2025.5.18「プロセスの中で マルコ4:26-29」

プロセスとは行程という意味であり、もはや日本語になっています。ただいま、お読みしたところには麦の収穫までのプロセスが描写されています。最初は種を蒔きます。種が芽を出します。苗になり、次に穂、次に多くの実が穂にできます。実が熟すと鎌を入れます。収穫の時が来たからです。だれでも知っていますが、種からいっぺんに収穫に至るのではありません。それぞれの行程をふまえて、やがてたくさんの実がなるのです。きょうはこのような行程、プロセスの中で学ぶべき三つのことをお話したいと思います。

1.プロセスを楽しむ

 男性と女性の違いの一つはショッピングの仕方ではないかと思います。一般に男性は、あるものを買うためにお店に行きます。品物が売っているところに直行し、それを買ったら、すぐ帰って来ます。最初、ドン・キホーテに買い物に行ったときは、ひどく混乱しました。他のお店と違って、混沌としています。そのため、お目当てのものにたどり着くことができません。おそらく、それがドン・キホーテのコンセプトであり、ジャングルで迷わせて、他のものも買わせるという魂胆なのでしょう。しかし、何度も通っていると陳列している場所が記憶されているので、短時間で、買い物を済ませることができます。一方、女性はどうでしょう?30年前、亀有に来たとき、綾瀬のヨーカドーに家内と買い物に出かけました。品揃えが豊富だとある人から聞いたからです。しかし、家内が「買うのかな?」と思ったら簡単に買わないのです。次からは喧嘩になるので、本を持って行って、近くのコーナーで待っていることにしました。一般に女性は、品物を買うのではなく、ショッピング自体を楽しむことが多いようです。もし、そのお店になかったら、他のお店に行くこともOKなのです。まとめると、買い物においては、男性は目的志向ですが、女性は行程、プロセス志向なのかもしれません。

 今はあまり行きませんが、子どもが小さかった頃は、どこか遠くへ泊りがけで行ったものです。私は地図を広げ、今ではグーグルですが、このコースで、この所に行くと計画をたてます。高速の場合もどのインターで降りて、どの観光地に寄るかなども大体決めます。そして、いったん、車が走り出すと、その目的地に向かって、ひたすら走ります。昔はナビゲーターがなかったので、よく間違いました。「あのところで間違えたんだ、クソッ!」と自分に腹が立ちます。一方、家内はいたってのんびりしています。ナビが付く前は、私に任せっきりで、何も言いませんでした。ところが、ナビが付いてから、やたら口出しするようになり、驚きました。コースから外れて良いこともたくさんありました。家内の実家の岩手に何度も行きましたが、子どもがおしっこしたいと途中で停車することもありました。広々とした田んぼの向こうに蔵王の山々が見えて感動しました。また、八ヶ岳に行ったとき、完全に迷って山の裏側に行きました。すると田んぼのあぜ道に、たくさんのコスモスが咲いていて、まるで別世界でした。名所も良いのですが、思いがけないところに、絶景のスポットがあると思います。ですから、途中で止ったり、道で迷うことは旅においては良いことだと後から分かるようになりました。大切なのは、目的地にたどり着くばかりが能でなく、プロセスを楽しむということです。

 子育ても同じことが言えます。親は「子どもが早く大きくなって手が離れたら良いのに」といろいろ頑張ります。ある時、「いつまでもこの教会にいられないのだから」と整理をしはじめました。新型コロナウィルスが流行る少し前です。まず、物置にあった写真とネガを整理しました。アルバムに入れていないものが袋の中にどっさりありました。また、アルバムも子ども一人に四冊か五冊あるので、「こんなのは、子どもは、受け取らないだろうなー」と思いました。今度はそれをスキャナーで読んで、フォトショップで画像処理した後、時系列でデーターで保存しました。半年くらいかかりました。その時、「このころは可愛かったなー」という傑作集を焼きのばしして、アルバムも作りました。四、五冊あったものが、一冊になったのです。その時、「あっと言う間だったなー。無我夢中で子育てを楽しむことが少なかったのではないか」と反省しました。親は、ちゃんと成長するように叱咤激励します。でも、うまくいかなかった時や、病気になったとき、けつまずいた時・・・それらの時でも、「喜び、楽しむべきことがあったなー」と思います。

