聖書には「つまずく」という言葉がたくさん出てきます。私たちは信仰的に一度つまずくと、なかなか元に戻れません。それで、教会を去ってしまった人たちもたくさんいます。また、一生懸命チャレンジしていても、何かにつまずいて二度とやらないような出来事もあります。水におぼれた体験のある人は、二度と水泳を学ばないところがあります。きょうは、どのようにつまずきから立ち上がることができるのか共に学びたいと思います。
1.躓きが起こる理由
イエス様は福音書でこう述べておられます。ルカ17:1-2イエスは弟子たちに言われた。「つまずきが起こるのは避けられませんが、つまずきをもたらす者はわざわいです。その者にとっては、これらの小さい者たちの一人をつまずかせるより、ひき臼を首に結び付けられて、海に投げ込まれるほうがましです。」イエス様は「つまずきが起こるのは避けられません」とはっきり述べておられます。このところから、つまずきを与えるのは人であることが分かります。また、人でなく事故や出来事でもあります。水におぼれたり、鉄棒で怪我したり、スキーで転倒するとどうでしょう?一度味わった、痛みや恐怖心によって、それがトラウマ経験となり、二度と挑戦しなくなります。他にも学校の先生から馬鹿にされ、絵や音楽が嫌いになる人もいます。受けた心の傷のゆえに、自分はダメだと思って挑戦しなくなるのです。私が小学校5年生のとき、東京オリンピックがあり、その記念切手が村の郵便局で売られました。友達と職員と私でジャンケンして私が記念シートを手に入れました。ところが、上の兄がおれによこせと取り上げようとしました。私は嫌だと手を離さなかったので、兄は切手をぐちゃぐちゃにしました。側で見ていた父は、「そんなものがあるからだ」と怒って、その切手を薪ストーブの中にくべてしまいました。それで、私は大泣きして、それまで集めていた切手を全部捨てて、切手収集をやめてしまいました。あの頃、漫画の裏表紙にいろんな切手が販売されていたのを懐かしく思い出されます。私は切手だけではなく、コレクション自体をやめてしまいました。そして、「大事なものは人には渡さない」という誓いまで立ててしまいました。
私の場合は記念切手ですが、皆さんの中にもあの時のつまずきが原因して、二度とやっていないものがあるのではないでしょうか?私の長男がピアノをやめないで続けていれば良かったとアメリカに留学していたときつぶやいていました。彼は音楽が好きになり、そちらの道に行きたかったようです。でも、ピアノが弾けなかったので、道が閉ざされてしまったのでしょう。でも、最近はコンピュータと電子機器で、曲を作ることもできるようです。彼は趣味として、DJをやっているようです。私は「なんでも鑑定団」がとても好きですが、その中に作者の遍歴が紹介されるのでとても興味深いです。絵でつまずいた人が、彫刻で才能を現したという人もいました。荻原碌山(おぎわらろくだん)は、洋画家になろうとニューヨークに渡りました。しかし、本当に描くべきものを見出せずにいました。ところが、アメリカからフランスのパリを訪れたとき、ロダンの『考える人』を見て彫刻を志すようになります。彼はロダンから直接指導を受け、ロダンを日本に紹介した彫刻家で知られています。また、夏目漱石はイギリスに留学したことがあります。現地では英語がまったく通じず、貧しい暮らしの末、部屋から一歩も出なくなってしまいました。二年間、今風に言うと引きこもりになったのです。では、彼は何をしていたかというと、留学中、自分が日本で学んできた文学と英文学との違いに気付きました。そして「文学とは何か」ということを根本的に追及しました。帰国後、知り合いから「衰弱した精神を和らげるために小説を書いてみないか?」と勧められ、「吾輩は猫である」を執筆、発表しました。
イエス様は「つまずきが起こるのは避けられません」と言われました。言い換えると、この世においては、つまずきが起こるのは当然だということです。進学でつまずく人がいるでしょう。結婚でつまずく人もいるでしょう。そして、信仰でつまずく人もいるでしょう。信仰生活20年くらいやっている人は、つまずきません。もう、足元がしっかり固まっているからです。しかし、求道者とか信仰に入ったばかりの人というのは、容易につまずきます。神さまやイエス様につまずく人はいません。人につまずくのです。牧師につまずく人もいます。それから、教会の役員さん、リーダーにつまずく人がいます。兄弟姉妹につまずく人もいるでしょう。「え?この人、本当にクリスチャン?ありえない?」とか言ってつまずくのです。ジョン・ビビアが『人につまずくとき』という本を書いています。原本の英語名は“The bait of Satan”です。直訳すると「サタンの餌」です。baitというのは、針や罠の「餌」という意味です。つまり、何らかの餌でおびき寄せられ、パクっと食べると、針が突き刺さって捕らえられてしまいます。つまずきを与える人も災いですが、つまずく当人にも問題があるということです。どんな人がつまずき易いのでしょうか?まず、心の傷のある人です。誰かから過去に同じようなことをされて傷を受けている場合です。その傷が癒されていないので、信用していたのに、追い打ちをかけてしまうのです。また、プライドが高い人もつまずきます。「恥をかかされた」と憤慨してしまうのです。また、疑いや不信の考えに占領されている人もつまずきます。「やっぱりそうなのか?」と真理を追究することを簡単にあきらめてしまいます。
