日本では人が神になったりします。たとえば、豊臣秀吉や徳川家康を祀ってる神社があります。教祖自身や教祖が作ったものが神さまになっているものもあります。お釈迦様も人間でしたが、悟りを開いて、神のような存在になりました。聖書には神は唯一であると書かれていますが、その神がひとり子を地上に与えたとも書かれています。つまり、神が人となられたということです。きょうは、なぜ神が人となられたのか4つのことを述べたいと思います。
1.罪を贖うため
ヨハネ福音書の書き出しは「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」です。聖書から考えると「ことば」というのは、肉体を持って来られる前のイエス・キリストであることがわかります。「イエス」は人間の名前ですから、地上に来られる前は、何と呼ぶべきなのでしょうか?はっきり言えることは、父なる神にはひとり子がおられました。その方が「ことば」であり、ギリシャ語では「ロゴス」と呼ばれています。また、神さまの子どもなので、神さまであることに間違いはありません。ヨハネは「ひとり子の神」(ヨハネ1:18)と言っています。ひとり子の神が、人間としてこの地上にお生まれになったのです。でも、なぜ、そんなことをする必要があるのでしょうか?父なる神は人類の罪を赦すために深くお考えになられたのだと思います。神さまは義なるお方なので、人間の罪をただで赦すことはできません。どんな小さな罪でも罰しなければなりません。しかし、神さまは愛なるお方なので、人類を救って、もとの地位に戻して共に暮らしたいと願っておられます。そこで神さまは、ひとり子の神を世に遣わして、その方に人類の罪を負わせ、代わりに裁くことにしたのです。そうすれば、人類を無条件に愛することができます。でも、罪を知らないひとり子が、全人類の罪を負うなんて、とんでもないことです。なぜなら、罪を負うことによって、断罪され、父なる神から捨てられてしまうからです。イエス様がゲツセマネの園で「杯を飲むか、飲まざるべきか」悩んだ訳がそこにあります。イエス様が十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか?」と叫ばれました。まさにそのとき、罪を負ったために、父なる神から断罪され、捨てられたのです。これは、私たち人間の考えでは全く及ばないことであり、贖いの極致としか申し上げられません。イエス様は罪を贖うために、肉体をもって私たちのところに来られたのです。
この世の宗教のほとんどは、人間が神のところへ行く宗教です。修行したり、悟りを開いたり、良い行いをしたり、お布施をしたり…なんとか神さまのところへ上ろうとします。これは、上る宗教と言うことができます。一方、聖書が啓示する救いの道はどうでしょう?父なる神がひとり子をこの地上に送りました。聖書では「降誕」と言いますが、神さまが地上に降りてきて下さったのです。どのくらい下まで降りてくださったのでしょうか?ピリピ2章には、「ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」と書かれています。神である方が、ご自分を空しくされ、しもべの姿をとってくださいました。さらに、「自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」。人間となるだけでも大変なのに、「しもべ」となってくださいました。さらに、十字架の死にまで従われました。なぜ、十字架なのでしょう?ローマの政治家キケロは「十字架刑は最大の死刑であり、最も苦痛で恐ろしく、醜いものである。ローマ市民に十字架を決して触らせてはならない」と言いました。あえて、イエス様が十字架の極刑で死なれたのは、どんな重い罪人であっても救われるという保証でもあります。実際、イエス様の隣で十字架にかけられた犯罪人も死の直前に救われました。申命記33章に「下には永遠の腕がある」と書かれていますが、イエス様はどん底まで下られたので、どんな罪人をも救うことができるのです。この世の宗教が上る宗教であるなら、キリスト教は下る宗教と言うことができます。
