クリスマスおめでとうございます。座間キリスト教会で奉仕していた頃は、伝道のチャンスなので、クリスマスの集会がたくさんありました。そのため、静かにクリスマスをお祝いする状況ではありませんでした。ある宣教師はクリスマスを特別にお祝いしませんでした。なぜなら、クリスマスには、ヨーロッパの偶像から来ているものがたくさんあるからです。きょうは、細かいことを言わず、例年のごとく、キリストの降誕に関してメッセージさせていただきます。
1.ユダヤのベツレヘム
イエス・キリストはユダヤのベツレヘムで生まれました。よく考えてみますと、ヨセフとマリアは100キロくらい離れた、ナザレに住んでいました。マリアは臨月であり、遠くへ旅をするには大変危険な状態でした。しかし、このところに不思議な神の摂理の御手を見ることができます。マタイ福音書に書かれていますが、祭司長や律法学者たちは、ミカ書を引用しながら「ユダヤのベツレヘムです」と言いました。そうです。旧約聖書の預言が成就するためには、メシアはベツレヘムで生まれなければなりませんでした。イエス様が大人になってから、人々は「ナザレからはメシアは出てこない。それはベツレヘムである」と言いました。真実は、イエス・キリストはベツレヘムで生まれていたのです。では、どうやってそのことが実現したのでしょうか?ルカ2:1-3「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。」ジュリアス・シーザーの後継者、アウグストゥスが「人口調査」のため勅令を出しました。そのためヨセフとマリアはナザレから遠く離れた、ユダヤのベツレヘムに行かざるを得なかったのです。結果的に、イエス・キリストはベツレヘムで生まれることになりました。
当時の世界を支配していたのは、ローマ皇帝でした。しかし、ローマ皇帝に人口調査をさせて、メシアがベツレヘムに生まれるようにさせたのは神さまです。神さまが歴史を支配し、ローマ皇帝を動かしたということです。それはメシアがユダヤのベツレヘムで生まれるという預言を成就するためでした。この所から考えると、私たちの誕生も単なる偶然ということではありません。どの時代に、どの国で、どこの家庭から、男か女か、何番目で生まれるということも計画済みであったのです。エペソ1:4「すなわち神は、世界の基が据えられる前から、この方にあって私たちを選び、御前に聖なる、傷のない者にしようとされたのです」とあります。エレミヤは主から「わたしは、あなたを胎内に形造る前からあなたを知り、あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、国々への預言者と定めていた」(エレミヤ1:5)と言われました。私も秋田の片田舎で、8人兄弟の7番目で生まれました。高校は出してもらえましたが、大学に進むという考えは全くありませんでした。私の頃は、都会への集団就職がおさまりかけていましたが、大学へ進む人はそんなにいませんでした。大体、秋田大学しかないので、頭が良くなければ入れません。よっぽど金持ちか、田んぼを売らなければ、東京の大学には行けません。そういう訳で、私は暗黒時代の高校生活を余儀なくされました。でも、あれはあれで良かったと思っています。
キリストはどこで生まれたのでしょうか?世界的なメシアであるなら、宮廷か聖〇〇病院であるべきでしょう。なんと、不衛生きわまりない、馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされることになりました。マタイ福音書には、「東から来た博士たちは、エルサレムのヘロデの宮殿に行った」と書かれています。エルサレムはイスラエルの都であり、神殿があります。彼らは「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と聞きました。当然、メシアは宮殿にいらっしゃると思ったのでしょう。ヘロデは喜ぶどころか、私の他に王がいるなんてとんでもないと怒って、ひそかに幼子を殺そうとしました。だから、人里離れた、ベツレヘムで、しかも、馬小屋で良かったのです。あとから、ヘロデ王は兵隊を遣わして、その地方の2歳以下の男の子をみな殺させました。宗教家たちや住民たちもメシアの誕生を恐れました。メシアは全く歓迎されていませんでした。なんと寂しいことでしょう。今だったら、マスコミが取材にやってきて、全世界に中継されるはずです。でも、ほとんどの人がメシアの誕生を知りませんでした。悲しいことに、宿屋がなくて、横穴を掘った、馬小屋しか空いていなかったのです。
