2025.1.26「三つの世界観 詩篇104:19-31」

西欧における教会の歴史を見ますと、中世までは創造者なる神を信じていました。宗教改革においても、人生の目的は神の栄光を現すことであるということには一致していました。しかし、科学が発展してくると、「教会が教えていることは間違っているのではないだろうか?」と疑問視されるようになりました。天動説と地動説の逸話は有名です。やがて、啓蒙思想が発展すると、人間が理解しえないことは、作り話か、虚構なんだと聖書の記述を否定するようになりました。

1.理神論の世界観

 かなり前に、A.Eマグラスの“Science & Religion”を半年くらいかけて読んだことがあります。読みかけてまもなく、『科学と宗教』という題の日本語訳が手に入り大変助かりました。最初のポイントでは、その本から所どころ引用させていただきます。古い地球中心の世界観(天動説)では、惑星の運動を説明することはできませんでした。これらの問題は、コペルニクスの地球と他の惑星が円軌道によって太陽の周りをまわっているという主張によって解決されました。「コペルニクス的転回」という言い方がそこから生まれました。その後、ケプラーが、地球と惑星が円軌道ではなく、楕円軌道で太陽の周りをまわるという仮説を立てました。はっきり言うと、中世の教会が考えていた、地球が宇宙の中心に位置しているという考えが覆されたわけです。アイザック・ニュートンは、地球上の物体を支配する一連の原理を設定して、惑星運動の法則を理解しようとしました。りんごを地上に引き付けた同じ力は、ニュートンの考えによれば、太陽と惑星の間でも働いているということです。ニュートンが発見した「万有引用の法則」はとても有名です。ニュートンが示した太陽系力学の勢いは、詩人アレクサンダー・ポープをして、ニュートンの碑文を次のように書かせました。「自然と自然法則は夜の闇に隠れていた。神は言われた。ニュートンよ、あれ。するとすべてが光であった」。ニュートンを持ち上げすぎているような感じがしますが、ニュートンのあと、思わぬ方向に時代が進んでいきました。ニュートン以降、地上と天体の力学の解明によって、宇宙が一定の法則によって動く偉大な機械であると考えられるようになりました。これはしばしば、「機械論的世界観」として言及され、そこでは自然の働きが一定の諸法則によって作動する機械であると説明されます。

 ニュートンの首尾よい機械的世界観は、宗教的展開をもたらしました。自然の法則の正しさの強調は「理神論」の登場を助長することになりました。理神論deismは神を意味するラテン語のdeus(デウス)に由来します。簡単に言うと、神が創造主であることは支持しますが、その被造物への関わりやその臨在を否定するようになりました。批評家たちからは、神を単なる時計製作者におとしめられました。「理神論」という用語は、17世紀後期から18世紀初期の「理性の時代」にイギリスの思想家たちに用いられました。まもなく、神は人間の正義や理性や知恵の延長として理解されるようになります。このイギリスの理神論の考えは、ヨーロッパ大陸(特にドイツ)に浸透しました。啓蒙主義的合理主義は、イギリス理神論から出た芽の最終的な開花と考えられています。引用は以上ですが、理神論においては、宇宙は精密に動く大きな機械であると考えました。神はその機械を造られた創造主です。でも、一度、神の手を離れた大きな機械は、神から与えられた法則によってひとりで動いているということです。世界が巨大な機械であるという概念は、物質主義と運命論の概念であります。それは、神の介入なしに進められ、時計が時計製作者の補助なしに進み続けるようなものです。神を、世界を超えた知的存在者と見せかけて、実際は、世界の摂理や神の支配を締め出してしまいます。「時計製作者」という神のイメージが第二ポイントでお話する「自然主義」へと導き、神はもはや、宇宙においてその役割を続けることはできないものとなります。ニュートンもケプラーも敬虔なキリスト教信者でした。ところが、宇宙の法則を発見してから、人々はアダムとエバのように、神なしでも生きていかれるという道を歩み出してしまったのです。本来なら、「宇宙の法則の背後には、それを造られた偉大な知恵の設計者がいるはずだ」と神を恐れなければなりません。しかしながら、多くの人々にとって天体力学は、世界が自ら支える機械装置であり、日々の作動に神の支配や保持を必要としないと考えるようになりました。

