きょうの箇所はmagnificat「マグニフィカト」と呼ばれる、讃美歌にもなっています。マリアは自分がメシアを生む母として、選ばれたことを感謝して、賛美しています。今日は、前半は「マリアの賛歌」後半は、「マリアの預言」と題して学びたいと思います。
1.マリアの賛歌
ルカ1:46,47 マリアは言った。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。」欽定訳聖書は、My soul magnifies the Lord, And my spirit has rejoiced in God my Savior.となっています。「あがめる」は、英語の聖書ではmagnifyとなっています。magnifyは、本来「拡大する」という意味であり、レンズなどによって物を大きく見せる、拡大するという意味です。ちなみに、虫眼鏡をmagnifying glassと言います。しかし、どうして「あがめる」と「拡大する」という言葉と同じなのでしょうか?「あがめる」はギリシャ語で、メガルノウであります。「大きくする」という意味と「あがめる、賛美する」という意味があります。それでは、逆に「小さくする」は何でしょう。英語ではbelittleという言葉があり、「~を見下す」「~をけなす」という意味です。私の心の傷は、人から卑下されたり、けなされてきたことです。逆にほめられたり、尊敬されると人一倍、嬉しいですね。では、神さまは私たちからほめられたいのでしょうか、私たちから賛美を受けたいのでしょうか?
神さまは別に私たち人間から、ほめられたり、賛美してもらわなければやっていけないお方ではありません。私たちは神さまから造られ存在です。ですから、創造主をほめたたえるのが当然なのです。不思議なことに、神さまをほめたたえると、そういう自分がうきうきしてきます。逆に神さまに不平不満をもらしたり、神さまを呪ったりすると、自分が惨めになります。たとえば、私がだれかのことをほめると、ほめている自分が誇らしく思えてきます。何故か?それは、その人の価値を認めて、それを喜んでいるからです。もし、私たちが神さまの価値を認めて、それを喜ぶなら、その喜びが返ってくるはずです。私たちはクリスチャンは毎日曜日、このように神さまをほめたたえて賛美しています。その時の私たちの顔はどのようなものでしょうか?悲しみの顔、憂いの顔、怒った顔でしょうか?そうではありません。きっと、笑顔で喜んでいる顔だと思います。一週間において、そういう顔をするときが何度あるでしょう?あまりないと思います。でも、少なくとも、一週間に一回でも、満面に笑顔を浮かべ、神さまを賛美するならどうでしょう?若返って、とても美しくなるのではないでしょうか?このように、神さまを賛美するのは、実は神さまのためではなく、被造物である私たちのためなのだということが分かります。
ところで、マリアは何をそんなに喜んで。神さまをほめたたえているのでしょうか?ルカ1:48「この卑しいはしために目を留めてくださったからです」とあります。これはどういう意味でしょうか?少し前の箇所を見ると、御使いがマリアにこう告げています。ルカ1:35「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれます。」このあと、マリアは「ご覧ください。私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と自分を神さまに捧げました。しかし、マリアはこのことによって、婚約を破棄するようなことになってしまうのです。なぜなら、父親のわからない子どもを生むようになるからです。昔も今も、聖霊によって子どもが宿ると言うことをだれが信じるでしょうか?おそらく、マリアはそんなことを告げてもだれも信じないと思って、だまっていたでしょう。ですから、ユダヤ人から排斥され、石打ちにされることも覚悟してのことだったのでしょう。そのような多大な犠牲を冒してでも、メシアの母になることを選んだのです。マリアは「ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう」と言っています。ということは、いずれ誤解が解かれ、自分がしたことが人々から尊ばれるだろうという信仰があったのです。彼女は自分の幸福よりも、メシアによって与えらえれる人類の幸福を選び取ったということです。
ローマ・カトリックはマリアの「無原罪説」を唱えています。これは、マリアが、受胎の瞬間から、原罪を免れていたという説です。そして、マリアを神格化し、イエス・キリストの母として、死後に体ごと天にあげられたと考えました。今もマリアは神さまへの執り成しを行う、助け手として崇拝されています。しかし、福音書を見ると、イエス様が生まれたあと、ヤコブやユダなど四人の兄妹、二人の姉妹がいたことがわかります。唯一違うのは、イエス様は、ヨセフなしで、聖霊よって超自然的に誕生したということです。しかし、マリアはメシアを生むために、自分をささげた信仰の人であったということです。人々はマリアを見て、「あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は幸いです」(ルカ11:27)と言いました。確かに、そのことを認める人もいました。でも、マリアは自分がもっと苦しむことも知っていました。シメオンが母マリアに「あなた自身の心さえも、剣が刺し貫くことになります」(ルカ2:35)と預言しました。実際、マリアはイエス様が十字架で死ぬとき、他の女性たちとそばにいました。我が子が、槍で脇腹を刺されるところも目撃しました。ですから、メシアとしての母の喜びだけではなく、痛みと悲しみをも味わうことになるのです。ですから、メシアの母になるという信仰あるいは覚悟は並大抵ではなかったということです。
