きょうは、「教会が何のために存在しているのか」ということを学びたいと思います。これは、あまりにも大きなテーマであり、あまりにも漠然としているかもしれません。聖書は救いの歴史でありますが、その中に答えがあると思います。実は、アブラハム、イスラエル、そして教会には共通した存在理由があることを発見しました。もし、このことを発見したなら、私たちはもっと大きな視野から教会あるいはクリスチャンとしての務めが理解できると思います。
1.アブラハムとイスラエル
なぜ、主がアブラハムを召したのでしょう?アブラハムはどのような存在なのでしょうか?その前に、創世記1章から復習したいと思います。創世記1章は天地創造、2章は人間の創造、そして3章は堕落です。創世記6章から9章は洪水です。人々が増えた後、主は地上に悪が増大しているのをみて、地上に人を造ったことを悔やみ、洪水によって人を地の面から消し去ろうとしました。大洪水の後、ノアとその家族だけが生き残り、ノアの子孫が増えていきました。創世記11章はバベルの塔です。人々が地の全面に散らされました。創世記12章はアブラハムの召命です。主はカルデアのウルに住んでいたアブラハムを召し出しました。創世記12:1-3「主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」その当時はまだアブラムという名でしたが、便宜上、アブラハムとさせていただきます。アブラハムの召命の中に、イスラエルと教会の存在目的が記されています。アブラハムは大いなる国民となり、祝福となることが約束されています。でも、それだけではありません。「地のすべての部族は、あなたによって祝福される」と書かれています。端的に言いますと、アブラハムの子孫を通して、世界の国々を祝福するということです。これは、神様の地上の人々に対する、再生計画であります。ノアの洪水によって古い時代の人たちはすべて滅びました。そのあと、主はアブラハムを選んで、みこころにかなった世界とその国々を造ろうとお考えになったのです。
アブラハムはやっとのことで約束の子、イサクを儲けることができました。アブラハムが召されたときは75歳でしたが、イサクが誕生した時は100歳でした。アブラハムは、信仰が試され、ものすごい、試練を通らされました。イサクの後に誕生するのが、エサウとヤコブです。主はヤコブを選ばれました。ヤコブからイスラエルの12部族が誕生します。しかし、そう簡単にはいきませんでした。イスラエルはエジプトの地で400年以上、奴隷として苦しむことになります。そそのことは創世記15章で預言されていましたが、合計、430年になりました。出エジプト記を見ると、モーセによってエジプトから奇跡的に脱出できたことが記されています。イスラエルはアブラハムがそうであったように、すべての国々の祝福となるように召されていました。そのことは、出エジプト19章に記されています。出エジプト19:4-5「『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである。」イスラエルが召されたわけが、このところにはっきりと記されています。「あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」とあります。これは、イスラエルをとおして、全世界の国々を祝福するということです。言い換えると、イスラエルは祭司の王国なのだということです。祭司というのは、神様と人々の間に立つ、仲介者のことです。すばらしい特権をイスラエルの民が神様からいただきました。
ところが事件が起こりました。モーセがシナイ山で40日40夜、十戒をいただいている間、イスラエルの民が大いなる罪を犯していました。なんと金の子牛を取り囲んで、踊ったり歌ったりしていたのです。モーセはその有様を見て、せっかくいただいた石の板を投げ捨て、山のふもとで打ち砕きました。そして、金の子牛を取って火で焼き、粉々に砕きました。そのあと、なんと言ったでしょう?出エジプト32:25-29そこでモーセは宿営の入り口に立って、「だれでも主につく者は私のところに来なさい」と言った。すると、レビ族がみな彼のところに集まった。そこで、モーセは彼らに言った。「イスラエルの神、主はこう言われる。各自、腰に剣を帯びよ。宿営の中を入り口から入り口へ行き巡り、各自、自分の兄弟、自分の友、自分の隣人を殺せ。」レビ族はモーセのことばどおりに行った。その日、民のうちの約三千人が倒れた。モーセは言った。「あなたがたは各自、その子、その兄弟に逆らっても、今日、主に身を献げた。主があなたがたに、今日、祝福を与えてくださるように。」長い話を短くすると、レビ族が偶像礼拝をした民を殺しました。そのことによって、レビ族がイスラエルの民を祝福する祭司になったということです。そのあとに書いてあるレビ記にはレビ族が祭司の務めをしている様子が克明に記されています。本来、イスラエルは全世界の国々を祝福する祭司の国となるように召されていました。ところが、契約を破ってのち、縮小され、レビ族がイスラエルに対する祭司になったということです。イスラエルが諸国のためではなく、自己充足的な国になったということです。この先、イスラエルの歴史がずっと続きますが、ご存じのように北イスラエルはアッシリアに滅ぼされ、南ユダはバビロンによって滅ぼされます。ユダは70年後バビロンから帰還することができました。
