2025.10.19「問題解決の道 使徒13:42-52」

私は当亀有教会の牧師ですが、教会堂と牧師館の管理もしています。設備や備品が壊れたり、不具合が生じると私が直します。専門業者を呼ぶこともありますが、鈴木工務店が請け負うこともあります。この礼拝堂を見ると、音響関係、LED照明、講壇の照明、プロジェクター、非常口灯、カーペット張替え、Wi-Fi、エアコン掃除、コロナ対策のアクリル板もやりました。他には、車のオイル交換、バンパー補修、お風呂のホース取り換え工事…生活をしていると、何かが壊れたり、古くなって新しく取り換える必要が起こったということです。私はこのような工事を請け負ってみて、問題解決までの一定のパターンを発見しました。

1.問題の発生

 序論では教会堂と牧師館に関する「問題」を話しました。私たちは仕事において、家庭のことで、あるいは自分の体のことで、問題が生じます。あなたは今、どのような問題に出くわしているでしょうか?「売上げが伸びない」「上司が無理難題を要求する」「子どもが言うことをきかない」「排水溝が詰まっている」「腰痛が直らない」…生きていると様々な問題が起こります。でも、問題があるのは生きている証拠です。この世で、問題が全くなくて、平和なところはどこでしょう?それは墓地です。あそこで眠っている人たちは、全く問題を感じていません。「問題があるのは生きている証拠です!」大和カルバリーだったら、みんなで告白するかもしれません。

 問題が起きたときに、人はどちらかの選択をしなければなりません。問題解決の道を選ぶか、それとも「見てみないふりをするか?」です。台所の排水溝が詰まっていても、しばらくは我慢することができます。家内が「業者を呼んで直してもらいなさい」とプレッシャーをかけます。いろんな道具を使って、やってみましたがすぐまた詰まります。やっては詰まり、やっては詰まりの繰り返しです。人生においても、根本的な問題解決ではなく、対症療法というのがあります。痛みを軽減するという方法はこの世においてはたくさんあります。でも、それではダメなときがあります。いよいよ重い腰を上げて、問題解決に踏み込む時が来るのです。伝道者の書3章に「すべてに時がある」と書かれています。重要なのは、問題解決のための「勢い」です。勢いというのは、英語でmomentumと言います。「問題解決に踏み込むぞ!」という勢いが必要です。

 ある人が「物事を始めたなら、半分はできたようなものである」と言いました。かなり前に子どもたちの写真整理をしたことがあります。箱にネガがたくさんありました。それから、子どもたちのアルバムが一人に5冊くらいありました。子ども4人と私たち夫婦、教会関係です。もし、荒川の堤防が決壊したなら、全部水浸しになるでしょう。それで、ネガをデジタル化しましたが、色はイマイチさえません。アルバムから写真を剥がしてスキャナーで読み取り、デジタル化しました。半年くらいかかって、ほぼ完了し、5つのUSBに収めました。でも、今思えば、やるまでが大変で、とりかかったらできたということです。このように問題が起こったなら、逃げないで立ち向かうことです。やり始めることです。そうすれば、半分はできたようなものです。

2.紛糾が起こる

 使徒の働きを見てわかるのですが、パウロが福音を宣べ伝えに行くと、信じる人もいますが、反対する人も現れます。彼は他の町に逃れ、そこでも福音を伝えます。すると、また反対が起こり、次の町に行きます。そのようにして福音が広められていくというパターンを発見します。「神様どうしてですか?私が何か悪いことをしているのでしょうか?正しいことをしているのに、どうして妨害が起こるのですか?」と言いたくなります。パウロはⅡコリント12章で、「肉体のとげ」のことを言っています。パウロは、自分を打つためのサタンの使いが、去るように3度祈りました。ある人たちは、「とげとは、ユダヤ人たちの妨害である」と解釈しています。映画を見てわかるのですが、1つの共通点があります。ヒーローが問題解決のため立ち上がります。でも、まもなく敵対する者が必ず現れます。バットマン、スパイダーマン、アイアンマン…敵役が登場します。テレビドラマを見ても、必ず、主人公を妨害する人が出てきます。見ている人は、イライラして、「どうしたら解決できるだろうか?」とドラマに参加します。軋轢、もがき、反対者、裏切り、失敗、思うようにいかないことが必ず起こります。

