2025.11.16「権威に従う大切さ ローマ13:1-7

この世にはいろいろな権威があります。車を運転していると、お巡りさんに従わなければなりません。学校では先生に、会社では上司に、教会では牧師に従うように定められています。でも、中にはそんな権威は認めない、認めたくないと反発して生きている人もいます。本来、権威は守りを与えるために存在しているのであり、権威を認めないなら、その守りから除外されることになります。多くの人たちが翻弄され、葛藤していますが、その原因は権威に従っていないからかもしれません。きょうは権威に従う大切さについて聖書から学びたいと思います。

1.権威の存在理由

 パウロはこの世に存在しているすべての権威は神さまが与えたものであると教えています。ローマ13:1-2「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。したがって、権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます。」当時はローマがその世界を支配していました。しかし、今日でいう民主主義ではありません。パクス・ロマーナ、「ローマの平和」と言いますが、ローマ帝国の軍事的征服によって生まれた平和です。ネロ皇帝になると、キリスト教に対する迫害が顕著になり、紀元後313年までそれが続きます。でも、パウロがローマ人への手紙を書いた頃は、過激な宗教弾圧はなかったようであります。イエス様は、ローマを転覆させてイスラエル王国を打ちたてるような政治的メシアではありませんでした。使徒パウロもそのことを理解しており、ローマの総督、千人隊長、百人隊長などに従いつつ、福音を宣べ伝えました。パウロがローマにこのように書き送っているのは、キリスト教会は政治的結社ではないということを確認させるためです。間接的にこの手紙を読んだ、ローマ政府も「ああ、そうなのか」と取り締まる必要がないと思ったことでしょう。きょうは、そのような政治的なものよりも、私たちの日々の生活において、権威に従うことがいかに大切なのか共に考えたいと思います。

 パウロは人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです」と言いました。私たちの周りにはたくさんの権威があり、好むと好まざるに関わらず、それらの権威に従いながら生きています。国家的な権威は法律や警察、お役所でしょう。会社はピラミッド型の組織になっており、取締役社長が最も権威があります。でも、彼らは株主総会を恐れています。聖書は家庭において、父親が権威を持っていると教えています。また、霊的な権威があり、私たちには悪魔を追い出す権威が与えられています。しかし、ヤコブはこのように教えています。ヤコブ4:7「ですから、神に従い、悪魔に対抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」ヤコブは、まず私たちが神の権威に従わなければ、「悪魔に対する権威もない」と言っているのです。ところで、権威は英語でauthority, powerと言います。ギリシャ語はevxousi,aであり、「ある事をする自由、権利、資格」という意味があります。それが動詞になると「権力を行使する、支配する、自由にする」という意味になります。私たちは「権威」と聞くと、否定的な意味に捉えて、気分が悪くなるかもしれません。もちろん、権威主義は良くありませんが、秩序を与えるための正しい権威は必要不可欠です。私は内乱が起きている中東や東南アジアには行きたいとは思いません。そこは無政府状態であり、個人の生命も財産も保証されていません。完全無欠な政府は存在しませんが、無政府状態よりははるかに増しなのであります。日本で住んでいると民主国家が理想的かもしれませんが、王政や独裁制、共和制、共産国家であっても、平和で暮らしている人たちがいます。本当の秩序と平和は、キリストが治める神の国、千年王国と新天新地であることは間違いありません。私たちクリスチャンはこの世でさまざまな権威に服していますが、究極的には父なる神の権威に従って生きているのです。イエス様が十字架にかけられる前、ピラトがイエス様に「私に話さないのか。私にはあなたを釈放する権威があり、十字架につける権威もあることを、知らないのか」と言いました。これに対して、イエス様は「上から与えられていなければ、あなたにはわたしに対して何の権威もありません」(ヨハネ19:11)と答えられました。ここではっきりわかることは、「上とは」神さまのことであり、ピラトよりも権威があるということです。イエス様は父なる神の権威のもとで、生きておられたので、どんな状況でも平安だったのです。

