早朝の散歩コースに神社があります。たまに、大きな銀杏越しに、道端から手を合わせている人たちを見かけます。「ああ、宗教心のある人なんだなー」と思います。日本人は拝む対象がどういう神さまなのか気にしません。むしろ、信心そのものが大切なんだと考えているのでしょう。パウロがアテネを訪れたとき、たくさんの偶像を見かけました。その中に「知られていない神に」と刻まれた祭壇がありました。ものすごい宗教心です。きょうは、他の宗教と比べ、どうしてキリスト教の神様が特別なのかということをメッセージしたいと思います。
1.創造の神
使徒17:23-24「道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られていない神に』と刻まれた祭壇があるのを見つけたからです。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それを教えましょう。この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。」「知られていない神に」は、欽定訳聖書には“TO THE UNKNOWN GOD”となっています。ギリシャの人たちは、「自分たちが知らない神さまが他にもいるかもしれない。その神さまも拝まなければ失礼だろう」と考えたのでしょう。ものすごい宗教心です。また、そこには偶像を祀る神殿があったと思われます。ギリシャはオリンポスの神々を信じており、そこには12の神がいます。パウロがリステランで足の不自由な人を癒した時、町の人々は大変驚きました。そして、バルナバをゼウスと呼び、パウロをヘルメスと呼んで、彼らにいけにえを捧げようとしました。また、エペソではアルテミスが祀られており、宣教が進んだ時、銀細工人たちによって大迫害が起こりました。ギリシャは、哲学がとても盛んでしたが、同時に人々はオリンポスの神々も拝んでいたようです。
パウロはたくさんの偶像を見て、心に憤りを覚えました。そして、「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手で造られた宮にお住みにはなりません。」と言いました。偶像は人間が考えて造った神さまであり、多くの場合、その像が安置されています。日本ではそれをご本尊と言い、拝む対象になっています。小さな祠から、大きな神社があります。日本の新興宗教は立派な拝殿をもっており、日本古来のものと、異国風なものがあります。どちらにしても、聖書が言う創造主なる神ではありません。教祖があみだした彼らの神であります。神と言わないところもあるようですが、救いを求めるために礼拝しているので「神」であります。世界各国に偶像の神々があふれています。インドでは数えきれない神がおります。その一部が日本に伝わってきました。京都の三十三間堂に行ったことがありますが、千手観音の前には、インドの神々が立っていました。毘沙門天の前に最も多くお酒が供えられていました。お線香のにおいがきつくて、気持ち悪くなりました。日本も八百万の神がおり、偶像に満ちた国です。外国から来た宣教師たちは、偶像を目の敵にしますが、見方を変えると、日本はアテネの人たちと同じように、宗教心の篤い国民と言えます。
偶像は人間が造った神さまですが、聖書が言う神は、私たち人間を造った神であります。旧約聖書には、創造主と偶像の神の対比がたくさん書かれています。エレミヤ10:3-5「国々の民の慣わしは空しいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで作った物にすぎない。それは銀と金で飾られ、釘や槌で、ぐらつかないよう打ち付けられる。それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、運んでやらなければならない。そんなものを恐れるな。害になることも益になることもしないからだ。」エレミヤは「偶像はきゅうり畑のかかしのようで自分では動けない」と言っています。偶像は木で作った像に、銀や金箔を貼ります。その上に、青色や紫色の衣を着せます。それに対して、エレミヤはこう述べています。エレミヤ10:10-11「しかし、【主】はまことの神、生ける神、とこしえの王。その御怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。「あなたがたは、彼らにこう言え。『天と地を造らなかった神々は、地からも、この天の下からも滅びる』と。」エレミヤは「天と地を造らなかった神々は、地からも、この天の下からも滅びる」と言いました。つまり、聖書は多神教でも、拝一信教でもありません。天地を造られた神が唯一まことの神であり、他の神々は滅びてしまうと言うのです。これを聞いて、「何を馬鹿な」と憤慨する人と、「アーメン、ハレルヤ!」と二種類起こることでしょう。
