2025.3.23「神様のパートナー  Ⅰコリント3:5-9」

神様は全能者なので、私たち人間の助けは全く不要なはずです。しかし、聖書を見ると、神様は、あえて人を用いて、ご自分の働きをなさろうとしていることが分かります。創世記においては、アダムにエデンの管理をさせ、動物たちに名前をつけさせました。大洪水のときはノアに箱舟を造らせました。エジプトからイスラエルを脱出させるときはモーセを用いました。新約聖書においてはイエス様が弟子たちに福音宣教を委託しました。マルコ16章の最後には「主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた」と書かれています。きょうは、私たちが神様のパートナーになるために何が必要なのか共に学びたいと思います。

1.神の召命を受ける 

 神様は私たち一人ひとりに成し遂げてもらいたい計画(運命)を持っておられます。詩篇139篇から、その「書物がある」ことがわかります。ヨハネ黙示録20章には「数々の書物」のことが言及されています。多くの人たちは、自分に関する神の計画が何かを求めようともせず、好き勝手なことをして一生を終えてしまいます。ところが、人がイエス・キリストを信じて回心すると、自分が何に召されているのか分かります。使徒パウロは回心と同時に、主の名を異邦人や王たちに運ぶ器として選ばれたことが分かりました。さきほどお読みしたⅠコリント3章にはコリント教会を世話した二人の奉仕者が記されています。一人はパウロであり、もう一人はアポロです。6節に「私が植えたと」ありますので、パウロが使徒としてコリント教会を設立しました。そして、「アポロが水を注いだ」とありますので、アポロが教師としてコリントの人たちを教えました。7節に「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」とあります。人々はいろいろ世話をしますが、神様だけが人を成長させるのです。そして、9節「私たちは神のために働く同労者である」と書かれています。ある英語の聖書には、「神のパートナー」と訳されています。つまり、パウロとアポロは神様のパートナーとして、それぞれに与えられた賜物と使命をコリントの教会のために果たしたということです。冒頭で、「神様は全能なので、私たち人間の助けは全く不要なはずです」と申し上げました。しかし、この地上において神様がご自分のわざをなさるとき、同労者、パートナーを必要とされるということです。

一か所、みことばを引用します。ローマ11:29「神の賜物と召命は、取り消されることがないからです。」これは、神様が私たちを何かの目的のために召しておられるということです。残念ですが、ほとんどの人がキリストによる回心をしていないので、ぼんやりとしかそのことを分かっていません。だた自分の願望や親や周りの人の意見に従って歩んでいます。ところが、先程、申し上げましたように、人が救われると霊的に目覚めるので、神様からの賜物と召命が発動します。まるで、電化製品にスイッチが入ったように、機能しはじめるのです。教会で掃除機ロボを購入しました。私の代わりに礼拝堂を掃除してくれます。その姿を見ているととってもけなげに見えてきます。私たちは機械でも、奴隷でもありません。神様はご自分のパートナーとして、この地上における救いのみわざを前進させたいと願っておられます。神様は天使を使って、できるかもしれませんが、あえて贖われた人を用いたいようです。でも、クリスチャンなって、全員が全員、「神からの賜物と召命はこれだ!」と理解できる訳ではありません。なぜなら、「この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたちであるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしている」(Ⅱコリント4:4)からです。つまり、「神様に自分をささげるのは、もったいない、私にはもっとやりたいことがある」と思うからです。多くのクリスチャンが誤解しているのは、献身とは牧師や伝道者になることだと思っています。しかし、そうではありません。神様が、主婦や学校の先生、会社員、様々な職種に召されることの方が多いのです。なぜなら、牧師や伝道者は集まった人に話すことができますが、クリスチャンはご家庭をはじめ、すべての世界に入り込んで、福音を宣べ伝えることができます。また、隣人を愛しつつ、神様から与えられた賜物や知恵を提供することができます。すべてのクリスチャンは恵みを運ぶ神の器であり、神の管であるからです。でも、神様からの召命と賜物は何なのか知る必要があります。言い換えると、自分の運命を全うするために、どうすべきか神様に真剣に求める必要があります。