 権威というテーマを扱っている有名な箇所がルカ7章にあります。あるとき、ローマの百人隊長が、イエス様のところに使いを送りました。「自分のしもべが病気で死にかけているので、助けに来てください」とお願いしました。しかし、家の近くまで来ると、使いをやり「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので」と断りました。おそらく彼は異邦人の家にラビをお入れするのは律法に反していると思ったのでしょう。そして、「ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください」とお願いしました。その理由として、「自分も権威の下に置かれていて、自分の兵士に『行け』と言えば行くし、別の者に『来い』と言えば来るからです」と言いました。イエス様は「イスラエルのうちで、これほどの信仰をみたことがありません」と驚かれました。この百人隊長は権威というものがどういうものなのか知っていたからです。そして、「イエス・キリストこそが最も権威あるお方であり、おことば一つで自分のしもべは癒されるのだ」と信じていたからです。イエス様は「あなたの信じたとおりになるように」と言われ、その時、彼のしもべは癒されました。つまり、イエス様が直接、手を置かなくても、発したことばによって癒されたということです。イエス様は権威に従うことと、信仰を結び付けられました。ローマの百人隊長は千人隊長や総督に従っていたでしょう。でも、彼らよりもイエス・キリストには、神の子としての権威があると信じていたのです。パウロは「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです」と言いました。私たちもこの世において、「神からの権威」として、信仰をもって受け止めるとき祝福が訪れるということです。権威は下の者を守るために神から与えられたものだからです。

2.権威に対する心の傷

 権威に従うことの大切さを最初にどこで知るのでしょうか?それは家庭です。子どもにとって、父親は権威の象徴であり、生育史において学ぶべき重要なことです。そのことは、十戒に記されています。出エジプト20:12「あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである」。旧約聖書においては、長寿は神の祝福として考えられていました。だから、父と母を敬うなら祝福を受けるということです。これは、十戒の五番目にあたります。パウロはもう少し詳しく述べています。エペソ6:1-4「子どもたちよ。主にあって自分の両親に従いなさい。これは正しいことなのです。『あなたの父と母を敬え。』これは約束を伴う第一の戒めです。『そうすれば、あなたは幸せになり、その土地であなたの日々は長く続く』という約束です。父たちよ。自分の子どもたちを怒らせてはいけません。むしろ、主の教育と訓戒によって育てなさい。」パウロは、父と母を敬うことが「第一の戒め」であると言っています。これはどういう意味でしょう?十戒の一から四までは、神に対する戒めです。そして、五戒が父と母を敬え、六戒が殺してはならない、七戒が姦淫してはならない、八戒が盗んではならない、九戒が偽ってはならない、十戒がむさぼってはならないです。第五戒から第十戒が人間に対する戒めです。パウロが「第一の戒め」と言ったのは、「父と母を敬え」が、人間に対する戒めの最初だからです。言い換えると、「第一の父と母を敬うならば、他の戒めも守ることが容易になりますよ」ということです。逆に言うと、父と母を敬わないなら、いろんな罪が生じて苦しまなければならないということです。ここでパウロは、子どもが両親に従うべきことと、父親が主の教育と訓戒によって育てるという2つのことを教えています。実際に、そのように行われれば、長生きして、神の祝福を受けるのですが実際はそうではありません。

 子どもは純粋無垢のように思われますが、アダム以来の罪の種が宿っています。親はそのつもりがなくても、それを曲げて解釈してしまうのです。親に対して怒り、反抗心を持ってしまいます。それでも、親が愛情をもって、主の教育と訓戒によって育てたら問題はありません。でも、まことの神を信じていない異邦人は、子どもを育てる良い指導書がありません。親自身もひどい家庭で育ち、権威を学ばないで育ってきたかもしれないからです。特に父親が神の権威の代表的な立場にあるので責任重大です。ところが、父親の役目を果たしていない家庭が多いのです。昔は父親が独裁者のように振舞いました。今は逆に優柔不断で母親に決断させる父親が多いかもしれません。お酒やギャンブルに走って、ろくに働かない父親もいるでしょう。浮気や離婚で良い手本を示さない場合もあります。放任主義で、わがまま放題で育てられた子どもいるでしょう。中国は一人っ子政策で、子どもを王様のように育てたりします。父親が不在だったり、たとえ家にいても何もしない機能不全な家庭で育った子どもはどうでしょうか?彼らは正しい権威をどこから学ぶことができるのでしょうか?私の場合は父親が家庭を正しく治めていなかったので、兄弟同士喧嘩ばかりしていました。正しい躾を受けないで育ってしまいました。学校で私が一番叱られたのは、そのような原因があったからかもしれません。

