詩篇90篇には「私たちの齢は70年。健やかであっても80年。瞬く間に時は過ぎ、飛び去ります。どうか自分の日を数えること教えてください」と書かれています。これは、永遠に対する備えをすべきことを教えています。聖書には、死後のことや、永遠のいのちについて記されています。この情報は、学校や生涯教育の場では決して得られません。聖書は神の啓示の書物であり、永遠に対してどのような備えをすべきか教えています。
1.永遠のいのち
新改訳聖書2017伝道者3:11「神はまた、人の心に永遠を与えられた」とあります。口語訳聖書には「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」と書かれています。神様は永遠なるお方です。万物よりも前からおられ、はじめも終わりもありません。神さまは時間を超越したお方だということです。私たちは神のかたちに似せて造られました。ということは、私たちのどこかに、神さまの永遠という性質を持っていることでしょう。あるいは、神さまの永遠を慕い求める思いがあるということかもしれません。讃美歌の「いつくしみ深き」は、「星の世界」という唱歌になって一般に知られています。私たちは夜空の星を見るとき、「あの星はどのくらい前に光り、どのくらいかかって、この地球に届いたのだろう」と考えます。ある星が、何億光年のかなたから届いていることを知ると、「私たちの人生は何とはかないことだろう」とため息がでてきます。だれしも、永遠に対するあこがれがあるのではないでしょうか?ギリシャでは「霊魂の不滅」という考えがありますが、聖書の啓示と共通したところがあります。神は霊なるお方で永遠ですが、人間の霊魂も永遠なのかもしれません。人間は死んだら終わりだ、消えてなくなると心から思っている人は少ないと思います。一般に死ぬことを「他界した」と言いますが、問題は、永遠をどこで過ごすかであります。
ジョン・ビビアの本にこのようなことが書いてありました。ある日、彼は友人から手渡された聖書を引き裂き、それを地面に投げつけ、踏みつけ、その人と聖書を罵倒しました。「このクリスチャンは弱く、頭が悪い」と非難しました。数年後、この男性は激しい胸の痛みに襲われました。医師は、彼を開腹して検査手術を行いましたが、「もう24時間しか生きられない」と言われました。その夜、彼はベッドに横たわりながら、自分が永遠の住処に行くのだということを悟りました。彼は誰からも聖書を教えられなかったのに、どうしてそれが分かったのでしょう。彼の心には永遠が植え付けられていたのでしょうか。その夜、彼の心臓は止まりました。彼は自分の体から離れ、深い闇の中に降りていきました。その闇は、彼が身にまとっていると感じるほど濃く、一片の光も見えません。しばらく落ちていると、苦しめられた魂たちのおぞましい叫び声が聞こえてきました。地獄の門の前まで強い力で引き寄せられましたが、突然、元の体に戻ることができました。生き返ったのです。翌朝、彼は唯一の知人であるクリスチャンを呼び寄せました。その友人は来て、イエス・キリストによる救いの良い知らせを告げました。その人がイエス・キリストを自分の人生の主、救い主として受け入れると、その友人は彼の癒しのために祈りました。三週間後、彼は病院から歩いて出てきました。彼は、永遠の報酬のためにこの世を去るまで、さらに数十年生きました。彼は歩く奇跡のような人でした。
旧約聖書には「永遠」のことがぼんやりとしか書かれていませんが、福音書にはイエス・キリストが永遠のいのちであり、永遠のいのちを私たちに与えて下さるお方であるとはっきり書かれています。ヨハネ4章で「私が与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」と言われました。また、ヨハネ6章では「私は天から下って来たパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます」と言われました。ヨハネ17章では「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」と書かれています。つまり、「永遠のいのち」は、単なるあこがれや願いではなく、実際に神さまからいたくことができる「神のいのち」だということです。本来、人間は永遠に生きるように神さまから造られたのです。ところが、アダムとエバが神に逆らったので、全人類に死が入ってきました。しかし、神はひとり子イエスを遣わし、イエスを信じる者は死なないで、永遠のいのちを得ることができるようにされたのです。「永遠のいのち」を得る唯一の道は、イエス・キリストを信じることです。そのことを、イエス様は「水」とか「パン」にたとえて言われたのです。水もパンも、私たちの体に飲み込まなければなりません。そのようにイエス様を私たちの体に受け入れるのです。人々は死ぬかもしれないと恐れて、イエス様を受け入れません。でも、クリスチャンになった人は、思い切って、死を覚悟して、イエス様を受け入れた人たちです。どうなったでしょう?死ぬどころか、いのちが内側から湧き上がってきました。そして、やがて来るであろう肉体的な死も恐れなくなりました。そして、永遠のいのちは確かにあると体験的に分かるのです。
