神さまを信じて歩むことはとても幸いです。きょうは一歩進んで、「キリストに従うことの幸いについて」考えたいと思います。どこが違うかというと、献身の度合いです。ところで、「献身する」は、英語でcommitとdedicateの二つが合わさったものだと考えられます。commitは日本語にもなっていますが、「全身全霊をささげる」という意味です。dedicateは「神さまにささげる」という意味です。つまり、聖書が言う「献身」は、「神さまに全身全霊をささげる」ということだと思います。
1.十字架を負って従う
イエス様は12弟子を呼んだあと、彼らを使徒として任命しました。弟子は弟子なのですが、神さまから遣わされた代表者のような存在です。その後、短期伝道旅行に遣わされますが、そのための注意事項が述べられています。ただいま、読んだ箇所はその最後の部分です。使徒として、伝道に行くために最も重要な教えと言えるでしょう。でも、これをすべてのクリスチャンに適用することが可能かどうかは、その人自身が判断することです。「私は神さまとイエス様を信じています」という以上のことです。では、どのようなことが言われているのでしょうか?
第一は最も親しい家族よりも、キリストに従うことが優先すべきだということです。極論は、37節でしょう。イエス様は「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と言われました。「え?イエス様、愛を独占するのですか?」と反論が出るでしょう。あるいは「キリスト教は家族を捨てる恐ろしい宗教なのですか?」と言われるでしょう。なぜかと言うと、キリストに従うと家族との争いが起こり、「平和ではなく剣をもたらす」と言われているからです。「とんでもない宗教だ」と多くの人たちは反発するでしょう。正直、私は父母を愛していなかったし、兄弟とも仲が良いわけでもありませんでした。ですから、この命令は案外楽でした。でも、「私よりも息子や娘を愛する者は、私にふさわしいものではありません」とあります。やっぱり、自分の子どもは可愛いです。いざ、子どもを捨てて、「キリストに従え」と言われてもどうだろうか、と迷うかもしれません。イエス福音教団の穐近ゆたか牧師は、アメリカから日本に宣教師としてやってきました。そのとき、マッカーサーが「子どもは日本に連れて行ってはならない」と言ったそうです。おそらく、敗戦後の日本の厳しさを思ってのことなのでしょう。そのため穐近牧師は長男をアメリカに残して、ご夫妻で日本に伝道に来ました。まさしく、子どもを捨てて従ったのです。人づてに聞いた話ですが、残されたご長男はとても恨んでいたということです。「私よりも、神さまの働きが大事なのか?」と躓いたのではないではないでしょうか?しかし、穐近牧師の決死の覚悟が、困難な日本宣教に風穴を開けたことは確かだと思います。彼の弟子たちは、死に物狂いで伝道し、イエス様に従いました。
今の私たちはそういう証を聞くと、「え?大変だなー、ほどほどにしておこうかな?」と思うかもしれません。しかし、キリストに従うことにおいて「ほどほど」というのはないのです。私は信仰生活46年になりますが、多くのクリスチャンたちを見てきました。すべてのクリスチャンはキリストの弟子でありますが、従い方の程度は違うし、違って良いのではないかと思うようになりました。なぜなら、マタイ10章の文脈は12弟子というよりも、12使徒に語られているからです。では、私たちは話半部で良いかというとそういう意味ではありません。問題は、受け取る側の信仰の大きさではないかと思います。言うまでもなく、弟子としての標準は、家族や自分の命よりも、イエス様を第一とすることです。しかし、そこまでできない人も信仰者の中にはいるということです。少し前の、マタイ8章にはイエス様が何人かを弟子に召した記事があります。ある人は、「私はついて行きます」と言いましたが、イエス様が「人の子には枕するところもない」と言われたのでひるんでしまいました。また、他の弟子のひとりが「主よ。まず行って父を葬ることをお許しください」と言いました。イエス様は「私に従って来なさい。死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい」と言われました。そして、「鋤に手をかけてから後ろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません」(ルカ11:62)と言われました。この人物は、神の国にふさわしくなかったのです。現代においても、彼らのように言い訳をして、100%キリストに従わない人たちもいるでしょう。彼らが救われていないかというと、救われてはいますが、弟子になりきれなかったということでしょう。では、彼らは、一生負い目を負って生きるべきなのでしょうか?パウロはローマ14章で「信仰の弱い人を受け入れなさい」と命じています。また、「信仰から出ていないことは、みな罪です」と言っています。