私は「神なんか信じるもんか。そんなの人間が勝手に作ったものだ」とすべての神を否定していました。ところが、20歳くらいのとき、母が倒れてしまいました。仕事場から郷里にお見舞いに行ったとき、村の神社で「どうか母を助けてください」とお祈りしたことがあります。「神なんか信じない」と言っていたのに、自分の力ではどうにもならないとき、神仏に手を合わせるというのがあるのだと思います。多くの場合、偶像の神しか知らないので、無知なのではないかと思います。確かに宗教は人間が造った神であり、信仰の対象です。でも、その人間を造った神がおられるとしたら、それこそまことの神様ではないでしょうか?全世界のどの民族、どの部族にも宗教があります。そして、彼らの神を拝んでいます。動物は神様を礼拝したりはしません。人間にはに自分の創り主を慕い求める本能が宿っているのではないでしょうか?でも、世界万物と人間を造られた本物の神様に出会うということは、ほとんどありません。文明文化が進むと、偶像の神ばかりか、創造主なる神様まで否定します。人間の理性を信じたり、人間自身を神のように高めるヒューマニズムに陥ってしまいます。共産主義国家は唯物論ですが、独裁者は神様のようにあがめられています。神を離れた人たちは、自然主義に陥り、宇宙も人間もすべてが偶然にできたんだと信じています。偶然に発生したので、そこには目的も計画も意義も存在しません。この世の多くの人たちは、どこへ行くか分からずに、無目的に生きています。
伝道者の書12:1、13 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ…結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。」創造主なる神に立ち返るとき、何のため生きているのか、自分がだれなのかがわかります。生きる目的もわかるし、何が大事なのかも分かってきます。
2.偏在の神
使徒17:25-27「また、何かが足りないかのように、人の手によって仕えられる必要もありません。神ご自身がすべての人に、いのちと息と万物を与えておられるのですから。神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。」このところには、神さまは創造者であるだけではなく、世界を保持し、治めておられるお方であることが分かります。このところに、いくつかの真理が収められています。第一は、神が一人の人からあらゆる民を造ったということです。一度、大洪水で滅ぼされましたが、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテの子孫が世界に広がりました。セムはイラン、イラク、シリア辺りに広がりました。ハムの子孫は北アフリカ、エジプトあたりです。ヤペテの子孫は黒海とカスピ海あたりからトルコ、ギリシャ、ヨーロッパ南部に広がりました。「それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになった」というのですから、神さまは歴史や国々を支配しておられるということです。パウロは「もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません」と言っています。さらには、28節では「『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです」と書かれています。パウロは当時知られていた詩人や哲学者のことばを用いて説明を加えています。これは、聖書の神が遍在の神であるということを教えている箇所です。
偏在とは神が宇宙に満ちている、神さまはどこにでもおられるという意味です。エレミヤ23:24「人が隠れ場に身を隠したら、わたしはその人を見ることができないのか。──【主】のことば──天にも地にも、わたしは満ちているではないか。」ダビデも、詩篇139篇で「私はどこへ行けるでしょう。あなたの御霊から離れて。どこへ逃れられるでしょう。あなたの御前を離れて。
たとえ私が天に上ってもそこにあなたはおられ、私がよみに床を設けてもそこにあなたはおられます。」(詩篇139:7,8)と言っています。つまり、神さまはどこにでもおられ、私たちは隠れることができないということです。でも、それは良いニュースでもあります。「もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません」。そうです。どこにでも、神さまを見出すことができ、神さまを信じるチャンスがあるということです。福音派の教会は「キリストの福音が伝えられなければ、信じることが不可能であり、救われることもない」と考えます。確かにそうではありますが、パウロはローマ1章で「神の、目に見えない性質、すなわち神の永遠の力と神性は、世界が創造されたときから被造物を通して知られ、はっきりと認められるので、彼らに弁解の余地はありません。」(ローマ1:20)と言っています。ですから、私たちが考える以上に、救われるチャンスがあるということです。例えば、シリアのナアマン将軍は、エリシャからハンセン病を癒していただきました。その時、彼は「しもべは、これからはもう、主以外のほかの神々に全焼のささげものやいけにえを献げません」(Ⅱ列王5:17)と告白しました。私は長い歴史において、キリストの福音が届かない地域であったとしても、創造主なる神を信じて救われた人がいるのではないかと思います。
