2025.8.3「共依存からの解放 ガラテヤ6:1-5」

 共依存と境界線は、1つのテーマを別の方向から扱っています。両者とも日本人には捉えどころのないテーマではないかと思います。なぜなら、日本人は共依存の中でどっぷり浸かって生きているからです。では、アメリカ人はどうかというと、日本人と違った形で、そういうものがあります。私もこのようなテーマで何度も語ったことがありますが、どうしても必要ではないかと思って、メッセージを準備させていただきました。

1.感情の境界線

 境界線はバウンダリーとも言います。他の人の感情と、自分の感情とは本質的には違うものです。でも、両者の関係が深ければ深いほど、その人の感情が自分の感情になります。心理学では転嫁というのかもしれません。たとえば、自分の子どもが病気やケガをしている場合、親はどう感じるでしょうか?子どもの泣き声が、頭にがんがん響きます。子どもの痛みや苦しみが自分の体にも伝わってきます。私のすぐ上の兄は運動神経抜群で、ボクシングのJ.ウェルター級で1位でした。後楽園に試合を見に行ったことがありますが、心臓がバクバクして、見ていられませんでした。私の大切な物(記念切手、縦笛)を奪い、私をよく殴った憎い兄なのですが、肉親の情なのか勝ってほしいと思いました。日本人は肉親の情というものを大切にする文化です。しかし、情におぼれたり、情に流されたりして、正しい行いをさせることの妨げになってしまいます。聖書に出てくる、ツロ・フェニキアの女性も日本人と似ています。彼女の娘が悪霊に憑かれて、ひどく苦しんでいしました。彼女がイエス様のところに助けを求めに来るのですが、何と言ったでしょう?マタイ15:22「主よ、ダビデの子よ。私をあわれんでください」と訴えました。イエス様は彼女を無視しましたが、マタイ15:25「主よ、私をお助けください」と平伏して願いました。良い意味でも、悪い意味でも、母親と娘が一体です。この母親は娘のことを、自分のことのようにお願いしているからです。結果的に、彼女の信仰によって、娘はいやされました。

 このところからもわかりますが、最も多いのが、母と娘の共依存です。李光雨師は「親子パック」と言っていました。あるお母さんは娘が幼稚園に着るものを選んでいました。しかし、それが小学校、中学校、高校、大人まで続いました。付き合っている友人や結婚相手まで干渉するのです。二人が並んで歩くと、後ろ姿がそっくりです。春、入学のシーズン、教会の前を修徳学院に行く、親子連れが通ります。「親子が本当によく似ているなー」と思います。歩き方も後ろ姿もそっくりなのです。問題は、「親子パック」は、気持ちが一体になって、境目がないということです。お母さんと娘の気持ちは一体であってはなりません。多少、重複するところがあるのは仕方ありませんが、二人とも別の人格があることを忘れてはいけません。子どもの成長にとって最もよくないのが「過干渉」であると聞いたことがあります。親子ですから、干渉することがあるでしょう。でも、干渉しすぎると感情に異常をきたしてしまいます。母親は「どうして私が毎朝、カバンの整理をしなけりゃいけないの」と怒っています。あるいは、「どうして私が宿題を代わりにしなけりゃならないの」と怒っています。「しなくても良いのに」と言いたいです。肝心の子どもは何とも思っていません。困らないので、ずっとお母さんにやらせるでしょう。

 自分が共依存になっているということを気づく1つのポイントは、「怒り」もしくは「フラストレーション」です。なぜなら、喜んでやっているのではなく、仕方なくやっているからです。本当はしたくないのですが、やらざるを得ないのです。アルコール中毒の夫とそれを助ける妻との関係で説明できます。妻は夫があばれるので、仕方なくアルコールを与えます。でも、夫の中毒を助けているのは妻なのです。妻が共依存なのです。共依存は支配する方と、それに仕方なく従う両者によって成り立っています。共依存の解決は、どちらかが勇気を出して、やめるということです。夫がアルコールを飲むのをやめるか、あるいは妻がアルコールを提供しないということです。私の父は酒乱でした。飲むと気が狂ったようになります。そのお酒を買いに行くのは、少年靖尋でした。夕方、村はずれの酒屋さんへ行って、量り売りでお酒を買いに行かされていました。お盆には兄弟たちとその伴侶が来るので、ビールを買いに行かされました。今、共依存のしくみが分かると、「母と私が父の酒乱を助けていたのだなー」と悲しくなります。母は離婚したい、離婚したいと言いながら、父の暴力で寝っきりになるまで、一緒に生活していました。

