2025.9.28「兄と父 ルカ15:25-32」

ルカ15章の後半は一般的には「放蕩息子のたとえ話」として有名です。しかし、きょうは別の角度から学びたいと思います。それは放蕩息子の兄と放蕩息子の父です。この二人は、兄的なクリスチャンと父的なクリスチャンということができます。前者は信仰年数が経っているわりには、成長していません。後者は信仰年数も関係しますが、それ以上、父のような成熟したクリスチャンです。Ⅰヨハネ2章には、子どもたち、若者たち、そして父たちと三種類の人たちがでてきます。本来、私たちは成長すると、子どもたちを養育する父にならなければなりません。前半は兄的なクリスチャンの特徴、後半は父的なクリスチャンの特徴について学びたいと思います。

1.兄的なクリスチャン

 兄的なクリスチャンの特徴の第一は、「連帯性の欠如」ということです。放蕩息子の兄は、帰ってきた弟を歓迎している父親に腹を立てていました。そして、家に入ろうともしませんでした。父は兄をいろいろなだめているというのが本日のテキストです。一番、注目すべきことは、「兄が自分の弟を何と言っているか?」ということです。ルカ15:30「お父さんの財産を食いつぶした息子」と言っています。欽定訳聖書はson of yours「あなたの息子」です。弟をまるで、他人のように扱っています。創世記4章に、カインが弟アベルを殺した記事が記されています。主はカインに「あなたの弟アベルはどこにいますか?」と聞かれました。カインは「私は知りません。私は弟の番人なのでしょうか」と答えました。言い換えると、「なんで俺がアベルのことを面倒みなけりゃないんだ」ということです。カインは妬みのゆえに弟アベルを殺して、土に埋めたのに「私は知りません」とは何事でしょうか?このたとえ話は、兄がパリサイ人、律法学者です。そして、弟は取税人や罪人という設定になっています。パリサイの名称は、「分離された者」を意味します。彼らは様々な汚れから自らを分離し、きよく身を保とうとしました。また、律法学者は律法を守れない人たちを「罪人」と呼んで、彼らと交わろうとしなかったのです。両者とも、「関係の欠如」と言うことができます。

 クリスチャンはある意味では特権階級と言えます。神の子であり、罪がきよめられ、義とされているからです。年数がたつと、どこから救われたかを忘れ、この世の人たちを軽蔑して、関係を持とうとしません。そうなると、福音を伝えて救いに導くこともできなくなります。また、兄的なクリスチャンは、救われたばかりの人を面倒みようとしません。彼らの肉的な性質に嫌悪感を覚えるからです。私も25歳で救われましたが、元、現場監督でしたからとても粗野でした。「肉の匂い」がプンプンする私に近寄らない人もいましたが、私を面倒みてくれる人もいました。あとで紹介しますが、父の心はあわれみの心です。兄的なクリスチャンはあわれみの心がないのです。

 兄的なクリスチャンの特徴の第二は、「妬み」です。兄は弟を妬んでします。彼は「遊女と一緒にいて父の財産を食いつぶした」と言っています。しかし、弟が遊女と一緒にいたという証拠はありません。おそらく、それは兄の想像でしょう。兄は弟のようにしたかったのです。兄はパリサイ人、律法学者のことですが、本心は遊女と遊びたかったのです。罪人や取税人は好き勝手なことをしてうらやましかったのです。でも、自分たちには戒めがあり、汚れたことができません。おそらく、内側には激しい葛藤があったのではないでしょうか?だから、好き勝手なことをしている人たちへの、妬みとして現れたのではないかと思います。また、兄息子は父に対しても妬みを持ちました。なぜなら、弟を出迎え、簡単に赦して、盛大なお祝いをしてあげていたからです。自分がこんなに真面目に父に従っているのに、財産をくいつぶした弟に、何という待遇でしょう。本当は、「二度と来るな!」と言うか、せめて雇人にでもしたら良いのです。それなのに、息子としての身分を回復してあげるとは何事でしょう。

