聖書を読むと神さまは愛であり、善なるお方であることが分かります。ところが、聖書をさらに読むと神さまは義なるお方であり、罪に対しては必ず裁くお方であることも分かります。私たちから見ると、共に相反する性質を持っておられるような気がします。ところが、ここにイエス・キリストによる贖いの考えを入れると、両者を矛盾することなく理解することができます。きょうは私たちの信仰を深めるために、これらのことを学びたいと思います。
1.一般恩寵の世界
マタイ5:45「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」このメッセージは、山上の説教の一部であり、おもにイエス様の弟子たちに向けて語られた内容です。「天におられるあなたがたの父」というのは、「主の祈り」と共通するところがあります。イエス様は私たちに「神様を父と呼んでも良い」とおっしゃっています。では、私たちの父なる神様はどのようなお方なのでしょうか?45節を見るとわかりますが、父なる神様は「ご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです」と書いてあります。穀物を育てている人々にとって、日の光は貴重です。日照時間が少ないと作物が良く育ちません。雨はどうでしょう?都会では雨の日は濡れるし、通勤通学が大変です。しかし、雨の少ないパレスチナにとっては、恵みの雨でした。特に、種まきの時と収穫の前の雨は、まとまった雨が必要でした。ここで言われている教えは、私たちの神様は悪人と善人にも太陽を昇らせ、正しい者と正しくない者にも雨を降らせてくださるお方だということです。つまり、分け隔てなく、愛してくださる慈愛の神です。多くの人たちは、「そんなの当たり前だろう」と感動もしないし、感謝もしないかもしれません。しかし、イエス様は「父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせる」とおっしゃいました。つまり、太陽の所有者は神であり、日の光は、神様からのものだということです。その神様が分け隔てなく、悪人にも善人にも日の光を与えて下さるということです。太陽を拝む人がいますが、本当は太陽を造られた神様を拝むべきです。
私は早朝と夕方、2回散歩をします。朝7時過ぎると自転車の通行量がぐっと増してしまいます。自転車に乗った女子高生が短いスカートをはいて颯爽と通ります。その時、「ああ、神さまは、この子たちに若さをプレゼントしてくださったんだなー」と賛美します。夕方には若いカップルがいちゃいちゃしながら歩いています。彼を見ている女性の瞳が輝いており、「本当に幸せそうだなー」と思います。「救いを受けていなくても、幸せなんだな」と少し驚きます。その時、「ああ、神さまは、だれにでも楽しみや喜びを与えておられるんだなー」と賛美します。伝道者の書には、良いことと悪いことが同時に書かれています。伝道者の書11:9-10「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。しかし、神がこれらすべてのことにおいて、あなたをさばきに連れて行くことを知っておけ。あなたの心から苛立ちを除け。あなたのからだから痛みを取り去れ。若さも青春も空しいからだ。」女子高生や若いカップルに水をさすようなことが書かれています。「若いうちに楽しめ、喜べ」と言いながら、「すべてのことにおいてさばきがある」とか「若さも青春も空しい」と言われています。これが、一般恩寵の限界です。一般恩寵というのは、太陽の光や天からの雨のように、分け隔てなく与えられる恵みです。神様はとても気前の良いお方であり、ご自分を信じる、信じないに関わらず、喜び楽しむことのできる人生を与えておられます。神さまはある人には富と財を与え、ある人には美貌と才能を与えておられます。伝道者の書5:19「実に神は、すべての人間に富と財を与えてこれを楽しむことを許し、各自が受ける分を受けて自分の労苦を喜ぶようにされた。これこそが神の賜物である。」ここで言われている、「神の賜物」とは、神の一般恩寵と言うことができます。
私は今こうやって落ち着いて話していますが、子どものときは、隣の子どもに生まれたら良いと思いました。隣の時雄君は長男なので、勉強机もバイクも買ってもらいました。また、クラスでは通知表で5が1つでもあると、親から何かプレゼントをもらえた子もいました。私の場合は、優秀な兄と姉に比べられて、ちっともほめてもらえませんでした。8人兄弟の7番目だったので、人生を楽しむとか喜ぶというのではなく、何とか生き延びるということが人生のテーマでした。しかし、高校を卒業して就職し、給与をもらいました。25日に給与をもらうと、月のはじめにはもうなくなっています。私のころは、「ハワイ」というキャバレーがあり、「人生にこのような楽しいところがあるのか」と思いました。暗黒の高校生活だったので、世の中は何と楽しいのだろうと思いました。なんとか英語の仕事に転職し、彼女もでき、新車も買いました。ところが、心の深いところに「俺は何のために生きているのだろう?」という哲学的な疑問がありました。その疑問は中学のときからずっと続いており、なかなか消すことができませんでした。伝道者の書に「神はまた、人の心に永遠を与えられた。…私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか、何も良いことがないのを」と書いてあるとおりです。そんな時、職場の先輩から伝道され、やがて教会の礼拝に出席しました。「ここには何かある」と真理への飢え渇きが与えられました。教会では「求道者」と言いますが、ああ、「私は求道者だったんだなー」と今、改めて思います。
