ヨハネ6:63「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」イエス様のこのおことばは、あまりにも深くて、語る私自身が試されてしまいます。私は毎週、礼拝の場でメッセージをしていますが、果たして会衆の兄姉に「いのちを与えているか?」と言うことです。日本中のどこかで講演がなされ、有名人が話すことを、高いお金を出して聞いていると思います。知的には大変、益になると思いますが、多くの場合それは肉であり、いのちを与えてはいないのではないかと思います。私もそうならないために、このテーマについて考えてみました。
1.ヨハネ6章から
ヨハネ6章はとても長い章であり、解釈がとても難しい箇所です。マタイ、マルコ、ルカにも5つのパンと2匹の魚で大勢を養った奇跡が記されています。ところが、ヨハネの場合は、聖餐式の説明のような長い問答があります。あの時の奇跡は、夕方になされ、食べ終わった後に解散するように言われています。おそらく、このような長い問答は同じ日になされていなかったのではないかと思います。ヨハネは違う場所で語られたものを、奇跡の物語にくっつけたのではないかと思います。きょうはヨハネ6章全体を話すのではなく、33節の「肉と御霊」のみに焦点を当てたいと思います。パンの奇跡がなされたとき、人々はイエス様を王様にしようと詰め掛けました。なぜなら、経済的な問題を解決してくれるメシアを期待していたからです(参考.ヨハネ6:14)。イエス様はその場を逃れ、後から、ご自分が「いのちのパン」であることを教えられました。しかし、それだけではありません。問題の発言はこの箇所です。ヨハネ6:53-55「イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。」それを聞いて人たちは「これはひどい話だ。だれが聞いていられるだろうか」と言って、つまずきました。cannibalismと言いますが、人間が人肉を食べることであると考えたからです。ユダヤ人だけではなく、弟子たちの多くが離れ去って行きました。その状況の中で、イエス様が「肉と御霊」の話をされるわけです。
つまり、ユダヤ人たちはイエス様が天からくだってきた生けるパンであることを認めませんでした。さらに、「私が与えるパンは、私の肉です」と聞いた時、「この人はどうやって自分の肉を私たちに食べさせることができるのか」と議論しました。さらには、「私の血を飲む者は」とまで言ったので、弟子たちまでも躓いたのです。彼らはイエス様の話を聞くには聞いたけれど、御霊によって理解していませんでした。頭の知的な理解だけで終わりになりました。それだけではなく、知的な理解が霊的なことを知るための妨げになったのです。イエス様は御霊のことを語ったのに、肉のことでおしまいになったのです。私たちはこのところをどのように理解するでしょうか?イエス様はいのちのパンであり、そのパンをいただくということは、イエス様を丸ごと信じることであると理解できます。また、イエス様の血を飲むというのは、イエス様のいのちを私たちの中に取り込み、一体となることだと理解できます。もし、イエス様が毒であるなら、私たちはいっぺんに死んでしまいます。アダムとエバは知識の木から食べ、いっぺんで死んでしまいました。しかし、イエス様はいのちの木であり、イエス様をいただくなら、神のいのちをいただくことができるのです。でも、多くの人たちは、このイエス様を丸ごと食べないし、イエス様の血を飲むこともしません。ユダヤ人のように知的なレベルで終わり、躓いて、イエスさまを口から吐き出してしまうのです。日本ではミッション系の学校が幼稚園から大学まで数多くあります。私も何度か礼拝メッセージに招かれたことがあります。宗教の時間があり、すばらしく整えられた教科書から学びます。しかし、聖書も読むかもしれませんが、キリスト教についての知的な学びで終わりです。キリスト様ご自身を信じて、一緒に生活するということは、決して勧めないでしょう。まさしく、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません」というみことばのとおりです。つまり、ミッションスクールに入ったからと言って、霊的に生まれ変わる訳ではなりません。聖書やキリスト教の知識は増すかもしれませんが、霊には届いていないということです。かえって、「私は正しい人であり、罪人ではありません」と、救いから遠ざかります。