 問題がすぐ解決するときもありますが、実はそうでないときの方が多いのです。ある時、お風呂の水が減っていることに気づきました。耳をすますとチョロチョロ音がするんです。風呂桶をひっくり返すと、ホースの取り付け口が劣化していました。近くの住宅機器店にお願いに行ったら、副店長がお家に来て「こういう部品あります」と言ってくれました。ああ、直ぐ来てくれるのかと思ったら来ません。三日後にお店に行き、担当者に伝えてくれるようにお願いしました。さらに三日たっても返事がありません。「いい加減な奴はいるものだ」と、アマゾンとモノタロウで、「追い焚きホース一式」を注文しました。それから四日後、合計十日後、店長さんと道でばったり会いました。「うちの息子が依頼を受けたそうですが、部品が明日到着します」と言いました。「もう、結構です。アマゾンで頼みましたから」と断りました。ところが、一番最後の取り付けがうまくいきません。20年以上も前なので同じ部品がないのです。娘は2週間もシャワーなのでブーブー文句を言っています。いろんな店に注文しましたが、合いません。4000円くらいその部品で無駄使いしました。最後は、ホースの付属部品をグラインダーで削って、やすりで磨き、絶縁テープで巻き、針金で縛りました。「やっつけ仕事」としか言えません。すぐ直ると思ったのに、思い通りいかないというのはストレスがたまります。

 私の一番弱いところは「不当な扱い」を受けた時です。「ちゃんとやったのに、なぜ、動かないんだ!」と機械に向かって叫びます。人間関係においても、「こっちに不手際がないのに、どうして邪魔をするんだ」ということはないでしょうか?さっきも言いましたが、物語には必ず、敵対者が登場するものなのです。何も問題もなくスムーズに解決したら、ちっとも面白くありません。刑事もの、サスペンス、医療系…いろんなテレビドラマがあります。最初に問題が起こります。次に主人公が問題処理のため立ち上がります。でも、必ず主人公に反対する、妨害する人物が現れるのです。いわゆる敵役です。意地が悪く、策略を設け、足をひっぱる人物です。私はテレビドラマが大嫌いであり、ほとんど見ません。なぜなら、そういう敵対者が出ると、胸がドキドキするので耐えられないからです。私は家庭や学校などの生育史の中で「不当な扱い」を度々受けてきました。ですから、テレビドラマは作り話なのですが、その中に入り込んでしまい、苦しくなってしまうのです。しかし、神さまはそれを乗り越えるように、願っておられるのかもしれません。パウロもユダヤ人によって苦しめられました。ダビデもサウル王によって10年以上も命を狙われました。イエス様は「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33)と言っています。

 

3.助け手が現れる

 主人公が問題解決のため苦しんで、にっちもさっちもいかない時があります。いわゆる、壁にぶち当たっている状態です。でも、予期せぬところから、助けが与えられるものです。『スター・ウォーズ』もそうでした。ルークの助け手は、ジュダイのヨーダでした。彼がフォースを使うことができるようにコーチしてくれました。ハン・ソロも助け手の一人です。信仰的に言うなら、神様が助け手を送ってくださるということです。ビル・ジョンソンが昔いた教会に再び招かれました。役員たちが「しるしと奇跡の伴う」リバイバルを求めていたからです。しかし、赴任した直後、1000名の人たちが教会を去りました。もちろん、それは予期していたことです。神様は不思議にそれ以上の人たちを送ってくれました。そのとき、現れた助け手はクリス・バロトンでした。彼は神学校も出ていない、30代の自動車のエンジニアです。しかし、神様は彼を預言者として若い時から召していたのです。ビル・ジョンソンはまだ経験のないクリス・バロトンをスタッフの一人に加えました。彼はみるみるうちに頭角を現し、シニア・アソシエート・パスターになりました。ビル・ジョンソンは使徒ですが、使徒には預言者が必要です。ゼカリヤ書にありますが、神殿再建のため総督ゼルバベルがいました。彼は新約では使徒的な存在です。でも、彼を助けるハガイという預言者が必要でした。パウロは後でシラスを連れて宣教旅行をしています。パウロは使徒ですが、シラスは預言者でした。二人はとても良いコンビでした。