詩篇67篇には、アブラハムの子孫であるイスラエルの存在目的が記されています。詩篇67:1,2「どうか神が私たちをあわれみ祝福し御顔を私たちの上に照り輝かせてくださいますように。あなたの道が地の上で御救いがすべての国々の間で知られるために。」イスラエルが祝福されるのは、地の上に住む、すべての国々が神様をほめたたえるためです。主の計画は、イスラエルを通して、すべての国々を祝福し、救おうとされたのです。
2.イエス・キリストと弟子
イエス様が大勢いる弟子たちの中から、12人を選びました。マルコ3:13-15「さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た。イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。それは、彼らをご自分のそばに置くため、また彼らを遣わして宣教をさせ、彼らに悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。」なぜ、12人なのでしょうか?ご存じのように、イスラエルは12部族でした。イエス様は新しいイスラエルを作るために12人を選ばれたのだと思います。イエス様が12人を選ばれた理由は2つあります。1つは滅びたイスラエルを回復するためです。もう1つは12人が全世界に出て行って御国の福音を伝えるためです。新約聖書で最も有名な大命令が2つ記されています。正確には「大命令」ではなく、「大使命」と呼んだ方が良いかもしれません。マタイ28:19「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」欽定訳聖書は、“Go therefore and make disciples of all the nations”となっています。日本語聖書は「あらゆる国の人々」ですが、KJVは“all the nations”となっています。国はいわゆるcountryではありません。countryはどちらかと言うと、国家という意味です。一方、nationは人種、人々、民族という意味です。例えば、エチオピアは国家ですが、100近くの民族が存在しています。「nationsあらゆる国の人々」というとき、国境で区分けされた国々ではなく、あらゆる民族、あらゆる種族というふうに考えるべきです。イエス様の願いは、洗礼を受けて個人が救われるだけではなく、国全体、民族全体が救われることです。もちろん、個人がイエス様を信じて生まれ変わるということが基本です。でも、教会が受洗者の数や教会の大きさだけを求めていると、本来の目的を見失ってしまうということです。自分たちだけを祝福を求めた、かつてのイスラエルと同じになってしまいます。
もう一つの大命令は、マルコ16章に記されています。マルコ16:15それから、イエスは彼らに言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい。」私たちはこのところを、「大宣教命令」と呼んでいます。つまり、人々に福音を伝え、救いに導くということです。しかし、このみことばを読むと目を疑うようなことが書かれています。「人々」とは限定していません。イエス様は弟子たちに、「すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と言われました。欽定訳は“Go into all the world and preach the gospel to every creature”です。every creatureですから、「すべての被造物に福音を宣べ伝えよ」ということになります。アダムとエバが罪を犯してから、人間だけではなく、動物も植物も土地も呪われてしまいました。パウロはローマ8章でこう述べています。ローマ8:19-22「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます。被造物が虚無に服したのは、自分の意志からではなく、服従させた方によるものなので、彼らには望みがあるのです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由にあずかります。私たちは知っています。被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。」かつて、罪を犯す前、アダムとエバは、園を管理していました。また、創世記1章の後半にはこのように書かれています。創世記1:28「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」支配というのは、神様の代理人として被造物を管理しなさいということです。しかし、このことは全くなされていません。まるで人間だけが地球上の生き物かのように振舞っています。動物を追いやり、地下資源をあさり、森林伐採、CO2温暖化、汚染物質をまき散らしています。人間自身も動植物も、遺伝子が狂ってきています。医学では克服できない、難病やウィルスが増え続けています。まさしく、「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。」