この箇所について何か語ると、自分にもブーメランのように帰ってくる恐れがあります。私はこの講壇から30分近く説教をします。ギリシャ語ではどういう意味だとか、神学的にこうだとか言います。ある場合は、だれかの書物から引用し、知性に訴えてお話するでしょう。メッセージ中、聖書を開かせることもしないし、一緒に朗読させることもしません。ただ、だまって座って聞けば良いようになっています。ある人は「説教を聞いたあと、心に残るのは全体の3%である」と言いました。確かに、月曜日になると語った本人も忘れてしまいます。そして、また、「ある人は礼拝説教だけでは人は変わらない。聖書の学びをすると50%は残る。」と言います。私は30年くらい、弟子訓練とかセルチャーチに属していましたが、そのようなことを何度も聞きました。聞く度に、「ああ、私は大したことをしていないのかな?」としょげたことがあります。でも、あるとき、その3%が重要であることが分かりました。確かに、聖書研究や聖書勉強では、知的な学びをし、記憶にも残るかもしれません。しかし、礼拝説教で語られたメッセージが御霊によってその人の霊に届き、その人にいのちを与えたらどうでしょう。たとえ3%でも、その人を変えることができたら元をとっているのではないかと思います。教会では教理問答書から学んだり、だれかの神学書を学んでいます。暗唱聖句をし、どのくらい聖句を覚えているか競う教会もあります。しかし、多くの場合、それらは肉であり、いのちを与える御霊になっていないのではないかと思います。キリスト教について、神について、キリストについて、聖書について学ぶかもしれません。でも、それらはすべて知的なものであり、肉です。もっと、重要なのはキリストについて学ぶのではなく、キリストご自身を知るということです。キリスト教ではなく、キリストご自身を知ることが重要なのです。ただし、「知る」というのは、体験的に知るという意味であり、「男と女の交わり」を表す意味深なことばです。
私はいくつかの神学校で学びました。多くの場合は、教室スタイルの学びであり、一定のカリキュラムをこなすというものです。教師と生徒はかなり距離があり、くだらない質問をすると叱られます。知識の切り売りと言う感じがします。私も神学校を卒業した後は、自分が勉強したノートから語ったものです。私自身も、神学校の教授のように「知識の切り売り」をしたわけです。その頃の説教を家内が「ちっとも恵まれなかった」と言っていました。私はとてもショックでしたが、「ああ、そうだったのか」と認めざるを得ませんでした。かなり前ですが、韓国から申賢均師が日本のリバイバルのため何度も来てくださいました。先生は神学校で自由主義神学を学び、バリバリの学者でした。ある集会でメッセージをしました。申先生は「〇〇的には、〇〇的には」と哲学的なメッセージをしました。一番前に座っていた、おばあちゃんが、首を左右に振りながら寝入っていました。そして、先生に向かって何かをつぶやきました。「先生はいっぱい勉強なさっているのですね」。「〇〇的、と言いますけど、先生には、ずいぶんと敵がいるんですね。」と半分、眠りながらつぶやきました。申先生はまもなく行き詰り、ある徹夜祈祷会で聖霊のバプテスマを受けてから全く変わったそうです。それ以来、申先生のメッセージは、御霊のいのちを与えるメッセージになりました。とてもユーモラスで、「天国のコメディアン」と言われていました。一般に人を笑わせると、人は口を開けて笑います。そこに先生は「みことばを投げ込むんだ」とおっしゃっておりました。
2000年頃、インドネシアのエディ・レオ師と出会って私は全く変えられました。先生の教え方は、いわゆる神学校のようなクラスルームではありません。イエス様を取り囲む12弟子のように、親しい交わりの中で生きた学びをさせていただきました。先生が牧会しているアバラブ教会は2万人であり、数百名の牧師たちに教えています。日本では30名に届かない時があります。それでも、何回も日本に足を運んでくださいました。そこで一番、教えられたことは、「学ぶのではなく、キャッチすること」でした。日本人はセミナーが大好きで、一つでもためになることを書き留めようとします。でも、キャッチするとは、自分の霊でそれを受け止めるということです。頭は知的な理解ですが、それ以上に重要なのは、霊でキャッチすることです。それ以来、私は人々に語るとき、頭にも知的に語りますが、霊に訴えるようにしています。イエス様が「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」と言われました。パリサイ人や律法学者は聖書を良く学んで知っていました。ところが、聖書はキリストのことを語っているのです。肝心なキリストを知らなければ、それは肉であり、何の役にも立ちません。イエス様は生けることばです。聖書を読むときもそうですが、メッセージを語るときは御霊によって語り、聞くときは御霊によって聞くべきです。人を生かすのは霊であり、肉ではありません。知識で終わらないで、いのちを与える御霊に達しましょう。
2.ローマ8章から