 「問題がうまく解決しない。どうしたら良いだろう?」と、もがくときがあるでしょう。そのとき私たちはいろんな方法、いろんな人、いろんな情報を集めようとします。もちろん、神様に祈り求めます。それは問題解決のアンテナを張るということです。詩篇121:1-2「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは【主】から来る。天地を造られたお方から。」アーメン。10年以上前になりますが、教会堂の外壁と屋根の補修をする必要が出てきました。いくつかの業者を当たりましたが屋根の補修が難しいというのです。当教会の屋根は、普通の屋根と違って、薄っぺらい板が重ねて貼ってあります。風雨にさらされて、はがれているところもあります。ある業者は「全部はがして、コロニアルに吹き替えなければなりません」と言いました。ある時、いつものクリーニング店に行きました。すると、覆いがかけられ、外壁の補修をしている最中でした。「どこがやっているんですか?」と聞いたら、「中田塗装店です」と教えてくれました。早速、中川2丁目まで出向き、屋根を見てもらいました。会長さんが「これは上から二度塗りすれば大丈夫!」と言ってくれました。中田さんにお願いしたら、リーズナブルな工事費で完成しました。数年後、牧師館もお願いしました。「丁寧にやってくださり、本当に良かったなー」と満足しております。少し、コマーシャルをしてしまいましたが、丁度、良い助け手が与えられるものです。この講壇を照らしている照明も、本当にどうなるのか悩みました。すると、会堂のエアコンをなさった業者が、「うちは照明がメインなんです」と言ってくれました。本当に安く、とんとん拍子にこのように照明が設置されました。「牧師は魂のことだけ当たっていれば良いのだ」とお叱りを受けそうですが、元現場監督の私は放ってはおけないのです。

 みなさんの中にも長い間、持病に苦しんでいる人がいるかもしれません。あの薬、あの治療法、あのサプリメント…いろいろ試したのではないでしょうか?良いお医者さんに当たる場合もあるし、自分に効く薬と出会うときもあります。テレビを見ると、最先端医療というのがやっていますが、そういう名医のもとに人々が殺到しているようです。ある時、脳の血管をクリップで止めることによって脳内出血を防ぐというのをやっていました。また、ある時は、脳梗塞のため半身が麻痺の患者に対しての治療がありました。麻痺を与えている脳に電流を流しながら、体を動かすと、リハビリの速度がぐっと増すのだそうです。医療だけではなく、発明、発見の世界もそうです。『ガイヤの夜明け』などを見ると、門外漢の人が考えたものが、すばらしい問題解決になるということがよくあるそうです。私たちの最大の助け手は「聖霊様」です。箴言に神の知恵が擬人化されています。箴言8:1「知恵は呼びかけないだろうか。英知はその声をあげないだろうか」とあります。神様は知恵のあるお方であり、隠れたことをあらわにしてくださる善き神様です。

 私は乾癬という皮膚病を1999年発症し、20年以上苦しみました。最初、高木皮膚科に行きましたが、「これは簡単に治る病気ではない」と言われました。高木皮膚科は混むので亀有の北口のすいている皮膚科にも行きました。漢方薬を煎じたり、アメリカからハーブや塗り薬を注文しました。小さな皮膚の鱗片が部屋を汚すので家内から「掃除器をかけなさい」と言われ続けました。他の先生からも祈ってもらいました。先祖から受けた呪い、DNAが変えられるお祈りもしました。でも、うまくいきませんでした。英語の本を訳していたとき「光線療法」というのがありました。インター・ネットで探し、中国系の業者から買いましが、全く効果がありませんでした。ある時、咳が止まらなくて、近くの診療所に行きました。お医者さんから「咳よりも、皮膚だよ。これじゃ敗血症で死ぬよ」と脅されました。最後に青戸病院の皮膚科を紹介され、小百合先生から注射を打ってもらいました。今、寛解状態です。助け手は必ずやってきます。詩篇121:1-2「私は山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのか。私の助けは【主】から来る。天地を造られたお方から。」諦めてはいけません。その証拠に、多くの問題が解決されてきたからです。

4.完成で終わる

 ほとんどの物語の順番は、問題が発生し、紛糾が起こり、助け手が現れ、そして完成で終わるということです。パウロの言葉をお聞きください。ピリピ1:6「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」アーメン。救いの問題もそうですが、私たちが今、とりかかっている問題もそうです。また、これから起こるであろう問題もそうです。最後は、完成で終わります。前の車のバンパーを自分で治しました。中古のバンパーをヤフオクで購入し、修理工場で取り付けてもらいました。しかし、そのバンパーは傷だらけで、右側はかなりへこんでいました。パテを塗り、スプレーで塗装するのですが、ものすごく大変なことが分かりました。塗ったら、色ムラが出てしまいました。そのとき助け手の坂下兄が現れ、「スプレーは一方向から吹きかけるのですよ」と教えてくれました。その前は、往復して、吹きかけていたんです。彼の言う通りやりました。色は均等でも光沢がありません。「クリヤー」という透明の塗料を吹きかけてもダメでした。右隣のご主人と真向いのご主人が「一生懸命やっていますね」とほめてくれました。私のことばは「いやー、餅屋は餅屋ですね」でした。少しお金かかっても、修理工場に出していれば良かったなと反省しました。今は新車を購入したので、あの頃のことが懐かしいです。新車はやっぱり良いです。

