2025.10.5「神を信じることの幸い 詩篇14:1-6」

神学的に神がおられるという考えを「有神論」と言います。ここで言う神とは、聖書が啓示する唯一、まことの神様のことです。日本のようなアニミズムの国では、このような神観はありません。なんでも神にしてしまうので、「まことの神を信じている」とは言えません。一方、ヨーロッパやアメリカは、聖書の神観があるので、神といったら、「Godであり、天地を造られた神さまだろう」と答えるでしょう。私はクリスチャンになって40年以上経ちますが、神さまを信じて本当に良かったと思っています。私たちはこの世に生きていると、思いがけないことが度々、起こります。様々なトラブル、事故、火災、盗難、自然災害、病気や怪我、受験の失敗、訴訟問題、詐欺事件、失業、離婚、加齢の問題、死別…数えたらきりがありません。人々はいろんな保険に入っていますが、保険は起きた後、損害を少なくするためにあるのであって、私たちを守ることはできません。きょうは、「神を信じることの幸い」と題して、英語の頭文字Sでお話したいと思います。

1.安定 Stability

 安定は英語でstabilityと言います。他には、不動、不変、変わらないことという意味があります。船や飛行機は、左右に揺れても元に戻るように設計されています。それをstability「復原力」と言います。安定した人生を送るために、最も重要なことは宇宙万物を創造された神さまがおられることを知る必要があります。聖書の神さまは、世界を創造されたとき一定の法則を与えられました。学校では物理を学びますが、いろんな法則や原理があることがわかります。ところが、神さまは倫理的な法則も造られました。それは善悪の基準であり「律法」とも呼ばれています。これを飛び越えると不幸になるし、場合によっては死ぬことさえあります。この世の人たちは、自然科学の法則には従いますが、神さまが定めた道徳的な規準には従いません。罪の一つの中に、不義というのがあります、これは不道徳を犯すことです。また、違反というのがありますが、これは神の律法を破る罪のことです。聖書的には罪であっても、この世で罰せられるものもありますが、そうでないものもあります。多くの人たちは「刑法に触れなければ良いじゃないか?私は何も悪いことはしていない。何をしようと私の勝手でしょう」と言うでしょう。でも、神さまが定めた道徳的規準に逆らったり、破ったりするとそれに伴う罰や損失を被ります。それは、万有引力の法則と同じで、高い所から落ちたら怪我をしたり、死ぬときもあります。私たちは自然科学の法則と同じように、道徳的な法則を重んじる必要があるということです。

 しかし、神を認めない人たちは、「そんなの時代遅れだ」とか、「すべてのものは相対的であり、絶対的な善悪なんてないんだ」と反発するでしょう。聖書に「義」ということばがありますが、「神が正しいと認めること」という意味です。神の義は社会正義とか倫理道徳とは違い、どの時代でも、すべての国においても、通用する一貫した善悪の基準です。逆に言うと、神を認めない人たちは、普遍的な善悪の基準も認めないということです。その人たちは、「すべてが相対的であり、絶対的なものはないんだ」と主張するでしょう。自然科学における物理的法則は認めても、神が定めた倫理的な法則は無視するということです。でも、そういう人は人生に安定感がありません。立ち返るべき基準がないからです。その代わり、世論や周りの人たちの好みや意見に左右されて生きています。昨日まで良かったことが、今日になって悪になるということもあります。アメリカの多くの州では、中絶が女性を守るためであると合法化されています。産む権利もあれば、産まない権利もあると言うのです。そのため、性は男女が楽しむためにあり、子どもは邪魔になるので中絶を選択する場合もあるのです。そのような考えは、今度は自分自身の命の尊厳を脅かしてしまうでしょう。「自分が生まれたのは、親の快楽の結果だったのか」あるいは「仕方なく生まれたのか?」と疑ってしまうでしょう。つまり、自分自身のアイデンティティもなくなり、生きる目的もなくなるということです。