神が人となったということを、神学的に、「受肉」と言います。本来、神は霊であって肉体を持っておられません。しかし、神が肉体を持つと、いろんな点で不便です。イエス様はガリラヤにいると、エルサレムにいることができませんでした。場所、つまり空間に支配されました。また、肉体は疲れたり、喉が渇いたり、おなかが減ったりします。ヨハネ4:6「そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れから、その井戸の傍らに、ただ座っておられた。時はおよそ第六の時であった」とあります。この時、イエス様はサマリアの女性に井戸水を求めておられます。弟子たちはパンを買いに町まで出かけました。イエス様は後から「私には、あなたがたの知らない食べ物があります」と言われました。また、肉体を持つということは、「自分は正しい、自分だけは生き残りたい」という本能があります。イエス様が宗教家たちから、あざけられ、苦しめられたとき、本当に悔しかったと思います。ローマ兵からいばらの冠をかぶせされ、全身、鞭を打たれました。このように十字架の苦しみは、精神的にも肉体的にも、人間の限界を超えていたと思われます。イザヤ書にそのことが預言されています。イザヤ53:3-5「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。それなのに、私たちは思った。神に罰せられ、打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」まさしく、イエス・キリストは私たちの罪のため神に罰せられ、私たちの咎のために砕かれました。それゆえに、私たちは罪赦され、救いを受けることができるのです。この救いの中には、病の癒し、呪いからの解放も含まれます。イエスさまが来られたのは、私たちの罪を贖うためでした。このことが救いにおいて最も大事なことです。アーメン。
2.死を贖うため
イエス・キリストは死を贖うためにも、この地上に来られました。へブル2:14-15「そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」私たち人間はみな血と肉を持っています。つまり、肉体を持っているので、いつかは死んでしまうということです。イエス様は、私たちと同じように血と肉をもっておられました。何のためでしょう?「それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。」へブル人への手紙の著者はだれか分かりませんが、人間の死を独特の角度から教えています。悪魔が死の力を持っているということです。しかし、医学的は、死は生命の死であり、だれにでもやってくるものです。しかし聖書には、死は罪の結果訪れたものであり、いのちであるイエス・キリストが贖うことができると書かれています。ヨハネ11:25「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」また、ヘブル2章には、「悪魔が死の力を持っており、それで人々が死の恐怖に縛られているのだ」と書いてあります。私たちは神様が人間の命、つまり寿命を握っていると考えています。この世の人たちは死を恐れて生きていまが、クリスチャンはどうでしょう。へブルの記者は、死を恐れているクリスチャンに対して述べているのです。私たちはこの世は悪魔の支配にあることを知る必要があります。悪魔は本来、人間のものであったこの地上と持ち物を横取りしてしまいました。そればかりか、神から離れた人間を自分の所有物のように扱っています。ルカ4:21-22「強い者が十分に武装して自分の屋敷を守っているときは、その財産は無事です。しかし、もっと強い人が襲って来て彼に打ち勝つと、彼が頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」このところから人間が悪魔の財産の一部であることが分かります。悪魔は今日も、盗み、殺し、滅ぼすため、私たちの中で働いています。しかし、イエス様は、私たちがいのちを得、それも豊かに得るために来られました。ハレルヤ!アーメン。
神様は一般恩寵として、すべての人に寿命と才能と家庭環境を与えておられます。国はその人に生きる権利を保障してくれます。ところがどうでしょう?ある人は幸福で豊かな生活を送ることができますが、ある人は不幸で貧しい生活を送ることを余儀なくされています。富んでいる人も貧しい人も、共通して恐れているのはやがて来る死です。なぜなら、どんなに医学が発達しても、だれにでも死が訪れるからです。伝道者7:1-2「名声は良い香油にまさり、死ぬ日は生まれる日にまさる。祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」伝道者の書は、「だれにでも等しくやってくる死に対して、どうにかせよ」と問うています。聖書は「本来、死は神の計画ではなく、人類が罪を犯したため後からやって来たものだ」と述べています。パウロはローマ5章で「後からやって来たものだったら、命を与える道もある」と述べています。また、この世において、死の鍵は悪魔が握っているため、人々がその中で恐れて暮らしています。しかし、その鍵をキリストが奪い取り、地上での運命の回復と天国への道を開いたならどうでしょう?死は恐れではなくなり、天国に移り住むための恵みの機会となるでしょう。しかし、どうやってキリストは、悪魔が持っている死の力を打ち破ることができたのでしょうか?