Jhon Bevere師の“Driven by eternity”『永遠によって動かされる』という本から少し、引用します。・・・私は大学生のとき救われましたが、すぐに自分の人生に対する神の望みを求め始めました。私は工学部の学生で、IBMで、隔週で仕事をしていました。神に従いたいという単純な願望に加えて、自分の天職を知る動機となったことの一つは、救われてからわずか数カ月後に起こった出来事でした。ある男性の勤続38年を祝うために、8人から10人のエンジニアと一緒にオフィスにいたときのことです。何気なく話をしていると、彼が「38年間、毎日この仕事に来るのが嫌だった」と言いました。その場にいた、彼以外の全員が同意するか、鼻で笑いました。プロフェッショナルな人たちの中にあって新参者である私は、「嫌ならなぜ38年間もこの仕事を続けてきたのですか?」と言ってみました。すると、彼は「仕事だから」と言ったのです。私の父はエンジニアで、安定していて給料も高い良い職業だと言っていました。でも、このことがきっかけで、私は考えを改めることにしました。・・・Jhon Bevereはその本でさらに、こう述べています。・・・神様との歩みの早い段階で神様にお願いすれば、神様はあなたの人生の召命の全体像を教えてくださるということを学びました。つまり、初めから終わりを示されるのです。ヨセフは幼い頃、自分が偉大な指導者になることを示され、父や兄弟たちまでもが彼の下で仕えるようになりました。それが実現したのは、何年も経ってからでした。モーセは、その時が来る少なくとも40年前から、自分がイスラエルを導くことを知っていました。ダビデは、まだ羊を見る少年だった時に、自分が王になることを教えられました。彼がイスラエルの支配者になったのは、それから何年も経ってからでした。主は私にすぐ聖書学校に行くのではなく、エンジニアとしての職の面接を受けるように示されました。・・・Jhon Bevereはセキュラーな仕事を何年か経験したのち、牧師になり、信仰書のベストセラー作家になりました。

ヨセフやダビデの例と同じように、神様は最終的な絵を示されますが、それを達成するためのすべてのステップを示されるわけではありません。「ちょっと行ったら、こっち」「ちょっといったらこっち」と、行くべき道を示してくださいます。なぜでしょう?初めから全部見せられたら、恐れて、その場に座りこんでしまうでしょう。神様を信頼しながら、一歩ずつ歩んでいくことが重要です。20年位たって後ろを振り返ると、「ああ、私にとって神の賜物と召命はこれだったんだなー」と分かります。私は救われてまもなく、「信仰を分かりやすく伝える人になりたい」と思いました。26歳で聖書学院の基礎科で学び、卒業後まもなく「鈴木教室」を開きました。この間、「ああ、40年たっても同じことやっているなー」と気づかされました。なぜなら、一週間に3回は「鈴木教室」を開いているからです。神様からの召命と賜物を全うするために、最も必要なのは信仰です。箴言3:5,6「心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。

 

2.教会に植えられる

ここで、多くの人が自分の人生に対する神の御心を見つけられない第二の理由を考えてみたいと思います。パウロはこう述べています。Ⅰコリント3:9「私たちは神のために働く同労者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。」パウロは神とのパートナーになるためにどうしたら良いか、畑と建築にたとえて教えています。まず、畑のたとえから学びたいと思います。私たちは教会という畑に植えられている存在だということです。神学的に教会には2つあります。1つは公同の教会であり、時代を超え、地域を超えた包括的な教会です。これは目に見えません。もう一つは地方教会であり、世界中にちらばっている目に見える教会です。人が回心してクリスチャンになったならば、必ずどこかの地方教会に植えられる必要があります。詩篇92:13「彼らは【主】の家に植えられ私たちの神の大庭で花を咲かせます。」英語の聖書は「主の家に植えられた者は、私たちの神の宮で栄える」と書かれています。「主の家」とは、神の家であり、この世では地域教会で植えられ、花を咲かせるということです。

