2019.5.12「だれかの奇跡になる ルカ10:30-37」

 ある人が、祈りがきかれるように神さまに願っています。また、ある人が、奇跡が起こるように神さまに期待しています。しかし、神さまはあなたがその人の願いに応えるように、あなたを用いるかもしれません。また、神さまはあなたがその人の奇蹟になるように、あなたを用いるかもしれません。これは、ある意味では困っている人を助けるということです。人を助けるためには覚悟が必要ですし、リスクも伴います。きょうは「だれかの奇跡になる」と題して聖書から学びたいと思います。 

1.関わりを持つ

 人を助けるためにはある程度のリスクを覚悟しなければなりません。ある人が、川や池でおぼれている子どもを助けるために飛び込んだけれど、一緒に死んだということを聞いたことがあります。気持ちはわかりますが、人を助けるということは容易ではありません。本日のテキストでも、そのことがわかります。旅人は半殺しの状態で倒れていました。おそらく、強盗に襲われたのでしょう。そこへ2人の人が通りかかりました。一人は祭司で一人はレビ人でした。彼らは倒れている人を見たのですが、反対側を通り過ぎました。当時、神殿に仕える人は、死体に触ると汚れるので奉仕ができません。神さまの御用を優先するために、そうしたのかもしれません。あるいは、近くに強盗がまだ隠れているかもしれません。こんなところで暇取っていたら、自分が襲われるかもしれません。「関わらない方が良い」というのが結論でした。でも、これは昔の話ではありません。都会において、道ばたで倒れている人を助けるでしょうか?「酒に酔っているんじゃないの?」「普通の人じゃないみたい?」と避けるのではないでしょうか?電車などでも、だれかが殴られているのに、止めに入るというのは勇気がいります。仲裁に入ったために、刺される人もいます。とにかく、人を助けるにはリスクが伴うということです。

 でも、サマリヤ人はどうでしょうか?ルカ10:33「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、近寄って…」と書いてあります。倒れている人を見て「かわいそう」という深い同情心が湧き上がりました。「かわいそう」という同情心が「リスクがどうのこうの」という恐れに打ち勝ちました。おそらく専門家は「かわいそうじゃだけじゃ、人は助けられませんよ。そういう人は燃え尽きで自滅しますよ」とアドバイスするかもしれません。でも、この人はかわいそうに思って、倒れている旅人に近寄ったのです。イエス様はあとで、「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか」と律法の専門家に尋ねました。彼は「その人にあわれみをかけてやった人です」と答えました。イエス様は「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。このテキストから考えると、困っている人を助けることは、隣人になることだということが分かります。イエス様も「行って同じようにしなさい」と言われているのですから、これはどうでも良いことではありません。律法の専門家は「私の隣人とはだれでしょう」とイエス様に聞きました。この物語の最後で、イエス様は「だれが隣人になったと思いますか?」と聞き返しました。ということは、隣人というのは、「こっちが隣人になることなんだ」ということがわかります。言い換えると、関わりを持つということです。

 私はこれまでバウンダリーのお話しを何度もしてきました。バウンダリーとは境界線のことであり、人の責任と自分の責任を分けることだと言うことを学びました。また、「自分のレースを走る」というメッセージでは、「自分に依存してくる人をできるだけ避けるように」と言いました。おそらく、「なんと冷たいメッセージなんだ。愛も情けもないじゃないか?」と思われた方もいるでしょう?私はエリヤハウスという「内面の癒しのカウンセリング」を何年も勉強しました。エリヤハウスでは、「バウンダリー」とか「共依存」のテーマがありません。なぜなんだろう?と不思議に思っていました。おそらく、「関係を持たなければ癒しがないのだから、ある程度のリスクを覚悟しなさい」ということなのでしょう。

 伝道も福音を伝えないと始まりません。でも、福音を伝えると嫌がる人もいるので、友人を失う恐れも出てきます。「しつこい」とか言われるでしょう。私は25歳で洗礼を受けましたが、1年以上は職場の先輩から個人伝道を受け、最後は9時間もアパートで迫られました。私は根負けして、「じゃあ、信じるよ」とイエス様を信じました。次の朝、本当に救われていました。DL.ムーディという有名な伝道者がいます。彼はシカゴで大伝道集会を持ちました。その日は救いの招きをしないで、メッセージをして終えました。ところが、その夜、シカゴに大火災が起こり、大勢の人が亡くなりました。ムーディは、集会で決断しないまま亡くなった人が大勢いたことを知り、後悔しました。それ以来、必ず、メッセージの後は決断の時を持ったそうです。ある時、一人の男性が電車に乗っていました。隣の人が、イエス様のことを語り出しました。そして、「あなたはイエス様を信じていますか?」と聞きました。男性は英語で「それはあなたのビジネスではない(よけいなお世話)」と言いました。その人は「いいえ、これは私のビジネスです」と答えました。男性は「それじゃあ、あんたはムーディに違いない」と答えたそうです。私たちは「よけいなお世話」と言われるかもしれません。でも、イエス様を信じないその先が滅びであるなら、よけいなお世話もしなければなりません。やがて、その人が神さまの前に立ったときこう言うかもしれません。「あの友人がクリスチャンだったことは知っています。とっても親切で優しい人でした。でも、イエス様のことを1つも話してくれませんでしたよ」。

