パウロが受けた患難には大きく分けて二つあります。第一は環境からくる患難です。英語でいうとadversityであり、逆境、苦難、不運、災難です。パウロは川の難、町での難、荒野の難、海上の難と言っています。第二は敵対する人々から来るものです。英語でいうとadversaryであり、パウロは盗賊の難、同胞から受ける難、異邦人から受ける難、偽兄弟による難と言っています。環境から来る難、そして人々からくる難をどのように乗り越えられるのでしょうか?
1.神との平和
患難を乗り越えるための第一の基盤は、神との平和を持つことです。ローマ5:1「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」ローマ1章から4章までは、神から離れた人類が罪の中に生きていることが記されています。滅びて当然、さばかれて当然の私たちのために、キリストが代わりに死んでくださいました。パウロはそれを「血による宥めのささげ物」(ローマ3:25)と言っています。つまり、キリストが代わりに私たちの罪を負って裁かれたので、キリストを信じる者は義と認められるということです。言い換えると、その人は神と和解をしたということです。つまり、それまでは神と敵対していて歩んでいたのに、キリストによって神と共に歩む人生になったということです。パウロは「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」と言っています。ですから、私たちが最も必要なことは、神との平和を持つことです。多くの人たちは「神との平和」を持つことがそれほど大事だとは思っていません。ある時、BSでエチオピアの聖地リベラに向かう旅番組がありました。最初、大学の卒業式を迎えようとしている若者たちに出会いました。インタビュアーが「あなたにとって最も大事なこととは何ですか?」と聞きました。真っ黒な肌の若者が真っ黒なガウンをまとい、四角い帽子をかぶっていました。彼は「大学を卒業し、仕事に就くことです」と答えました。私はエチオピアにはクリスチャンが多いので、「神様です」と答えるだろうと期待していましたが、がっかりしました。
なぜ、神様と和解し、神との平和を持つことがそれほど重要なのでしょうか?多くの人たちは、神様を信じると自分の自由が制限され、好きなこともできず、窮屈な人生を送ってしまうだろうと思っています。「さわらぬ神にたたりなし」でしょうか。でも、この世は罪に満ちていますので、罪に誘われ、しまいには罪の奴隷となってしまいます。奴隷とならないまでも、生き延びる人生になります。「大学を卒業し、仕事に就くこと」は悪いことではありませんが、生き延びる人生としか思えません。神様はあなたをこの地上に生まれさせたのは、何か目的があるからです。あなたに成し遂げてもらいたい計画があるからです。それが何かを発見するためには、まず、神様と和解して、神様に「私は何のために生まれてきたのでしょうか?」と問う必要があります。神様は生きておられますので、必ず「このためですよ」と答えてくださいます。使徒パウロの神様のご計画は、異邦人に福音を宣べ伝えることでした。しかし、以前のパウロは熱心に神様に仕えているつもりでしたが、キリストを苦しめていたのです。彼はダマスコの途上で、復活のキリストに出会い、180度転換しました。そのとき、生きる目的も与えられました。主はアナニアにこのようにパウロに告げるように言われました。使徒9:15「行きなさい。あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示します。」パウロが神から与えられた使命は異邦人、王たち、イスラエルの子らに福音を宣べ伝えることです。でも、キリストのために苦しむことも付随しています。もし、私だったら「苦しみを受けるくらいなら、結構です。お断りします」と言いたくなります。その苦しみというのが、福音宣教における、環境からくる患難と敵対する人々から来る患難であります。私たちも同じような患難がありますが、それらの患難を乗り越える第一の基盤が神との平和です。神との平和を持つとどのようになるのでしょうか?パウロはローマ8章の後半でこのようにして歓喜しながら述べています。
ローマ8:31,35「では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。…だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、苦悩ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。」そうです。神との平和を持つ者には、神様が味方になってくださいます。神様が味方なら何ものをも恐れる必要はありません。神様を知る前は、自分の持ち物や人間関係、自分自身が頼りだったかもしれません。ある人たちは豊かな財産や人脈が自分を守ってくれると思っています。確かに、そういうものがあれば安心と言えるかもしれません。昭和初期は、有名校に入り、大きな会社に就職し、地位を得ることが平安を持つことの要素でした。