2025.8.10「救いの全体像 マタイ28:18-20」

キリスト教会には、それぞれ得意分野があり、「これがもっとも重要なことだ」と力を集中しています。また、時代においてリバイバルや様々なムーブメントが起こり、今日に至っています。私は信仰生活が46年ですが、いろんなムーブメントに参加し、あるいは奉仕者として携わってきました。この年になってやっと思うのですが、「局所的なことには長けていたかもしれませんが、全体像を見失っていたなー」と反省しています。このことは、日本の教会にも言えることであり、教団教派の伝統や教義に縛られ、ある部分しかやっていないため、全体のバランスに欠いているのではないかと思います。きょうは「その全体」について学びたいと思います。

1.救霊運動

 マタイ28:19「ですから、あなたがたは行って…父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」とあります。バプテスマというのは、水の洗礼であり伝道の完成であり、救いを受けたことのしるしです。このことを最も強調しているのが、バプテスト教会です。最も有名なのが、アメリカのビリーグラハム師による、クルセード(大衆伝道)です。日本の福音派教会は、魂の救い、救霊を第一にしています。ビリーグラハム師が「今晩、心臓が止まっても、あなたは天国に行ける自信はありますか?」と最後に問います。その後、「決断の時」をもち、決断した人は講壇の前に進み出て祈りをささげます。一般のアメリカのバプテスト教会では、毎週、礼拝の終わりにこのような「招き」をします。なぜ、このようなことをするのでしょうか?このことは、西部開拓史までさかのぼります。イギリスから移民した人たちは、クリスチャンの人もいれば、そうでない人たちもいます。その時代は、早く行って、そこに杭を打てば、その土地が自分のものになるのだと考えていました。みんなが、西へ、西へと新天地を目指しました。彼らは幌馬車に家財を積み、複数の家族で移動しました。あるところで野営していると、バプテストやメソジストの宣教師がやってきて、伝道します。最後に、「今晩、心臓が止まっても、あなたは天国に行ける自信はありますか?」と問います。信じた人は、そこでバプテスマを受けます。しばらくしてから、彼らは西へと旅を続けます。あるところに行くと、また、宣教師がやって来て天幕集会を開きます。「今晩、心臓が止まっても、あなたは天国に行ける自信はありますか?」と問います。中には、「救いがぼやけていたなー」と、悔い改め、信仰を告白します。彼らは回心するためのメッセージしか聞いていません。言い換えると天国に行くためだけの福音です。

 福音派の教会は魂の救い、救霊を第一の目的にしています。そして、一年に何名、受洗者をあげたかを気にしています。私もそういう教会で育ったので、洗礼を受ける人がいないと怠けているようで気が引けます。確かに伝道は大切です。なぜなら、キリストを信じるか、信じないかで、永遠が決まってしまうからです。極論を申し上げますが、キリストを信じるなら永遠の御国に行くことができます。しかし、キリストを信じないままで死んだなら、自分の義によって神さまの前に立つしかありません。それぞれが自分の行いによって裁かれます。多くの人たちは神の義に達していないので、永遠の滅びに行く人たちが断然多いと思います。それよりも、生きている間に、キリストによる救いをいただいて、安心して暮らしたら良いと思います。でも、天国に行くだけの救いというのは、どうなんでしょうか?ある人たちは、「好きな事をたくさんして、死ぬ前に洗礼を受けます」と言うかもしれません。また、洗礼を受けてクリスチャンになった人も、「死んでも天国に行けるんだから安心だ」と教会生活を無難に過ごそうとするでしょう。牧師も、「毎週、日曜礼拝に来て、献金をささげていれば、標準的な信徒だ。余裕がある人は何かの奉仕をすれば良い」と思っています。教会員は天国に行くまで、みことばの食物と励ましと祝福をいただけば十分であると思っているかもれません。しかし、これは天国に行くための救いです。私たちは洗礼を受けてから、長い人は40年もあるのではないでしょうか?その40年を、信仰を維持するためにだけ、過ごして良いのでしょうか?それでは、生命保険と同じです。生命保険も毎月、死ぬまで、お金を支払っています。生命保険と献金と似ているところないわけでもありません。もう一度言いますが、救いはバプテスマを受け、天国に行けるることだけではないということです。エペソ4:13「私たちはみな、神の御子に対する信仰と知識において一つとなり、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達するのです。」

 