 さて、家庭において父母を敬わず、権威に従うことを学ばなかった子どもが大きくなったらどうなるでしょう?その子が学校に入ると、先生を敬わず、先生の言うことを聞きません。何でも逆らいます。先生は権威を軽んじられたと思うので、その子を目の敵にするでしょう。その子は自分がそんなに悪くないのに、悪者扱いを受けることになります。その子が会社に就職するとどうでしょう?従える上司もいますが、従えない上司もいます。社長や部長が偉そうにふるまっていて、腹がたちます。どういう訳か昇進できず、嫌な仕事ばかりあてがわれます。だから、余計、従いたくなくなります。教会ではどうでしょう?牧師が偉そうにふるまっています。そして、とてもいい加減で「しっかりしろ!ちゃんとやれ!」と言いたくなります。その人にとって、神さまはどうでしょう?遠くにいて、恐ろしくて近寄りがたい存在です。「天のお父様」と親しく祈ることができません。なぜなら「地上の父」を思い出してしまうからです。しかし、自分もやがては会社の上司になり、家庭の父親、母親になるでしょう?でも、どういう訳か下の者を面倒見る気になりません。子どもたちに対する愛情も小さいときはあっても、子どもが成長すると、どうやって接して良いかわからなくなります。やがて子どもたちが口をきかなくなります。かつて、自分が親に口をきかなかったように、子どもたちから同じ扱いを受けるのです。父母を敬わなかった悪循環は絶えません。

 なぜでしょう?なぜ、そのような不幸がその人に降りかかるのでしょう?ジョン・ビビアという人が”under cover”という本を書いています。日本語に訳すと『覆いの下』という意味です。たとえて言うと、雨の日に傘の下に入るなら、体が濡れないということです。たとえば、会社に勤めていて、冷遇される人がいます。どいう訳か上司から理不尽な扱いを受けてしまいます。「そういえば、学校のときも先生から目の敵にされていたなー」と思い出します。なぜでしょう?その人は権威に逆らって生きているからです。権威ある人は何かを与えたり、奪ったりする力があります。もし、気に入らない人であるなら、自分が持っている好意favorを与えるのを控えるでしょう。どうせ与えるなら自分を敬う人に与えたくなるでしょう。権威に逆らっている人は好意をもらえないので、自分の権利を主張して要求するしかないのです。皆さんも考えてください。自分の人生は好意をいただく方でしょうか?それとも、与えられないので要求する方でしょうか?権威ある人は自分の再配でどうにでもできる余力や余剰があります。彼はだれにあげたら良いか考えています。自分を馬鹿にしたり、逆らう人には絶対あげたくありません。それよりも、自分を尊敬して、従う人に与えるでしょう。箴言21:1「王の心は、【主】の手の中にあって水の流れのよう。主はみこころのままに、その向きを変えられる。」この意味は、王に権威を与えているのは神さまであり、自由にその向きを変えられるということです。もし、私たちが、その人の権威が神から与えられていると信じるなら、喜んで従うべきです。そうするなら、神さまがその人を通して、あなたに好意を与えてくれるのです。『覆いの下』とは、権威の下にいるなら守られ、庇護が与えられるということです。これはゴマをすれば良いという処世術ではありません。うわべだけの従順は、すぐばれてしまいます。パウロはこのように勧めています。コロサイ3:22-24「奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。」現代的に言うと、上司の下で、働いている人のことです。これは権威に従うなら、主ご自身が報いを与えてくださるという約束です。

 

3.権威に従う人になる

 生まれつきの人間は権威に逆らいたいという罪の性質があります。でも、すばらしい両親に育てられた子どもは、神さまの権威を認め、世の中の権威にも従いやすくなるでしょう。その人は、無駄な人生の嵐を受けずに、平安な日々を過ごすことができます。なぜなら、”under cover”『覆いの下』で生活することの大切さを知っているからです。しかし、権威という権威に逆らいたいという反骨精神の人もいないわけではありません。神さまはそういう人に対して2つのことをなさって、従順で祝福を得る人に変えてくださいます。