 私たちは人生において受験に失敗したり、失業したり、怪我や病気で足止めを食らうときがあります。早くコースに戻らなければ、おいてきぼりを食らうと焦るかもしれません。伝道者7:14「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである」と書いてあります。先ほどの、車の運転と同じように、ゴールに早く着くだけが旅ではありません。そうです。人生は旅にたとえられます。途中で停車したり、迷ったり、周り道をするときがあります。でも、そういう時にこそ、普段見えなかった景色が見えるものです。当たり前だと思っていた健康、家族、仕事…でも、「そこに神さまの恵みと支えがあったんだなー」と気づきます。昔、「およげ、タイ焼き君!」というのが大ヒットしました。あの歌は子ども番組の歌であって、大人向けではありませんでした。「毎日、毎日、僕らは鉄板の上で焼かれていやになっちゃうよ…」。専門家は「そのころはオイルショックの不景気に突入した頃でした。昭和時代のサラリーマンの気持ちを代弁している内容なのです」と言っています。

 もし、すべてが主の御手の中にあることを信じるなら、躓きも道草も、周り道すらも益になります。少なくとも、順調の日には見えなかった景色が見えます。現代はあまりにも目的志向、出来高志向、スピード重視です。それだったら、あっという間に人生が過ぎ去って、お墓に直行してしまいます。私もこの年になってやっとわかりましたが、目的達成ばかりが人生ではないということです。行程を楽しむ、プロセスを喜ぶということです。新幹線の旅も良いですが、各駅停車で途中下車も良いのです。高速道路も良いですが、一般道を走ると峡谷とか、吊り橋を見ることもできます。学業、仕事、家庭生活…やることはたくさんありますが、その中に、楽しみや喜びも発見したいと思います。「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ。これもあれも、神のなさること。後のことを人に分からせないためである。」

2.プロセスを愛する

 聖書の中で「愛の賛歌」として有名なのが、Ⅰコリント13章です。そこによく出てくるフレーズがあります。私は昔馴染んだ、口語訳の方が好きです。Ⅰコリント13:3「もし愛がなければ、いっさいは無益である」と書かれています。欽定訳聖書にはnothingと書かれています。つまり、何をやるにしても「愛がなければ無益である」ということです。多くの場合、このことを霊的に考えてしまうでしょう。でも、私たちが生活している、一つ一つのことに「愛がなければ無益である」と考えたら、ずいぶんと見方が変わってきます。私がそのことを考えたのは、洋書の翻訳をしているときです。その当時、新型コロナウィルスが流行っていて、奉仕活動がとても制限されました。その時、私は日本語に訳されていない洋書をぜひ翻訳して小冊子にしたいという情熱に取り付かれました。最初に手掛けたのが、”Who switched off my brain?” という本でした。私が慢性硬膜下出血で大脳のことに興味を持ったからです。しかし、その当時は。すべて手打ちであり、分からない単語は電子辞書とグーグル翻訳を活用しました。とても薄い本でしたが、ものすごく時間がかかりました。それから、かなり経った後、スキャナーで文字を読み、活字にできるということが分かりました。しかし、そのソフトは90%ぐらいの精度で、文字化けだらけでした。それでもニール・アンダーソンの本を訳しました。既に日本語訳がありましたが、翻訳が不満で、「いつか私がやってやる」という怨念晴らしでした。その後、『読み取り革命』というソフトで99.9%の精度のソフトと出会いました。同時に、DeepLというとても賢い翻訳ソフトと出会い、二か月で3,4冊翻訳できるようになりました。ありえないことです。訳しては大和カルバリーの大川牧師とスタッフの方々に送りつけました。大体、もらった本というのは読まないものです。でも、ある時、大川牧師から「とっても感動した。尊敬するよ」という電話が来るようになり、先生も礼拝説教で引用するようになりました。俄然、翻訳に拍車がかかりました。

 これで終わると自慢話になりますが、そうではありません。私は李光雨師より、一番、落ち込んでいた時、カウンセリングを受けたことがあります。いわゆる、世界観のテーマを捜しました。私が小学校5年のとき、東京オリンピックがあり、記念切手が発売されました。その時、郵便局員と私と時雄君と三人でじゃんけんして、私が記念シートを買うことができました。その時は、学校を遅刻しました。そうやって手にいれた宝物の切手をすぐ上の兄が「俺によこせ」と言いました。「ダメだよ」と引っ張り合いになりました。兄はそのシートを握ってぐちゃぐちゃにしました。その直後、近くにいた父親が「そんなものがあるからだ」と言って、薪ストーブに切手をくべてしまいました。私は大泣きして、それ以降、切手収集をきっぱりやめました。李光雨師は「そのエピソードがあなたの世界観のテーマだ」とおっしゃいました。何だろう?としばらく考えました。自分なりに「不当な扱いを受けると、私の世界が壊れる」と思いました。けれども、李光雨師は逆転勝利のこともお話してくれました。「切手収集は諦めたけど、あなたが研究したセミナーや書物をまとめて、それを他の人に提供する人になる。あなたはぶどうの房、クラスターの役目をする」と言われました。そういえば、私は弟子訓練やセルチャーチ、エリヤハウスの講義をまとめて、小冊子にして人に配ってきたことを思い出しました。それが今は、洋書を翻訳して、小冊子にして、勝手に人に配っています。ある時、一生懸命、スキャナーで本を読み、読み取り革命で文字化していました。それは、それは地味な作業であり、はた織り機で生地を織っているのと同じです。「とにかくこの一冊をやり終えなければ」と作業していました。その時です。「愛をもってしなさい」という思いが与えられました。つまり、「能率を上げて、やり終えるのではなく、一つ一つのことを愛しなさい」という主の思いが与えられました。そのとたん、「ああ、手で打ったら1ページやるのにどのくらいかかるだろう?でも、こんなにすばやくて感謝だなー。愛しながら行おう」と思いました。すると、地味で単調な作業が、かけがえのない作業に思えてきたのです。そして、「愛がなければ、いっさいは無益である」というところまで考えが広がりました。 