 究極の人助けはイエス様を信じて、その人が救われることです。そのためには、その人に近づき、福音を伝えなければなりません。もちろん、「その人がイエス様を信じるなら、助けます。愛します」というのは不純な動機です。でも、いろんな親切、愛の行いがありますが、最も偉大なもことは自分に福音を伝えてくれた人ではないでしょうか?何故なら、そのことによって、私は救われて、永遠の命を持つことができたからです。伝道を英語では、reach outと言います。直訳は「接触しようと努める」ということです。伝道の動機は、「その人が滅びてしまったら、かわいそうではないか」という愛であり、あわれみの心です。

2.持っているもので

 神さまご自身は全能なるお方ですが、多くの場合、私たちを祈りの答え、奇跡の器として用いたいと願っておられるようです。その場合、持っていないものではなく、今持っているものを用いるように願っておられます。私たちは福音書から、イエス様が5000人以上の人を養った奇跡を知っています。そのとき、用いられたのは子どもが持っていた5つのパンと2匹の魚でした。もちろん、イエス様は無から有を生み出すこともできましたが、あえて、子どもが差し出した5つのパンと2匹の魚を用いられました。神さまは私たちと一緒に働きたいと願っておられるようです。この物語において、サマリヤ人は自分が持っているもので彼を助けようとしたことが分かります。ルカ10:34「近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。」オリーブ油とぶどう酒も、打たれた傷の治療に役立ちます。彼は自分が乗っていた家畜、おそらくロバに乗せて、宿屋に連れて行き、介抱してあげました。彼は医療の専門家ではありませんでしたが、自分ができることをしてあげました。「良きサマリヤ人の病院」というのがあることを聞いたことがあります。彼は「かわいそう」という同情心だけではなく、ちゃんと手当をしてあげました。

 人を助ける場合も、自分がないものをもって助けるとなると大変です。友人の連帯保証人になって、家族を路頭に迷わしてしまう人がいます。それはダメです。また、輸血でも、自分の血を全部あげて、自分が死ぬのはやり過ぎです。ジョエル・オスティーンのお兄さんのポールはお医者さんです。彼は医療伝道の使命があり、何度もアフリカに行ったことがあります。ある時、設備もろくに整っていない小さな病院で数週間、奉仕したことがありました。ある夜、象に踏まれて、怪我をした人が担ぎ込まれました。その人は輸血しなければならない状態でした。しかし、血液のストックがありませんでした。ポールは自分の血液を輸血してあげました。怪我人は助かりました。ポールも血をあげすぎて死にませんでした。しかし、ポールは自分が持っているものを差し上げて、彼の奇跡になることができませした。使徒の働き3章に、宮に入る人たちから施しを受けていた、生まれつき足のなえた人が登場します。彼はペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めました。ペテロは「私たちを見なさい」と言いました。男は何かもらえると思って、二人に目を注ぎました。するとペテロは「金銀は私にない」と言いました。男は一瞬、がっかりして頭を下げたでしょう。「しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言いました。ペテロはそう言いながら、彼の右手を取って立たせました。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出しました。すごいです。お金をあげても、彼が数日間、生き延びることができるでしょう。でも、根本的な解決はイエス・キリストの名にあります。私たちクリスチャン全員も持っているものがあります。それは、イエス・キリストの名であります。これほどすばらしいものはありません。なぜなら、この名を用いるならば、奇跡が起こるからです。