イエス様はマタイ7章で「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます」とおっしゃいました。しかし、それらはすべて継続形であることを忘れてはいけません。本当はこうです。「求め続けなさい。そうすれば与えられます。探し続けなさい。そうすれば見出します。たたき続けなさい。そうれば開かれます。」つまずいてもあきらめず、求め続ける、探し続ける、たたき続けるのです。という私は求道者のころ躓いて1か月教会に行かない時がありました。大川牧師の説教に感動して、付き合っていた彼女を、駐車場から無理やりひっぱってきて礼拝に参加させました。ところが、その日は大川牧師ではなく聖書学院の教授がメッセージをしました。なんだか自慢話をしているようで、せっかく連れて来たのに、イヤになりました。礼拝が終わるなり、「二度と来ない!」と捨てセリフを吐いて、教会を後にしました。そのような私に職場の先輩が大川牧師の礼拝テープを貸してくれました。1か月くらいたって、車で教会の前まで行きました。「新しいぶどう酒は新しい皮袋に」という大きな看板が立っていました。「ああ、なんのことだろう?」と興味がわきましたが、「二度と来ない!」と言った手前、その日は素通りしました。先輩がその週のメッセーの概要を聞かせてくれました。たまらず、次の週から、先輩に連れられ礼拝に集うようになりました。彼女の方は二度と教会には行かなくなり、信仰も持ちませんでした。サタンは教会の中にもつまずきの材料をまいているようです。なぜなら、教会でつまずくと与えるダメージが大きいことを知っているからです。つまずきのそもそもの原因はサタンから来るものです。人を通してだったり、何らかの事故や不手際だったりします。でも、それはある意味では神さまが許されたテストであるとも考えられます。その人が求め続けているのか、探し続けているのか、たたき続けているのか、真価が問われているということです。一回や二回でつまずくような人だったら、見込みがないということです。本当に救いを得たかったら、一度や二度のつまずきで諦めないということです。そこには私たちの信仰もありますが、神さまの憐れみと助けもあります。詩篇の記者はこう述べています。「まことにあなたは救い出してくださいました。私のいのちを死から。私の足をつまずきから。私がいのちの光のうちに神の御前に歩むために」(詩篇56:13)。
2.躓きが与えるダメージ
もう少し、つまずき自体のことを考えたいと思います。つまずきというのは、その意味のごとく、「よろっ」とつまずくことです。私たちは段差や石ころでつまずくことがあります。大体は、小さなことで人はつまずくのです。ある人は「富士山でつまずく人はいない」と言いましたが、まさしくそのとおりです。客観的にみると、いたって小さなこと、ささいなことなのです。でも、人が一旦、つまずくと立ち上がることができないのはどうしてでしょうか?ピアノをやめたり、絵をかくことをやめたり、切手収集をやめたり、特定のスポーツ競技をやめたりします。信仰もその部類に入るかもしれません。献金につまずく人もいるし、奉仕につまずく人もいます。なぜ、小さいと思われるつまずきがそんなに大きなダメージを与えるのでしょう?人間の魂は3つで構成されていると言われています。知性、感情、意思です。人は何かでつまずくと、挫折体験、恥ずかしい体験、気まずい体験をします。すると、意思が「もう、このことはしないんだ」「もう、やらない」「もう、私にはできない」と決断するのです。人間は意思で、決断と選択をして生きています。自由意思は神さまが下さった最もすばらしいものです。でも、この意思が何等かのことでつまずき、頑固になります。もう、「これはダメなんだ」と決断するとどうでしょう?その意思決定が、その人の残りの人生をひっぱっていくのです。人は何かでつまずくと、心の中で誓うのです。これを「内なる誓い」と呼んでいますが、一度、この誓いが刷り込まれると、コンピューター・ソフトのように自動的に働きます。もう、しないし、できなくなります。しかも、その思いに対してサタンが働きますので、しまいには「要塞」となります。小さいと思われていたつまずきが、内なる誓いになり、そして要塞になるのです。だから、つまずきを侮ることができないのです。