ルカ2:6,7「ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」なぜ、ヨセフとマリアに部屋がなかったのでしょうか?人口調査のため、普段はひと気のないベツレヘムが大賑わいになりました。部屋はどこも満員、相部屋になる人もいたでしょう。しかし、産気づいている女性が一緒なんで、面倒なことです。この二人を入れたら、他の客を出し、そしてお産するスペースまで確保しなければなりません。ヨセフはいろんな宿屋を探して回りましたが無理でした。ある主人が「あそこだったら空いているよ」と指さしたところが、馬小屋でした。聖書に馬小屋とは書かれていません。「飼葉桶」とあるので、牛小屋かもしれません。当時は、岩をくりぬいた横穴の小屋で、入口はゴザみたいなすだれがかかっていただけです。隙間風もビュンビュン、入ったことでしょう。しかし、全く閉ざされた部屋だと、羊飼いたちはメシアを発見できなかったでしょう。「飼葉桶に寝かされた赤ん坊」なんて、滅多にいませんから。でも、私がここで言いたいのは、「彼らのいる場所がなかった」ということばです。英語の聖書には、“no room for them”となっています。roomは部屋の他に、余地、場所、余裕という意味があります。人がおなか一杯食べて、もう食べられないとき“no room”と言います。
キリストのための部屋がない、余地がないとは興味深いと思いませんか?私たちがある程度の年齢に達して、イエス・キリストを信じるかどうか迷う時があります。イエス・キリストは神であり、主です。でも、イエス・キリストを心にお迎えするとき、悩むのではないでしょうか?すでに他の神様、他の宗教を信じている人はなおさらです。キリスト教は唯一の神しか認めないので、他の神様と同居することはできません。日本人のほとんどは仏教あるいは神道を信じています。だから、先客に出て行ってもらわなければなりません。先祖のお墓にも入らず、仏壇を拝んではいけません。もし、その人が長男であるなら家族や親族のもめごとになるのは必至です。宗教に熱心でなくても、私たちには自分の考えがあるし、自分中心の生き方をしています。楽しみや趣味、自分の願いや夢もあります。もし、新しい王を私の人生に入れたなら、いろいろ面倒なことが起こるでしょう。私が王座から降りて、イエス・キリストに王座を譲り渡すなんてできっこありません。私は私であり、イエス・キリストは一体何者なんだと自我が抵抗します。仕事、結婚、楽しみ、趣味、お金の使い方に悪影響を及ぼすのではないでしょうか?考えてみると、この世の宗教は自分がしたいことが叶うようなご利益宗教です。しかし、キリスト教の場合は、自分を否定し、自分を神さまにささげて生きるようなところがあります。「無理です。私には部屋がありません。今ある私と私の人生を捨てたくありません」。これが普通の人間です。
私が職場の先輩から伝道されたみことばは、ヨハネ黙示録3章20節です。「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」先輩はたとえ話がとても上手で、このみことばもたとえ話でした。当時、私が住んでいたアパートは六畳一間と台所でした。先輩は「ドアの外には取っ手がなく、自分がいる内側だけです。イエス様が『私です。開けて下さい』とノックをしています」と言いました。黙示録のこの箇所をある人が絵を描いています。蔦がドアいっぱい覆っており、今まで、空けた形跡がありません。イエス様はランプを片手に、ドアをたたいています。私は暗い部屋の片隅で膝小僧を抱いていました。「俺は何のために生きているのだろう」というのが、一番の悩みでした。「一生懸命やったとしても、最後に死ぬんだから、無意味じゃないか」という空しさもありました。どうせだったら、自分がしたいことをやって、面白おかしく生きれば良いだろうというのが結論でした。そのとき、イエス・キリストは、「一緒に食事をしよう」と言うのです。先輩は、「西洋では食事というのは信頼できる人としかしないんだ」と言うのです。先輩は私の友人になってくれていたので、「ああ、そうなのか?」と思いました。かなり抵抗しましたが、「じゃ、信じるよ」と言いました。朝、起きてみてカーテンを開けると、生垣の葉っぱ一枚一枚が輝いて見えました。気が付くと、暗い心の部屋の天井がとっぱられ、光が満ちていました。イエス様が私の心の中に入って来て下さったのです。でも、イエス様が王であり、主であるという意味で受け入れるまでは半年以上かかりました。でも、最初は、救い主として受け入れて信じれば良いのではないでしょうか?弟子たちも、最初は友人としてイエス様を受け入れました。その後、「私に従って来なさい」と言われ、何もかも捨てて従いました。イエス様を受け入れるためには、これまであった古いものを追い出すしかありません。全部分かってから信じることはできません。信仰は偉大な賭けです。試しに信じてみて、神さまがいなくても失うものはないのではないでしょうか。でも、信じたら神さまはおられることが分かります。
2.御使いのお告げ