私はホーリネスの神学校の基礎科を卒業しました。そのとき、姉妹を含め、きょうだい4人が献身しているのを知り、とても驚きました。しかし、卒業後、牧師として残ったのはたった一人でした。他の3人は後で、一般の仕事に就いたようです。では、「その人たちが堕落したのか?」というとそうではありません。神さまから本当に召されていなかったのです。キリストへの献身のレベルが違っていたということです。おそらく、生まれ育った家庭において、「信仰者にとって牧師が最高の職業であり、この世の仕事は二流なんだ」と教え込まれたのでしょう。だから、召命よりも、あこがれで神学校に入ったのかもしれません。「あこがれ」が悪いと言うわけではありませんが、神さまが召していないのに肉でやってしまうなら自分自身も他の人たちにも良くないということです。牧師のような直接献身だけが、神さまに仕えることだというのは聖書的ではありません。ビジネスマンとして、学校の教師として、神さまに仕えることが最善の人もいるからです。『治めるべき七つの山』ということが近年よく言われます。ビジネス、政治、メディア、芸術と娯楽、教育、宗教、家庭です。つまり、神さまから与えられた召命と賜物にしたがって、どれかの分野で、神の国をこの地にもたらすために働けばよいのです。どの働きにおいても、神の国とその義を第一にしていくなら立派なキリストの弟子と言えます。しかし、中にはマタイ10章のように、家族や自分の命すらも捨てて、キリストに従うべき人もいるということです。その人にとっては、それが標準であり、幸いな道なのです。
私の家内は看護師をやめて直接献身の道を歩みました。でも、大川牧師から基礎科で卒業するように言われ、教会で奉仕者として生きる道を選びました。ところが、彼女の実家からお母さんが訪ねて来られ、「そのために看護学校を出してやったのではない」と連れ戻しにやってきました。私はそのとき、神学生でしたが、その光景を遠くから眺めていました。それから何度か、お母さんが岩手から座間に足を運びました。そのうち、青木姉妹の導きにより、イエス様を信じるようになりました。青木姉妹というのは、京子さんが看護学生のとき信仰をもった家庭集会のお家のお母さんでした。そのうち、私が神学校を卒業し、教会で働くようになりました。教会主事という名称でしたが、いわゆる何でも屋であります。1年位たってから、大川牧師から京子さんとのことを考えてみなさいと言われました。彼女はとても迷ったと思いますが、「十字架を負って従います」と決断したようであります。本当は、直接献身したかったのですが、信徒伝道者と結婚することがネックだったのかもしれません。私は「私が十字架なのか?」とむっと来ました。彼女は、後で、「喜びの十字架です」と訂正していました。
でも、マタイ10章には十字架を負って従うことが記されています。マタイ10:38「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分のいのちを得る者はそれを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを得るのです。」この世の人たちは、十字架を負うとは、身内の不幸や、とりかえしのつかない罪の責任を負うことみたいに思われています。しかし、十字架を負うとはイエス様が負ったような十字架のことです。イエス様はゴルゴタの丘に向かって十字架を背負いました。その十字架は自分が死ぬための十字架です。その時、イエス様は沿道の人たちから罵声をあびせられ、嘲笑され、あざけられました。つまり、私たちが十字架を負うとは、イエス様に従うときに受ける恥や迫害や苦しみのことです。そして、十字架を負うとは、自分が死ぬということです。イエス様もご自分が負っていた十字架につけられ、死なれました。でも、三日目によみがえられました。十字架を通過して、イエス様はご栄光を受けられたのです。このところに「自分のいのちを得る者はそれを失い、私のために自分の命を失う者は、それを得るのです」と逆説的なことが言われています。「私たちは自分が死んだら、おしまいだろう」と思います。「いのち」はギリシャ語ではプシュケーであり、「魂」という意味があります。私たちの魂は自分が可愛いので、死にたくありません。でも、この魂を死に渡すことにより、素晴らしいことが起こります。キリストが一度死なれ、よみがえられたように、私たちの魂も死んだあと、よみがえるのです。その魂は、罪と自我に死んだ魂であり、今度はキリストに全面的に従う魂に生まれ変わるのです。英語の聖書では「本当の自分を得る」と書かれています。そうです。神さまが望んでおられる、罪と自我から解放され、キリスト中心に生きる人です。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。新しいいのちを、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになったキリストのために生きるのです。