 兄的なクリスチャンは後から救われた人を妬みます。なぜなら、牧師が「イエス様を信じて良かったですね」と、彼らを可愛がっているからです。「もう、牧師は私に目もくれないし、気も使ってくれない。ぞんざいに扱っている」と思います。確かにそういうところはあります。牧師は既に救われた人よりも、これから救われる人に気持ちとエネルギーを使うところがあります。一生懸命、神さまと教会に仕えてきたクリスチャンは、きのう今日、救われたクリスチャンが大きい顔をしていると腹が立つかもしれません。「何だ、あのわが物顔は?私たちが教会を守ってきたんだぞ。あんたら何もしていないじゃないか?」と思うでしょうか?パリサイ人や律法学者たちは、罪人や遊女、取税人たちを妬みました。なぜなら、後から来た人たちが、最初に神の国に入っているからです。「自分たちはこんなに真面目に従ってきたのに、信じるだけで救われて良いのだろうか?」とイエス様を妬んだのです。そして、その妬みが膨らんで、イエス様を十字架に引き渡したのです。新しく救われたクリスチャン、自分より賜物のある後輩のクリスチャンを妬む心があるでしょうか?それなら兄的クリスチャンです。

兄的なクリスチャンの特徴の第三は、「ライバル心」です。兄は最初に生まれたので、財産の三分二を受け継ぐことができます。弟は三分の一です。これはユダヤの律法で決められていたことです。このたとえ話の兄と弟も例外ではありません。弟は「どうせ私は跡継ぎじゃない」からと、早めに財産をいただいて遠くへ出かけたのだと思います。あるいは、事業を興して父と兄を見返ししてやろうと思ったかもしれません。兄は優遇されて育てられたので、どうしても弟を見下すところがあります。兄は弟より生まれつき、優越感を持っているようです。私は8人兄弟の7番目ですが、兄たちはみな優越感を持っていました。でも、順番がありますので長兄が一番威張っており、次男、三男、四男は劣等感をもっていました。しかし、兄弟たちはそれぞれ、負けたくないというライバル心がありました。「頭では負けても、運動神経では負けない」とかやっていたかもしれません。父が長女や長男を他の兄弟に自慢しており、どうしてもライバル心が生まれてしまうのです。もし、父がそれぞれの子どもたちに、正しい自尊心を与えていたなら、あんな悲惨なことにはならなかったと思います。ここでは、言えませんが…。

ライバル心は芸能界、スポーツ、会社内では当たり前でしょう。切磋琢磨するためにはライバル心は必要かもしれません。しかし、それが妬みやそねみになると、後輩を蹴落とすことになります。「10年早い」とか言って、ゲシゲシと抑え込むでしょう。もし、これが教会内で起こるならどうでしょうか?後から救われた人が、賜物もあり自分以上に神さまに用いられたなら、それを喜ぶことができるでしょうか?「なんだよ、信仰もないくせに、生意気だ」と思ってしまうかもしれません。父は自分のことのように喜び、自分を乗り越えても良いと思います。しかし、兄は優越感が邪魔して「とんでもない」と排除したくなるのです。旧約聖書にありますが、8番目のダビデがその次の王として、ナタンから油を注がれました。その後も、ダビデは父の羊を飼っていたようです。その当時、ペリシテ人がイスラエルの宿敵でした。ある時、父のエッサイが、戦場いる兄たちに届け物をするためダビデを遣わしました。ダビデは巨人ゴリアテによって、イスラエルが窮地に立たされていることを知りました。Ⅰサムエル17:28兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして言った。「いったい、おまえは、なぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと心にある悪が分かっている。戦いを見にやって来たのではないのか。」兄エリアブは、末っ子のダビデに「何しに来たのか」と怒りを燃やしました。それは「お前に何ができる?ひっこんでいろ!」というライバル心からでした。教会の兄弟姉妹の間で、このようなライバル心は神さまの心を悲しませることになります。

兄的なクリスチャンの特徴の第四は、「自己憐憫」に満ちているということです。兄は父にこのように訴えています。ルカ15:29「『ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。』「放蕩して帰ってきた弟には、肥えた子牛を屠り、自分には子やぎ一匹くださったことがない」というのです。「お前も食ったらいいだろう」と言いたくなります。後から、父は「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ」と兄をなだめています。兄は豊かな父と共にいたのに、自分の生活を喜ぶことができませんでした。それは、自己憐憫が原因しているからです。ケチと倹約家は必ずしも同じではありません。兄はケチであり、それが美徳だと思っていたのです。聖書では神さまは全宇宙を創られた創造主、王の王です。その神様の子どもであるなら、当然、物質的にも精神的にも豊かであるべきです。自分が豊かであるなら、気前よく人にも与えます。神さまは気前の良いお方であり、その子どもも気前が良くなるのは当然です。しかし、自己憐憫は一見、信仰があるように見えますが、神さまの豊かさを否定し、「自分には何もない」と自分の不幸を憐れんでいる姿です。パリサイ人、律法学者はこのような人たちであり、イエス様は彼らを「偽善者」と呼びました。外側はきれいに見えていても、「内側は強欲と放縦で満ちている」と言いました。  