でも、マリアの賛歌の内容を見ると、暗さや悲しさは全く感じられません。神さまに対する喜びと賛美が満ち溢れています。讃美歌95を引用いたします。「わが心は、あまつ神をとうとみ、わがたましい。救い主をほめまつりて、喜ぶ。数に足らぬ、はしためをも見捨てず、よろず代まで、さきわいつつ、めぐみたもう嬉しさ」。私たちの人生を振り返りますと、嫌だったこと辛かったことの方が記憶に残っています。でも、恵みの虫めがね、拡大鏡で見るとどうでしょう。暗い過去にも、楽しいことや嬉しかったことも、ちゃんとありました。たとえ、私たちがイエス様を信じる前であっても、良い事がたくさんあったのです。神さまは、過去、現在、未来にいたるまで、良いものを与えてくださる恵み深い神さまなのです。わがたましいは主をあがめます。
2.マリアの預言
私はマリアの賛美は、後半から預言的なものとなっているのではないかと思います。なぜなら、「メシアがこの地に来られたらこのようなことが成就するであろう」と賛美しているからです。これは、かねてからのイスラエルの希望であり、御国を待ち望むことです。つまりは、メシアが御国を建てるとき、このようになるという預言と捉えて良いのではないかと思います。そういう考えを前提として、いくつかのことを語りたいと思います。「メシアが来られたらどのようなことが起こるか」ということです。50節から見ると、相対する者が繰り返し出てきます。ざっと見て行きますと、「主を恐れる者」と「心の思いの高ぶる者」です。「権力のある者」と「低い者」です。さらには「飢えた者」と「富む者」です。最後は、イスラエルの回復を預言しています。メシアが来られたとき、そのようなことが起こるということです。メシアとはイエス・キリストのことであります。たしかに、イエス・キリストは御国を携えてやってきましたが、完全ではありませんでした。本格的にマリアの預言が成就するのは、キリストが再臨して、御国が打ち建てられたときであります。イエス様がマリアから生まれたのを「初臨」と言います。また、イエス様が世の終わりに来られ、御国を完成するときを「再臨」と言います。クリスマスとは、まさしく「初臨」のことです。残念ながら、初臨、イエス様が最初、地上に来られたときは、預言が成就していないということです。言い換えると、初臨でそのことがはじまり、再臨で完成されるということです。それでは、いくつかのことを見て行きたいと思います。
第一は「主を恐れる者」と「心の思いの高ぶる者」の対比です。50,51節「主のあわれみは、代々にわたって主を恐れる者に及びます。主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。」では、質問をいたします。メシアが来られたとき、主のあわれみはどんな人に及ぶのでしょうか?「主を恐れる者」に及びます。これは旧約聖書的な表現です。新約的に言うと、主を恐れるとは、主を信じるということです。また、「あわれみ」も旧約聖書的な表現であり、新約的に言うと「恵み」です。まとめて言うと、主を信じる者に恵みが及ぶということです。エペソ2章には「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです」とあります。なぜ、そんなことが言えるのでしょうか?それはイエス・キリストが十字架で贖いを全うしてくださったからです。旧約聖書に書いてありますが、至聖所に契約の蓋があり、それを「贖いの蓋」mercy seat(憐れみの座)と言いました。その蓋の上に年に一度、大祭司が民をきよめるために、動物の血を注ぎました。パウロとヨハネはこのことを「宥めのささげ物」と言っており、イエス:キリストが十字架上で成就されました。新約の私たちは救われるために、主のあわれみを求める必要がありません。十字架によってすでに私たちをあわれんでくださったからです。私たちはあわれみよりもまさる恵みの時代に生きていることを感謝しましょう。