 2000年頃、インドネシアで開かれたセルチャーチの学びに行ったことがあります。ずっと座りっぱなしで腰が痛くなりました。私はそれまで年に1回か2回、ぎっくり腰を患っていました。夏でもゴムベルトをして腰を保護していました。その時は3日間も座りっぱなしだったので、辛くて仕方がありませんでした。セミナーの一休みに、一人の先生が近づいて来ました。名古屋の山下牧師です。「立ってください。祈ってあげましょう」と言うのです。彼は右手で腰のあたりに触り、「イエスの御名によって延びるように」と言ってくれました。その途端、痛みがすーっとなくなりました。背骨がまっすぐになったような気がしました。「どうしてそんなことができるの?」と聞いたら、「岡山の中嶋先生から教えてもらったんです」と答えました。私は日本に帰ってから、中嶋先生に連絡し、足掛け5年くらい、当教会で「癒しのセミナー」を開いていただきました。私は名古屋の山下牧師から祈って以来、腰はいたくなることはありますが、ぎっくり腰になったことはありません。一旦、ぎっくり腰になるとトイレにも行けないし、寝返りも打てません。でも、それ以来、ぎっくり腰にはなりません。名古屋の山下牧師は私の奇跡になってくださいました。私もそれから、癒しのために祈る人になりました。聖書で「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(マタイ10:8)とあるからです。人が癒されるのを見ると、本当に楽しいです。ある時、那須の太郎さんという牧師の腰のため祈ったことがあります。松戸教会で牧師同士でバーベキューをしていたときです。祈ったら、「痛みがなくなった」と言いました。でも、よく聞くと、渓流釣りで崖から落ちて、傷は治ったけれど10年以上も痛みが腰と足にあったそうです。こっちは一瞬ですが、当人は長い間苦しんでいたのです。私も彼の奇蹟になることができました。

 物で人を助けることができますが、1つの励ましの言葉でも人を助けることができます。ジョエル・オスティーンの奥さん、ビクトリアが礼拝後、一人の女性に声をかけました。「魅力的なお方ですね」とたったひとことです。でも、後からわかったのですが、その女性はそのとき、人生のどん底だったそうです。なぜなら、夫が家を出てしまって以来、帰ってこなくなったからです。「自分に魅力がないからなんだわ」と責めていました。その日曜日の朝、勇気を出して、教会の礼拝に出席したのです。すると、帰りにビクトリアからひと声かけられ、そのことばが心に熱くとどまり、心が癒され、立ち上がることができたそうです。ジョンズ・ホプキン大学の初代産婦人科教授であるハワード・ケリーの体験談です。ある春の日、ケリーが徒歩旅行をしていた時、農家に立ち寄り、「冷たいわき水を1杯もらえませんか」と言って、ドアをノックしました。すると、小さな女の子が出て来て、絞りたての牛乳を渡してくれました。そんなふれあいに心和ませながら、彼はまた旅を続けました。それから数年後のことです。ひとりの女性患者が運びこまれ、ケリーが手術を担当しました。そして退院という時、彼女に請求書が渡されたのですが、そこにははっきりとこのように書かれていました。「コップ1杯の牛乳で、治療費は支払い済みです」。彼女こそ、ミルクをくれた女の子だったのです。聖書は、「最も小さい者たちのひとりにしたのは、私にしたのです」(マタイ25:40)書かれています。

3.限界を知る

 人を助けることは良いことですが、自分の人生の目的を果たすことを忘れてはいけません。たまに、「私は人の役に立ちたい。人のために生きたい」という人がいます。その人がお医者さんとかレスキュー隊だったらわかります。でも、私たちは神さまから与えられたassignment(割り当てられた仕事、課題)があります。ルカ10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』サマリヤ人は旅の途中でした、おそらくなすべき仕事があったのでしょう。だから、傷ついた人を宿屋に一旦預けました。そして、帰りに立ち寄る予定でした。つまり、自分の成すべきことを行い、できないことは他の人にお願いしたということです。私たちは「自分はここまでできるけれど、ここから先はできない」という範囲を知るべきです。もし、自分でできなければ、できる人にお願いしたり、専門家に任せるべきです。メシアニック・コンプレックスというのがあるそうです。困っている人を見たら、ほっとけないタイプの人です。そして、あらゆる問題を解決しなければならないと思っている人です。私が世界中の人を救ってあげなければならないとしたら、どうなるでしょう?そこまで思う人はいませんが、とにかく自分の身を削ってでも、困っている人のために尽くしている人がいます。ルカ10章のたとえは、「あなたの隣人はだれですか?」ということを教えている物語です。世の中の全部の人たちではなく、運命的に隣人になった人です。「隣人になった」、あるいは、主の導きによって「隣人にさせられた」ということかもしれません。神さまは世の中の人、全部にこのようなことをしなさいとはおっしゃっていないと思います。全世界を支配しているのは神さまです。おそらく、神さまは「あなたを通して、このことをしたい」というときに隣人を委ねてくださるのではないかと思います。