神さまは恵み深いお方で、だれにでも太陽を昇らせ、だれにでも雨を降らせてくださるのはすばらしいことです。人々に若さを与え、人生の楽しみや喜びを与えてくれます。でも、「それだけで良いのだろうか?」という空虚な思いもあります。アウグスチヌスは「人には神さましか埋めることのできない空洞がある」と言いましたが、その通りです。つまり、神さまの一般恩寵はすばらしいことですが、人間はそれだけでは満足できないということです。なぜなら、神さまの一般恩寵はこの世だけのものであり、死後のことに対しては解決を与えていないからです。むしろ、死後にさばきがあるとか、清算するときがくるとか、よみに下るとか書かれています。永遠があるのか、真理はあるのか、神さまはおられるのか?特別恩寵への飢え渇きがあります。
2.厳しい要求
きょう読んだところには、特別恩寵への入口が書かれています。この箇所は一見、神さまは慈愛に満ちて、分け隔てなく愛しておられると考えてしまいますが、そうではありません。一口で言うと、神様はとても厳しいお方です。無理難題を求めるお方です。果たして、どう書いてあるか、もう一度お読みしたいと思います。マタイ5:43「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。」とイエス様がおっしゃいました。「あなたの隣人を愛し」は、レビ記にある律法です。これは十戒の第五から第十をまとめていることばでもあります。しかし、「あなたの敵を憎め」はユダヤ教の教えです。彼らは律法の解説書やラビたちの教えを守っていました。当時の人々は、「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」というのは真理であり、アーメンな教えだと思っていたのでしょう。ところが、イエス様の要求は十戒以上の崇高な教えでした。イエス様は「しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」とおっしゃいました。イエス様は続けて、自分を愛してくれる人を愛したからとて何なんだ。取税人や異邦人でもやっていることではないかと言いました。きわめつけは、マタイ5:48「ですから、あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」です。どうして、ここまでいうのかというと、父なる神が、良い者にも悪い者にも太陽を昇らせ、雨を降らせてくださるからです。ということは、神さまは分け隔てなく愛してくださる恵み深いお方でありますが、それだけではないということです。イエス様は「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです」と要求しておられます。言い換えると、「そのように天の父が完全であるように、完全にならなかったなら天の父の子どもにはなれませんよ」ということです。あるいは、「天の父の子どもだったら、それくらいのことはできるのですよ」かもしれません。
急に難しくなりました。今までは一般恩寵の穏やかな世界でしたが、特別恩寵の世界は厳しくて、エベレストのように険しい感じがします。エベレストは登ったことはありませんが、空気が薄くて生きていられません。私は万座温泉に何度か行ったことがあります。標高1800メートルで日本で最も高い所にある温泉らしいです。初めて行ったとき、夜、何度も深呼吸しました。空気が薄いせいか、浅い呼吸だと酸欠状態になります。それはともかく、イエス様が要求したのは、律法以上のものです。ユダヤ人は律法を何とか守れるように、教えを変えました。しかし、イエス様は律法の精神、律法の神髄を示されました。つまり、律法の本当の意味と、律法が何のためにあるのか教えようとされたのです。マタイ5章から7章は、実行不可能なイエス様の律法が記されています。きょうの箇所のその一つですが、ここで言われているのは、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです」ということではないのです。また、「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」ということでもないのです。ジョン・ウェスレーが「キリスト者の完全」ということを、この所から言いましたが、「それはこのみことばを実行せよ」という趣旨ではないのです。「え?そうなんですか?嘘でしょう?」と、私を偽教師扱いするかもしれません。