私は1987年、亀有教会に赴任しました。その年の12月のイブ礼拝に五藤千代姉妹が初めてこられました。彼女は60歳で開腹手術をしましたが、死ぬのが怖くて、仕方がなったそうです。彼女は年が明けてからイエス様を信じて洗礼を受けました。彼女が80歳になったとき、心筋梗塞で倒れ東部地域病院に入院しました。お見舞いに行ったとき、彼女が「先生、私は死ぬのがちっとも怖くありません」とニコニコして言ったのです。それから彼女は退院し、88歳のとき、天に召されました。イエス・キリストを信じると、この地上でいながら、永遠のいのちをいただくことができるのです。私も姉妹もそうですが、不思議なことに死ぬことが怖くなくなります。既に、永遠のいのちをいただいているからです。ある人たちは、永遠のいのちは死んでからいただくと思っていますが、そうではありません。永遠のいのちは神のいのちであり、キリストを信じた瞬間に、神から与えられるものです。永遠のいのちは肉体のいのちに左右されることありません。肉体のいのちが死んでも、永遠のいのちは一瞬足りとも絶えることがありません。クリスチャンはこの地上で、2つのいのちを持って生きています。一つはこの肉体のいのちで、もう一つは神のいのちである永遠のいのちです。この永遠のいのちをだれも私たちから奪うことはできません。
2.永遠の住まい
永遠のいのちもすばらしいですが、永遠の住まいもなければ困ります。神さまは私たちが住むべき場所を用意してくださいます。ヨハネ14章でイエス様は「わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」と言われました。ある人が、「死というのは、地上から天へと移り住むことであり、ドア一枚の隔たりしかない」と言いました。どらえもんは「どこでもドア」という道具を持っています。あの「ドア」のように、開けたら向こう側に行けるのです。残念かもしれませんが、一度、行ったら戻って来られません。ごくたまに、あちらから戻って来て、そのすばらしさを報告してくれる人がいます。はっきり言えることは、イエス・キリストは復活後、天と地を行ったり、来たりしておりました。40日後、完全に向こうに移り住み、その代わり、聖霊を与えてくださいました。イエス様は「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます」(ヨハネ10:9)と言われました。英語の聖書はI am the doorです。イエス様ご自身がドアなのです。私は1979年、25歳のとき、イエス様を信じて救われました。私はあの時に永遠の世界に足を踏み入れて、今、永遠を生きています。ところが、私の友人は「そんなのあるもんか」と否定し、入ることを拒みました。私は聖書から永遠の住まいがどのようなものか想像できますが、この目ではっきり見たわけではありません。でも、「あの時から、この世でいながら、全く別の世界で生きているなー」と実感できます。あの時が、私の人生の分岐点だったわけです。
重要なことは、永遠の住まいにいつでも移り住むことができるように準備をしておく必要があるということです。ルカ16章の前半のたとえはとても難解ですが、こういうことです。ある管理人が主人の財産を使い込んでいました。今でいう、横領罪です。彼はそのことがバレて、クビになる前に、債務者たちを呼んで証文を少なく書き換えさせました。恩を売って、辞めさせられたあと、お世話になろうと考えたのです。ところが、主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめました。これはイエス様のことばです。ルカ16:9「わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます。」このところで、興味深いのが「不正の富で、自分のために友をつくりなさい」という表現です。「不正の富」というのは、この世のお金や財産のことであり、だれかから預かったものという意味です。イエス様は不正を働くことを奨励しているのではなく、そのような富で、「自分のために友をつくりなさい」ということです。このたとえを一つひとつ説明する時間はありません。結論は、「神さまと友好関係を持ちなさい。そうすれば、永遠の住まいが与えられます」ということです。いわゆる、コネを持てということです。コネはconnection因果的な関係です。しかし、私たちが神さまとコネを持つために、何か献げたり、投資するものがあるのでしょうか?しかも、それが自分のものではなく、他者から預かったものです。