2.ささげ切った人の幸い
「切る」という漢字があることに気づきました。自分の十字架を負ってキリストに従う人というのは、言い換えるとささげ切った人のことであります。信仰の度合いは人によって違うのですから、ささげ方も違ってきて当然です。でも、私たちは日常の生活においても何かにコミットし、何かに自分をささげているのではないでしょうか?私は『なんでも鑑定団』をよく見ていますが、あの人たちは、骨董に全財産、全エネルギーをささげています。すべての部屋が骨董に支配され、寝る場所もありません。中には結婚もせず、かせいだお金を全部、骨董に使っている人もいます。彼らは骨董にコミットし、骨董に自分をささげているのです。他にも鉄道、サッカー、登山、お祭り、だれかの追っかけに自分の財産と時間をつぎこんでいます。彼らと比べて、私たちの信仰、つまりキリストへのコミット、キリストへのささげ方はどうなのでしょうか?生活の一部でしょうか?それとも、生活の半分でしょうか?それとも、生活の全部コミットし、ささげているでしょうか?聖書に出てくる使徒パウロは、キリストにささげ切った人です。自分をキリストのしもべと呼んでいます。このしもべとは、自分の意思で喜んで自分をささげたボンド・サーバントです。メッセージの後半は、ピリピ人への手紙を引用しながら、「ささげ切った人の幸い」について述べたいと思います。では、キリストにささげ切った人はどのような生き方をするのでしょうか?
1つ目はキリストを第一にして喜ぶことができます
パウロはローマの獄中でピリピ人への手紙を書きました。ピリピの教会では、ねたみや争いからキリストを宣べ伝えている人がいました。そういうことを聞くと、パウロは「鎖につながれている私をさらに苦しめることだ」と言っています。でも、パウロはこうも言っています。ピリピ1:18「しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。」これは私たちが教会内で奉仕するときによく起こる問題です。善意から奉仕する人もしますが、ねたみや争い、党派心から行う人もいます。動機が汚れているわけです。そうすると、互いに争いが生じてきます。しかし、どういう動機であれ、キリストのために奉仕し、キリストが宣べ伝えられているなら喜ぶべきであります。
パウロはこのように言っています。ピリピ1:20-21「私の願いは、どんな場合にも恥じることなく、今もいつものように大胆に語り、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることです。私にとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」パウロは早くこの肉体を離れてキリストのもとへ行きたいと願っています。それは死ぬということです。でも、パウロは「まだ使命があるので、肉体に留まる」と言っています。パウロの究極の願いは、生きるにしても死ぬにしても、私の身によってキリストがあがめられることでした。私たちも死の問題が解決しているなら、このようなシンプルな生活ができるのではないでしょうか?生きているうちにいろんなことをしたいと思うのが、私たちの魂であり、肉です。したいことがたくさんあるために、混乱し、優先順位が狂ってきます。でも、「私の身によってキリストがあがめられることとは何なのだ?」と考えるなら、色んな思い煩いがぱーっと消えるのではないでしょうか?生きているうちはいろんな悩みや思い煩いがあります。でも、ささげ切ったクリスチャンは、キリストが宣べ伝えられ、キリストがあがめられればそれで喜ぶことができます。
二つ目は後ろのものを忘れ前に進むことができます
ピリピ3:13、14「兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」ささげ切った人は、過去のことをくよくよ悩んだりしてはいません。私たちは「なんであんなことが起きたんだろう」「なんであのようなことをしたんだろう」と悔やむことがあります。「過去は、過去」と言えれば良いのですが、心のどこかにとどまっていることがあります。私たちはキリストと共に一度死んだ存在です。キリストと共によみがえり、古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなったのです。確かに記憶はあります。「パソコンのように消すことができたら何と良いだろうなー」と思います。嫌な出来事、トラウマは脳のどこかにこびりついているのでしょう。でも、解決はあります。エディ・レオ師が教てくれました。罪や誘惑、古い思い出が襲ってきたら、「ハレルヤ!主よ感謝します」と礼拝の時にすれば良いのです。「あんなことがあったから、イエス様を信じることができたんだ」。「あんなことがあったから、謙遜さを学んだんだ、感謝します」と礼拝することができます。神さまはすべてのことを益にして下さいます。痛みを通して学ぶこともあったのです。アーメン。