要塞のことはⅡコリント10章に書かれています。Ⅱコリント10:4,5「私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。私たちは様々な議論と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち倒し、また、すべてのはかりごとを取り押さえて、キリストに服従させます。」このところに「要塞」と書かれています。要塞は悪いものと、良いものがあります。悪いものは、悪魔からくる議論や高ぶり、はかりごとです。すべては私たちのマインドに形成されるものです。心が頑なになるとは、要塞化するということです。良いものは、神さまご自身が私たちの要塞になるということです。詩篇には、主は「わが砦、わが岩、わが力」というふうに出てきます。これは、神さまご自身の中に自分が隠されているということです。それだったら、外敵の侵入に耐えることができます。これは、信仰が固まっている人の表現です。しかし、そこまで達するためには、人生の嵐や雨、風を乗り越えなければなりません。樹木は風雨に耐えることにより、根を深く地中に張っていきます。次第にもっと大きな風雨に耐えられるようになります。つまずきを乗り越え、神さまに深く根を下ろすことができたら幸いです。でも、つまずきの与えるダメージを甘く見てはいけません。つまずきは意思に対して働くからです。そして、一旦、強固な要塞になったら取り崩すのは容易ではありません。
私は1987年5月に当亀有教会に赴任しました。その時、山崎長老さんが軽の乗用車を買ってくれました。「これで一緒に来なくなっている教会員を訪問しよう」ということでした。私はこの教会の過去の歴史は全く分かりません。そのため、山崎長老さんが一緒に訪問してくださいました。その時、「なぜ、この人が教会に来なくなったのか」ということも知ることができました。つまり、その人のつまずきの原因が分かったのです。教会内の過去の罪や過ちが原因して、つまずいた人がほとんどでした。礼拝ですので、詳しくは言えませんが、1つだけ申し上げます。私は寝たきりの教会員、おばあちゃんを訪問しました。その人は信仰熱心なのですが、息子やお嫁さん、孫はそうでないと言うことが分かりました。原因はこの教会は25年間くらい「幼児園」をしていたそうです。牧師夫人は「ママ先生」と呼ばれて大変慕われていたそうです。ところが、子どもたちも減り、幼児園を閉鎖することになりました。突然閉鎖してしまったので、次の行先がない子どもも出てしまいました。おばあちゃんの息子のお嫁さんは、通わせていた子どものことでつまずいてしまったようです。また、先代の牧師は株をやっており、父兄からの保育費の返済問題もあったようです。とにかく、当時、幼児園に送っていた父兄たちが躓いたようです。別なケースもありますが、ここでは割愛します。「もう、あの教会には行かない!」と決断した人を来させるのは大変な労力が必要です。でも、山崎長老としつこく訪ねたので、3名くらいは教会に復帰しました。山崎長老の熱意には負けました。ルカ15章の「いなくなった羊」を捜し歩く物語と同じです。
3.つまずきから立ち上がる
つまずきから立ち上がるとは、つまずきを克服するということです。かつて、失敗して断念していたものをもう一度チャレンジして、乗り越えらたなら二倍の喜びと達成感があります。「やったなー」という、アルプス山頂に登った喜びでしょう。信仰生活においても、つまずきから一度立ち上がると、前よりもずっと堅固な信仰になります。では、どのようにしたら人はつまずきから立ち上がることができるのでしょうか?イエス様の一番弟子であるペテロが信仰的につまずいたことがあります。イエス様が最後の晩餐の後、「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」と言われました。マタイ26:33-35すると、ペテロがイエスに答えた。「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。このところから分かることは、イエス様につまずくのは、ペテロだけではなく、弟子たちみんなであるということです。でも、ペテロは絶対、自分はつまずかないという自信がありました。でも、ルカ福音書にはこのように書かれています。ルカ22:31,「シモン、シモン。見なさい。サタンがあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って、聞き届けられました。しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