 私は小さい時から、兄たちがかける洋盤のレコードを良く聞いていました。その時には、なんとも思いませんでしたが、英語が分かる今では、共依存の歌が多いのに驚きました。英語では“Don‘t let me”「私に…させないで」という表現です。「私を一人にさせないで」「私を悲しませないで」「私を失望させないで」「私を誤解させないで」…みんなひどい歌詞です。なぜなら、そういう感情を抱くのは、あなた自身であるからです。どうして、私のせいにするのでしょうか?しかし、多くの場合、そのように言われると、「あなたを寂しくさせて、ごめんなさいね」というのです。境界線がぐちゃぐちゃになっています。私たちはだれも幸福にはできません。私たちはだれも平安にさせることはできません。私たちはだれも喜ばせることはできません。問題は、私ではなく、その人自身がどう思うか、どう感じているかにかかっているからです。もし、相手の感情にふりまわされているなら、共依存の奴隷の方です。奴隷であることを喜ぶ人もいますが、心から喜んでいるのでしょうか?もう一度言いますが、自分が共依存の対象になっているかどうかのリトマス試験紙があります。「喜んでやっているか?」ということです。「どうして私がやらなくちゃいけないの?」という怒りがあるなら、共依存になっているということです。どうぞ、共依存のロープと断ち切ってください。勝手に寂しくなり、勝手に悲しくなり、勝手に失望すればよいのです。その人がそういうのは、あなたを操作したいからです。英語のmanipulateは、「操る、操作する」という意味のことばです。泣いたり、哀れな声を出したり、大声をあげて脅すのは、manipulateです。二人の間に、境界線を設けて、問題を乗り超えてください。なぜなら、相手の感情は私の責任ではありません。私の感情は私の感情であり、相手の感情は相手の感情です。私たちは相手の感情まで責任を持つ必要はありません。

2.重荷の境界線

 重荷の境界線は、責任のバウンダリーと言っても良いかもしれません。言い換えると、私のやるべきことと、相手のやるべきこととに境界線を設けるということです。私が集合住宅、アパートに住んでいるとします。ある時、私の部屋にねずみが出てきました。そのねずみは私の部屋のねずみですから、私がなんとかしなければなりません。ところが、そのねずみは隣の部屋に逃げていきました。今、そのねずみはだれのねずみでしょうか?隣の住人のねずみです。隣の人が自分のねずみをなんとかしなければなりません。とっても世話好きの姉妹がおりました。教会の活動のためにもたくさん献金してくださいました。また、彼女は夫の妹さんの世話をするため奥多摩の病院に通っていました。なぜなら、脳梗塞で、一人で生活できないからです。家にいるときは、朝と夕、小学生の旗振りおばさんをします。横断歩道を渡るとき、旗を揚げて誘導する人です。それだけではありません。結婚した息子一家のことを心配して、いろいろ口出ししています。礼拝に来たときは、必ずトイレ掃除をしてから帰ります。その人自身は持病を持ちながら、たくさんの人たちの世話をしていたようです。私は姉妹と話しをするときがありましたが、近所にはこういう人がいるとか、いろんな話題が出ました。私は「人のことはいいから、自分の体を大事にしてね」と良く言っていました。その姉妹は、とうとう召されてしまいました。原因は入院中、新型コロナウィルスのワクチンを打ったからです。急に別の病気が出てきて、お医者さんから「膠原病です」と言われたそうです。以前は、そういう病気でなかったのですが、ワクチンが持病を悪化させたのだと思います。今、思えば、姉妹は慈愛の人ではなかったかと思います。マタイ25章には、空腹な人、渇いている人、旅人、裸の人、病気の人、牢に入る人が出てきます。イエス様は「これらの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは私にしたのです」(マタイ25:40)と言われました。私は天国において、イエス様から報いを受けていると思います。でも、しなくても良かったことをずいぶんしたのではないかと思います。