この教会の周りは亀有の前津会です。2022年私は初めて班長をやりました。その年の8月前津会の会議があり、50名くらい参加しており、「これだけ多くの人たちがいるんだ」と驚きました。議題の中心は「9月の祭礼、おみこしをどうするか」でした。町内会費のほとんどが、この祭礼に使われていることに改めて驚きました。みんな香取神社の氏子であり、祭礼に参加することは当然のようになっています。私に3分間時間をくだされば、「みこしの原型はダビデが運ばせた神の箱ですよ」と言いたかったのですがそういう雰囲気ではありませんでした。しかし、思ったことは、前津会の町内会で果たして「だれが神さまとコネクション持っているか?」ということでした。牧師館の右隣りの中林さんは大阪から来られた人で、会議の司会をしていました。お祭りも率先してやっています。真向かいの人は、身分の高い人で毎朝、迎えの車がやってきます。来ないときはベンツで出勤しています(今は別の車に買い換えています。三台目のシビックを玩具と言っていた)。会社役員なのか、政府高官なのか分かりません。でも、とても愛想が良くて私に声をかけてくれます。しかし、修得高校を含め、ほとんどの人は、教会を素通りしていきます。彼らが神さまの前に立った時、何と答えるでしょうか?「ああ、教会がありました」。「あなたは入ったことがあるのですか?」「看板はチラっと見たことがありますが、いえ、一度も入ったことがありません」。彼らは神様とコネクションがないので、永遠の住まいに入ることができません。
確かに福音を宣べ伝えていない教会・クリスチャンの責任もあります。でも、今日、言いたいのは、「私たちが神さまとコネを持つために、献げたり、投資するものとは何か」ということです。教会に来る、来ないはともかく、キリストの福音を信じるために捧げるべきものがあります。それは、人生おける時間とエネルギーです。教会の集会に参加する。聖書を開いて読んでみる。神さまのことを考えてみる。人はどうしたら救われるか研究する。だれから聞く、本を読む。神さまに祈ってみる。…しかし、多くの人たちは無関心を装っています。ここに教会があっても、入ろうとも思わないし、風景として通り過ぎるだけです。日本人の99%がキリスト教信仰がないと言われていますが、永遠の住まいに関心がないということです。そうすれば、必然的に神さまとのコネがないので、永遠の住まいに移り住むことはできないということです。永遠の住まいの反対は、永遠の滅びです。中間はありません。しかし、教会では「永遠の滅び」とか「地獄」のことはほとんど言いません。ルカ16章の金持ちは神様のことに全く無関心であり、死んだのち目覚めたら黄泉でした。ラザロはとても貧しい生活をしていましたが、神さまから名前を覚えられており、死んだのちアブラハムのふところに抱かれました。ラザロは神様との関係があったということです。私たちの人生のほとんどが準備です。入学の準備、就職の準備、結婚の準備、家に住む準備、老後の準備、そして死後の準備があります。この世では「終活」というようですが、親しい人とのお別れとかお墓のことではありません。神さまと友達になり、永遠の住まいを確保するという準備が必要です。そのためには多少の犠牲も惜しまずに捧げる必要があります。正直、永遠の住まいを確保するために、私たちが払った犠牲というのはわずかなものではないでしょうか?神さまが御子イエスをこの世に与えたことと比べたら微々たるものです。
3.永遠の持ち物
死んだのち、つまり天国には何も持っていけません。ヨブは10人の子どもとすべての財産を失った後、このように告白しました。「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1:21)と言いました。確かに私たちは天国には一坪の土地、一円のお金も持っていくことはできません。でも、ルカ16章10節以降には、不思議なことが書かれています。「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。」このところには二種類の持ち物があります。第一は他人のものであり、不正の富と呼ばれています、また、不正の富は「マモン」とも呼ばれ、神さまのように拝んでしまう可能性があります。第二は「まことの富」あるいは「あなたがた自身のもの」があるということです。端的に言いますと、この地上のすべてのものは他人のものであり、だれかから預かったものです。不正な管理人はその富を用いて、自分がクビになった後のことを考えました。それは、私たちが神さまと友人になって、永遠の住まいに移り住むということだと解説しました。永遠のいのち、永遠の住まい、そして、ここには永遠の持ち物があるということです。この地上の一切のものは、不正の富であり、他人の物です。しかし、不正の富と他人の物に対して、どう扱ったかが、天でいただける「まことの富」のはかりになるということです。まことの富とは、私たちの持ち物であり、それは永遠です。