Jhon Bevereはこう述べています。・・・世の中には、素晴らしい歌声を持ち、人々を感動させ、涙させる人がたくさんいます。彼らの賜物は、神を賛美し、人々が神の心と望みを追い求めるようにかき立てるために与えられたものです。彼らは、救われなかったり、教会に植えられなかったりしたために、その運命を全うすることができなかったのです。このように、一生のうちに一度もイエス様のもとに来ることがなかった人たちは、数え切れないほどいます。しかし、イエスに心を捧げていながら、教会に不規則に通っている人たちもいます。そのような人たちは、「植樹」されていないために、御国の最高の召しを果たしていないのです。彼らは教会の外で人生に影響を与えるように召され、ある程度はそうしているかもしれませんが、教会に植え付けられたなら、その影響はもっと大きくなるはずです。もう一つの問題は、問題が生じたときに、信者が教会を移ることです。今日、男性も女性も、特に指導者に問題があると思えば、簡単に教会を去ってしまいます。その問題は、指導者やチームが教会を運営する方法かもしれません。もしかしたら、献金の仕方やお金の使い方が問題なのかもしれません。もし人々が牧師の説教を気に入らなければ、彼らは去っていきます。牧師が親しみにくいか、馴れ馴れしすぎるのです。あるいは、会衆が誰かに注意を払わないことが問題かもしれません。このように、数え上げればきりがありません。このような人々は、困難に立ち向かい、希望を持ち続けるよりも、争いのなさそうなところに逃げ込んでしまうのです。現実を見ましょう。イエス様だけが完璧な牧師や教会のメンバーなのです。では、なぜ私たちは困難に直面し、それを克服するのではなく、困難から逃げてしまうのでしょうか。そして、完璧な指導者やメンバーのいる場所を求めて、教会から教会へと移動するのです。三週間ごとに植物を移植すると、どうなるでしょうか。根の張りが悪くなり、花も咲かず、実力も発揮できなくなります。もし、移植を続ければ、ショックで枯れてしまいます。詩篇92:13「主の家に植えられた者は、私たちの神の宮で栄える」のです。

もう1つパウロは、「神のパートナー」を建築にたとえています。Ⅰコリント3:9-15「私は、自分に与えられた神の恵みによって、賢い建築家のように土台を据えました。ほかの人がその上に家を建てるのです。しかし、どのように建てるかは、それぞれが注意しなければなりません。だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。」建築のたとえから言いますと、施主は神様です。そして、パウロは賢い建築家のように土台を据えました。土台とはイエス・キリストのことです。でも、その上に建物を建てる下請け業者がいます。パウロが言う建物というのは、神の神殿であることは間違いありません。新約聖書のあちこちに、私たちが神の神殿であると書かれています。神のパートナーである私たちはどのような材料で、神の神殿を建てるかということです。仕事の質や誠実さも求められます。もしも、金、銀、宝石で家を建てるなら、火で焼かれても残ります。ところが、木、草、藁で家を建てるなら、火で焼かれると消えてなくなります。これはどういうことでしょう?コリントの教会は、霊的な賜物にあふれていました。ところが、分裂や分派、あるいは高慢や罪がありました。表面的には熱心に神様の働きをしていますが、肉でやっている場合もあります。パウロは、Ⅰコリント13章で「愛がなければ、何の役にも立ちません」と言っています。「火で試される」とは、キリストのさばきの座で受ける報いです。良い報いもあれば、悪い報いもあります。たとえ、悪い報いを受けたとしても、その人の救いは失うことはありません。「その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります」とあるからです。ヨハネはこのように勧告しています。Ⅱヨハネ8節「気をつけて、私たちが労して得たものを失わないように、むしろ豊かな報いを受けられるようにしなさい。」

 

3.人生のしがらみを捨てる

 へブルの記者は信仰者の英雄伝を語ったあと、このように述べていいます。へブル12:1「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」第三に、私たちが神様のパートナーとなるための必要は、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てるということです。Jhon Bevereは「人生のしがらみを捨てることです。すべてのクリスチャンが召しを受けていますが、その召しを果たすために選ばれ、なぜ任命されないのでしょうか?」と言っています。

ルカ福音書9章後半に、人生のしがらみを捨てきれない人たちが出てきます。イエス様はある町から別の町へと移動していました。ある人がイエス様に「あなたがどこに行かれても、私はついて行きます」と言いました。この言葉を発した人は、興奮し、情熱的で、誠実な人です。彼はイエス様にずっとついて行きたいと思っています。しかし、イエス様はその熱意を見抜き、心の真の動機、あるいは心の罠を見抜く術をお持ちです。イエス様は、この人が運命を全うするのを妨げるようなからくりがあると見て、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」(ルカ9:58)と言われたのです。この人は、おそらく自分が持っている地上の証券に安住していたのでしょう。おそらく彼は良い仕事に就き、自宅にはかなりの資産があり、晩年のための退職金制度も用意されていたことでしょう。イエス様は、この地上の安全に対する欲求を、自分には安全な場所がないと言って、正面からぶつけました。