しかし、これをあまり強調すると問題が起こるかもしれません。偏在の神と似ているものに、汎神論pantheismというのがあります。これは自然のすべてが神であるという考えです。言い換えると、全ては創造者を内に含んでいるという考えであり、精霊崇拝とイコールです。日本はこの精霊崇拝であり、山、岩、大木、動物や人間にも霊があると考えます。これは現代では、ニューエイジにつながっています。彼らは「神は宇宙に満ちている大霊である」と考えています。さらには、「自分たちも神の一部であり、神なのだ」と主張します。彼らは使徒17:28「『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。」をそのまま引用します。しかし、聖書の神は、自然を造りましたが、自然の一部ではなく、自然と隔絶した存在です。確かに神は霊であるので、どこにでも存在することができます。かといって、被造物の中に内在しているという訳ではありません。汎神論の神は、人格性のない、無の境地なる神さまです。禅もヨガも、自分を無にするところがありますが、それは悪霊が入り込む隙を与えるので非常に危険です。私たちは私たちを愛しておられる善なる神、ご意思を持たれた神と交わるのです。神さまと一体になると言いますが、人格は別々であることを忘れてはいけません。あちらは創造者であり、こちらはあくまでも被造物です。確かに、聖霊は私たちを宮として住んでおられますが、私たちは神ではありません。
神は霊ですから、どこにでも同時にいることができます。イエス様も復活してから霊のからだになられました。福音書の復活の証言が一致していないのはそのためです。Ⅰコリント15:6「その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。」アーメン。私は今の時代も、イエス様は現れてくださると信じます。イスラム教徒たちは非常に伝道が難しいと言われています。しかし、イエス様が突然、彼からの前に現れます。彼らはパウロのように、その場に打ち倒されます。でも、立ち上がったときは、もうキリストを信じる信徒です。彼らはイエス様を預言者としては信じています。でも、新約聖書よりもコーランを信じています。宣教師も伝道できない所がたくさんあります。そのため、イエス様が超自然的に現れてくださるのです。私たちの周りにとても頑なな人がいるかもしれません。でも、その人のためにとりなしているなら、天使が現れるか、あるいはイエスさまが直接現れてくださるかもしれません。神を信じないシングルマザーが子育てで苦しんでいました。友人が教会に誘っても決して行こうとしません。経済的にもとても困窮し、路上で「神様がいるなら、どうしてこのように苦しみが多いのですか?」と文句を言いました。その時、声が聞こえました。「私はイエスです。あなたは初めて、私のことを呼びましたね。」
3.絶対者なる神
使徒17:30-31「神はそのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます。なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」最後にパウロは、「悔い改め」と「義をもってこの世界を裁く」と述べています。これまでは、宗教心にあついギリシャ人を認めつつ、創造主なる神は人間のつくった宮にはお住みにはなられないことを言いました。さらには、神さまを探し求めたなら、神を見出すこともできるという希望も語りました。最後に、罪をさばく絶対者なる神に立ち返るように勧めたのです。悔い改めるというのは、偶像の神からまことの神に立ち返るということです。偶像の神々を信じる人々、また精霊崇拝者(アニミズム)には2つのものが欠けています。第一は人間から隔絶された絶対的な神さまです。聖書の神さまは世界を創造されただけではなく、道徳倫理も造られました。別な言い方をすると、自然の法則と道徳倫理の法則も与えたということです。多くの人たちは、万有引力や作用反作用などの法則は科学的であると認めます。ところが、聖書に記されている十戒をはじめとする律法を認めません。詩篇119篇は神の律法を賛美しています。主のみ教え、さとし、戒め、掟、仰せ、義のさばき、定め、みことば…などに表現されています。だれでも高いビルの上から落ちると怪我をするか命を落とすかもしれません。この地上では万有引力の法則から逃れることはできません。ところが、神がさだめた掟には従いません。「私はそんなのは認めません。自由にさせてください」と掟を破ったとします。するとどうなるでしょう?必ず、何らかのさばきをうけます。たとえ、刑法に触れなくても、心や体や人間関係にダメージをきたすでしょう。最後には絶対者なる神さまの前に立つとき、弁明しなければなりません。