兄のような自己憐憫のクリスチャンは、すぐひねくれて、神の恵みを閉ざしてしまいます。神さまは豊かで恵み深いのに、自分はその恩恵を少しも受けていません、たとえていうと、神さまは豊かな湖のようです。そこから川が流れているのですが、途中に丸太や木の葉っぱで塞がっていて、下流にはほとんど流れて来ない状態です。これが自己憐憫の恐ろしさです。しかし、これは兄だけではなく、弟にもあるのです。私などは、今思えば自己憐憫の塊だったかもしれません。「もういらない」とへそを曲げて、意地をはって生きてきたからです。しかし、そういう人は他の人に与える愛もありません。自分が豊かに恵まれていないのに、どうして他の人に与えることができるのでしょうか?私たちは恵み深く、そして気前よく与える父なる神のもとで生きています。だから物質的にも精神的にも喜ぶことが可能なのではないでしょうか?パウロは「私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」(ピリピ4:12)と言っています。

 

2.父的なクリスチャン

 父的なクリスチャンの第一の特徴は「あわれみの心」です。コロサイ3章には、クリスチャンが着るべき衣が記されています。最も内側に身に着けるのが「深い慈愛の心」です。少し前の訳は「深い同情心」です。口語訳は「あわれみの心」となっています。私は口語訳の方が好きです。放蕩息子の父親はどうだったでしょうか?ルカ15:20「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとへ向かった。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」父は兄のように、連帯性の欠如の人物ではありません。確かに息子を探すために町にはでかけませんでした。しかし、毎日、息子が帰ってくるのを待っていたのです。その証拠に「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて…」と書かれているからです。ある時は、村はずれまで出向いたことがあったかもしれません。そして、「かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした」とあります。この「かわいそうに思い」があわれみの心です。息子の方は遠い国に旅立ちましたが、父は息子を捨てていなかったのです。私たちの神さまとイエス様は、同じご人格をもっていらっしゃいます。エレミヤ31:3「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた」とあります。これは、イスラエルに対する神の愛ですが、私たちに対する愛でもあります。ある牧師が「永遠の愛とは、もうこれっきりの愛ではない」と定義しました。昔、「これっきり、これっきり、これっきりですかー」という歌が流行りました。私たちは2,3回裏切られると、関係を断ってしまいます。しかし、神さまの愛は変わらない愛、永遠であるということです。また、イエス様は弟子たちに「私はあなたがたを捨てて孤児にはしません」(ヨハネ14:18)とおっしゃいました。

 私は4人の子どもを育てました。そのおかげで、父の心を持つことができました。かつては、8人兄弟の7番目で、他の人のことを面倒見るなどという心は毛頭ありませんでした。自分さえ良ければそれで良いと思ってきたからです。しかし、クリスチャンになり兄弟姉妹の愛に触れました。そして、神さま、イエス様があわれみの心を持っていることを知りました。そして、4人の子どもたちを育てながら、「ああ、父なる神の愛というのはすごいなー、見捨てない愛なんだな」と体験的に学ぶことができました。そうです。我が子が、いくらできが悪くても、素性が悪くても、親は簡単には捨てません。幼子に対する母親もすごいですね。うんちまみれのお尻をきれいにしてあげます。私は小だったらできましたが、大の時はお手上げでした。どういう状態でも子どもであるなら、面倒を見ます。これが親の心、父の心です。兄ではなく、父的なクリスチャンが教会にたくさんいたなら、教会は天国のようでありましょう。新生したクリスチャンが愛の中で育てられていくからです。

