2019.4.21「復活の事実 Ⅰコリント15:12-20」

イースターおめでとうございます。クリスマスは紀元後200年くらいからお祝いされたようです。しかし、イースターの場合はイエス様が復活されたその日からです。その日から、毎週日曜日に人々が集まるようになりました。そして、いつの間にか土曜日の安息日から、日曜日の礼拝に移ってしまいました。「日曜日に礼拝を守りなさい」と聖書に書かれていませんが、主の復活を祝うために日曜日に集まるようになったのです。今日も、私たちがここに集まっているのは、イエス様の復活をお祝いするためです。ハレルヤ!アーメン。

1.復活の予告

 主イエス・キリストはご自身が三日後によみえがえることを何度も予告しておられました。マタイによる福音書を読むと少なくとも四度あったことが分かります。最初は弟子のペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白した直後です。マタイ16:21「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。」ペテロが「そんなことがあなたに起るはずはありません」と言うと、「下がれ、サタン。あなたは私の邪魔をするものだ」と、しこたま怒られました。二度目は変貌の山から降りた時、イエス様が「人の子が死人の中からよみがえるときまで、いま見た幻をだれにも話してはならない」(マタイ17:9)と命じました。三度目は同じマタイ17章ですが、てんかんの子どもを癒してあげた直後です。「人の子は、いま人々の手に渡されます。そして彼らに殺されるが、三日目によみがえります」と言われました。すると、「彼らは非常に悲しんだ」(マタイ17:23)とあります。四度目は、最後の晩餐の席で「私は、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」と言われました。そのとき、ペテロは「たとい全部の者があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」(マタイ26:23)と言いました。弟子たちはイエス様が「私は死んだ後によみがえる」とおっしゃっているのに、何度も的外れなことを言っています。つまり、弟子たちは、頭からイエス様がよみがえるはずがないと思っていたので、予告をスルーしてしまったのです。

 イエス様が、ご自分がよみがえるとおっしゃったのに、もし、よみがえられなかったのなら、どうなるでしょう?世の多くの人たちは「イエスは聖人であり、最高の道徳家である」と言うかもしれません。しかし、ご自分が三日後によみがえるとおっしゃったのに、よみがえられなかったのなら、どうなるでしょう?大嘘つきです。J.B.フイリップスは『あなたの神は小さすぎる』という本の中でこう述べています。「もし、キリストが復活しなかったなら、彼は誇大妄想狂である。…こんな男を、世界最大の教師と見なすわけにはいきません。マホメットも、仏陀も、他のいかなる大教師も、自分自身についてそんなほらを吹いたことはないからです。福音書に慣れ過ぎているため、キリストの主張の大変な重大さに気付かず、昔ながらの尊崇心から、かえって正当に評価することができなくなっている人々がたくさんいます。もしキリストが、事実、よみがえらなったら、キリストの生涯は偽りとなり、キリストは実に危険な人物となります。」つまり、私たち人間がキリストの前に立ったとき、2つに1つしかないということです。イエス様は「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)と言われました。人がそのことばを聞いて、「それは良かったですね。では、さようなら」とはいかないということです。この方は神か、もしくは気が狂っているのか、2つに1つしか選べないということです。ミッションスクールで、何を教えているか分かりませんが、人がキリストの前に立ったなら、道徳家ではすまされないということです。「聖書の教えは良いですね」とか「イエスは良いお方ですね」という選択肢はありません。唾を吐いてその場を去るか、あるいは「わが神、わが主よ」とひれ伏すか2つに1つしかありません。トマスに対して他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言いました。しかし、信じようとしませんでした。彼は残酷にも「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言いました。その1週間後、イエス様が弟子たちの中に、再び現れてくださいました。イエス様はトマスに言われました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20:27)イエス様が、あの時の会話を聞いておられたのです。トマスはびっくりして、「私の主。私の神」と告白しました。トマスが自分の指をイエス様の手の釘跡に差し入れたでしょうか?槍で刺されたイエス様の脇に差し入れたでしょうか?おそらく、そのようなことはしなかったと思います。