2.聖化と癒しの運動

 マタイ28:19「人々を弟子としなさい」とあります。これは、成長して一人前のクリスチャンにしなさいということです。罪がきよめられて、キリストに似た者になることを「聖化」と言います。最も有名なのが、ジョン・ウェスレーのホーリネス運動です。ルターは信仰義認を強調しましたが、これは霊的に新しく生まれるということです。いわば、救いのスタート地点です。赤ちゃんは生まれたとき、両親はとてもうれしいでしょう。「無事に生まれたのですから!」でも、それからが大変です。赤ちゃんを養育して一人前になるまで育てなければなりません。二歳児も可愛いですが、そのまま成長しないなら悲しいです。クリスチャンも霊的に生まれたなら、成長していかなければなりません。一口にいって「ホーリネス」というのは、「罪のきよめ」のことを言います。私たちはキリストを信じたとき、すべての行いの罪は赦されました。ところが、古い人である罪の性質はまだ残っています。ローマ6:6「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです。」アーメン。私たちの古い人はキリストと共に死んだのです。今は、キリストと共によみがえり新しい人になりました。アダム以来の古い人が一度断ち切られ、キリストに接ぎ木された存在です。古い人の記憶はあります。でも、過ぎ去ったのです。今は、キリストと結ばれ、キリストの命で生きています。そうしますと、ガラテヤ5章にあるような、愛、喜び、平安などの御霊の実を結ぶことができます。これは人格的な成長であり、キリストに似た者になるということです。

 これで行けるといいのですが、50年くらい前から、インナー・ヒーリング、「内面の癒し」運動がはじまりました。最も有名なのが、ジョン・サンフォードの『内なる解放』です。日本では、エリヤハウス「祈りのミニストリー」によって行われています。ジョン・サンフォードは心の癒しを受けるため3つの法則を提唱しています。「父母を敬え」、「さばくとさばかれる」、「蒔き刈りの法則」です。だれにでも、育成史の中で、両親に対して怒って、裁いたことがあるでしょう。それが苦い根となって、現在、苦い実を結んでいるというのが中心的な教えです。その苦い根を探って、悔い改め、新しい命を与えるということです。私も2年コースを受け、それから3年間くらい継続して学びました。他には李光雨師のインテグレーション・カウンセリング、丸屋信也師の牧会カウンセリングも学びました。エディ・レオ師やチャールズ・クラフト師から、「悪霊からの解放と癒し」も実際に受けました。「癒しと解放」これが私のミニストリーの大きなテーマであり、現在も学び、そういう人がいればミニストリーをしたいと思っています。でも、今、思うのですが、天国に行くまで、完全に癒されることはないということです。あまりにもその人の心の傷、苦い根、解放されていない部分に目をとめると、肝心のものが見えて来ないということです。もっと、重要なことは、その人に与えられている神さまの計画です。詩篇139篇を見ると分かりますが、「運命の書物」があり、その人の性格や賜物、成し遂げるべきことも記されているということです。ですから、きよめられていないような性格であっても、実は神の作品であるということです。私はおしゃべりですが、神さまは私を救って「説教者」にして下さいました。傷とか欠点と捉えるのではなく、逆転勝利すれば、神さまの不思議な強みになるのです。つまり、きよめられていないと否定的に見るのではなく、「その人に隠されている神からの宝物は何だろうか?」と発掘してあげることがもっと大切なのです。エペソ2:20「実に、私たちは神の作品(ギ.ポイエマ、ポエムと同じ)であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」

 

3.教会成長運動

 福音派において40,50年前から、教会成長運動が始まりました。アメリカと韓国では、1万人以上集まっている大教会がいくつも生まれました。日本では「教会成長研修所」なるものが発足し、多くの牧師たちが2年コースで学びました。自分の教会の特徴を捉え、市場調査をし、右肩上がりの成長ビジョンを考えます。私は受け損なったので、悪く言う訳ではありませんが…、教会が大きくなるのは研修のせいではないということです。多くの牧師たちは、右肩上がりの成長を望みながら、そうならないのでフラストレーションがたまったのではないかと思います。現在は名称をJCGIと英語にして、成長というイメージをあいまいにしています。ところで、日本の平均礼拝出席は35名です。確かに1万名以上集まるメガ・チャーチは世界各所にあります。でも、メガ・チャーチの講師を外国から呼んで、日本の小教会が大きくなるかというと無理があるようです。100名行かない教会の牧師はみんな失敗したと思っているかもしれません。私を含めて…。でも、福音派の教会は教会が大きくなるために、いろんなことをしたのです。英会話伝道、映画伝道、コンサート、特別伝道集会、ランチョン、家庭集会…。当教会ではブラックゴスペルが当たり、数多くの人たちが救われました。でも、ピークは過ぎたように思えます。私は弟子訓練、セルチャーチ、いろいろやりましたが、「うまくいかなかった」というのが正直な感想です。「うまくいかなくっても」というクリスマスの歌で涙したこともあります。それから5年たって、やっと失望落胆の沼から這い上がることができました。新型コロナウィルスが2020年からグーンと流行り出し、いろんな活動がストップしました。その期間、私は洋書を読み、またそれを翻訳して、充電の時を持つことができました。また、教会とは何なのか?ということも深く考えことができました。