では、「心の思いの高ぶる者」を新約的に言うとどうなるのでしょうか?「私には罪がないし、キリストを信じる必要もない」と拒絶することです。キリストの十字架以降、最も大きな罪とは何でしょう?それは、信じないこと、不信仰が最も大きな罪なのです。ヨハネ黙示録21章を見ると、どのような人が火の池に投げ込まれるのでしょうか。黙示録21:8「しかし、臆病な者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らなことを行う者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者たちが受ける分は、火と硫黄の燃える池の中にある。これが第二の死である。」不信仰と人を殺す者とが、等しく並べられています。最も大きな罪は、キリストによって与えられている神の愛である救いを、「いらない」と断ることなのです。地獄とは、神のあわれみのないの及ばないところです。パウロは「神の恵みを無駄に受けないようにしてください。・・・見よ、今は恵みの時、今は救いの日です」(Ⅱコリント6:1-2)と私たちを招いておられます。救いはキリストによって完成されています。救いは恵みです。私たちは信仰によって、その救いを受け取れば良いのです。イエス様は「あなたがたは、幼子のようにならなければ、天の御国に入れない」と言われました。幼子は何かをあげると素直に受け取ります。しかし、大人は「ただより怖いものはない」と疑って受け取りません。これまでさんざん裏切られてきたからです。でも、天の神様とイエス様は真実です。最もすばらしいプレゼントはキリストにある罪の赦しと永遠のいのちです。せっかく、差し出されているのですから、幼子のように受け取れば良いのです。
第二は「権力のある者」と「低い者」です。権力のある者とは、王座に座っている人のことです。ルカ福音書が書かれた時代はローマ皇帝が権力をふるっていました。ダニエル書1章にはネブカデネツァルが見た「巨大な像」の夢が書かれています。その像は、頭が純金、胸と両足は銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした。これはどういう意味でしょうか?ダニエルが生きていた時代と、その先に世界を支配する王国を預言しました。最初は頭であるバビロンが支配します。その後はメド・ペルシャが立ちます。その後はギリシャが立ちます。すねと足はローマのことです。鉄と粘土が混じり合わないように、ローマは内側から崩壊するということです。歴史を見てもわかるように、主は権力のある者を王位から下ろすお方です。そして、ダニエルはこう預言しています。ダニエル2:44「この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。この国はほかの民に渡されず、反対にこれらの国々をことごとく打ち砕いて、滅ぼし尽くします。しかし、この国は永遠に続きます」。これは、イエス・キリストが王として治める永遠の御国のことです。
では、どういう人が御国を継ぐことができるのでしょうか?それは「低い者」です。低い者とは、身分の低いという意味もありますが、へりくだった人のことです。喜んで、神のご支配を受ける人のことです。御国にいち早く入った人とは、どういう人たちでしょう?マタイ21章32節には宗教家たちではなく、取税人や遊女たちであると書かれています。イエス様が「心の貧しい人たちは幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3)と言われたとおりです。私たちは人生において、心が貧しくなるときがあります。「私の人生はこれで良かったのか?」と、どん底に落とされたような経験もするかもしれません。申命記には「下には永遠の腕がある」(申命記33:27口語訳)と書かれています。不思議なことに、すべての希望をなくした時に、御国の入口が見えてくるのです。イエス様は「狭い門から入りなさい」と言われました。広い門は人々に人気があり、だれもが行きたがるところです。しかし、その先は滅びです。イエス様が用意している門は、人気がなくて、人々の目から閉ざされています。でも、それは命にいたる唯一の道です。私たちは貧しく、低くならないと、その門から入ることはできません。ですから、貧しくさせられたり、低くさせられるようなことが人生に起こることが幸いなのです。なぜなら、かけがえのない御国への門が見えてくるからです。マタイ7:14「いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」
第三は「飢えた者」と「富む者」です。1章53節「飢えた者を良いもので満ちたらせ、富む者を何も持たずに追い返されました」。これは地上のことだけを言っているのではありません。地上では、飢えた者と富む者がいます。地上では不平等があります。しかし、御国が来たら、そのことが逆転するということです。ルカ16章には金持ちと貧しいラザロの物語があります。現実にそういう人いたのか、たとえなのか分かりません。しかし、彼らの死後のことがはっきりと記されています。金持ちは、紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていました。そして金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていました。彼は金持ちの食卓から落ちる者で、腹を満たしたいと思っていました。私が考えるに、この人は栄養が足りていないのではないでしょうか。栄養失調の人は、免疫力がないので、皮膚病とか、さまざまな病気にかかるのではないかと思います。しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れていかれました。金持ちもまた、死んで葬られました。おそらく、盛大な葬式であったと思います。でも、彼は火が燃えるよみで苦しんでいました。見上げると、遠くにアブラハムがいて、彼のふところにラザロが見えました。アブラハムは何と言ったしょう。「子よ。思い出しなさい。お前は生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている」(ルカ16:25)と言いました。まさしく、この中に、「飢えた者」と「富む者」の結末が記されています。この地上で報われない人は、天の御国で報われるということです。地上では不平等ですが、御国においてはそれが逆転するということです。
でも、それは世の終わり、御国が完成するときまで待たなければならないのでしょうか?イエス様がメシアとして地上に来られたときは何も起こらなかったのでしょうか?これまで長い間、キリスト教会は貧しいのが清くて良いことであり、金持ちや富は良くないと退けてきました。確かにパウロは金銭を欲することは悪の始まりであると言っています。しかし、さきほどの物語の前に、不正な管理人のたとえがあります。ルカ16章の前半に、そのたとえ話が記されています。お金は不正な富「マモン」と呼ばれています。マモンは「富」や「強欲」を意味することばです。でも、イエス様はこのたとえで、「不正な富で、自分のために友を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます」(ルカ16:10)と教えました。さきほどの金持ちは、自分の富や財産を、神さまのために使わず、全部自分のために使ったのです。おそらく、ラザロにもあげなかったでしょう。だから、ラザロは金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たすしかなかったのです。その金持ちは、死後の準備を全くしていなかったということです。イエス様は「地上ではなく、天に宝を積みなさい。やがて、それが自分のものになるのだ」と言われました。つまり、地上のことしか考えないことが罪であり、お金があるないという問題ではないのです。富やお金は神さまがその人に、一時的に与えたものです。それをギャンブルやこの世の楽しみに使わないで、正しく管理することが重要なのです。神さまから与えられた富やお金を永遠の御国のために投資することが重要なのです。
メシアの誕生に際して、マリアは欠かせない存在でした。使徒パウロは女性蔑視のような発言をしておりますが、どうなんでしょうか?Ⅱテモテ2:14「そして、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて過ちを犯したのです」とあります。創世記3章を見ると、確かにエバはヘビに誘惑されてしまいました。でも、その後、すばらしいことが書かれています。創世記3:15「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」女の子孫とは、まさしくイエス・キリストのことであります。これはマリアがメシアを生み、そのメシアがサタンを打ち砕くということです。マリアは「私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおり、この身になりますように」と自分を神さまに捧げました。マリアの従順から、マリアは第二のエバと呼んでもさしつかえないのではないでしょうか?マリアはエバの失敗を取り返したのです(「汚名挽回は誤用です」という意見があり変更しました)。聖母マリアと神格化してはいけませんが、女性の身分回復をした信仰の人であることは間違いありません。クリスマス、主人公は神の子、イエス・キリストであります。しかし、一番の脇役はマリアです。神さまはあえて、女の子孫としてマリアを選び、マリアはそれに応えました。そして、マリアはこのように賛美しました。
このような礼拝で、聖書を学びながら、クリスマスをお祝いできることを感謝します。マリアの賛美こそ、私たちの賛美です。「私のたましいは主をあがめ、私の霊は私の救い主である神をたたえます。この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ご覧ください。今から後、どの時代の人々も私を幸いな者と呼ぶでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださったからです。」マリアは知性で賛美しているのではありません。たましいで主あがめ、霊によって神さまをたたえています。神さまは私たちの目には見えません。知性でも分かりません。神さまが分かるのは、私たちのたましいであり、霊です。目に見えない神さまを信じることができたことを感謝しましょう。また、私たちの救いのために、イエス・キリストがこの地上に降りてくださったことを感謝しましょう。キリストの十字架と復活によって、だれでも、どんな人でも、信仰によって救われ、永遠の御国に入ることができるようになりました。神さまに感謝します。