 現代の私たちは聖書に記されている弟子たちの証言を信じるしかありません。パウロのように復活の主と出会って、信じる人はまれでしょう。ほとんどの人は、聖書の記述を信じるしかありません。イエス様は「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20:29)とおっしゃいました。私はこんな偉そうなことを言っていますが、キリスト様に関しては全く無知でした。キリスト教は弱い人たちが勝手に作った宗教だと思っていたからです。かつての私をはじめ、日本人のほとんどが、キリストが何を教え、何をなされたのか知りません。決断するにも、何を決断したら良いのか分からないでしょう。私は1979年4月15日の夜、イエス様を信じました。職場の先輩が9時間も伝道して、根負けをしたからです。その年の12月ある日、賛美のテープを聞きながら、部屋に掃除機をかけていました。「私は道で、まことでいのちと主は私に語りかけた」と歌っていました。それは、聖書のことばでした。「え?イエス様が道で、まことでいのちなの?これは、大変なことだ」と思いました。私はその場に跪いて「イエス様、私をあなたの弟子にしてください。一番、小さい弟子で結構ですから」とお祈りしました。それまでは、イエス様は私の救い主で、私を助けて下さるすばらしい友だと思っていました。しかし、そうではありません。イエス様は神であり、主だと分かったのです。イエス様は予告どおり、死からよみがえられた真実な神さまだからです。

2.復活の事実

 Ⅰコリント15:14,15「そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。」さらに、Ⅰコリント15:19 「もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。」先ほど、引用したJ.B.フイリップスは、同じ本の中で、「キリスト教のあらゆる主張は、復活にかかっている」と述べています。弟子たちやパウロは十字架の死ではなく、どちらかと言うとイエス様の復活を宣べ伝えています。私たちは「十字架の贖いで人が救われるのだから、別に復活まで言わなくたって良いだろう」と思うかもしれません。使徒の働き2章にペテロの説教が記されています。対象はこの間、イエス様を十字架につけたユダヤ人たちです。ペテロは詩篇を引用しながら、「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です」(使徒2:32)と言いました。その後、3000人の人たちが、罪を悔い改めて、バプテスマを受けて弟子に加えられました。このところから分かることは、十字架の死の告知だけでは、回心に至らなかったということです。十字架の死が、私たちの罪の贖いの死であることは、復活がなければ証明できないということなのでしょうか?

 これは、イースターで何度も引用しているみことばです。ローマ4:25「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」このみことばの意味を英語の詳訳聖書が正しく教えています。後半は、and was raised to secure our justification「私たちの義の保証となるために、よみがえらされた」となっています。もう1つの訳もあります。Making our account balance and absolving us from all guilt before God 「私たちの勘定書きの帳尻を合わせ、神のみ前で無罪放免にして下さった」となっています。つまり、復活は私たちが救われること保証であり、無罪放免の勘定書きだということです。このたとえは、前も話したことがあります。ウォッチマンニーが友人のおかげで、借金を免除してもらった話です。彼の貸主に対して、その友人が有利な立場だったのでしょう。その友人は、自分たちがいる上海から、貸主の蘇州まで頼みに行ってくれました。貸主はウォッチマンニーの大変さを聞き、借金を帳消しにしてくれました。貸主は「せっかく来たのだから、蘇州の名所見物に行こう」と勧めてくれました。昔は電話などありませんので、ウォッチマンニーは、やきもちして待っていました。帳消しになった日から十日もたっていたのですが、証文を見ない限り分かりません。彼は、依然として自分を負債者と考えており、心は落ち着きません。いつ問題は処理されるのでしょうか?彼が上海に戻ってきて証文を見せてくれた時です。これが主イエスの復活です。彼は私たちのために死なれた時、罪の問題を解決されました。ところが、もし彼が死人の中から復活されなかったなら、もし彼が戻って来られなかったなら、私たちの心は不安なままです。彼は復活されなければなりません。そうしてこそ、私たちはみわざが成し遂げられたことを知るでしょう。神に感謝します。キリストの復活は、私たちの罪が完全に解決されていることを証明します。つまり、復活がないなら、宣べ伝えている福音が、本当に効力があるのかどうか分からないということです。キリストを信じたら罪赦され、救われる。その証拠は父なる神がキリストを死からよみがえらせてくださったからです。私たちの手許には、復活という神からの証文があります。

