリストは十字架で、私たちの悲嘆と悲しみを負ってくださったのです。深い心の傷も痛みも負ってくださったのです。ですから、病や罪と同じように、私たちがいつまでも負っているべきではありません。イエス様が十字架で既に負ってくださったのですから、イエス様のもとにお返ししましょう。イザヤ書61章はメシヤの預言ですが、このようなおことばがあります。イザヤ61:3「シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現す主の植木と呼ばれよう。」アーメン。でも、そればかりではありません。イザヤ61:7「あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受ける。人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、その国で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが彼らのものとなる。」アーメン。私たちが失ったものを神さまは倍にして返してくださるのです。

 今週は受難週です。イエス様が私たちの代わりに十字架で死なれました。ただ死なれたのではありません。十字架の前はさんざん嘲笑され、馬鹿にされました。つばきをかけられ、髭を抜かれ、いばらの冠を額に押し付けられました。そして、ローマ兵によって容赦なく鞭が当てられ、瀕死の状態になりました。その後、十字架を負わされ、ゴルゴタまで上りました。イエス様は真っ暗の中から叫びました。「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになられたのですか?」。その時、イエス様は私たちの病、罪、そして悲嘆と悲しみを負ってくださったのです。ですから、あなたはそれらを負う必要がありません。それらを十字架のもとに降ろしましょう。