 毎日、ご飯を炊き、料理するのも単調になります。洗濯物を洗って、干して、たたむのは大変です。でも、「愛がなければ、いっさいは無益である」ということです。愛をもってご飯を炊き、お料理し、後片づけをする。それまでは、早く済ませて、別のことやろうと思っていました。でも、それらの行程、一つ一つを、愛をもって行うと、どういう訳か嫌な気持ちになりません。仕事でも奉仕でもそうですが、義務的に行うのと、愛をもって行うのとでは、ずいぶん違います。やたら疲れるのは、おそらく嫌々で、義務的になっているからではないでしょうか?義務も社会生活では最低限必要です。気分次第でやったり、やらなかったりでは誰からも信用されなくなるでしょう。ですから、本当はしたくなくても、お金のためにやるのが仕事です。でも、お金だけでは苦しくなります。もし、愛をもって行うなら、モノクロの世界がカラフルになるのではないでしょうか?イエス様は「あなたに1マイル行くように強いる者がいれば、一緒に2マイル行きなさい」(マタイ5:41)と言われました。1マイル行くだけでも、まいるのに、2マイル行くなんてありえないことです。「ぶつ、ぶつ」と文句を言いたくなります。1マイル行くのは、強いられて、もしくは義務的に行くことです。しかし、もう1マイル行くのは、愛をもって自分の意思で行くということです。2マイル行ったのに、どういう訳か疲れないということもあります。2歳になったばかりの孫を預かることになりました。朝早く八潮に迎えに行き、6時過ぎに送っていくということです。孫は男性がきらいらしく、最初はよく泣いていました。保育園がうまくいかず、たまに預かることがありました。私は「面倒だな、孫が可愛いなんて嘘だろう?」と思っていました。なぜなら、大事な時間を取られるからです。でも、孫は車に乗るととても静かになります。私のことを「車のおじさん」と思ったのでしょう、抱っこしても泣かなくなりました。水元公園に行くと、走り回るので家内も汗だくです。でも、わけのわからない言葉を発して、喜んでいます。愛をもって面倒を見ると、面倒とは思わなくなるということが分かりました。もし、今、面倒だなと思っていることに対して、愛をもって行ったら、面倒とは思わなくなるのではないでしょうか?なぜなら、愛は与えるものであり、見返りを求めないからです。何事も愛が大事です。

3.プロセスを忍耐する

 正しい日本語は、プロセスの中で忍耐を学ぶということです。箴言13:12「期待が長引くと、心は病む。望みがかなうことは、いのちの木」とあります。ダッチ・シーツと言う人が“Tell your heart to beat again”という本を書いています。直訳すると「あなたの心臓に動くように伝えよ」ということです。これは、ある心臓外科手術をしたときに、お医者さんが患者さんに言ったことばです。手術が無事終わり、人工心臓から、その人の心臓へと切り替えました。ところが、その人の心臓は止まったままで、一向に動き出そうとしません。もし、その時間が長びくなら、脳細胞が壊れ、体も死んでしまいます。その時、一人の医師が患者の耳元で「あなたの助けが必要です。あなたの心臓をあなたが動かしてください」とお願いしました。すると間もなく、波長が現れ、鼓動が開始しました。この本のテーマは、「希望が先延ばしにされて」苦しんでいる人へのメッセージです。私も「3年で100名礼拝になる」と言ったのに、35年たっても叶いません。弟子訓練も、セルチャーチも「うまくいかなかったけどー」と泣いていました。ところが、この本を訳している間、希望の灯がつけられました。希望が再び湧き上がってきました。聖書に希望に関するメッセージがあります。ローマ5:3-5「それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」このみことばのプロセスは、苦難、忍耐、練られた品性、希望です。正直言って、私はこのプロセスを説明することはできません。でも、少なくともいえることは、忍耐と希望とは深い関係があるということです。箴言のことばと並べるなら、「先延ばしにされた希望は忍耐を生み出す」ということでしょうか?即座に叶えられたなら忍耐は必要ありません。なかなか叶えられないので、忍耐が必要になってくるのです。