イエス・キリストが人間になった一つの理由は、死を打ち破るためでした。もし、同じ人間として一度死んで、その後、復活するならどうでしょう?それは、死に勝利したということではないでしょうか?Ⅰコリント15:20-22「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。」アーメン。創世記3章にはアダムとエバが堕落したために、人類に死が入ってきたことが記されています。しかし、死に対する勝利も預言されています。創世記3:15「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ。」これは、サタンの化身であるへびに語られたものです。女の子孫とは、イエス・キリストのことです。へびであるサタンがキリストのかかとを打ちました。これは、十字架の死のことです。でも、彼、キリストはサタンの頭を打つということです。かかとよりも、頭の方が致命的です。つまり、十字架の死と復活は、サタンの頭を砕くことになったのです。サタンはもはや敗北した敵であり、キリストの再臨と同時に滅ぼされてしまうのです。でも、その前に、イエス・キリストは復活によって私たちに死を乗り越える希望を与えて下さいました。私たちクリスチャンは死の恐怖の下でおびえて暮らす必要はないのです。キリストにあって私たちの名前は「命の書」に記されています。そればかりか、運命の書物が開かれ、止まっていた運命が動き出し、完成するまで神さまが寿命を与えてくださいます。私たちは地上において、永遠のいのちをいただきながら、新天新地を目指す旅人なのです。たとえ、肉体の死がやってきても、永遠のいのちは一瞬たりとも途絶えることはありません。やがて、滅びた肉体は栄光のからだとして復活して、新天新地においてとこしえに生きることが決まっているのです。だから私たちは死を恐れる必要はありません。ヨハネ5:24「わたしのことばを聞いて、わたしを遣わされた方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきにあうことがなく、死からいのちに移っています。」
3.人生を贖うため
神が人となられた3つ目の理由は私たちの人生を贖うためです。イエス様は大人の状態で、突然、地上に現れたのではありません。聖霊によってマリヤに宿り、子どもとして成長し、仕事をし、30歳になって公生涯に入られました。30歳はユダヤでは立派な大人ですから、イエス様は嬰児から、大人までの人生を贖ってくださったと言えます。ここで言う「贖う」とは、私たちの代表として人生を踏みなおしてきよめてくださったということです。ルカ2:52「イエスは神と人とにいつくしまれ、知恵が増し加わり、背たけも伸びていった。」イエス様は霊において、知恵において、身体において成長したということです。だから、イエス様は私たちの人生における苦しみや悩みも理解できるということです。英語で「その人の立場になって考える」というのを、「その人の靴を履いてみる」という言い方をします。まさしく、イエス様は私たちの靴を履いてくださったのです。J.S.スティアートと言う人が『受肉者イエス』という本を書いています。「イエスが大家族のただなかで育ったことは、決して忘れてはならない(マタイ13:55以下)。ヨセフは比較的早く死亡したように思われる。なぜなら、彼の名は全く物語に現われないからである。イエスが成人されたとき、家族を扶養する責任の大部分が負わされたのは、恐らく、長兄としての彼のゆえであった。多くの譬え話の中に、主の初期の家庭生活を間接に明らかにするものが見出されるかも知れない。薄暗い片隅にころがって見えなくなった硬貨を捜すために、家中を掃くこと(ルカ15:8以下)、一週間分のパンを焼くために粉とパン種を計ること(マタイ13:33)、不意の来客のとき、空の食糧戸棚に気づいて、無愛想な隣人を真夜中にたたき起こす主人の窮状(ルカ11:5以下)、薄暗い時刻の点燈(マタイ5:15)、学校や遊びから帰った子供たちの健康な食欲(マタイ7:9以下)、これらの筆致やほかの多くの筆致は、確かに、マリヤの家庭、家業がおもわしくなかった日々、貧困からそれほど遠ざかりえなかったマリヤの家庭を思わせる。その家の周りに富がなかったことは確かであった。「この人は大工の子ではないか」、とのちに人々は言ったが、そこには間違いなく、嘲笑があった(マタイ13:55)。しかし、イエスにとってはそれが家庭であり、そこに愛があり、神がおられた。そして、イエスは、隠された待望の年月全体を通じて、ご自身の家庭に献身されたことによって、家庭生活を永遠にきよめられた。