後半はローマ人への手紙8章から「肉ではなく御霊」ということをお話させていただきます。ローマ8:6-8「肉の思いは死ですが、御霊の思いはいのちと平安です。なぜなら、肉の思いは神に敵対するからです。それは神の律法に従いません。いや、従うことができないのです。肉のうちにある者は神を喜ばせることができません。」ヨハネ福音書6章と同じように、ローマ8章にも、「肉と御霊」について述べられています。ローマ人への手紙において「肉」というのは、肉体という意味ではなく、生まれつきの性質とか、生まれつきの能力ということです。クリスチャンは霊的に生まれ変わった存在であり、「古い人」が十字架につけられて死んだはずです。ところが、「古い人」の性質が天国に行くまで残っているというのが、パウロの考えです。ガラテヤ5:16「御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません」と書かれています。その後、肉のわざが10個以上書かれています。その後、御霊の実が8個くらい書かれています。つまり、クリスチャンであっても、肉のわざによって罪の生活をするか、御霊に導かれて義なる生活をするか分かれるということです。そして、ガラテヤ6章には、「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです」と書かれています。結論的に、肉は死をもたらし、御霊はいのちをもたらすということです。クリスチャンはどちらで生きるか、たえず選択しなければならないということです。しかし、頭ではわかっていても、肉ではなく、御霊によって生きるということはよく分からないところがあります。
もう一度、ローマ人への手紙8章に戻りたいと思います。ローマ4章、5章、6章は「罪」は出てきましたが、肉は出てきません。「肉」と出てくるのは、ローマ7章と8章です。肉は肉体ではなく、肉の性質ということで間違いありません。肉の性質はローマ7章にあるように、律法に対して反対する性質です。ウォッチマン・ニーは、肉を3つに分けています。汚れ、神に敵対する自我、生まれつきの能力です。肉がみな悪いかというと外面的には見栄えの良い肉もあります。生まれつき寛容で優しい人がいます。クリスチャンよりも、ずっと品があります。でも、それは御霊から来るものではなく、生まれつきそうなんです。また、生まれつき歌のうまい人や雄弁な人もいます。もちろん努力もしているでしょうが、技術的に才能的にすぐれた人がたくさんおられます。しかし、それは一般恩寵であり、多くの場合、御霊から来るものではありません。なぜそんなことが言えるのでしょうか?彼らは品性において、能力において確かに秀でているかもしれません。しかし、その源はどこから出てきているのでしょう?己の力であり、神さまでも聖霊でもありません。その証拠として、彼らは自分の品性と能力を誇ります。口では謙遜しているかもしれませんが、「人徳です」「私がやったんだ」と思っています。決して「栄光が主にありますように」と言って、主を誇るようなことはしません。それだけ、この世から称賛を浴びて報いを受けているのです。彼らは地上で既に報いを受けているので、天ではありません。
明記したのはこのみことばです。ローマ8:8「肉のうちにある者は神を喜ばせることができません」とあります。なんと、厳粛で恐ろしいおことばでしょうか?これは、具体的にはどういう意味でしょう?やっていることはすばらしいかもしれません。しかし、その人が御霊によってではなく、肉でやっている場合がそうなのです。人々は「すばらしい」と思っているし、自分でも「たいしたもんだ」と思っているかもしれません。でも、神さまが喜んでいないとしたら、悲しいです。特に、神さまへの奉仕がそうだったら、なおさらです。教会では私のように説教する人、賛美する人、ピアノなどの演奏者がおります。献金したり、伝道したり、人を助けたり、社会的な奉仕をしたり…いろいろあります。でも、神さまが喜んでいないとしたら、悲しいです。おそらく、一生懸命やっている人がそんなことを聞いたら、「ひどい。神さまのためにやっているのに、もうやってあげない」と言うかもしれません。でも、肉で奉仕をしたり、ささげものをするということが可能なのでしょうか?ピリピ1章には、牢獄に捕らえられているパウロの気持ちが記されています。ピリピ1:15、17「人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。…ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。」ある人たちは、ねたみや争いをもって、キリストを宣べ伝えていました。純粋な動機でなく、党派心をもって、キリストを宣べ伝えていたのです。その結果、パウロの心は苦しくなりました。おそらく、神さまも同じでしょう。しかし、別な人たちもいました。ピリピ1:16「ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが」とあります。パウロは見せかけであれ、真実であれ、キリストが宣べ伝えられているなら喜んでいます。でも、本心は、そうではないと思うのです。