 神さまはどうして、倫理的な法則を与えたのでしょうか?それはその中を歩むと安全だからです。律法を破ることを、trespass違反する、罪を犯すと言います。trespassは、定めた枠を飛び越えるというのがもともとの意味です。私たちは道路を車で走るとき、どこを見て走るでしょうか?もちろん、真中ですが、正確に言うとガードレールとセンターラインの間です。左に寄りすぎると、ガードレールにぶつかります。右に寄りすぎるとセンタ―ラインをオーバーして、対向車とぶつかってしまいます。運転手はハンドルを微調整しながら、真中を安全に走るようにしているのです。私たちの人生においても神が定めた倫理的な律法を守るなら、平安で祝福された人生を歩むことができます。ところが、既婚者が浮気して、家庭を顧みないならどうでしょう?その時はいいかもしれませんが、破滅した人生が待ち構えているでしょう。アメリカでは離婚率が高いので、多くの子どもたちが犠牲になっています。その子どもたちが大きくなると、同じようなことを繰り返すのです。正しい家庭を見たことがないからです。テレビで母子家庭の貧困や育児虐待のニュースを見ることが良くあります。そもそもの原因は何でしょう?離婚して、母親一人で子どもを育てているので、経済的にも精神的にも不安定になるのです。「男はどこへ行ったんだ!」と私は怒ります。なぜなら、私が育った家庭は父親が父親としての役目を果たしていなかったからです。酒を飲んで父は母や子どもたちを虐待しました。兄弟同士は喧嘩ばかりしていました。私は機能不全な家庭で育ったので、安定感が全くありませんでした。クリスチャンになって、心配しないで、夜ぐっすり眠れるということの幸せを覚えることができました。

 多くの場合、私たちは神が定めた倫理に対して無知だったので、法則を破って生きてきました。エペソ2章にあるように「かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした」(エペソ2:2,3)。でも、大きな愛のゆえに、恵みのゆえに救われました。霊的に生まれ変わった私たちは、神の定めに従うことが幸せであり、本当の自由なんだとうことが分かるのです。安定した人生は、神さまが定めた道に沿って生きることによって与えられます。時には、踏み外すこともあり、痛い思いをします。この世で良く言われる「高い授業料を払う」ときもあります。でも、向きを変えて、正しい道に戻れば大丈夫です。倒れたら、立ち上がれば良いのです。これが、stability「復原力」です。第一のポイントの結論として、詩篇119篇のみことばをお勧めいたします。詩篇119:71「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」アーメン。

 

2.安全 Securely

 安全は英語でsecurelyと言います。動詞のsecureは、保証する、安全にする、守るという意味があります。私たちの周りには危険がいっぱいです。車に乗っても危険、道を歩いていても危険です。最近はひったくりとかおやじ狩りがあるので、怖いです。男性よりも、女性の方が数段、危険が多いかもしれませんね。私はアメリカに「弟子訓練」のため、大学生と一緒に2か月くらいたことがあります。ある時、若い女の子から「助手席に乗って」と頼まれました。「いいね!」と思ったのですが、そこでは女性が一人で車を運転することが禁じられていたのです。危ないからです。男が隣に乗っていると大丈夫だろうということです。男であっても、夜遅くにコンビニに行くのが怖かったです。朝、牛乳パックを見たら、missingと子どもの顔写真が印刷されていました。アメリカでは子どもの誘拐が頻発しており、牛乳パックに「行方不明者」として印刷されているのです。日本は諸外国と比べると治安が良いのはトップクラスかもしれません。でも、日本はいつミサイルが隣国から飛んでくるかびくびくしています。防衛費も毎年、増え続けています。そういう意味では安全はタダではないと言うことでしょう。

 個人の安全も、国家の安全もそうですが、全能の神がおられることを知るなら大分違ってきます。安全あるいは神の守りということでよく引用される聖書個所があります。詩篇91:1-8「いと高き方の隠れ場に住む者その人は全能者の陰に宿る。私は【主】に申し上げよう。「私の避け所私の砦私が信頼する私の神」と。主こそ狩人の罠から破滅をもたらす疫病からあなたを救い出される。主はご自分の羽であなたをおおいあなたはその翼の下に身を避ける。主の真実は大盾また砦。あなたは恐れない。夜襲の恐怖も昼に飛び来る矢も。暗闇に忍び寄る疫病も真昼に荒らす滅びをも。千人があなたの傍らに万人があなたの右に倒れてもそれはあなたには近づかない。あなたはただそれを目にし、悪者への報いを見るだけである。」アーメン。詩篇には神さまがどういうお方であるか、比喩的に書かれています。詩篇91篇では、「隠れ場」となっています。コーリー・テン・ブームはユダヤ人をかくまったということで、お姉さんと一緒に、強制収容所に入れられました。お姉さんは亡くなってしまいますが、彼女は奇跡的に生き延びることができ、戦後、証をするために用いられました。その自伝が『私の隠れ場』という題名です。その次に出てくるのが、「全能者の陰」です。これは、翼という意味です。後で主はご自分の羽であなたをおおいあなたはその翼の下に身を避ける」とあります。他に、避け所、砦としてたとえられています。旧約聖書には戦いの場面がたくさん出てきます。ダビデはサウル王から命を狙われ、荒野や洞窟を逃げ延びました。ダビデにとっては、主ご自身が避け所、砦となったのです。その後には、私たちが恐れるたくさんのものが比喩的に書かれています。狩人の罠、破滅をもたらす疫病、夜襲の恐怖、昼に飛び来る矢、暗闇に忍び寄る疫病、真昼に荒らす滅び…夜昼関係なく災いが近づいてくることを教えています。最後には「千人があなたの傍らに万人があなたの右に倒れてもそれはあなたには近づかない。あなたはただそれを目にし、悪者への報いを見るだけである。」とあります。