 教会は集まっている人数も重要かもしれませんが、それよりも、教会は何のために存在しているかという、存在目的を果たすことがもっと重要だと思います。数で言うなら、エジプトから脱出したイスラエルは100万人以上いました。でも、多くの人たちは不信仰により、約束の地に入ることができませんでした。ヨシュアとカレブの二人は「攻め上りましょう!」と言ったのに、大多数は反対しました。また、ギデオンのときは、3万人では多すぎると言われ、1万人になり、最後は300人まで削られました。その時、神さまが何とおっしゃったでしょう?「イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、私に向かって誇るといけないからだ」とおっしゃいました。数ではないことが、聖書の中にいくつも記されています。イエス様もたった12人から始めました。ペンテコステの日は120名でした。その人たちが、世界をひっくり返したのです。問題は数ではなく、生きているか、命があるかということです。かつて、福音派の指導者たちは「クリスチャン人口が1,000万人になれば、政界にも影響を及ぼすことができるので、多くいなければならない」と言いました。1,000万人救霊運動というのもありましたが、いつしか下火になりました。確かにある新興宗教は数に物を言わせているところがあります。でも、それが神さまの方法かと言ったらそうでもないと思います。信仰の父、「アブラハムが召命を受けたとき、このように言われました。「あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。…地のすべての部族は、あなたによって祝福される」(創世記12:2,3)。そうです。教会は神の祭司であり、すべての国を祝福するためにあるのです。そのことはⅠペテロ2章でも言われています。「あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です」とあります。教会は神の民であり、祝福を運ぶ管となることが神さまの計画なのです。教会だけが肥え太るのではなく、教会は神さまの目的を果たすために存在しているのです。

 

4.神の国運動

日本では賀川豊彦師が『神の国運動』を始めました。日本基督教団をはじめリベラルの教会は明治以降、学校教育、医療、女性の身分回復、矯風会、組合運動を手掛けてきました。ビジネスにおいても、キリスト教精神が基盤で発足したものがたくさんあります(森永製菓、山﨑パン、ライオン油脂、白洋舎)。その点、福音派の教会は伝道と教会設置一本やりです。なぜかと言うと、この世はまもなく終わるので、そんなことよりも、一人でも多くの魂を救わなければならないと考えてきました。しかし、明治にプロテスタントが100年以上もたっています。これから先、100年世の終わりが来なければ、反省しなければならない点がいっぱい出てくるのではないかと思います。マタイ28:19「あらゆる国の人々を弟子としなさい」とイエス様は言われました。福音派の教会はこれを大宣教命令と捉えて、救霊こそが第一だとやってきました。もちろん、人の魂が救われることは最優先事項です。しかし、ここをみると「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と言われています。国というのは、英語でnationです。ギリシャ語ではエソスであり、「人種、民族、民族グループ」を意味します。イエス様は一人の人ではなく、「国全体、国民を弟子としなさい」と言われたのです。ビルジョンソンが、イザヤ書から『7つの山』」ということを言っています。イザヤ2:2「終わりの日に、【主】の家の山は山々の頂に堅く立ち、もろもろの丘より高くそびえ立つ。そこにすべての国々が流れて来る。」ここに「山々」とありますが、これが弟子とすべき国の事柄が7つあるということです。宗教、家庭、教育、ビジネス、医療、芸術、マスコミです。つまり、クリスチャンがそのような分野に派遣されて、神さまの知恵と想像力を運ぶ祝福の器になるということです。なんと、ルネッサンスに影響を与えた人物がいました。1443年生まれのマルシリオ・フィチーノという哲学者で神学者です。彼は、芸術、ビジネス、哲学、健康などの分野で、文化に影響を与えようと、非常に意図的に活動していました。教会はルネッサンスを軽視するところがありますが、「御国がこの地に来るように」というところは共通しています。