ルカ2:8-11さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます」。御使いは、ギリシャ語でアンゲロスと言います。その意味は、「使者、使いの者」です。また、神より派遣されて、その御言葉を伝え、神のしもべ、民や子供たちを守護します。ルカ福音書においては、伝令者であります。「主の使い」と単数形で書かれていますので、ガブリエルか、それに等しい御使いかもしれません。主の使いは、これまでマリアやヨセフに現れていました。今回は、野宿をしている羊飼いたちの前に現れました。彼らの前というよりは、空中において、輝く栄光のうちに現れたと想像します。だから、羊飼いたちはとても恐れ、地に平伏したのではないかと思います。主の使いは「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます」と伝えました。「大きな喜び」はギリシャ語で、メガレーンであり、「程度・強度・量」が大きい、豊かな、激しい」という意味です。調べてみたら、megaは情報の単位でもあり、10の6乗倍、100万です。メガマックはこのところから来ています。
御使いは「民全体に与えられる大きな喜び」と告げましたが、どんな喜びなのでしょうか?第一は、イエス・キリストを信じるときに与えられる喜びです。教会ではそのことを「救いの喜び」と言います。救いとは、滅びから永遠のいのちが与えられたということです。ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」昔、宣教師は「信じない人は地獄に行く」と言いました。しかし、最近は躓く人がいるといけないので、「信じる人は永遠のいのちが与えられます」と福音の良い面しか言いません。でも、それだと喜びが半分です。本来、自分の罪がさばかれて永遠の滅びに行く運命だったのに、キリストによって罪赦され、永遠の御国に行けるのです。永遠の滅びから、永遠のいのちへと救われたのです。だから、大きな喜びなのです。私は失敗して落ち込んだ時、「洗礼を受けて、京子さんと結婚できたんだから、いいや」と元気になります。第二は解放の喜びです。信じたあと、いろんなもので縛られていたことが分かります。過去の失敗や罪、トラウマ的な出来事、悪習慣や呪い・・・いろんなもので縛られていました。Ⅱコリント5:17「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」アーメン。古い人生は過ぎ去り、今は、新しい人生を生きているのです。暗闇から光へ、呪いから祝福へと移されているのです。過去のいやな出来事も、神さまが益に変えてくださいました。逆転勝利の人生です。第三は聖霊による喜びです。ローマ14:17「なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。」クリスチャンになる前の私は、食べても飲んでも、心の奥深くに空しさがありました。クリスチャンになって、「空しい」という思いが全くなくなりました。なぜなら、聖霊によって喜びが与えられているからです。ガラテヤ5章にも「御霊の実は、愛、喜び、平安」とあります。聖霊による喜びは、環境や持ち物に支配されない、御国の喜びです。私たちは何がなくても、聖霊によって喜ぶと、喜びが湧いてきます。昔、松戸の津村牧師がおっしゃっていました。単なる喜びではなく、「よろこ(アクセント)ーび」ですと。
その後、主の御使いだけではなく、天の軍勢が現れて賛美しました。ルカ2:13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。2:14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」この間、福音書房の方3名が年末の挨拶に来られました。これまで、ウォッチマン・ニーの本をたくさん買いました。今回は「ウェットネスリーの新刊が出たのでぜひ、どうぞ」と言われました。それで、「ルカによる福音1,2,3」を買いました。早速、きょうのところを読むとこんなことが書かれていました。「天の軍勢の賛美には二つの面があります。いと高き所では神に栄光、また地上では人々の間に平安です。・・・救い主の到来は、天におられる神に栄光を帰し、地上の人々に平安をもたらしました」。私はクリスマスと言えば、この地に平和がもたらされることだと思っていました。確かに戦争が一時的に止んだり、人々がご馳走を食べ、プレゼント交換をしてお祝いをします。でも、救い主の到来が、天におられる神に栄光を帰すことだとは考えてもいませんでした。アダムが罪を犯してから長い間、人々は死と罪の中に生きてきました。しかし、時が満ち、人となられた神が降りてこられました。それは、天におられる父なる神が栄光を現しておられるということです。そういえば、イエス様が十字架にかかる直前、このようなお声がありました。ヨハネ12:28 父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしはすでに栄光を現した。わたしは再び栄光を現そう。」これは、御子イエスの誕生から生涯にかけて、神さまが栄光を現してこられたということです。最後の栄光は十字架と復活による贖いの完成です。おびただしい天の軍勢が賛美しているのは、キリストの誕生が神の栄光を現しているからです。