 当教会に山崎政彦長老がおられました。私が赴任したときは、社長を引退し会長になっていました。毎月の初めの日、会社の朝祷会があり、そこで私がショートメッセージをします。その後、山崎長老が祈るわけです。何十年もそばで聞いたので、大体覚えています。「この会社は木の葉のような小舟です。嵐にもまれても主が守って下さいますようにお願いします。千人が私の傍らに万人が私の右に倒れてもそれは私に近づかないようにして下さい」と良く祈っておられました。ですから、詩篇91篇を読むと、どうしても山崎長老さんのことを思い出します。「千人が左に倒れても、万人が右に倒れても私は平気です」というのは、「都合が良すぎるのでは」と思ったこともあります。でも、会社を経営する人というのは、明日何が起こるか分かりませんので、全能の神様を信じることはすばらしいことだと思いました。私は建設会社に入っていましたが、事務所には神棚があり、正月の仕事初めにはみんなでお参りに行きました。工事現場はどうしても事故があるからです。おそらく、どこの会社でも商売繁盛、安全祈願のため何等かの神様に頼っているのではないでしょうか?単なる気持ちですと言いながら、不吉なことが起こらないようにと願っているわけです。家庭の主婦にしてもそうですが、仕事先の夫や、子どもの安全を願っているでしょう。絶えず、恐れと不安があり、ちょっとしたことでも「どうしてこんなことが起こるの?」と怒りや文句が出てくるかもしれません。クリスチャンにもあるのですが「神さまがいるのにどうしてこんなことが起こるの?」という「つぶやき」があるかもしれません。クリスチャンであるなら、すべての災いから守られるかというとそうではありません。

 でも、決定的な違いはあります。ローマ8:28「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」たとえ、思いがけないことが起こっても、すべてのことが共に働いて、益になるならすばらしいです。しかし、この所では、「すべての人のためではない」ということが分かります。2つの理由ですべてのことが共に働いて益になります。第一は「神を愛する人たち」です。これはキリストを信じて、神さまと和解している人であり、神さまを愛している人たちです。第二は、神のご計画に従って召された人たちです。実は神さまは一人ひとりにすばらしい計画をもっておられます。これを神の摂理と言います。旧約聖書のヨセフは兄弟たちから妬みをかい、エジプトに奴隷に売られました。エジプトの主人から信頼されていたのですが、彼の妻から濡れ衣を着せられ、牢獄に入るはめになりました。ある時、政府の高官が牢獄に入り、彼の夢を解き明かしてあげました。ところが、彼はヨセフのことをすっかり忘れ二年が過ぎました。ちょうどそのとき、ファラオが不思議な夢を見ました。高官はヨセフのことを思い出し、ヨセフは王の夢を解き明かしてあげました。これから来る大飢饉のため、穀物を蓄え、エジプトばかりか、父の家族も救われました。本来なら、「どうして私にこんなことが起こるのか?」とつぶやくこともできたでしょう。でも、ヨセフは夢が必ず実現することを信じていました。彼は、どんなことがあっても、神さまの御手の中にあること信じていたのです。どんな時でも、真実な神さまを信頼することが重要です。イエス様のことばです。ヨハネ16:33「これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を得るためです。世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました。」死と陰府に打ち勝たれたイエス様が共におられるので、恐れることはありません。あなたは主の御手の中で安心して生活することができるのです。

 