 第一は環境を通して自我を砕くということです。ウォッチマンニーはこれを「聖霊の按排」と呼んでいます。ヨセフは甘やかされて育ちました。兄弟から妬みを買い、エジプトに奴隷として売り飛ばされました。彼は13年もの間、不当な扱いを受けつつ耐え忍びました。でも、主の御手が共にあったので支えられました。やがては、エジプトの総理大臣になり、カナンに住む親族を救ってあげました。詩篇の記者はこのように述べています。詩篇105:18-20「ヨセフの足は苦しみのかせをはめられ、その首は鉄のかせに入れられた。彼のことばがそのとおりになるときまで【主】のことばは彼を錬った。王は使いを送ってヨセフを解放した。諸国の民の支配者はそうして彼を自由にした。」ヨセフは砕かれて、そして練られたのです。やがて、エジプトの全財産を治める者になりました。ヨセフは兄弟たちにこう言いました。創世記45:5「私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。」ヨセフはすっかり砕かれて、神の摂理の御手を認めへりくだっています。聖書に出てくる信仰の人たち、アブラハム、モーセ、ヤコブ、ダビデ、ヨブ…すべてこのような試練の時を過ごしました。ヘブルの記者はこのように述べて言います。ヘブル12:6-7「主はその愛する者を訓練し、受け入れるすべての子に、むちを加えられるのだから。訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。」主から訓練を受けているのに、それが悪魔からのものだと勘違いする人もいます。そういう場合は「悪魔よ、去れ」と言っても、効果がありません。なぜなら、悪魔ではなく、主ご自身がむちを与えておられるからです。だから、訓練として耐え忍ぶしかないのです。でも、最終的にどうなるのでしょうか?ヘブル12:11「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」アーメン。

 第二はキリストのからだなる教会を通して、神さまの愛と憐れみを体験させてくださいます。神さまは愛なるお方であり、直接、あなたに愛と憐れみを与えてくださいます。しかし、多くの場合、人を通して、ご自身の愛と憐れみをお示しになります。なぜでしょう?その人の権威からきた傷を癒し、回復するためです。その人は父親の間違った権威のもとで育ったからかもしれません。独裁的であったり、無関心であったり、父親としての責任を果たさなかったかもしれません。そのため、反抗心が他の人よりも強いのかもしれません。神さまは砕くだけではなく、愛と憐れみをもって再生してくださるお方です。でも、直接ではなく、多くの場合、キリストのからだなる教会を通して行われます。私は機能不全な家庭で育ちましたので、父の心がありませんでした。反抗心と自虐的な精神でいっぱいでした。しかし、教会に来て、良い人たちと大勢巡り合いました。大川牧師は私の霊的な親です。私に母教会があり、霊的な父がいるということは本当に誇りです。私がこのように守られ祝されているのは、母教会と霊的な父を敬っているからです。もう一人忘れてならない人が、インドネシアのエディ・レオ師です。2000年から約10年間、親しい交わりをさせていただきました。私に父の心を与えてくれた人です。私は孤独で自分の価値を知らないで生きてきました。そういう人が指導者になれるのでしょうか?箴言30:21-22「地は三つのことによって震える。いや、四つのことに耐えられない。奴隷が王となり、愚か者がパンに満ち足り、嫌われた女が夫を得、女奴隷が女主人の代わりとなることだ。」もし、奴隷がある日、突然、王になったらどうなるでしょう?クリス・バロトン師がこのように主から言われたそうです。「奴隷は、生まれた時から取るに足りない者として扱われて来た。彼は成長しても自分には大した価値がない事、また自分の意見は尊重されない事を成長する過程で学ぶのだ。それ故、彼が王になり、周りの者にとって偉大な者となったとしても、彼自身の内にある王国においては、彼は自分の価値を認めることができないのだ。そういう訳で、彼は自分の発言にも注意を払わない。彼が導くはずのその人達を、やがては自分の手で破滅させてしまうのだ。私の息子よ。お前こそがその王となった奴隷なのだ」。私も全く同じでした。私は8人兄弟の7番目で、力ではかなわないので、心の中で憤慨しつつ、皮肉を言っていました。牧師になってもそれは続いていました。妻を、役員さんたちを、こきおろすブラック・ジョークを放っていました。神からの権威が与えられているのに、8人兄弟の7番目でやってきたのです。でも、主の恵みと兄弟姉妹の愛により、癒されて権威ということが分かってきました。神からの権威は自分を偉く見せるためではなく、任された家族や兄弟姉妹を守ることです。そして、神から与えられた権威を独り占めするのではなく、エンパワリング、権威を付与して共に神さまに仕えることなのです。