 むしかえすようで悪いですが、人には人の重荷があり、自分が負わなくても良いのではないかと思います。ガラテヤ書から2か所引用したいと思います。ガラテヤ6:2「互いの重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を成就することになります。」すばらしい、勧めです。でも、このようなみことばもあります。ガラテヤ6:5「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです。」とあります。口語訳は「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである」となっています。この二つのみことばを合わせるとこうなります。互いに重荷を負い合うべきものもあれば、その人自身が負うべき重荷もあるということです。さきほどのねずみではありませんが、隣のねずみの分までも責任を負わなくて良いということです。もちろん、アパート中の人たちを動員して、ねずみを駆除するという方法もあります。その人は、おそらく使徒的な賜物の人かもしれません。しかし、ガラテヤ書6章の二つの聖句から考えると、互いに重荷を負うべきことがらと、その人自身が負う重荷と区別することが必要だということがわかります。言い換えると、その人が負うべきものをこっちが負うと、その人も自分もダメになるということです。これが共依存の恐ろしいところです。「共倒れ」ということばがありますが、共依存は「共倒れ」を招く、愚かな方法であるということです。愛は重要です。しかし、真理の伴わない愛は、本当の愛ではありません。相手を愛するからこそ、相手の重荷を負うべきでないのです。動物の世界はそれがはっきりしています。母ヒョウは子育てをしますが、ある時から、餌を与えません。自分で狩りをするように子どもを放り投げます。子どものヒョウは、ショックでおじまどいます。「お母さん」と近寄っても無視されます。数日間、数週間、必死に獲物を追いかけます。中には餓死するヒョウもいるそうです。ところが、人間はヒョウとは違います。情があるので、独立すべき年齢になっても、世話をしてしまいます。「あなたのことが心配で天国に行けない」などと言います。独り立ちしないのではなく、独り立ちさせていないのです。

ある婦人がバウンダリーのセミナーのあと質問しました。「私の息子は19歳で薬物を使っています。そして逮捕されてしまいました。もう7回目です。私は大変な問題を抱えています。私は6回目まで保釈金を払って彼を刑務所から助け出してあげたのです。なぜなら、息子のことをとても愛しているからです。この7回目、もう一回保釈金を払って出してあげるべきでしょうか。」そのとき、20代の半ばくらいの男性が手をあげて言いました。「私はあなたのことを個人的に知らないですけれど、私はあなたの息子と同じ問題を持っています。私も何年も薬物の問題を持っていました。そして、私の母親は私を刑務所から何回も保釈金を払って出してくれました。だから、刑務所に入る度に母親が助けてくれるのだから、薬物を続けてもいいじゃないかと思っていました。ところがあるとき、ついに母親は、私が刑務所に入ったときに、私を助け出してくれなかったのです。それはとても嫌な経験でした。刑務所は楽しい所ではありません。私はそこに6ヶ月間入っていました。刑務所にいる間に2つの出来事が私の人生を変えました。刑務所では色々ものを考える時間があるので、私はそこにいる間、遂に自分の人生について考え始めることをしました。そこで、刑務所の中で行なわれている12のステップという回復プログラムに参加するようになりました。もう1つのことは、刑務所にいる間に、他の人が私にイエス様の必要を語ってくださり、そして私はイエス様を信じて受け入れてクリスチャンになりました。なぜなら、自分に問題があるということに気がついたからです。そこで私はその刑務所にいる間に、薬物からも解き放たれ、きれいになって、またイエス様の話を聞いて、イエス様を信じて受け入れて、今、刑務所から出て来て、新しい人生のステップを始めました。私は25才ですが、妻がいて、2人の子どもがいて、今、私は自分の人生をとても愛しています。もし、私の母親が何度も繰り返し刑務所から私を助け出していたなら、このようなすばらしいことは、決して私には起きていなかったでしょう。」この男性はお母さんに向かって「私はあなたのことを知りません。でも、あなたがあなたの息子さんを愛しているのであれば、そのまま刑務所にいさせてください」と言いました。時には、境界線を引くことこそが、問題の解決になるということです。

3.宝物の境界線

 宝物とは、あなたが所有しているお金や財産、時間や持ち物、賜物やエネルギー、家族のことです。私たちはたくさんのものを神さまからいただいています。それらは、私たちの所有物でありながら、同時に、正しく管理するように神さまから委ねられたものです。しかし、正しく管理し、境界線を設けていなければ、あなたの宝物が奪われてしまうでしょう。たとえば、牧場には柵があります。また、農作物にも柵があるのではないでしょうか?その柵の目的は、この中のものは私のものですという意味です。また、柵があることによって盗人や他の動物から守ることができます。それでも柵を壊したり、乗り越えて入ってくる悪者がいます。ヨハネ10:1,2「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。しかし、門から入るのは羊たちの牧者です。」ジョエル・オースチンがまだ、若い時のことです。彼の一人の友人がよくその車を借りに来たそうです。しかし、その友人はガソリンも入れないし、車をぶつけたりしてもそのままだったそうです。ジョエルは友だちに「車を乗っても良いけど、ガソリンも入れるし、車を修理してね」と言ったそうです。それっきり、友だち関係はなくなったそうです。私たちは友だちを失いたくないために、友だちの言いなりになるかもしれません。そうすると、自分の大切な宝物が失われていきます。悲しくもなるし、イライラもたまるでしょう。あなたの周りに、あなたの宝物をちょくちょく、借りに来る人はいないでしょうか?お金とか、時間とか、労力とか…。夜中に「今、困っているんだ。すぐ来て!」とか泣き声まじりで、頼み込んで来る人はいるでしょうか?時には、そういう時があります。お互い様ですから、どうしても助けが必要なときがあります。でも、本来はその人の問題なのに、こっちが「サポート資源」として用いられていたならどうでしょう?「サポート資源」とは、「埋め合わせ対処療法」であり、真の問題解決になっていなということです。