第二の違いは、偶像の神々を信じる人々、また精霊崇拝(アニミズム)には「罪」という概念がありません。あるのは「けがれ」であり、「わざわい」です。政治家が何か悪いことをしたりすると、禊を受けたり、霊場を行脚したりします。それは悪いのは自分ではなく、「けがれ」がくっついていると思っているからです。だから、それをきよめるか、洗い落とそうとするのです。そうではありません。悪いのは内側にあるのです。イエス様はこのように言われました。マルコ7:20-23「人から出て来るもの、それが人を汚すのです。内側から、すなわち人の心の中から、悪い考えが出て来ます。淫らな行い、盗み、殺人、姦淫、貪欲、悪行、欺き、好色、ねたみ、ののしり、高慢、愚かさで、これらの悪は、みな内側から出て来て、人を汚すのです。」これらの罪はすべて神の定めや律法に反することです。この世の法律は実際に罪を犯さないとさばかれることはありません。ところが、神の律法は心の内側にある罪をあばきます。こういうものを心に持っているので、機会が訪れたときに、実際に罪を犯してしまうのです。神の律法は私たちの顔を映す鏡のような存在です。鏡を見ないと顔がきれいか汚れていないか分かりません。同じように、神の律法がないと正しいのか不義なのか分かりません。そういう意味では、私たちは罪をさばく絶対者なる神がおられることを知る必要があります。罪の問題がわからないと、救いもないからです。端的に言うと、救いとは罪が赦され、神のさばきを受けないということです。
パウロは救いの道をこのところで提示しています。使徒17:31「なぜなら、神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられるからです。神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになったのです。」このところに、絶対者なる神と私たちの間に立つ仲介者が紹介されています。神さまがお立てになった一人の人というのは、イエス・キリストのことです。このお方は旧約聖書に預言されていたメシアであり、定められた日に人間としてお生まれになられました。彼は神の子でありましたが、天から降りてこられ、わざわざ人間としてお生まれになられました。そうでないと、人間の罪を贖うことができないからです。イエス様は神であり、義なる人間であられたからこそ、私たちの身代わりになって罪を負うことができたのです。罪の身代わりは第三者ではなく、当事者でなければなりません。父なる神は、神である御子が罪を支払ったので、人類の罪に対するさばきをひっこめられたのです。神さまは私たちをもうさばいてはおられません。その証拠に、御子イエスを死者の中からよみがえられたのです。これは、罪の贖いが完成したという保証です。
聖書が啓示している神は、キリストの神です。私たちはキリストを通してのみ、絶対者なる神さまのところへ行けるのです。キリスト抜きで神さまに近づこうとすると、罪が邪魔をして、しまいます。エペソ3章には「私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます」という招きのことばがあります。仏教にも信じるだけで救われる「慈悲」という考えがあります。親鸞が「歎異抄」というのを書きましたが、パウロの福音とそっくりです。また、仏教には釈迦の間に立つ、観音菩薩がいるようですが、人間が考え出した架空の存在です。イエス・キリストは歴史の中に入って来られ、人間として生まれました。神をご自分の父であるとし、人間の正しい生き方の模範となられました。最後には、罪を贖うためにご自身をお捧げになられました。世界には仏教をはじめたくさんの宗教がありますが、罪を贖うお方がいません。彼らの信仰には人間の悟りや行いや難行苦行が不可欠です。そのため「これで良い」という基準がありません。先祖と自分の業を背負いながら、生きていくしかありません。死んでも次は何に生まれ変わるか分かりません。イエス・キリストは死を打ち破り今も生きておられます。黙示録1:17-18「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている。」アーメン。私たちがキリストを信じるときまことの神と出会い、神の子どもとなることができるのです。人生に意味と目的が与えられ、この世においては、たましいが幸いを得、すべての点で幸いを得、健康を得ることができます。また、永遠のいのちが与えられるので、肉体的に死んでも、ただちにパウラダイス、千年王国、さらには新天新地に行くことができます。