しかし、過去の50年を振り返りますと、大学紛争、不景気、大会社の合併がありました。銀行に就職したら、一生左団扇だと思っていましたが、そうではありません。現代は、派遣会社からいつクビになるか、はらはらドキドキして働いている人たちがたくさんいます。エチオピアの大学生が「大学を卒業し、仕事に就くことです」と言っていましたが、昭和の頃と同じです。私たち異邦人は天と地を造られた神が父であることを知る必要があります。そして、罪から離れ、神と和解することが最も大事なことなのです。そうすれば、神が私たちの味方になってくださり、あらゆる危険から私たちを守り、必要なものを与えてくださいます。あらゆる環境、あらゆる人間社会の上には、全宇宙を造られた父なる神様がおられるのです。このお方が今も全宇宙を保持し、支えておられます。しかし、そのままでは神様のご加護を受けることはできません。「血による宥めのささげ物」となられたキリストを信じて、神様と和解する必要があります。キリストによって神様からの和解の手が差し伸べられています。残されている課題は、私たちの方から手を差し伸べて、神様からの和解を受け取ることです。そうすれば、恐れや不安がなくなり、人生に安定感と調和が与えられます。なぜなら、神が私たちの味方であるなら、何も恐れる必要がないことが分かるからです。
2.自分との平和
患難を乗り越えるための第二の基盤は、自分との平和を持つことです。「自分との平和」と聞くと何か奇異に聞こえるでしょうか?自分との平和は、自分自身と和解すること、あるいは自分と調和することと言ってもよいかもしれません。さらに、驚かれるでしょうか?私はイエス様を信じるまでは自分の中に常に戦いや混乱がありました。ですから、物事に集中してあたることができませんでした。テストも最後まで終えることができません。絵や作文も時間内に完成することができず、家に持ち帰ったこともあります。高校のとき、学校から「図面を提出しないと卒業させないぞ」という電話がかかってきました。ちょうどどのとき、友人たちと麻雀をしていました。ギリギリに提出したので、評価が31点でした。今はマインドが癒されているので、説教も準備できるし、さまざまな図案を描くこともできます。なぜ、マインドの中に混乱があったのでしょう?あるデータによりますと、子どもたちが家庭や学校で聞くことばの85%が否定的なメッセージだそうです。そこがダメ、あそこがダメという「ダメメッセージ」がほとんどです。良いところがたくさんあるはずなのに、できていないところが強調されています。私もそうでありましたが、子どものマインドにどのようなものができるでしょう?「私は標準に達していない」「私には才能や能力がない」「私は何をやってもダメなんだ。ドジ、間抜け」となります。「お前は何をやってもダメだな。最後まで成し遂げたためしがない」という人のことばが、自分の頭の中でこだましています。この世でも「クズ」とか「カス」とか「できそこない」みたいな、ことばが横行しています。私の子どものころは「馬鹿」があいさつのように、一日、何十回も聞かされました。そのため、結婚してから家内や子どもたちに「馬鹿だなあ」と言っていることに気が付きました。家内はそのように言われたことがないので、とてもショックなようでした。しかし、私にとっては、とても軽い表現であり、あいさつみたいなものでありました。1987年、亀有教会に赴任したとき、山崎長老が「馬鹿野郎、馬鹿野郎」と言っていました。彼は「馬鹿野郎」というのは、一つの枕詞みたいなものであり、深い意味はないのだと言っておりました。
そのように自分の中に自分を否定し、自分の足をひっぱる声があるとしたら集中できません。自分の本当の力を出すことができません。そのため、私たちは自分と和解する必要があります。言い換えると、自分が1つになるということです。フロイトはdivided mind「分裂した心」ということを言っています。私たちの自我の他に2つのものがあると言います。1つはイドといわれる、子どもじみた私です。もう1つはスパーエゴといわれる、親や先生のような厳しい私です。しかし、それだけではありません。私たちが激しい虐待を受けたり、トラウマ的な出来事を経験すると、私という自我も分裂するということです。世の中では多重人格と言われていますが、本当は1つの自我が部屋を仕切るように分裂しているというのが正しいようです。そうなると、意思力や注意力、考える力、感情…すべてがバラバラであり、1つのことをまともに行うことができません。学校時代の私のように、混乱している状態です。まるで、アクセルとブレーキを一緒に踏んでいる状態です。何もしていないのに、エネルギーを消耗して、疲れてしまいます。そのような人が、環境から来る苦難や敵対する人々からくる苦難を乗り越えられるわけがありません。すぐ押しつぶされてしまいます。戦う前からすでに敗れているからです。