 このような出来事は、私たちは神さまから与えられた人生の途中で起ることではないかと思います。私たちは神さまから与えられたdivine destiny(神意)を全力で果たすべきです。しかし、道の途中で、私たちの助けを必要とする人と出会うことがあるということです。でも、それはおまけではなくて、神さまの導きと助けが伴うということです。なぜなら、神さまが「やりなさい」と命じておられるからです。その時は私たちのもっているもので、お助けできたら幸いです。もし、そのことがその人の奇跡になったら何と幸いでしょうか。自分としては小さなことでも、その人にとっては人生を変えるものになるかもしれないからです。何十年も前のことですが、一人の青年が肺結核で死にそうでした。片方の肺は壊死しており、彼はベッドに横たわり死を待っていました。彼はものすごい痛みの中で、神々に叫び求めました。「神さま、私を助けに来てください。」しかし、答えがありません。次に別の神さまに叫び求めましたが、答えがありません。最後に彼はやけっぱちで、「もし他に神さまがいるなら、癒してくださいとは願いません。どうか、ただ死ぬ方法を教えてください」と暗い部屋の中から叫びました。彼はひとりぼっちで、忘れ去られているように感じました。数時間後、若い女子大生が彼の家の近くを歩いていました。すると、その家から説明できないような愛が流れてきて、自分をひっぱっているように感じました。彼女はその家のドアをノックしました。すると、その家のお母さんが出てきました。彼女は「あなたは私を知らないと思いますが、何かお祈りをさせていただくことがあるのでは?」と言いました。お母さんは涙を流しながら、死の床にいる息子のことを話しました。若い女性は部屋に入り、彼のために祈りました。青年はキリストに人生を明け渡しました。長い話を短くすると、彼は癒されて、牧師になりました。彼こそは世界最大の教会の牧師、チョー・ヨンギ牧師です。若い女性がしたことは、青年のためにお祈りしたこと。そしてキリストを伝えたことです。神さまが彼女を通して、青年を救い、癒してくださったのです。ですから、人を助け、人を救ってくださるのは父なる神さまであることを知るべきです。私たちは神さまの道具なのです。

 イエス様のご生涯を見ますと、イエス様が隣人になられたということがヨハネ福音書を見るとよく分かります。イエス様は夜こっそり尋ねてきたニコデモの隣人になりました。彼は真理を求めていました。イエス様はスカルの井戸端で一人の女性の隣人になりました。イエス様はこの女性を得るためにわざわざサマリヤを通過しました。イエス様は38年間も病の床に臥せっている男性の隣人になりました。彼に「良くなりたいか?」と言ったけれど、はっきりした答えが得られませんでした。それでも彼を癒してあげました。イエス様は姦淫の場で捕えられた女性の隣人になりました。本来なら石打ちで殺されるところでしたが、彼女の罪を赦してあげました。イエス様は生まれつき盲人の隣人になりました。弟子たちはだれかの罪の因果ではないかと言いましたが、「神のみわざがこの人に現れるためです」と言われました。イエス様は死んだラザロの隣人になりました。「ラザロよ。出て来なさい」と叫んだら、布をまかれたまま出てきました。イエス様はイスカリオテ・ユダの隣人になりました。しかし、かかとを上げて外に出て行きました。ルカ福音書になりますが、犯罪人の隣人になりました。彼に対して「あなたはきょう、私と共にパラダイスにいます」と約束されました。

このように「よきサマリヤ人のたとえ」のサマリヤ人はイエス様のように思えてなりません。私たちは強盗ならぬ、サタンに打ちのめされて倒れていました。誰一人、私を助けてくれませんでした。しかし、そこにイエス様が来られ、ぶどう酒ならぬご自身の血を注いで、癒してくださいました。宿屋ならぬ教会に私を置いてくださいました。イエス様が罪の代価を払ってくれましたので安心です。世の終わり、イエス様は再び来られ、私を永遠の御国に迎え入れてくださいます。私たちこそ、瀕死の状態で倒れていた旅人です。イエス様が私たちを見出してくださったのです。これほどありがたいことはありません。もし、私たちがだれかのために良いことをしたのなら、イエス様が私たちにしてくださったこととは比べものになりません。ありがたいことに、イエス様は「最も小さい者たちのひとりにしたのは、私にしたのです」と報いてくださいます。私たちは善いことをして天国に入るのではありません。イエス様の贖いによってだけ、天国に入ることができるのです。もし、善いことができたとしたら、それは救われたことの実であります。