もう一度、みことばをお読みいたします。ルカ16:10、11節「最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です。ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなければ、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょうか。また、他人のものに忠実でなければ、だれがあなたがたに、あなたがた自身のものを持たせるでしょうか。」私たちは、この地上の持ち物と天でいただける持ち物と分けて考えています。地上のものは地上のものであり、死ぬ時には、手ぶらで天国に行くしかないと考えています。しかし、そうではないようです。マタイ6章でイエス様はこのようにおっしゃっています。マタイ6:19,20「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。」はっきりと、「自分のために、天に宝を蓄えなさい」と書かれています。おそらく、これは神さまに対する感謝のささげものと、神の国への投資と考えることができます。天国貯金という言い方もありますが、私たちが天国に行く前に送金しておくことができます。確かに、手ではもっていけませんが、天国に送金しておくことは可能なのです。お金だけではありません。マタイ25章には「これらの私の兄弟たち、それも最も小さな者たちの一人にしたことは、私にしたことです」と天における報いのことが書かれています。つまり、地上における生活が、天における生活とつながっているということです。重要なことは、地上の小さなことに対して、いかに忠実であったかが、天において与えられるものと正比例しているということです。言い換えると、地上のものをいかに管理したかが、テストされているということです。地上における、時間や持ち物、お金の使い方、会社での仕事、命、健康管理、生活のすべてが…天における持ち物の度合いと関係があるということです。これまで、キリスト教会ではこのようなことはあまり取り上げられてこなかったのではないかと思います。ただ救われて天国に行くことしか教えてこなかったように思えます。もちろん、天国に行けるのは何にも代えがたいことですが、天国に行ってからの生活も準備する必要があるということです。
「タラントのたとえ」、「ミナのたとえ」もそうですが、この地上のものをいかに管理したかによって、来るべき世において、神さまから任されるものが違ってくると教えています。この地上のものは影であり、消え去るものです。しかし、天において与えられるものはそうではないということです。「天において」あるいは「天における生活」というのは、千年王国のことです。御国とも呼ばれていますが、地上の生活に対する、報いであります。さらに「新しい天と新しい地」で住まうとなると、永遠というのは単なる概念ではなく、実際に存在し、私たちが体験できるすばらしい生活です。神さまは一度堕落した世界、すべての被造物を回復する必要があります。それが、千年王国であり御国です。この地上の生活が80年だとしたら、1000年はその10倍以上の長さがあります。その先の、「新しい天と新しい地」はまさしく永遠です。私たちの小さな頭では見当もつきません。クリスチャンは永遠のいのちをいただき、永遠の住まいと永遠の持ち物が約束されています。そのことが分かると地上の生き方が全く違ってきます。どうせ、永遠のいのちがあるのだから、後はのんびり適当に暮らそうとは思いません。この地上での短い人生がとても貴重に思えてきます。この地上での生活が千年王国と関係があるのだったらどうでしょう?神さまから、忠実さがテストされていると思ったなら、自堕落な生活などあり得ません。日本では「だれかが見ている」と人の目を恐れて生きています。逆に言うと、誰も見ていないところ、「旅の恥はかき捨て」みたいなところがあります。私たちは人が見ていても、見ていなくても、一貫した生き方をします。なぜなら、神さまの御目があるからです。神さまの御目と言っても、エンマ大王のような目ではなく、父なる神さまの慈愛に満ちた目です。キリストによってすべての罪が赦され、神の子とされている自負があるので、期待に添いたいと思うのです。
イエス様が「あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです」(マタイ6:21)とおっしゃいました。私たちは永遠いのちをすでに持っており、永遠の住まいと持ち物も供えられています。天国貯金や投資、小さな者にたいする奉仕、小さなことに忠実であること。これらの報いが天にあるので、私たちの心は天にあるのです。私たちはすでに永遠の世界を生きているのです。地上でうまくいなかったり、損したり、裏切られたりすることがあるかもしれません。でも、永遠のいのちが与えられ、永遠の住まいと持ち物があるのですから、簡単に乗り越えられます。