 私たちはたくさんの電化製品に囲まれて生きています。パソコンもその一つで、ハードウェア、ソフト・ウェアー、周辺機器で成り立っています。インターネットにつないで、いろんな情報を得ます。すべての機械に言える事ですが、機械を作ったメーカーさんがいます。私たちは通販で機械を買うことができます。でも、その機械を使っているうちにどこか壊れたりします。あるいは間違った使い方をして、性能をフルに発揮できていないかもしれません。そこで登場するのが、取り扱い説明書です。携帯でもそうですが、買ったと同時に捨ててしまいます。また、保守点検と言うサービスがあります。コピー機もそうですが、費用がかかりますが、問題が起きたらただで修理ができます。17世紀の人たちは、ニュートン以降、宇宙は精密な機械であるとか、大きな時計であるというふうに考えました。でも、永久に動き続ける機械など存在しません。どこか壊れたり、異常をきたすことがあります。つまり、保守点検が絶対必要だということです。第三のポイントでもお話しますが、創造主なる神は宇宙を造りっぱなしのお方ではありません。今も、働いておられ、宇宙の被造物を保持しておられるのです。へブル1:3「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。」欽定訳聖書では、upholding all thingsとなっています。upholdというのは、落ちたり倒れたりしないように支える、サポートするという意味があります。イエス様はヨハネ福音書でこう言われました。ヨハネ5:17「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」アーメン。全宇宙を造られた神様もイエス様も、今に至るまで働いておられます。つまり、この世界は閉ざされた世界ではなく、神様の介入がいつでもあるということです。また、人間は運命論や宿命論の奴隷ではなく、「神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益としてくださる」お方が私たちと共にいらっしゃるのです。

2.自然主義の世界観

 自然主義とは何でしょう?自然主義と自然科学は違います。自然主義の始まりは、理神論ですが、後からやってきた啓蒙主義思想から生まれた世界観です。理神論の場合は、宇宙を創造された神は存在していました。神と被造物との関係が離れている状態でした。しかし、自然主義となると、宇宙を創造された神が分からない、存在すらしないということです。ですから、自然主義を唯物主義とか世俗主義と呼ばれるのはそのためです。では、自然主義はどのように発展していったのでしょうか?2022年2月にKingdom Lifestyle『御国のライフスタイル』という4冊からなる本を翻訳しました。今回のメッセージと次回のメッセージはそれらの本を学んだ結果生まれたものです。ただ翻訳しっぱなしで終わると、その本を読まない人には全く無駄になります。「A4、157ページからなる訳本を読んでください」と勧められても、大多数は読まないと思います。それだったら、それらの本のエッセンスだけでもお分かちしたいということで、メッセージにしました。これまで、数多く主題説教させていただきましたが、その半数近くは、読んだ本を参考にしたものです。引用が多くて、難しくなってしまったのはそのためです。一番恵まれるのは、勉強した私自身でありますが、教会員に恵みを還元するのは牧師として当然のことだと思います。「だれからも学び、死ぬまで学ぶ」というのが、大川牧師からのおことばだからです。ところで、なぜ自然主義のことを説教で取り上げなければならないのでしょう?日本は明治開国以来、学校教育で西洋の学問を取り入れました。西洋の学問の多くは、啓蒙主義の影響を受けた、自然主義の立場に立っています。よく、「宗教は個人的なものなので、政治や教育には宗教を持ち出さないように」と言われますが、これは自然主義の反動から来たものです。教会でも聖書やお祈り、賛美、伝道活動は聖なるものとされています。一方、政治や商売、芸術は俗なるものとみなされています。これも、自然主義の世界観から来たものです。このことは、次回のメッセージで詳しくお話ししたいと思います。

 では、自然主義はどのように生まれ、どのような考え方なのでしょうか?18世紀よりフランスを中心に啓蒙主義が起こりました。一般には、従来の封建社会の中でのキリスト教的世界観に対して、合理的な世界観を説き、人間性の解放を目指した思想と言われています。『御国のライフスタイル』第四巻目ではこのように述べています。人間の理性をもってすれば、物理的な宇宙全体の仕組みを理解できると信じられるようになりました。エデンの園でのアダムとエバが堕落したように、人間の高慢な自身が生まれました。人間は、科学と理性だけで、神のようになり、すべての現実を理解することができるのです。中世のヨーロッパでは、聖書の世界観が文化に大きな影響を与えていましたが、啓蒙主義の出現により、その影響力は弱まり、やがてその地位を失っていきました。少し前に起こった理神論では、神は宇宙の創造主であり、必要な「第一原因」であることに変わりありませんが、神は無関係であるとみなされていました。神は時計を造り、それを巻き上げて、自分で動くようにしたのです。しかし、1789年フランス革命以降、革命家たちが求めたのは、政治的な自由だけではなく、神からの自由、そして公式の国教会の裁量さと権威からの自由でした。啓蒙主義の時代になると、ヨーロッパのマインドは、成熟してきたと言われるようになりました。神は暗黒時代の迷信として徐々に追放されていきました。悟りを開いた人々は、理性と科学によって自然界を十分に理解しました。神や天使や悪魔といった霊的な存在は必要なかったのです。しかし、一つの大きな問題が残っていました。神が存在しないのであれば、物理的な宇宙の存在をどのように説明できるのでしょうか?すべての世界観が包括的であるためには、創造の物語がなければなりません。