ここで言われているのは、動機です。ねたみや争いから伝道しているのか、あるいは純粋な動機から伝道しているのかということです。動機はその人をささえているエネルギーや価値観みたいなものであり、表面からだけでは分かりません。やっていることが正しいと、「動機も良いのだろうな」と思ってしまいます。旧約聖書のⅠサムエルにこのようなことばがあります。Ⅰサムエル16:7【主】はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、【主】は心を見る。」この世においては、容貌がとても重要視されます。動機がどうであろうと、パフォーマンスが良ければ、それで十分なのです。テレビに出てくる芸能人たちを見ていると、「そうだな」と思います。彼らは演技をしており、私生活はほとんど問われません。スキャンダルが出ない限りは、容貌とタレントで、まあまあのところまで行くことができます。しかし、キリスト教会ではそうはいきません。教会の兄弟姉妹は霊が生きていますので、「霊なのか、肉なのか」なんとなくわかります。演奏がすばらしくて、歌もうまいのに、感動をしないということがあります。一生懸命語っていても、心の中の憂いや悲しみを感じたらどうでしょうか?私たちの中には聖霊がおり、また霊が目覚めていますの、ごまかしがきかないということです。私もこうやって話していますが、恐れを覚えます。教会の兄弟姉妹は、大人なので「うん、うん」と聞いているかもしれません。しかし、本心は「ちょっと違うなー、イマイチ、力に欠けている」と思うかもしれません。言い換えると、御霊が流れているかということです。あるいは主の臨在を醸し出しているかということかもしれません。つまり、主が喜んでいるなら、主の御霊があふれて、人々を癒し、活かして下さるということでしょう。何べんも言いますが、恐ろしいことです。こっちは、一生懸命やっているつもりでも、あちらの方が「用いたくない、一緒に働きたくない」と思っていたならどうでしょう。こっちが一人で、肉でやるしかなくなります。それでは、みじめな結果で終わってしまいます。もし、私たちが御霊によって行い、神さまが喜んでいるなら、すばらしいことが起こります。
キャサリン・クールマンという女性の伝道者がいました。彼女が行う癒しはとても力強く、全米でも有名でした。ところが彼女は、ステージに立つ前に、主の臨在が自分にあるかどうか、迷う時がありました。主の油注ぎがないときは、しゃべり続けはしますが、癒しはしなかったそうです。そして、「聖霊が来られた」と分かると、癒しを始めるのだそうです。「知識のことば」が与えられ、それに該当する人たちは、まとめて癒されるそうです。ベニー・ヒンもそうですが、聖霊が出て行って、聖霊が人々を勝手に癒すのです。昔、チャールズ・フィニーという伝道者がいました。女工が働いている紡績工場に彼が入って行きました。彼が通路を歩いているだけなのに、両脇の女工は「あ」と言いながら、次々と倒れてしまったそうです。そのことに気づいた工場長は、工場を閉鎖し、女工たちを一か所に集めて、チャールズ・フィニーに説教してもらったそうです。私たちは御霊が人を生かすということを心の底から知る必要があります。そして、肉は何の役にも立たないということも明記すべきです。そして、ふだんから主を恐れ、主の臨在が消えないように努力すべきだと思います。Ⅰテサロニケ5:19「御霊を消してはいけません」とあります。1978年、大川牧師が聖霊のバプテスマを受けてから、聖霊にはご人格があると気づいたそうです。ヨハネ3章の「聖霊はおのが、好むところを吹く」という文語訳を読んだからだそうです。ヨハネ3章には聖霊が風にたとえられていますが、人格があるので「ここは吹きたいなー」と思うところと、「ここは吹きたくないなー」と思うところがあるということです。それ以来、大川牧師は「裁き合わないで、互いに赦し合う教会にしたい」と願い、それをスローガンにして来たようです。私は1979年に初めて座間キリスト教会を訪れました。頭にパーマーをかけ、度付きのサングラスをかけ、肉のにおいがぷんぷんする、ひどい人物だったと思います。でも、教会に入ったとたん、「裁かれていない、受け入れられている」という感じがしました。聖霊の豊かな臨在が教会にあったからでしょう。私たちにも内側にも聖霊がおられ、御霊とよばれています。肉は天国に行くまで体のとこかに存在しています。でも、御霊によって歩み、御霊が与えてくれるいのちを求めて行きたいと思います。肉は何の益ももたらしません。しかし、御霊はいのちを与えて下さいます。御霊のいのちが現れるなら、人々が救われ、癒され、解放を受け、神の栄光が現れるのです。御霊が与えてくれるいのちを求めて行きましょう。