聖書で最も有名な聖句はヨハネ3章16節と言われています。私たちは何度この箇所を読んだことでしょう。でも、意外なことが言われています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」私たちはこの聖句を読むたびに、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世の人々を愛された」と意訳してしまいます。しかし、ここには「世」と書いてあって、「世の人々」とは書かれていません。私たちはマルコ16章と同じように、被造物は人間であり、世というのも人間であると読み込んでしまいます。欽定訳は“For God so loved the world that He gave His only begotten Son“となっています。the worldと書かれており、peopleとは書かれていません。繰り返しますが、イエス・キリストによる贖いは、人間だけにとどまらず、世界全体にまで及ぶということです。私は「だから、犬や猫も救われる必要があります。彼らも天国に行けます」と言っているわけではありません。そこまでは言いませんが、御国、つまり千年王国においては動植物の回復も約束されていることは確かです。イザヤ35:1,2「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び躍り、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う。」イザヤ66:25「狼と子羊はともに草をはみ、獅子は牛のように藁を食べ、蛇はちりを食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、滅ぼすこともない。」
イエス様が新しいイスラエルである12使徒を選ばれました。そして、12使徒に対して、マタイ28章とマルコ16章の大使命を与えられました。この大使命は使徒たちだけではなく、私たち教会もその大使命を負っています。なぜなら、教会は預言者と使徒たちの教えの上に立っているからです。そして、目が開かれるべき要素は、個人がイエス様を信じて救われるところで終わってはいけないということです。国全体がイエス様の弟子になり、被造物全体が回復されるように働きかけるという使命があるということです。もし、「自分の教会だけが祝福され、数的に大きくなることだ」と考えるなら、イスラエルと同じような罪を犯してしまいます。日本の教会は「いや、数が増えないとどうしようもない」と言うでしょう。でも、神様が定めたゴールを目指さないので、聖霊が働いてくださらないのも事実です。もし、みことば通り、神様が定めたゴールを目指していくなら、結果的に教会は成長すると思います。
3.新しいイスラエル
私たち教会は新しいイスラエルと言うことができます。なぜなら、新しいイスラエルの12使徒たちの教えを受け継いでいるからです。その根拠となるみことばを紹介したいと思います。Ⅰペテロ2:4-5「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。」「人には捨てられたが神に選ばれた尊い生ける石」とは、イエス・キリストのことであります。なぜなら、ご自分の民を救うために来られたイエス・キリストをイスラエルが捨てたからです。イスラエルがつまずいたので、異邦人の私たちが救われることになりました。そして、イエス様が私たちの救い主、主になってくださったのです。かつて、「主(ヤーウェ)」と言えば、イスラエルの神様の呼び名でした。しかし、新約においてはそうでありません。主(キュリオス)は、イエス・キリストになられたのです。ピリピ2章には復活昇天されたイエス様が「天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が『イエス・キリストは主です』と告白して、父なる神に栄光を帰するためです」と書かれています。私たちも堂々と、神様を父と呼び、イエス様を主と告白することができるのです。ペテロが言っている「生ける石」とは神殿のことです。かつての神殿は無機物の石で造られていました。しかし、新約においては私たちが「生ける石」であり、私たちが組み合わさって、生ける神殿を造っているのです。パウロも「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)と言っています。つまり、私たち個人もそうですが、私たち個人、個人が組み合わされると大きな神の神殿になるということです。そして、かつてはレビ人が神殿に仕える祭司でしたが、新約においては、私たちクリスチャンが神に仕える祭司だということです。マルチン・ルターが「万人祭司」と言ったのはそのためです。