 マタイ6章にイエス様が弟子たちに教えた有名な祈りがあります。これは「主の祈り」ではなく、「主がこのように祈るように」と私たちに教えた祈りなのです。冒頭が「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。」これが、教会に与えられた使命です。教会は神を礼拝する祭司の民です。また同時に、天をこの地にもたらすための祭司でもあります。パウロは、クリスチャンは、和解をもたらす神の使節だと言いました。使節とは、全権大使のことであり、神の国の代表ということです。教会はいわば、神の国の大使館です。天国の入り口であると同時に、天国をこの地にもたらすために存在しています。私たちは日曜日公の礼拝をこのようにして守っています。この礼拝が終わったらお家に帰るのではありません。お家や職場や地域社会に派遣されるのです。私たちは世の終わりが来るので、汚れた世とは一切交わらないという「世捨て人」ではありません。イエス様のころ、エッセネ派という人たちは洞窟や荒野で生活していました。バプテスマのヨハネもその一人ではないかと言われています。しかし、イエス様は町や村を巡り歩いて、罪人や遊女、酒飲みたちと交わりました。御国の福音を伝え、教え、人々の病をいやしました。イエス様は、福音宣教、教え、病の癒しと解放という3つの働きをなされて、人々に仕えました。

 さて、教会の存在目的に戻りますが、教会はキリストのからだと呼ばれています。キリストは教会のかしらであり、命令器官です。手足や目口鼻、すべての器官はクリスチャンです。昔、『伸びゆく教会』という本がありました。この本にこう書かれています。現在、教会は、自分がだれであるかがわからなくなっているように思えます。健忘症にかかった人のように、「私はだれだろう。私は何の目的でここにいるのだろうか」と尋ねています。教会は神ご自身の栄光(神の御性質)を現すためにあります。また、教会はキリストがかつて地上でなされた働きを継続するためにあります。パウロは御霊の賜物こそが、キリストのからだの各器官であると言いました。Ⅰコリント12章には、知恵のことば、知識のことば、信仰、癒し、奇跡、預言、霊を見分ける力、種々の異言、異言を解き明かす力…9つあげられています。パウロは「よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい」と勧めています。ところが、教会はⅠコリント13章の「愛」だけを強調し、肝心の御霊の賜物のことは言わなくなりました。つまり、キリストが地上でなさっておられたことを、しなくなったということです。福音宣教と教えは確かに継続しています。三番目の病の癒しと悪霊追い出しはしていないし、神学校でも教えていません。そして、「奇跡やしるし」は終わったとさえ言っています。その代わり教会は、カルチャースクール、おもてなし伝道、カウンセリング、町の掃除…をしています。私はアメリカのベテルチャーチが発行している本をたくさん読んでいます。ビルジョンソンは使徒であり、クリスバロトンは預言者であり、ケビン・デドモンは癒し手です。私は牧師ですが、彼らから多くのことを学んでいます。つまり、教会はしるしと奇跡の伴う、伝道をすべきなんだということです。福音派の教会は「カリスマだ、危険だ」と非難します。しかし、使徒パウロほどカリスマはいません。彼は「私は、だれよりも多くの異言で語っていることを、神に感謝しています」(Ⅰコリント14:18)と言いました。

 神の国運動の結論になりますが、しるしと奇跡の伴う宣教活動こそが、神の国をこの地にもたらす聖書的な方法であると信じます。イエス様は弟子たちにこのように命じました。マタイ10:7,8「行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのですから、ただで与えなさい。」教会はイエス様の命令を薄めてしまいました。人々に親切にすること、人々に愛をもって仕えることであると解釈しました。2000年前の弟子たちと初代教会は、このみことばをそのまま実行しました。今、アメリカのベテルチャーチでは2000人の人たちが、超自然的神学校で学んでいます。そして、レデングという6万人の小さな町が、理想的な神の国に変えられつつあります。私たちは実行可能なように、みことばを解釈し、水で薄めてはいけません。そのまま行うことによって、神の霊が共に働いてくださるのです。「私には天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」。私たちはそれを行うことができる権威と力がキリスト様から与えられています。