もう1つは忘れるべきことは過去の良いことや成功したことです。なぜなら、それらは、前に向かって身を伸ばすことの妨げになるからです。年を取るとどうしても保守的になります。これまでこうだったから、こうしようと守りにはいります。企業でも言えることですが、危険を冒さないと新しいものが生まれません。私は「前例がない」というセリフが好きではありませんでしたが、意外とキリスト教会も保守的だなーと思います。私はアメリカのベテル教会から多くのことを学んでいますが、彼らは毎日、奇跡が起こることを期待して生きています。そのためには、恥をかいたり、失敗することを恐れてはいけません。たとえば、神さまから突然、「この中に、腰の痛い人がいます」という知識のことばが与えられたとします。それを口に出さないと、奇跡は起こりません。でも、「そうでなかったなら恥ずかしい」とひっこめたままだと、奇跡も起こりません。ですから、昨日よりも今日、今日よりも明日、というふうに神さまの奇跡を体験していく必要があります。「昔、こういうことがあったなー」と懐かしんでいるなら、もう年寄りです。「もっと良いことは過去ではなく、これから起こる」のです。イザヤ43:18,19「先のことに心を留めるな。昔のことに目を留めるな。見よ、わたしは新しいことを行う。今、それが芽生えている。あなたがたは、それを知らないのか。必ず、わたしは荒野に道を、荒れ地に川を設ける。」
三つ目は満ち足りることができます
キリストにささげ切った人はどんな境遇の中でも満ち足りることができます。ピリピ4:11-13「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」私はクリスチャンになる前の毎日は不平不満だらけでした。「あれがない、これがない、あれがほしい、これが欲しい」と言っていました。なぜなら、私は八人兄弟の七番目に生まれ、私の取り分が少なかったからです。でも母から「兄たちは我慢したけど、お前はなんで我慢できないんだ。ああ、情けない」と言われました。確かに戦後まもなく生まれた姉や兄は、そうだったかもしれません。でも、私のころになると、だんだん豊かな生活になってきました。どうしても、恵まれているクラスメイトと比べてしまいました。でも、クリスチャンなってから、不思議に感謝ができるようになりました。一番の喜びは永遠のいのちが与えられ、この世は仮の生活と分かったからです。父なる神がお父さんだと分かってから、必要なものは必ず与えられると分かり、貧乏の霊から解放されました。あったらあったで感謝し、なかったらならなかったなりで満足するようになりました。私が一番、驚いたのはパソコンです。昔は全部揃えると50万円以上したのに、今では10万円代で買えます。「自分の専用のデスクと、パソコンがあるなんて、なんと贅沢なんだろう!」と思います。
私たちが持っているものはすべて神さまから預かったものです。時間、お金、財産、持ち物、賜物、家族、命、この体…すべてです。すべてをささげた人はこれを神様にお返しした人です。自分のいのちさえささげたのですから、究極的な降参です。そして、神さまは、こんどは、私たちに返してくれます。違うのは、所有者は私たちではなく、神さまです。私たちは神さまから預かったものとして大切に管理するのです。ある時、神さまが「私に返しなさい」と言われるかもしれません。そのときは、喜んで返すのです。ヨブは全財産と10人の子どもを失ったときこう言いました。ヨブ1:21「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。【主】は与え、【主】は取られる。【主】の御名はほむべきかな。」私たちの子どもすらも、神さまが与えたものであるなら、どんなことが起きても神さまを呪うべきではありません。この体も、健康もそうですが、始めから自分にあったものだと誤解しているのです。だから、何か失うと神さまにひどいことを言う恐れがあります。間違ってはいけません。すべてのものは主のものであり、私たちはただこの地上で、預かっているだけなのです。でも、父なる神さまは豊かなるお方であり、求めた以上に与えてくださるお方です。だから、私たちはパウロのようにこのように告白することができます。「私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」アーメン。