  例えば、病の癒しのことを考えたいと思います。私は聖書に書かれている奇跡的な癒しを信じています。イエス様は多くの場合、あらゆる病気を即座に癒されました。現代も、神さまの力によって病が癒されると信じています。でも、中には即座に癒されないで、時間がかかるのもあります。それが何年も何十年も続くと、いい加減、諦めたくなります。ヨハネ5章に38年間も病に臥せっていた男性のことが記されています。イエス様が彼に「良くなりたいか」と尋ねました。しかし、彼はいろいろ、言い訳して「はい」とは言えませんでした。自分にはチャンスが巡ってこないみないないなことをブツブツ言いました。38年も続くと、まさしく「先延ばしにされた希望」です。聖書を見ると、イエス様は彼が「はい、お願いします」と答えるのを待っていません。なんと「起きて床を取り上げ、歩きなさい」と言われました。これは命令ともとれます。彼は言われるまま、床を取り上げて歩いたのです。おそらく、彼がイエス様の言うことを、そのまま実行しようと、立ち上がった瞬間癒されたのだと思います。38年間の時間がくるくる巻かれ、新しい人生が始まりました。38年は確かに長かったのですが、イエス様が「もう十分」とばかり、忍耐の時を終わらせてくださったのです。ベテスダの池にはたくさんの人たちがいました。しかし、イエス様はあえて、38年間も待っていた一人の男性に目をとめ、お声をかけられました。彼は確かに自分で立ち上がったのですが、イエス様が「起きて床を取り上げ、歩きなさい」と言われたので、従っただけなのです。おそらく彼は、癒されてから立ったのではなく、立とうとしたら癒されたのではないかと思います。

 私は1999年から乾癬にかかり、20年以上戦っています。あの頃、プールに週、2,3回通っていました。とても塩素がきつくて、青い水泳帽がすぐ白くなりました。頭に白い斑点ができ、やがて背中に出てきました。高木皮膚科に行ったら、「これは簡単に治らない病気だよ」と言われました。とっても権威のありそうなお医者さんに宣言されてしまいました。漢方を始め、飲み薬、塗り薬、ハーブ、木酢液、アメリカの塗り薬…いろいろ試して今日に至っております(青戸病院で寛解)。癒しの集会にも行って何度も祈っていただきました。イエス様のお声があれば、すぐ治るのですが、そのお声はありません。ただ、ある時に「きっと治る」という信仰が与えられました。私は期待が長引くことで、忍耐を学びました。キャロライン・リーフ師は、87%は思考生活から来るものであり、あとの13%は食生活と遺伝であると言いました。ランディ・クラーク師が、“The essential guide to healing”(癒しのガイドの本質)という本でこう述べています。「要するに、長期的な癒しを得るためには、病気の根本的な原因を解決しなければならないのです。最も一般的な根源は以下の通りです。➀心身の問題-多くの病気の主な原因、➁自然的な原因-事故による怪我や癌の原因となる発癌物質など、③遺伝的なもの – 世代による呪い、④患っている霊、⑤ライフスタイルの問題-休息、食事、運動、ストレスに関する聖書の教えを無視している。」

 たとえば、あなたの夫、あるいは妻がなかなかイエス様を信じてくれないとします。あなたは「どうしてですか?こんなに祈っているのに。こんなに愛しているのに」と文句を言っているかもしれません。とうとう、あなたは「うちの人は神様から選ばれていないんだ。ああ、そうなんだ」と結論付けているかもしれません。確かにそういう場合もないわけでもありません。でも、多くの場合は、頑なな夫、あるいは頑なな妻によって、あなたを砕き、忍耐を学ばせ、練られた品性を与えるためなのかもしれません。簡単に病気が癒されたり、簡単に救われると、私たちはそこから何も学ぶこともないし、何も耐えることがありません。神様はそうしたいのは山々だけど、あなたの信仰を成長させたいために、希望を先延ばしにしているのではないでしょうか?ペテロは自分の手紙でこう述べています。Ⅰペテロ1:6-7「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」つまり、先延ばしにされた希望は、私たちを金のように精錬させてくだるということです。私たちは天国に行くまで、地上においては忍耐を学ぶようになっているのです。アーメン。