 「失敗は成功のもとである」という有名な格言があります。発明王エジソンほどたくさんの失敗を重ねた人はいないでしょう?フィラメントを発明するとき、彼は1000回失敗しました。周りの人が、「1000回も失敗したんだから、それは、うまくいかないんじゃないですか?」と言いました。エジソンは「1000回うまくいかない方法を知ったのだから、失敗は無駄ではない」と答えたそうです。もし、「必ず成功する」「必ず完成する」という信仰でいたらどうでしょう?私は必ずそうなると思います。しかし、ほとんどの人は諦めてしまいます。「労力の無駄だ」と思う訳です。そうすると、新しい発想も浮かばないし、助け手も現れません。あきらめないで、探し求めると不思議に解決が与えられるのです。『ザ・テノール』という映画を見たことがあります。彼は最も活躍していた韓国のオペラ歌手でした。ところが、突然、甲状腺がんになり、「再び歌うことは不可能です」と言われました。医者から「命と歌がどっちが大事だ」と言われました。彼は希望を捜しました。彼は声帯手術を受けようとするのですが「声が戻っても歌うことは絶対に不可能」と言われました。しかし、ある日本人が、「決して諦めてはいけない」と彼を励まし、日本の名医を紹介してくれました。非常に複雑な手術なのですが、見事、成功し、再び歌うことができるようになりました。この映画は韓国と日本の橋渡しのような作品になっています。何でもそうですが、一度も挫折したことのない人物よりも、挫折から立ち上がった人物の方が感動的です。神様はあえて、困難が降りかかるのを許し、そこからもっとすばらしいものを掴むように計画なさっているのかもしれません。神様は意地悪でそうしているのではありません。自己憐憫ではなく、神様の真実をどこまでもあてにしていくのです。Ⅰコリント10:13「あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。」アーメン。

 すべての物語の順番は、問題が発生し、紛糾が起り、助け手が現れ、そして完成で終わるということです。このサイクルを忘れてはいけません。20歳のとき、つくば学園都市の工事に携わったときがありました。直属の主任ではありませんでしたが、彼は「終わらない工事はない。工事というのは必ず終わるものだ」と言いました。八ッ場ダムも一時、停止したことがあります。でも、今は、完成しており、草津に行くとき谷底を見ながら運転することができます。千葉に印西というところがあります。でも、あそこは印旛沼の湿地帯で、成田まで線路を伸ばすのは無理だろうと言われてきました。経緯は分かりませんが、現在は成田まで電車が開通しています。「すごいなー」と思います。私たちは生きている限りは、問題が起こります。取り組まないで、ほっておくことも可能です。いわゆる先延ばし、見て見ないふりをする否認も可能です。しかし、それだと神様の働きを見ることはできません。やり始めたなら、半分はできたようなものです。その後、必ず「紛糾」がやってきます。うまくいかないのです。「うまくいくと思ってやったのに、どうしてなんだ!」とイライラするでしょう。でも、解決策を模索していると、どこからか助け手が現れます。「探しなさい、そうすれば見出します。叩きなさい、そうすれば開かれます(マタイ7:7)。神様はそのようにして、私たちの人格を育てようとなさっておられるのではないかと思います。世の中では「諦めない心、不屈の精神なんだ」と言います。私たちの場合は、それはアブラハムの信仰です。ローマ4:19「彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。」

 私たちは「どうして、問題が起こるのですか?」「どうして、反対者や困難が起こるのですか?」と言いたくなります。これからドラマや映画を見るときは、ぜひ、このことを覚えておいてください。主人公には必ず、問題や困難が降りかかるということです。それでないと、ドラマは面白くないのです。裏切り、挫折、失敗、絶望が襲います。でも、主人公は諦めないで立ち上がります。そうすると神様は助け手を送ってくれます。今まで見えなかった脱出の道が見えてくるのです。それが完成したらどうでしょう?もう、これまでの苦労を忘れてしまいます。私が直したお風呂もそうでした。「いやー、たくさんの部品を注文して無駄使いしたなー。でも、こうやってお風呂にはいれるんだから、まあいいか」と思うのです。亀有教会も100名になると豪語しましたが、必ずリバイバルは起こると信じています。もし、ならなかったら私の告別式で100名、人が集まり、それが完成となっても良いのではないでしょうか?人生が問題なく、スムーズにいくことをだれもが望むでしょう。でも、イエス様は「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました」(ヨハネ16:33)と言われました。私たちは、今も生きておられるイエス様と一緒に問題を解決しながら、完成を目指して歩むのです。アーメン。