さらに、ペテロはこう述べています。Ⅰペテロ2:9「しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。」まさしく、私たちクリスチャンが新しいイスラエルであると言われています。元来、神の民でなかった異邦人が「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」と言われています。なんという特権でしょうか?ここで最も、注目されることばは「王である祭司」です。旧約聖書では王様と祭司は別々の職制であり、別々の使命がありました。王様は国を治め、祭司は国のためにとりなしをするということです。「王なる祭司」となると、国を治めつつ、神のためとりなすということです。言い換えると、クリスチャンは教会内で神を礼拝し祈るだけではありません。それぞれの場に遣わされ、神の知恵と導きをいただきながら治めるということです。私たちが治めるべき山とは、「家庭、教育、医療、政治、ビジネス、芸能マスコミ、宗教」の七つの山です。
しかし、私たちクリスチャンのこの世における使命を妨げるものが二つあります。第一は西暦313年コンスタンティヌスからきた制度としての教会です。第二はアメリカのリバイバルから来た、魂の回心だけを目的とした教会です。ただ今(2025.1.17)“Pagan Christianity?”という本を訳しています。少し前に『異教まみれのキリスト教』という題で出版されました。葛西の松田健太郎牧師が訳し、渡辺亨牧師がそれを宣伝しています。私は三分の二を訳しましたが、「これは大川牧師には送れないなー」と思いました。なぜなら、現在の礼拝堂、日曜礼拝、説教、牧師、洗礼、主の晩餐をことごとく聖書的ではないと酷評しているからです。悪書とは言いませんが、宗教改革以降、大事だと思ってきたことが、コンスタンティヌスやローマ・カトリックの焼き直しだと述べていることです。きょうは時間がないので、教会史における「王である祭司」を妨げている2つのことを述べたいと思います。
第一はコンスタンティヌスとローマ・カトリックからきた、聖職者階級制度です。彼らは司教や司祭と言われる聖職者と一般信徒を二つに分けました。一般信徒はlaymanと呼ばれ、「専門的な知識のない人たち」という意味です。「彼らは聖職者が述べる説教を、ベンチに座ってただ聞いていれば良い」と思われていました。ところが、16世紀、宗教改革が起こり『万人祭司制』が聖書から再発見されました。でも、それは教義上のことだけで、実際は聖職者と信徒の区分はそのまま残りました。教会から任命された聖職者だけが説教をし、聖餐式、洗礼式を執り行うことが今も定められています。牧師は聖書に1か所しか書かれていないのに、すべての権威をもって、受動的な信徒を生み出しているというのです。しかし、私はいつでも「奉仕をするのは聖徒たちであり、牧師はコーチのような存在である」と言っています。また、「奉仕は教会堂内だけではなく、それぞれ遣わされた場所で、行うミニストリー(神からの奉仕)である」と言っています。
第二はアメリカのリバイバルから生まれた、回心だけを説く教会です。D,L,ムーディやビリー・グラハムはすばらしい伝道者です。ところが福音派の人たちは、人がキリスト信じて救われて、教会に来ることだけを目標にしてきました。それだけだと、神さまが教会に抱いている計画全体を見失うことになります。マタイ28章では「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と命じられていました。これは魂の回心だけにとどまらず、国全体、民族全体がキリストの弟子になるということです。聖書の価値観がゆきわたり、「主を知ることが、海をおおう水のように地に満ちる」(イザヤ11:9)ことです。また、マルコ16章には「すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」とありますので、被造物全体にまで、神の祝福が及ぶということです。ホリスティックということばはありますが、自然を含め、全人格的な救いです。もちろん、完成は千年王国(御国)を待つしかありません。しかし、イエス様は「御名があがめられ・・・御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように」祈り、働きかけなさいと言われました。私たちは御国を待つ存在でありますが、同時に、この地に御国をもたらすように召されている「王なる祭司」なのです。教会は私たち自身のことであり、建物や制度ではありません。あなたが教会です。