 パウロはテモテに言いました。Ⅱテモテ2:8「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。」パウロは、ガラテヤの教会の人たちに十字架につけられたイエス・キリストをプラカードしました。しかし、それだけではありません。アグリッパ王の前で「神が死者をよみがえらせたということを、あなたがたは、なぜ信じがたいとされるのでしょうか」(使徒26:8)と主張しています。つまり、パウロが宣べ伝えた福音は「完成した福音」であるということです。まことに奇異な表現ですが、人間が全く手を加える必要がない福音です。父なる神が、人類の罪を赦すために御子を十字架の死に渡しました。そして、父なる神が、御子イエスが十字架で罪を全部支払ったことを証明するために、彼を死からよみがえらせてくださったのです。私たちはイエス様の十字架を仰ぎ、「キリストは私の罪のために死なれたんだ。ありがとうございます」と感謝を述べます。そして、私たちが、イエス様が死からよみがえられたことを知ると、「救いは完成しているんだ、私は義と認められているんだ」と分かります。どこが違うのでしょうか?前者は「もう罪を犯さないようにしよう」と考えます。後者は「義とされているような生き方をしよう」となります。チョーヨンギ牧師が、人が銭湯のたとえを話されたことがあります。人が銭湯に行くと体を洗います。お湯から上がると、古い下着を再び着ません。上着もバサバサとあおいで、ほこりを落とします。何故でしょう?自分はきれいになったという自覚があるからです。そうです。クリスチャンは「罪赦されただけではなく、神さまから義と見なされている。それだったら、正しい道を歩もう」となります。本来、罪の赦しも義認も同じ救いを表現していることばです。しかし、パウロは「死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」と言いました。なぜなら、自分は死ではなく、神のいのちの中に入って入ることが分かるからです。私は親として、子どもが「ごめんなさい」「ごめんなさい」とうなだれて言うのを見たくありません。ある牧師たちは「私たちは神の前では罪人であり、日々、罪を悔い改める必要がある」と言います。だから、日曜日はいかに会衆が罪深いかをメッセージし、会衆は涙を流して、一週間分の罪を悔い改めます。しかし、それは間違いです。罪の問題はキリストの十字架によってすでに解決されているのです。むしろ、父なる神さまは「死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい」とおっしゃっているのです。なぜなら、すでに私たちは義と認められているからです。

 

3.復活がないなら

 コリント15:32,33「もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか』ということになるのです。思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」ここで言われている「友だち」というのは、復活を信じない人たちで、「生きているうちが花だから、好き勝手に生きようぜ」という悪い友だちです。コリントの教会は、この世よりもひどい罪や放縦に満ちていました。彼らには信仰があったのですが、肉体の復活を信じていませんでした。なぜなら、ギリシャ哲学の影響を受けて「肉体がしている悪は、魂の救いには影響しない」と考えていました。でも、それは見当違いであり、世俗的なパン種でした。パウロは「友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれる」と注意しました。それは、イエス様が言われた「サドカイ人たちのパン種に気をつけなさい」と同じであります。サドカイ人たちの教えは世俗的であり、この世のことしか考えていません。もし、彼らの教えを受け入れるなら、「死後の世界はないので、地上で幸せに暮らせればそれで良い」ということになります。イエス様は彼らに「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです」(マタイ22:29)と言われました。「思い違い」のギリシャ語はプラナウであり「迷う、惑わされる、考え違いをする」という意味です。J.B.フイリップスはYou are very wide of the mark、「あなたは大きく的からはずれている」「見当違いをしている」と訳しています。そもそもの原因は、彼らが聖書も神の力も知らないからです。神さまを礼拝して、宗教的な生活を送っているかもしれません。しかし、「聖書も神の力も知らない」なら、見当違いをしていることになります。