自分との平和とは、自分と和解することです。イザヤ43:3「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」とあります。これは創造者なる神様の目から見たら、あなたは高価で尊い、愛されるべき存在だということです。これをある人たちは、クリスチャンになったからこそこう言えるのであって、救われる前の私たちは虫けら同然だったと言います。聖歌613「虫にもひとしき者のために…」とあります。気持ちは分かりますが、それは正確ではありません。あなたがデパートの宝石売り場に行ったとします。白く輝くダイヤの前で、「一、十、百、千、万、十万、百万…」と首をふりながら値札を見ます。しかし、百万円を出して、その指輪を買う人がいます。なぜでしょう?そのダイヤが百万円の価値があるからです。私たちを贖うために、イエス・キリストが命を投げだしてくださいました。「贖う」とは代価を払って、買い戻すという意味です。つまりは、私たちの価値は、キリストの命と等しいということになります。それだったら、「虫にもひとしき者のために」と言ってはいけません。私は高価で尊い存在なので、イエス様が代価を払って買い戻してくださったのです。だから、ありのままの自分を愛して良いのです。そして、自分に対して正しい評価を下すべきであります。自己尊重を英語でself-esteemと言います。神様が高価で尊い者としてみているので、自分に対してもそのように扱うということです。そうなれば、自分の頭をぽかぽか殴る必要もなりません。もし、自分に馬鹿とかカスなどと言ったら、自分を造り、贖って下さった神様を侮辱することになります。エペソ2:10「実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。」アーメン。おそらく、キリストにあって造られたというのは、再創造されたという意味だと思います。
再創造の癒しを受けるとどうなるでしょう?分裂していた自分が、1つになります。かつては上から自分をさばいていた別の自分が支援者になります。「一緒にがんばろう」と言ってくれます。もう一人の自分も「そうだな。神さまが自分を愛しているように自分自身を愛するよ」と言います。そうすると、分裂していた自我が融合して、1つになります。私もそのことを経験しましたが、本当に自分の中に争いが消え去り、集中力がぐっと増しました。考えがすぐまとまり、短時間で多くのことができるようになりました。それでも、疲れたら休息します。「何をやっているんだ。しっかりしろ」という自分ではなく、「神さまが一緒だから大丈夫」と慰めてくれる自分がいます。ある方が私のメッセージは「『がんばれよ』『しっかりしろ』という叱咤激励がなく。ほとんどは「イエス様がいるから大丈夫です」と言ってくれるので、安心します」とおっしゃっていました。それは、自分自身に言っていることを、そのままみなさんに言っていることなのです。イエス様が「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」と言われたとおりです。
3.イエスのいのち
患難を乗り越えるための第一の基盤は、神との平和を持つことです。そして、第二の基盤とは、自分との平和を持つことです。これら二つの基盤の上に、もっとダイナミックなものが必要です。それはイエスのいのちです。パウロは「イエスのいのち」によって、あらゆる患難を耐え忍び、また乗り越えることができました。Ⅱコリント4:8-11「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです。私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されています。それはまた、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において現れるためです。」口語訳聖書はⅡコリント4:8「わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。」となっています。私は救われた頃は、口語訳聖書を読んでいました。大和カルバリーは頑固として今も、口語訳聖書を用いています。新解釈聖書はヴァージョンがコロコロ変わりますので、せっかく暗唱しても無駄になります。最近は口語訳聖書一本やりでも良かったのではないかと思っています。きょうは「患難」というテーマでメッセージしていますので、「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない」がぴったり来ます。その根拠は何かと言うと、イエスの死とイエスのいのちであります。パウロは死にそうな場面に出会うと、つまりイエスの死にあずかるようなことが起こると、イエスのいのちが現れるというのです。私は「イエスのいのち」こそが、パウロが言うⅡコリント4:7「土の中の宝」ではないかと思います。パウロは「この測り知れない力」と言っています。つまり、イエスのいのちがあるので、死に直面するような場合も、不思議に持ちこたえることができるのだということです。まるで、「おきあがりこぼし」のようであります。倒れそうで倒れない、死にそうで死なない。不思議な力です。