イエス様は別の人に「私に従って来なさい」と言われました。しかし、その人は「まず行って、父を葬ることをお許しください」と言いました。すると、イエス様は彼に「死人たちに、彼ら自身の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい」(ルカ9:60)と言われました。「うわー。なんという強い返事でしょう。」ある人は、イエス様が無神経で、ちょっと厳しいことを言ったと思うかもしれません。しかし、私たちは当時の文化を理解しなければなりません。学者によると、父親が死んで長男が埋葬の義務を果たした場合、その子は遺産の二倍を受け取り、他の息子は一倍を受け取るという伝統があったそうです。しかし、長男が父親を埋葬する義務を果たさなかった場合、その二倍の遺産は次男に与えられます。この人はお金に困っていたのです。裕福であることが好きで、それが結局はイエス様に従うことを妨げていたのでしょう。神様の計画ではなく、金銭的なことに気を取られ、決断してしまったのです。

また、別の人が言いました。「主よ、あなたに従います。ただ、まず(英訳「最初に」)自分の家の者たちに、別れを告げることをお許しください。」するとイエス様は「鋤に手をかけてからうしろを見る者はだれも、神の国にふさわしくありません」(ルカ9:62)と言われました。Jhon Bevereはこのように想像して述べています。ここでも、「最初に」という言葉に注目してください。この人は明らかに家族と仲が良かったか、故郷に友人や恋人がいました。彼はガリラヤから来た男に従う決意を家族に伝えたかったのです。その緊密な人間関係が、彼がイエスにどう仕えるかの最終的な決め手となったことでしょう。そこで主は、「あなたは御国の奉仕には向かない」と、この人に直接言われたのです。おそらく、この時点でイエスは、熱狂的な信者の大群がわずか70人程度に絞られるのを目撃していたのだろう。当初は数千人いたかもしれませんが、人々の運命の実現を阻む3つの大きな「しがらみ」、すなわち「安全」「お金」「人間関係」を直接扱われたのです。他にも快楽や神の目的以外のものへの欲求など、絡みつくものはありますが、私の長年の経験では、これらが主要なものです。

教会は、参照しやすいように章と節を後から付け加えました。ルカが次に述べることを聞いてください。ルカ10章1節以降「その後、主は別に七十二人を指名して、ご自分が行くつもりのすべての町や場所に、先に二人ずつ遣わされた。そして彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、ご自分の収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」この聖句には非常に多くのことが書かれています。まず、「その後」というのは、何の後なのでしょうか?その答えは、イエスが、群衆が残り少なくなったのを目撃した後です。まだそこに立っていた人たちが、自分に向かって、「私は、イエスに従うためには、どんな犠牲を払ってもかまわない」と言ったからです。彼らは、安全保障、お金、人間関係の問題に対するイエス様の答えを聞いて、自分たちが神の中で運命を全うするのを妨げるものは何も許さないと決心したのです。そして、イエス様は72人の新しいメンバーを任命されました。彼らはおそらく唯一残ったメンバーでした。新約聖書では、「任命される」と「選ばれる」という言葉は同義的に使われています。任命された人とは選ばれた人であり、選ばれた人とは任命された人です。イエス様は、マタイによる福音書で、このようにおっしゃっています。マタイ22:14「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ないのです。」招かれる人は多いのですが、正確には、すべての人です。すべてのクリスチャンは自分の人生に召されており、それを達成するための賜物を持っています。しかし、その召しを果たすために選ばれ、任命される人はごくわずかなのです。なぜわずかしか任命されないのでしょうか?それは、自分の欲望、有価証券、金銭欲、人間関係の障害などをすべて捨てて、自分の人生にかけられた召しを果たす人がわずかだからです。イエス様は「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われました。なぜなら、「神は、すべての人が救われて、真理を知るようになることを望んでおられる(Ⅰテモテ2:4)からです。私たちはキリストのさばき座の前に立って、なぜ、あの人が救われなかったのか、説明しなければならない人たちがいるかもしれません。もし私たちが召命を果たしたのなら、私たちは裁かれることはありません。私たちは神様のパートナーとして召されています。神の賜物と召命は、取り消されることがありません。