このところに、つまずきに対して、サタンが関わっていることが分かります。サタンはペテロがつまずくように餌を撒いていたのです。後で分かりますが、ペテロが誘惑に負けたのは、召使の女性のことばでした。ペテロが裁判所に立たされていたのなら命をかけていたでしょう。ところが、召使の女性が「この人も、イエスと一緒にいました」と軽い気持ちで言ったからです。一度知らないと言ったので、二度、三度と知らないと言うしかありませんでした。彼は、あとで激しく泣いたと書かれています。しかし、私たちがつまずきから立ち上がることのできる要因がはっきり記されています。それはイエス様のとりなしです。イエス様は「わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました」とあります。これは、恵みであり、愛顧です。しかも、復活した後、「私を愛していますか」と三度もペテロに問いました。ペテロは、心を痛めて「あなたが私を愛していることは、あなたが知っておられます」と答えました。イエス様の祈りが彼をつまずきから立ち上がらせ、預言のとおり、「立ち直ったら、兄弟たちを力づけて」やることができたのです。使徒の働き2章にペンテコステの日のペテロの大説教が記されています。一番最後の箇所を紹介致します。使徒2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。「勧めた」とは、ギリシャ語でパラカレオゥであり、「懇願する、願う、慰める、勧める」という意味のことばです。まさしく、立ち直ったペテロが、十字架につけたユダヤ人たちに福音を語り、悔い改めに導いたのです。
もう一つ、つまずきから立ち上がるためのみことばがあります。それはヨハネ黙示録2章です。黙示録2:4,5「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。」このところで、「どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい」と命じられています。つまずきというテーマから言うと、「どこでつまずいたか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい」ということです。水で一度おぼれてしまって、二度と泳がない人にはどうでしょう?もう一度、ざぶんと水に入って、泳いでみなさいということです。ある時、車のレーサーの話をテレビで見たことがあります。その人は女性ドライバーで四輪ドリフトの世界チャンピオンでした。彼女は普通の会社員でしたが、突如、レーサーに目覚めました。しかし、現実はそう甘くはありません。幸い、良い指導者と巡り合い、技術が増していきました。あるとき、ひどいクラッシュを起こしてしまいました。その指導者は「時間を置かないで、すぐ走りなさい」と言ったそうです。なぜなら、時間を置くとそれがトラウマになり、次に運転するのが怖くなるからだそうです。私たちも何かにつまずいたら、時間を置かないで、すぐ立ち上がるべきなのです。最初に申し上げましたが、心が硬くなになり、サタンによって要塞が築かれてしまうからです。「もうしない」「もうやめた」と決断する前に、めげないで挑戦するということです。でも、長く時間がたったものもあります。イエス様は「どこでつまずいたか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい」と言われました。そうです。つまずいたときと同じ場面に立ち返り、そこから再び始めるということではないかと思います。ピアノでつまずいたら、もう一度ピアノを触っているということです。英語でつまずいたら、もう一度英語をやるということでしょう。
私はかつて切手収集でつまずきました。60歳くらいになったときでしょうか?あの時から、50年もたち、もうすぐ二回目の東京オリンピックが始まろうとしていました。それで、ヤフオクでみたら、あの時、ストーブにくべられた東京オリンピックの記念シートがオークションに出品されていました。何百円かで売られており、信じられませんでした。あのとき捨てた、梅や鳥の切ってもシートで購入しました。「何だ、こんなもので泣いていたのか?」と、半分がっかりしました。子どものときの、喪失感はそれほどダメージがあったということです。しかし、大人になって「大人買い」をすると、「なんだかなー」と癒されます。私は切手収集はやめましたが、パソコンに、だれかのセミナーをワードで保存しています。講義集がたくさん収められています。さらには、新型コロナが襲ったとき何十冊も翻訳して収集しました。日本では訳されていない良い本がたくさんあったので、かたっぱしから訳し、それを製本しました。そして、大川牧師とカルバリーチャペルのスタッフに何回も送りつけました。神さまは私をつまずきから立ち上がらせて下さいました。神さまはあなたに再び情熱を与えて、たおれたところから立ち上がらせてくださいます。諦めてはいけません。主はあなたに、はじめの愛を与えて立ち上がらせてくださるのです。