イエス様は特別恩寵を受けるために、どうしても本当の律法を与えるしかなかったのです。特別恩寵というのは、私たちが言う救いのことです。永遠のいのちが与えられ、神の子になる、罪赦され義とされる、御国の世継ぎになる…これらはみんな特別な恵みです。この世に生きている人は、食べたり飲んだりして暮らす一般恩寵があります。若さも、青春も、さまざまな事業も研究も商売も神様が与えた一般恩寵であります。でも、それらをすべてきわめた伝道者の記者は、「空しい、風を追うようなものだ」と告白しています。つまり、この世だけのことで、生きるなら、神さまの一般恩寵で良いのです。神さまはだれにでも、太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます。でも、そこには永遠のいのち、神の子となる、罪赦され義とされる、御国の世継ぎの恵みはありません。多くの人たちは、「そんなものはいらない、そんなものがあるはずがない」と言うでしょう。はっきりと拒絶する人はいませんが、「どうせ宗教だろう」と求めようとはしません。キリスト教に熱心な人たちに対して、「かぶれている」とか「狂信的だ」と言うかもしれません。でも、かつての私がそうであったように、神の存在を否定しても、「私は何のために生きているのか?」という疑問がありました。自分自身の存在の意味も、目的もわからず、空しさを抱えたまま生きていました。みなさんも、私と同じではないにしても、この世のものでは満足できなかったのではないでしょうか?どこかに永遠や真理を求めていたのではないでしょうか?
話を戻します。イエス様が「なぜ、実行不可能な律法を差し出したか?」ということです。当時のユダヤ教は律法を何とか実行できるように、標準を下げるか、曲げるかして、ごまかしていました。でも、イエス様は律法の神髄を説かれました。では、律法とは何のため私たちに与えられているのでしょうか?ガラテヤ3:23-24「信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来たるべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。」一口で言いますと、律法は「あなたには罪がありますよ。行いではなく、キリストを信じる信仰しか救いの道はありませんよ」と諭してくれるためにあるのです。パウロは、律法はキリストに導くための、養育係であると言っています。つまり、マタイ5章から7章までは、モーセの律法の再解釈であり、生身の人間では神の基準に到達できないということを教えるためにあるのです。私たちは行いによっては神の義である救いを得ることができません。律法は「あなたには罪があります。基準に達していません。キリストが必要です」と教えているのです。イエス様は実行不可能な厳しい要求を与えましたが、それは同時に、神の特別恩寵を受けるための関門であることを教えたのです。私は罪人です。私はキリストが必要です。そのように願うなら、特別恩寵である、永遠のいのち、神の子どもとされること、罪の赦しと義、そして御国の世継ぎになるのです。これは世の中には隠されていますが、聖書を読むと聖霊が救いの道を示して下さいます。
3.特別恩寵の世界
第一のポイントでは神さまは分け隔てなく恵みを与えてくださるお方であることを学びました。パウロはその神の慈愛は悔い改めて救いを与えるためであると言っています。ローマ2:4新改訳第三版「それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」2017年訳は「いつくしみ深さ」と訳していますが、慈愛の方が良いと思いました。つまり、父なる神は、一般恩寵にとどまっていないで、特別な恵みを求めてほしいと願っておられるのです。イエス様はそのために「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです」と無理難題を押し付けたのです。私たちがこの特別な恵みを得るためには、自分の行いによる救いを断念して、キリストにある救いを求めなければなりません。なぜなら、律法は守るためではなく、キリストにある救いを得さるための養育係りだからです。パウロは、どのように私たちがキリストによって与えられる特別恩寵の世界をローマ3章で示しています。ローマ3:30「なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。」このことは既にお話しました、律法の行いによっては、人は救いを得ることはできず、かえって罪の意識が生じるのです。では、どうしたら良いのでしょうか?少しもったいぶっていますが、以下のみことばはとても重要です。