イエス様が仕事と家庭をきよめられたというのは、ものすごい発見であろうかと思います。父ヨセフは早く亡くなり、下の弟や妹もいたので大変だったと思います。ローマ・カトリックは聖母マリヤと言い、イエス様以外の子どもは認めないようですが、福音書にはちゃんと書かれています。福音書に書かれている物語の背景が、まさしくイエス様が育った家庭環境から生まれたものでした。イエス様は人々をよく観察しておられたようです。イエス様が30歳で公生涯に立たれますが、そのときバプテスマのヨハネから洗礼を受けました。ヨハネはイエス様には罪がないので、バプテスマを授けたくありませんでした。でもイエス様は「このようにして正しいことをすべて実現することが、私にはふさわしいことです」と言われ、バプテスマを受けられました。これは、イエス様が罪人と一体になられたということです。それは、罪人を救うためです。ある人たちは、「イエス・キリストを信じれば良いのでしょう?なぜ、水のバプテスマを受けなければならないのですか?」と問います。その答えは、マタイ28章とマルコ16章で、バプテスマを授けるようにイエス様が命じておられるからです。そして、イエス様ご自身が人間の代表として、バプテスマを受けられたからです。パウロはバプテスマを罪の赦しだけではなく、もっと発展させています。コロサイ2:12「バプテスマにおいて、あなたがたはキリストとともに葬られ、また、キリストとともによみがえらされたのです。キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じたからです。」私たちは古い過去の私たちではなく、一度、キリストと共に死んで、キリストと共によみがえらされた新しい存在なのです。
4.私たちの模範となるため
第四は、イエス様は私たちの模範となられたということです。イエス様が御父と一緒に歩まれたように、私たちもそうすべきだということです。イエス様は父の家には住む所がたくさんあると言われ、父のもとに行く道を弟子たちに示されました。ヨハネ14:6-7「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになります。今から父を知るのです。いや、すでにあなたがたは父を見たのです。」キリスト教会では一般に、天国に行く道がイエス・キリストであるとこの箇所から結論します。しかし、文脈を見ると、死んでから父の家に行くという意味ではありません。このような誤解が生まれたのは、欽定訳が「住む所」をmany mansionsと訳したからです。ウィットネス・リーは『新約の概略』で、こう述べています。「父の家」の正しい意味は、この地上で神の民の間にある神の住まいです。宮の原則は、この地上で神の民の間に、神のための住まいがあるということです。キリストの復活後、神の宮はキリストだけではありません。キリストを信じる私たちが神の家、神の宮なのです。父なる神さまは聖霊によって私たちの中に住んでいらっしゃるのです。ヨハネ14:19-20「あと少しで、世はもうわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです。その日には、わたしが父のうちに、あなたがたがわたしのうちに、そしてわたしがあなたがたのうちにいることが、あなたがたに分かります。」イエス様が復活後に聖霊によって戻ってくるということです。その日、つまり聖霊を私たちが宿したとき、私たちの内にイエス様がおり、父なる神がおられるということです。
イエス様は私たちが神と共に生きるために模範となられました。ご自分は神であるので、本当は何でもおできになられました。でも、イエス様はご自分の力ではなく、父なる神の力によって、奇跡や不思議をなされました。ヨハネ5:19「イエスは彼らに答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。子は、父がしておられることを見て行う以外には、自分から何も行うことはできません。すべて父がなさることを、子も同様に行うのです。」イエス様が贖い主ですが、同時に私たちの模範でもありました。イエス様は私たちの罪ばかりか、人生をも贖ってくださいました。そして、あなたがたは「このように生きるのですよ」と模範を示されました。その模範というのは、イエス様がこの地上で御父と歩まれたように、私たちもそのように歩むということです。これは自分の考えや意思を全部否定して、ロボットのように生きるということではありません。本当の意味は、父、子、聖霊の神様と交わりながら、共に生きるということです。そして、知恵や力の源を、父、子、聖霊に置くということです。しかし、聖霊一本でも良いです。聖霊は神の霊であり、御子の霊だからです。キリストが聖霊によって私たちの中に住んでおられます。だから、私たちはイエス様のように生きることができるのです。