1859年、イギリスの有名な植物学者であるチャールズ・ダーウィンがこの疑問に答えました。ダーウィンの名著『種の起源』の中で、創造主である神を排除した究極の起源論を提示しました。ダーウィンは、生物は偶然にできたものであり、その後、突然変異、自然淘汰、時間というガイドされていないプロセスを経て、現在存在するさまざまな生物に進化したと提示しました。ダーウィンの起源説は、欧米の学界で受け入れられ、現在も世界中の学校で教えられています。世界的に有名な英国の科学者リチャード・ドーキンスによれば、ダーウィンは「知的に満たされた無神論者になることを可能にした」と言います。言い換えれば、ダーウィンの理論は、理神論のささやかな創造神を信じる必要性をなくしてしまいました。ダーウィンの理論の結果、新しい世界観の転換が進行しました。理神論に代わって、自然主義が登場したのです。自然主義は、今日、工業国である西欧諸国や、世界中の大学や都市部で支配的な世界観となっています。自然主義(世俗主義、唯物主義、科学主義などと呼ばれることもある)は、宇宙は物理的な物質だけで構成されているという信念に基づいています。自然主義は、宇宙は物理的な物質だけで構成されており、霊的な領域や超自然的な領域は存在しないか、あるいは知ることができないと考えます。物理的な宇宙は「閉じたシステム」です。すべての結果には必ず自然の原因があります。実際、すべてのことは、物質の非人間的な働き、偶然の組み合わせ、相互作用によって説明できるし、そうしなければならないのです。19世紀後半から20世紀にかけて、自然主義はヨーロッパやアメリカをはじめとする世界各地に野火のように広がっていきました。自然主義は、大学や神学校を席巻し、自然科学、法律、ビジネス、経済を支配するようになりました。次週、語りますが、教会にも多大な影響を与えました。

 簡単にまとめますと、理神論のときは創造者なる神は人々の心の中に存在していました。ただし、彼らの神は現実には全く関わりをもたない閉ざされた世界観です。ところが、自然主義になると、その神が存在しなくなったのです。その代わり、自然に宇宙万物ができたと考え、人間も物質の一つになりました。神だけではなく、霊的な存在である天使も悪魔も存在しません。奇跡というものはなく、偶然性と相互作用と結果だということです。そうなると、人間の存在理由とか生きる目的すらもなくなります。なぜなら、神を捨て去ることは、同時に人間の尊厳とか生きる目的すらも捨て去ることになります。自然主義は、ニーチェが言う虚無の時代の幕開けです。

3.聖書の世界観

 次週は自然主義をキリスト教会はどのように対処したのかということを学びたいと思います。このままメッセージを終了しますと、空しくなりますので、「聖書の世界観」で締めくくりたいと思います。先程、詩篇104篇のみことばをお読みしました。この詩篇には、神は天と地を造られた創造主であることが啓示されています。地上にはさまざまな動物が生きています。主は獣に水を飲ませ、人に食べるために作物を生えさせてくださいます。空の鳥やライオン、海に住む生き物にも食物を与えておられます。創造主なる神がいのちの源であり、彼らの息を取り去られると、息絶えて、土の塵に帰ります。しかし、主が御霊を送られると、彼らは創造されます。一番最後に人間が登場しますが、神をこのように賛美しています。詩篇104:33,34「私はいのちの限り【主】に歌い生きるかぎり私の神をほめ歌います。私の心の思いがみこころにかないますように。私は【主】を喜びます。」このところから、人間が造られた目的は創造主なる神を喜び、その神の栄光を現すことであると理解できます。私は、以前は、「神なんかいるものか」とうそぶいて生きてきました。しかし、この詩篇を読むと、創造主なる神のもとで人間らしく生きられることが分かります。私たちは神様の守りの中で、毎日、平安のうちに過ごすことができます。イエス様もマタイ6章で、空の鳥や野の花を父なる神が養っておられると教えています。そして、「ましてやあなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか?信仰の薄い者たちよ」(マタイ6:30)とおっしゃっています。自然主義の世界観では、人間は動物や植物と同じ物質です。彼らは、人間はサルから進化したのだと考えています。生物学では「ヒト」とカタカナで書きます。人間を解剖したら、お猿さんとほとんど変わりないでしょう。彼らは人間とチンパンジーのDNAは99%一致すると言います。ところが、聖書から、人間は自然の一部ではなく、人間は神のかたちに造られた霊的な存在であることが分かります。人間は自然の代理人としての冠を神からいただき、神よりいくらか劣る存在なのです。