私は21年前と2年前にも、このような証を語っていました。私の説教原稿は「いのちのことば」というホームページに載っています。私もかつては見当違いをしていました。車を乗り回し、格好をつけ、綺麗な女性を追い掛けていました。「今が楽しければ良い、死んだらおしまいさ」と考えていたのです。仕事はメシの種で、他の時間は自分の好きなことを一生懸命やれば良いという人生哲学でした。しかし、「永遠というのがあるなら、そこに命をかけられるのになー」と心のどこかで追い求めていました。「宗教は弱い人間が勝手に造ったものだ」と言っていた、この私が25才に回心しました。するとどうでしょう。時間がもったいなくなりました。クリスチャンになって、永遠の命が与えられたのだったら、「ああ、やったー」と寝そべっていれば良さそうなものです。ところが「確かに、永遠の命は与えられけたけれど、この地上の人生は意外に短いぞ」と思うようになったのです。気がつくと、パチンコ、ギャンブル、マージャンをやめていました。それらが時間とお金の無駄使いと気付いたからです。お酒もやめました。お酒を飲むとボーっとなって、その夜は何も考えられなくなるからです。それで「この限られた時間をもっと有効に使わなければ」となりました。つまり、それまでは「好きなことを楽しく」という無目的な人生でしたが、救われてから目的ができてしまったのです。私が洗礼を受けて全く変わってしまったので、一緒に遊んでいた友だちも付き合っていた彼女も私から離れていきました。世俗的な友だちが去って行ったということです。その後、神さまから京子さんというすばらしい女性が妻として与えられました。いつの間にか、4人も子どもが与えられました。ハレルヤ!アーメン。

この世には復活を信じる人たちと、復活などないと信じている人たちがいます。日本人は東洋的で「生まれ変わり」という輪廻を信じているかもしれません。だから、遺体を火葬にした後、先祖代々のお墓に混ぜて入れます。一方、復活を信じているのはエジプト、アンデス、チベットのミイラがあります。彼らがミイラを作るのは、やがて魂が戻ってきたときのためです。しかし、それは聖書が言う復活とは違います。私たちの場合は、キリストが復活したように、朽ちない栄光のからだに変えられるということです。その第一号がイエス・キリストです。私たちの復活の保証は、イエス・キリストです。Ⅰコリント15:20「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえらされました」。ちなみに、新約聖書では人が死んだことを「眠った」と言います。これは、魂が眠ったのではなく、肉体が死んで眠ったという意味です。「眠った」のですから、いつか目覚める時が来るという前提です。いつ目覚めるのか?Ⅰコリント15:52、54「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。…しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利に飲まれた』としるされている、みことばが実現します。」パウロが言う「朽ちるもの」とは私たちの地上の肉体です。一方「朽ちないものを着る」とは、天に属する肉体です。私たちの魂が栄光の肉体を着るのです。

 テレビを見るとショップチャンネルがいくつもあります。家電、宝石、バッグ、化粧品、そして下着や洋服があります。そこに出てくる下着や洋服がなぜ良く見えるのでしょう?着ている人が美しいからです。「自分をあの服を身に着けたら、美しくなるんだろうなー」と0120に電話をします。でも、多くの場合それは、幻想であり、fakeです。私たちの肉体は日々、衰えています。言いかえると、私たちの肉体は死に向かっており、何ものもそれを妨げることは不可能です。あのオードリー・ヘプバーンも最後はしわくちゃになりました。しかし、私たちは救われると霊的に生まれ変わり、「たとい外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント4:16)。パウロは私たちの肉体を地上の幕屋(テント)と言っています。この肉体が、私たちの住まいです。でも、パウロは地上の幕屋が壊れても、神さまのくださる建物があると言っています。神さまのくださる建物こそが、朽ちない栄光のからだです。私たちは魂のまま永遠に生きるのではありません。天からの住まい、栄光のからだが与えられ、永遠に生きることになるのです。ですから、クリスチャンにとって、死とは地上の幕屋を脱ぐことです。しばらくは、パラダイスで休息します。その後、世の終わりイエス様がやって来られたとき、ラッパが鳴り響きます。そうすると地面や海に眠っていた肉体が目覚めて、天上の魂と合体するのです。Ⅰコリント15:58「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」