父的なクリスチャンの第二の特徴は「与える愛」です。兄は自分の財産が減るのを恐れました。財産を使い果たした弟には、びた一文与えたいとは思いませんでした。でも、この物語の父親はどうでしょうか?ルカ15:22「ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い衣を持って来て、この子に着せなさい。手に指輪をはめ、足に履き物をはかせなさい。』「ところが」というのは、弟息子が「もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言うのを阻んだということです。家に置いて雇い人の一人にしたなら、兄は我慢できたかもしれません。ところが、一番良い着物を着させ、指輪をはめさせ、履物をはかせるというのはどういう事でしょう?これは、奴隷ではない、ちゃんとした息子としての回復を意味します。これはあわれみ以上のことであり、恵みということができます。なぜなら、息子はこれらをいただく、権利も理由もないからです。一方的に、父親が与えたからです。父の心は、良きものを与える愛です。父なる神さまは豊かで、気前の良いお方です。マタイ20章に「ぶどう園のたとえ」が記されています。主人は1時間しか働かなかった者に、一日分の給与を与えました。そのことに、朝早くから働いていた労働者が不満をもらしました。主人は「私はこの最後の人にも、あなたがたと同じだけ与えたいのです。…それとも、私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか」と言いました。兄的なクリスチャンの特徴の第二は、「妬み」です。そのため、財産を食いつぶした弟には何も与えたくありませんでした。クリスチャンが本当に成長したしるしは、神さまのように与える心です。マタイ5章には「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。…ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と書かれています。これは、父なる神のように与える愛を持ちなさいということです。

父的なクリスチャンの第三の特徴は「権威を移譲する」ということです。兄はライバル心に満ちており、下の者を「10年早い」とか言って、ゲシゲシするタイプでした。私たちの周りにもそういうクリスチャンがいるでしょうか?後輩のことを妬んで、何も与えない人です。そればかりか、迫害したり、いじめたりする人です。一方、父的なクリスチャンは、自分を乗り越えていくことを喜ぶのです。父親は我が子が自分を乗り越えていくことを喜びます。子どもの成功は私の成功です。なぜなら、自分がその子を育てたからです。でも、この世の師匠と弟子の関係はそうではありません。「私の技術を盗め」とか言って、奥義は絶対教えません。なぜなら、弟子にやられたくないからです。いつまでも、自分が上にいたいのが、この世の師匠です。しかし、父的なクリスチャンは「権威を移譲する」人です。言い換えると、自分がもっている技術や知識、あるいは持っている権威を下の者に譲り渡すということです。「もし、人に差し上げたら自分のものがなくなってしまうんじゃないか?」と心配するかもしれません。神さまが貧しくなることがないように、父的クリスチャンも貧しくなることはありません。ルカ6:38「与えなさい。そうすれば、あなた方も与えられます。詰め込んだり、揺すって入れたり、盛り上げたりして、気前良く量って懐に入れてもらえます。」とあるからです。

父的なクリスチャンの第四の特徴は「豊かな心」です。神さまのような善意に満ちているということです。この物語の兄は、自己憐憫に満ちており「長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません」と言いました。彼は豊かな父と一緒にいたのに、生活を楽しむことができなかったのです。自己憐憫は一見、信仰があるように見えますが、神さまの豊かさを否定し、「自分には何もない」と自分の不幸を憐れんでいる姿です。神さまが王であるなら、私たちは王子であり、王女です。詩篇16:11「あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びが、あなたの御前にあり、楽しみがあなたの右にとこしえにあります」。私と家内は八ヶ岳にあるロイヤル・ホテルに泊まったことがあります。コロナの中でしたが、朝食で驚きました。なんと一品一品、給仕が持ってくるのです。しかも、持ってくるとき説明までしてくれます。こういうのは時間がかかるので、旅館のように一度に全部が良いのですが、さすが「ロイヤル」だと思いました。royalというのは「王の、王室の」という意味です。「そうか、私たちは王子であり、王女なんだな」と感銘しました。ところが、2年後、同じホテルに行きましたが、今度はバイキングでごちゃごちゃして、「庶民」に逆戻りした感じがしました。食事を楽しむより、詰め込む感じがしました。貧乏人根性があり、買い物も3割、4割引の方に走ってしまいます。ビルジョンソンがある本でこのように述べていました。「優れた買い物をすること。これは多くの人にとって重要ではないかもしれませんが、私は王国のライフスタイルを説明するのに最適な方法だと考えています。…私は何年も前から、王国のためにお金を節約しようとして、質の悪いものを買ってしまったことが何度もあります。ほとんど毎回裏目に出ていたように思うので、神様はその決断を尊重してくださらなかったと思います。私たちは、すべての行いにおいて神様を敬うように生きることが肝要です。神様は劣ったものに惹かれる神様ではありません。」私たちの神様はあわれみ深く、良きものを与えたい気前の良い神さまです。その父の心をいただきたいと思います。