ローマ3:21-24「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」もっとも重要なポイントは、イエス・キリストを信じる義が、すべての信じる人に与えられ、何の差別もないということです。マタイ5章では「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」とありました。そうです。イエス・キリストを信じるなら、だれであっても、神の義が与えられる、つまり救われるということです。その根拠は、キリスト・イエスによる贖いのゆえです。贖いというのは、だれかがその代価を払うという意味です。私たちは罪があるので、いくら頑張っても救いを得ることができません。イエス・キリストがその代価を払ってくれたので、私たちは救いを得ることができるということです。神さまの前に少しだけ罪のある人と、1万タラント分の罪がある人がいます。人間的には少しだけ罪のある人が救われやすいと思うでしょう。たとえ、そうであっても、その人がキリストの贖いを拒否するならば、神の栄光を受けることはできません。罪がさばかれ、永遠の滅びが待っています。最も大きな罪は、贖い主イエスを信じないという罪です。しかし、1万タラント分(今で言うと6000億円)の罪を犯した人であっても、キリストの贖いによって、完全に救われます。良い例が、イエス様の隣で十字架につけられた犯罪人がそうです。「私のことを思い出してください」と願っただけで救われました。彼は十字架につけられているので、良い行いができません。聖書も読めないし、教会にも通うことができません。なのに、彼はストレートにパラダイスに行くことができました。恵みというのは、そういうものです。罪の増し加わるところに、恵みもいや増すのです。アーメン。
さて、イエス様がおっしゃった。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」ということが可能なのでしょうか?あの命令は、罪を示して救いを得るためだったのでしょうか?実はパウロはガラテヤ書でこのように教えています。5:13-14「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という一語をもって全うされるのです。」パウロは、律法を全うできる道を教えています。それは、肉にではなく、御霊によって歩むとき、可能になるということです。これは、神さまによって与えられた自由を、隣人を愛することのために使いなさいということです。マタイ5章から7章までの山上の説教は、実行不可能な天国の律法であると言われてきました。半分は当たっています。イエス様は律法の精神を教えることによって「だれ一人、神の前に義と認められる人はいない」ということを教えてくださったからです。でも、それだけではありません。イエス・キリストが私たちの罪を贖い、霊的に生まれ変わらせた新約の時代はそうではないとうことです。私たちの内におられるキリストの御霊が、どのような人でも愛させてくださるからです。私たちの内にキリストがおられるので、父なる神のような慈愛が与えられるのです。ある人が言いましたが、「キリスト教は道徳ではなく、奇跡なのです」と。まさしく、自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることができるようになるのです。使徒7章には初めての殉教者ステパノのことが書かれています。彼はユダヤ人から石打ちの刑に処せられました。使徒7:59-60「こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。『主イエスよ。私の霊をお受けください。』そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。」ステパノの祈りは、イエス様の十字架の祈りとそっくりです。彼は自分を殺す者のために、とりなしの祈りをささげました。大声で、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と叫びました。生身の人間にできることではありません。ステパノは聖霊に満たされた人でした。肉であるなら、「どうして私が殺されなければならなんだ。神さま、幾倍も復讐してください」と叫んだでしょう。でも、ここに奇跡が起こりました。まさしく、ステパノは自分の敵を愛し、迫害する者のために祈ることができました。私も同じような立場になったら、果たしてそのようになれるのか分かりません。なぜなら、車を運転しているとき、のろのろ横断歩道を渡っている人を裁いているからです。教えだけでは人は変わりません。教えを与えている人も保証できません。キリストの贖いを受けていることを全身全霊で受けとめ、御霊によって満たされて歩むしかありません。父なる神のご性質は慈愛、憐れみ深さです。成長したクリスチャンは父なる神に似てきます。特別な恵みによって、父なる神のように憐れみ深い者となりますようにお祈りいたします。