私は25歳までクリスマスのことは全く無知でした。私が小学校のとき、新聞にぬりえコンクールが一面に印刷されていました。サンタクロースに絵をぬって、応募するわけです。私は二回くらい応募しましたがなしのつぶてでした。私の家ではクリスマスはケーキを食べられる日でありました。夜、サンタクロースがやってきて、枕元にプレゼントを置いてくれる日だと思っていました。しかし、そんなことはほとんどありませんでした。クリスマスはおとぎ話の世界だったのです。1979年6月洗礼を受けて、その2か月後、彼女から別れを告げられました。それから、毎日曜日、礼拝で嗚咽するくらい泣いていました。12月に入り青年会のクリスマス会で、その年に洗礼を受けた人たちが主役だということが分かりました。私がクリスマス会のプログラムを作ることになりました。一人の姉妹は和文タイプ、私が英文タイプだったので、二人でプログラムを作りました。今写真を見ると、60名くらい集まっていました。青年会長の左に私がいて、その隣に大川道子先生が座っておられました。京子さんはずっと離れたところに半分隠れていました。洗礼を受けて、彼女と友人は失いましたが、教会に来て新しい兄弟姉妹がたくさん与えられました。クリスマスパーティの後ろには大きな絵があり、天使たちが御子イエス様を賛美していました。どうして、この兄弟姉妹たちは良い笑顔なのでしょう?それは、天の栄光が一人ひとりを照らしているからです。いくら地上でクリスマスだからといって、イルミネーションで飾っても、天の栄光には全くかないません。いくらLEDを集めても、天空を照らすことはできません。まさしく、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたのです。また、地上で、いくら大勢で、賛美しても、御使いたちと天の軍勢の賛美にはかないません。おそらく、黙示録5:11,12「また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」数えきれないほどの御使いがいます。
この世では人工的なクリスマスと天的なクリスマスの二つがあります。地上ではイルミネーションをほどこし、パーティをして、食べて飲んで歌って、お祝いをします。若い人は恋人とクリスマスを過ごすのが夢でしょう。子どもたちは豪華なプレゼントを期待しています。でも、それはすべて人工的なクリスマスです。天的なクリスマスはこの世の豪華さや賑わいがなくても十分です。なぜなら、御子イエスの誕生を本当にお祝いしているからです。そこには、天使も参加して栄光を現してくださいます。水野源蔵さんという人がいました。彼は9歳のとき、重い赤痢に罹りその高熱によって脳性麻痺を起し、やがて目と耳の機能以外のすべてを失いました。話すことも書くことも出来なくなりましたが、母親がなんとか彼を意思の疎通をしようと五十音順を指で指示したところ、目の動きで応答しました。12歳のとき、町の教会の牧師が聖書を置いていきました。それをお母さんにめくってもらい、丹念に読んだ源蔵さんはクリスチャンになりました。18歳の時から、お母さんの助けを借りて詩作を開始しました、彼は「まばたきの詩人」と呼ばれました。『救いの御子の降誕を』水野源蔵作。「一度も高らかにクリスマスを喜ぶ讃美歌を歌ったことがない。一度も声を出してクリスマスを祝う挨拶をしたことがない。一度もカードにメリークリスマスと書いたことがない。だけどだけど、雪と風がたたく部屋で、心の中で歌い、自分自身に挨拶をし、まぶたの裏に書き、救いの御子の降誕を御神に感謝し喜び祝う」。
クリスマスは外面的な派手さや美しさではありません。御子イエス様の誕生を心からお祝いする日です。この世のクリスマスは主人公なしの、誕生会であります。代わりにサンタクロースが有名になっています。サンタクロースがプレゼントを渡しに来るのではありません。父なる神が私たちを救いために、御子イエスをこの世にお与えになられました。最もすばらしいクリスマスプレゼントは、主イエス・キリストのことです。そして、最も大きな喜びは、この主イエス・キリストを心にお迎えすることです。そのことにより、心の中の暗闇が追い出され、光が満ち溢れます。そして救いの喜びと、解放の喜び、聖霊の喜びにあふれる人生を送ることができるのです。