 私たちは神さまから与えられた大事な宝を正しく管理する必要があります。聖書にはこのことを示唆しているみことばがいくつかあります。申命記19:14「あなたの受け継ぐ相続地で、あなたは先代の人々が定めた隣人との地境を移してはならない。」地境は所有地の境界線のことです。箴言11:15「他人の保証人になると苦しみにあう。保証を嫌う者は安全だ。」テレビの『なんでも鑑定団』には、借金のカタとして、いただいた骨董品がよく出てきます。多くの場合はまがいものです。箴言15:15,16「あなた自身の水溜めから水を飲め。流れ出る水を、あなた自身の井戸から。あなたの泉を外に散らし、広場を水路にしてよいものか。」水溜めは女性のことであり、泉は男性自身のことです。これは不倫とか性的問題のことであり、男性が最も気を付けなければなりません。エペソ5:16「機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。」機会は時間とも訳されていますが、時間を有効に使いなさいということです。私はディボーションの学びをしたとき、「優先順位」ということを教えていただきました。朝起きたら、その日の優先順位を決めるということです。もし、ぼんやり一日を過ごしているなら、他の人が「この時間、空いていますか」とあなたのところにやってくるでしょう。他の人に大事な時間を奪われて良いのでしょうか?私たちは周りから動かされないで、主体的に生きる必要があります。

 こう言っている私ですが、26歳で教会献身してから、「なんでも屋」でありました。信徒の送り迎え、引っ越しの手伝い、カウンセリング、何か困っている人を助けること…それが仕事でした。亀有教会に赴任してからも、同じことをしてきました。夜中に電話がかかって来て、癒しの祈りもよくしました。「お金を貸してください」と来る人にいくらか差し上げました。旧会堂のときは、「一晩だけでも泊めてください」と言われて、そうしてあげました。私は頼まれるとイヤと言えない性分であることが分かりました。また、メシアニック・コンプレックスと言いまして、私が助けなければ世界が壊れてしまうような思いがありました。しかし、この境界線、バウンダリーを学んでからとても楽になりました。確かに助けを必要として困っている人はいます。しかし、多くの場合、アドバイスしても、その人自身は変わろうとしません。結局、2つのことが分かりました。第一は、どんな人でも自分なりの信念を持っていること。第二は、その人にも神さまがおり、その人自身と神さまとの問題であるということです。昔は電話で、相談事を聞いていましたが、今はこう答えています。「どうぞ、日曜日の礼拝にお出かけください。その後、求道者として相談をお受けします」。そのように答えると来ません。たまには例外があり、相談に乗り、労力を提供するときもあります。「でも、無駄だったなー」と悟ります。愛は見返りを求めないので、それでも良いのかもしれません。伝道のために、親切にするのは問題だからです。こちらにゆとりがあれば、喜んで奉仕をさせていただくつもりです。でも、優先順位がありますので、周りの必要に振り回されないようにしています。

 困っている人を助けた物語として、「良きサマリヤ人のたとえ」がとても有名です。ルカ10章にありますが、彼は強盗に襲われた旅人を介抱してあげました。自分ができる傷の手上げをしてあげました。彼は自分が乗っていたロバにその人を乗せ、宿屋に泊めてあげました。しかし、サマリヤ人のことばに注目してください。ルカ10:35「次の日、彼はデナリ二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」サマリヤ人には予定がありました。次の日、宿屋の主人に旅人を依頼し、彼は自分の仕事にでかけました。そして、「帰りに寄って余分な費用を払います」と言ったのです。川や海でおぼれている人を助けるのは大変です。しがみつかれて、こっちが一緒におぼれるケースが良くあります。飢餓のとき、お母さんが自分の食べ物を子どもに全部あげてはダメだそうです。自分がまず食べて体力を保っている必要があるということです。私たちは神さまからたくさんの宝物をいただいています。それは、正しく管理するということです。もちろん、その中から神さまに捧げたり、隣人に差し上げたり、神の国に投資するものもあります。でも、無駄にしてはいけません。柵である境界線を設置して、盗人から自分の宝を守る必要があります。自分の責任と、他の人の責任を区別しながら、人にふりまわされないで、主体的な生き方をしたいと思います。