3.健全 Soundness

健全は英語で、soundnessと言います。形容詞のsoundは病気・怪我などのない健全な、健康なという意味です。傷ついていない、腐っていない、いたんでいないという意味もあります。簡単に言いますと、まことの神様を信じている人は、正しくて健全な生き方をするということです。なぜでしょう?人は自分が礼拝しているものと同じようになるからです。魔術や偶像の神を信じている人は、利己的な人になるでしょう。アニミズム、精霊崇拝者は運命に翻弄された生き方をするでしょう。神を信じていない唯物論者は、人の命を粗末に扱うでしょう。真実で愛のある神さまを礼拝している人は、真実で愛のある生き方を目指すでしょう。では、「神はいない」と言っている人はどうなるのでしょう?詩篇14:1「愚か者は心の中で『神はいない』と言う。彼らは腐っていて忌まわしいことを行う。善を行う者はいない。」言い換えると、「神はいない」という人は、愚か者であり、腐っていて忌まわしいことを行うということです。2節以降を見ると、「善ではなく不法を行い、無用な者となる」と言われています。へブルの世界では、神がおられるのは当然であり、否定する方がおかしいと思われています。実は聖書は、神がおられることを証明しようとして書かれていません。創世記1:1「はじめに神が天と地を創造された」という書き出しで始まります。聖書の最後である黙示録22章は「私はアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」と自己主張しています。この世界を創造し、歴史を支配する根源者であり、完成者であるということです。もし、この神を無視して生きるならどうなるでしょう?「そんなの関係ねぇ!そんなの関係ねぇ!」という流行語がありました。この世の多くの人たちは、「そんなの関係ない」と神さまを無視して生きています。

 福音書にそういう人物が書かれています。ルカ12章にある金持ちのことが記されています。彼の畑が豊作で、今の倉を壊して、もっと大きいのを建てようと思いました。その時、自分のたましいに「わがたましいよ、これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ休め。食べて、飲んで、楽しめ」と言いました。ルカ12:20しかし、神は彼に言われた。『愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

自分のために蓄えても、神に対して富まない者はこのとおりです。」神さまはその金持ちに「愚か者」と言われました。資本主義の社会では、富を蓄えることは良いことであり、その富をどう扱うか個人の自由であります。ところが、この人は「自分のために蓄えても、神に対して富まない者」と言われています。この人物は神さまを無視して生きており、死後のことには全く無関心でした。ルカ16章に「不正の富で、自分のために友を作りなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます」と書かれています。この金持ちは、神さまと関係を作っていなかったので、魂が取り去られた後、陰府にくだり、そこには何もないということです。もし彼が神さまを礼拝し、天に宝を積んでいたなら、自分の富を死後であっても喜ぶことができたはずです。富が悪いというわけではありません。しかし、その富は神さまが預けたものであり、そのことを感謝して、有効に用いなさいということです。私たちの命も、私たちの家族も、私たちの能力も、私たちの健康も神さまが与えてくださったのですから、ちゃんと管理すべきであります。しかし、神を認めない人たちは、放蕩息子のように、自分の財産を湯水のように使い果たしてしまうということです。

健全さを最も良く表している聖句があります。ヨハネ第三の手紙2節です。「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。」このところには、3つの健全さが記されています。そしてその順番も大切です。第一は、神さまの愛を受け、たましいが幸いを得ていることです。この人はキリストによって神と和解し、神を愛し、神に愛される人です。心が神さまと1つになり、神さまのみこころを求めてして生きる人です。第二はすべての点で幸いを得るということです。キリスト教の救いは精神的なものだけではありません。物質においても、人間関係においても、祝福を受けることです。「すべての点で」というのは、一人ではなく社会的な意味もこめられています。さっきの金持ちではなく、自分の賜物や富を神さまと人々のためにも用いているというニュアンスがあります。第三は健康であるということです。私たちは人を恨んだり、憎んだりすると体の健康にすぐ反映されます。思い煩いや憤慨も体に良くないです。健康は自動的に与えられるわけではありません。食べ物も重要ですが、精神生活と直結していることを忘れてはいけません。私は信仰生活を送りながらも、ふっと「これで良いのだろうか?」と空虚な思いが襲うときがあります。でも、もし、神さまを信じてなかったなら、毎日、「これで良いのだろうか?」と不安と恐れに満ちた日々を過ごしていただろうと空恐ろしくなります。まことの神さまを信じている人は、安定性があり、安全であり、健全さがあります。なぜらな、神さまが共におられるからです。