福音書においてイエス様がどのように患難に立ち向かっておられたかを知ることはとても重要です。そのことを知るなら、イエスのいのちがどのようなものなのか分かるからです。イエス様と弟子たちが舟で、ガリラヤ湖の向こう岸に渡ろうとしました。マタイ8:24-26「すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。弟子たちは近寄ってイエスを起こして、『主よ、助けてください。私たちは死んでしまいます』と言った。イエスは言われた。『どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち。』それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。」このところに、驚くべきことが書かれています。イエス様は弟子たちに「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち」とおっしゃっています。まるで、信仰があったなら、嵐を乗り越えられると言っているようなものです。では、イエス様にはどのような信仰があったのでしょうか?第一にイエス様は舟のともの方で嵐の中であっても、眠っておられました。弟子たちはイエス様を突っついて起こしたのではないでしょうか?つまり、イエス様は平安の中におり、ちっとも恐れていないということです。この意味は、イエス様は父なる神のもとで安らいでいたということです。第二にイエス様は自然界に対する権威があったということです。だから、風と湖を𠮟りつけられると、静まり凪になりました。冒頭において、「環境からくる患難は、英語でいうとadversityであり、逆境、苦難、不運、災難です」と申し上げました。イエス様は「逆境、苦難、不運、災難」に対して権威があるということです。「それはそうでしょう?イエス様は神の御子であり、神様だから」と言えばそれまでです。でも、イエス様は「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち」と弟子たちに言われました。ということは、信仰があれば、イエス様と同じようなことができるということになります。そのような信仰を妨げるのは、恐れです。弟子たちは嵐を見て、大波を見て、恐れたのです。そして、イエス様が共におられることを忘れてしまいました。恐れと信仰は一緒に歩むことができません。恐れと信仰は二つとも共通しています。どちらも、まだ見えていないものを見るからです。恐れを選んだなら、信仰は消え去ります。信仰を選んだなら、恐れは消え去ります。鉄でできた船がなぜ、水の上に浮いていることができるのでしょうか?それは、鉄の板が水圧に抵抗しているからです。しかし、鉄の板に穴が開いているなら、そこから水が浸水してきて、船は沈没してしまいます。同じように、私たちは恐れを締め出し、信仰に立っているなら人生が沈没することはないのです。
もう一つは敵対する人々から来る患難です。イエス様は弟子たちにどのように言われたでしょうか?ヨハネ17:12,15「彼らとともにいたとき、わたしはあなたが下さったあなたの御名によって、彼らを守りました。わたしが彼らを保ったので、彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。…わたしがお願いすることは、あなたが彼らをこの世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。」このようにお祈りされてから、イエス様は天にお帰りになられました。しかし、イエス様はご自分の代わりに「別の助け主を送るよ」と言われました。イエス様は弟子たちにとって助け主でした。しかし、イエス様の後には、もう一人の助け主が来るというのです。そのお方こそ、聖霊であります。でも、その聖霊はイエス様と一緒に過ごされていた同じ聖霊です。なんと、その聖霊はイエス様を死からよみがえらせたお方であります。パウロはこう述べています。ローマ8:11「イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリストを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられるご自分の御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだも生かしてくださいます。」パウロがあらゆる患難の中においても、乗り越えることができた理由は、「イエスのいのち」であると言っていました。ですから、私たちが環境や人々によって苦しみを受けるとき、キリストの中にいた御霊が私たちの内側から働いてくださるということです。私たちにはイエスのいのちである、キリストの御霊がおられるということです。この御霊が私たちの内側から私たちを支えておられるので、「四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない」のです。あらゆる逆境や困難がイエス様のいのちが現れる機会となるのです。