『御国のライフスタイル』第四巻目にこのように書かれていました。科学者が広大な宇宙に目を向けると、そこには何が見えるでしょうか。学者のパトリック・グリンによると、彼らが目にするのは、相互に依存し合う無数のパーツやシステムが、驚くべき調和をもって機能している宇宙であり、「生命の存在は、宇宙全体が最初から複雑に微調整されているように見えます」と述べています。また、科学者たちが細胞内の宇宙に目を向けると、何が見えてくるのでしょうか。生化学者のマイケル・ベーエによると、そこには分子でできた非常に複雑な機械が見えていると言います。ベーエは次のように説明します。ベーエ氏は、「いくつかの部品で構成され、そのすべてが(システム全体の)機能に寄与しています。細胞内には、数多くのシステムが存在します。どれか1つのパーツが欠けても、システムは事実上機能しなくなります」と述べています。20世紀の科学界では、植物学者のチャールズ・ダーウィン(1809-1882)が、「すべての生命体はランダムな宇宙で偶然に生まれた」という見解を発表し、一世を風靡しました。しかし、新たな科学的発見は、この理論に大きな疑問を投げかけています。宇宙は、ランダムでカオスなものではなく、相互に依存し合う部分からなる相互作用する全体で構成されており、すべてが調和して機能しているのです。例えば、1つの細胞、人体、生態系、太陽系などです。これは設計者の強力な証拠です。被造物の美しさと複雑さ、つまり何百万もの部品が驚くべき精度と調和をもって一緒に働いている様子を観察するとき、私たちは詩篇104篇24節の作者と一緒に神の偉大さを宣言することができます。「【主】よあなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは知恵をもってそれらをみな造られました。地はあなたのもので満ちています。」アーメン。

私は小学校、中学校と理科の成績が5でした。しかし、高校に入って物理や化学になると赤点ギリギリでした。私の頭は法則や原理には向いていないことが分かりました。それはともかく、小さい頃、進化論を教えられると、その世界観ですべてのものを見てしまいます。進化論は自然淘汰であり、強いものが生き残るということです。言い換えると、能力のあるものが栄え、能力のないものは生きる価値がないということです。能力主義が、落ちこぼれが育ちざかりの子どもたちの心に植え付けられます。昔教育ママという人たちがいましたが、学校の成績が良ければ、人生のエリートコースを歩むことができると考えました。これに対して、神がこの宇宙だけではなく、私という存在をも造られたと知るとどうなるでしょう?学校のペーパー・テストで知りえない、固有の能力が備わっていることを発見します。いや、能力の前に、私という存在そのものに価値があることに気づきます。それまで目が見えることが当たり前でしたが、目が見えることだけでも奇跡です。なぜなら、神が造られた自然界をめでることができるからです。もう一度言いますが、自然科学と自然主義は違います。自然科学は神が造られた物質的な世界を研究することです。広大な宇宙とみても、細胞の小宇宙をみても、知者なる神が背後にいることを認めざるをえません。そこには一定の法則があり、すべてものもが相互に連なっているからです。自分の価値を知ると、今度は、他の人の価値も認めることができます。自分一人でなしえないことを、他の人と協力することによって、もっとすばらしいことができます。映画一本作るのでも、俳優と監督だけではできません。演出家、カメラマン、音声、衣装、照明、大道具、小道具が必要です。最近はCGが大流行りで、彼らの助けも必要です。このようにいろんな人たちの力が組み合わさって一つの映画ができます。これは創世記1章にある「種類ごとに」という表現と同じです。私たちは多様であることを尊重することができるのです。進化論に立った学校教育では単一で、限られた能力しか開発できていないことを知るべきです。日曜学校に子どもを送る親御さんがいます。でも、中学になって洗礼を受けることを反対し、教会にも行くことを禁じます。なぜでしょう?ものの考え方が狭くなるというのです。もっと、広い世界があるので偏ってはいけないと言うのです。それは全く逆であると言えます。伝道者の書12:1「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。」若いうちに創造者を知り、聖書の世界観を持つことが最も重要なことなのです。