2025.1.12「旧約聖書の主の御姿 イザヤ53:1-6」

きょうは膨大な量である旧約聖書をざっくり分けて、三種類の主の御姿を取り上げたいと思います。かなり乱暴な挑戦であり、旧約聖書を専門とする学者たちからお叱りを受けるかもしれません。残念ながら、神学校の教授たちは教える賜物がありますが、使徒や預言者の賜物がありません。そうなると、「木を見て、森を知らず」になってしまいます。聖書は各部分も大切ですが、遠くから全体を見る必要もあります。

1.裁判官なる主 

裁判官なる主とは、言い換えると罪を犯した者に、公正を求める主のことであります。「公正」ということばが多く用いられているのは、エレミヤ書とアモス書でしょう。彼らはユダあるいはイスラエルの末期に用いられた預言者です。その当時の国々の王たち、祭司たち、預言者たちも堕落していました。主のさばきがそこまで近づいているのに、彼らは悔い改めて、主に立ち返ろうとしませんでした。それにも関わらず、主はご自分のしもべである預言者を立てて、うなじのこわい民たちに、何度も警告するのであります。異邦人クリスチャンである私たちが預言書を読むと、退屈で、いい加減嫌になります。ついには、二つの疑問が浮かび上がります。「イスラエルはなんて愚かなんだろう!あれだけ言われているのに悔い改めないとは」です。もう一つは「なぜ、主はそのように厳しいお方なのだろう。厳しい検事か裁判官のようだ」と思うでしょう。私たちは新約時代の恵みの中に生きているので、その理由はわかりません。イスラエルの民の心の中には聖霊が住んでいなかったのです。霊的に生まれ変わっていなかったので、何べん言われても言うことをきかないばかりか、同じ罪を犯してしまったのです。旧約聖書の神様はきびしい神様で、新約聖書の神様は優しくて憐み深いと考えるのは早計です。同じ神様なのですが、イスラエルが神の民として選ばれていたので、厳しかったのです。多く神様からゆだねられている人は、それだけ多く果たすべき責任もあるということです。

それでは「公正」という言葉がでてくるいくつかの聖書箇所を開きたいと思います。アモス5:24「公正を水のように、義を、絶えず流れる谷川のように、流れさせよ。」少し古い訳は、公正ではなく、公義でした。ヘブル語では、ミシュパットです。ミシュパット「さばき、公正、定め、判決、法廷、手つづき、判決文、裁きの執行、正しさ、決定」という幅広い意味があります。「公正」を意味する用語です。いわゆる「義」とどこが違うのでしょうか?義はツェダカーと言いますが、「義、正義、公義、正しさ」であります。ほとんど変わらないですが、ミシュパットは「公正」は、どちらかと言うと、裁判的な要素が強く含まれています。簡単に言うと、「正しい裁判をせよ」ということです。一方、義「ツェダカー」は、「正義を行え」ということでしょう。前者は司法権であり、後者は行政権であり、正しい政治をしなさいということでしょう。旧約時代は王が司法権と行政権を持ち、祭司や預言者、高官たちが王を支えていました。本来なら、王に対して「それは律法に反していますよ」と祭司や預言者が言うべきなのですが、一緒になって裁判を曲げ、正義を踏みにじるような政治をしていたのです。ですから、主はエレミヤやアモスを遣わすしかなかったのです。でも、彼らのいうことはことごとく否定され、偽預言者たちのいうことだけが、受け入れられました。「他の民たちは何をしているんだろう?」と言いたくなりますが、トップが腐敗していると、民全体にそれが広がっているようです。サムエルは、かつて「他の国々のように、王をたてると、ひどいことになるよ」と警告していたのに、まさしくイスラエルとユダはそのようになっていきました。

ここで私たちが学ぶべきことは、主は私たちに、公正と義を求める神様だということです。言い換えると、主はまことの裁判官であり、私たちの罪をさばくお方だということです。みなさんの中に、「主が正しい裁判官であることが、私の喜びです」という方はおられるでしょうか?おそらく、そういう人は公義がなされていない環境で育ってきた方ではないでしょうか?家庭において父や母が正しく治めてくれなかった。彼らは他のきょうだいに、えこひいきして、私はないがしろにされたという人はいないでしょうか?学校において、私が悪くないのに一方的に罰を受けたという人はいないでしょうか?あるいは一般社会において理不尽な扱いを受け、ひどい目にあったという人もいるかもしれません。そういう人は「神様が不正を暴き、公平なさばきをしてくださる」ということが至上の喜びではないでしょうか?ローマ人への手紙12章に、預言、奉仕、教え、勧め、分け与え、指導、慈善と7つの賜物が出てきます。これは生まれながら与えられた、性格的なものです。そのようなことに興味がわき、それを行うと喜びを覚える動機的な賜物です。「主が公正を裁き」と与えるということを知って喜ぶ人は、おそらく「預言」の人でしょう。この人は預言者ではありませんが、預言者のようにものごとを見る人です。善か悪か、白か黒か、分けたがります。そこに不正や間違いがあるなら、指摘し、正さずにはおれないタイプの人です。そのため、人々からその人は煙たがられます。間違いや罪を正された人は、「なんなんだ、この人は、律法的じゃないか!」と思い、その人からできるだけ遠ざかろうとするでしょう。結果的に、預言の賜物を持つ人は、孤独であり、孤立する場合があります。

でも、このようなタイプの人がいないと、世の中が腐敗していきます。教会も「赦しと愛」だけでは、神の御旨の内を歩むことができません。ペテロは預言的なタイプの人です。ペンテコステの日、大勢の人たちが集まりました。その時、ペテロが彼らにチャレンジしました。「それぞれ罪を赦していただくために、悔い改めて、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。…この曲がった時代から救われなさい」と彼らに勧めました。ペテロは公正で義であられる神様の心をもって彼らにチャレンジしたのです。私たちが礼拝する神様は、「裁判官なる主」です。神様は私たちの訴えをお聞き下さいます。ルカ18章に正しい裁判を求めるやもめの記事があります。ルカ18:7、8「まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は彼らのため、速やかにさばきを行ってくださいます。」義に植え渇く者は幸いです。

2.弁護者なる主 

 弁護者なる主とは、有罪であると訴えられている人を弁護したり、擁護してくださる主であります。交通事故もそうですが、100・ゼロということはほとんどありません。同じようにいくら悪いことをしたと言われても、故意でなく、無知や過失の場合もあるからです。私は小学校、中学校、高校と数多く先生から叱られ、罰を受けました。小学校のときは水の入ったバケツを授業中に持たされたこともあります。中学では体育の先生からお尻を蹴られたことが何度もあります。高校では、破廉恥な犯罪人のように言われました。教師らの目は、犯罪人を見る目であり、ひとかけらの同情もありませんでした。ある時、高校のカウンセラーの前に連れていかれたことがあります。その先生の対応には全く驚きました。私の罪を責めるのではなく、こう言いました。「秋田というところは天候が不順で、今日のような快晴の日は、一年で55日しかないんだよ」と言いました。私はお叱りを受けると思っていましたが、豆鉄砲くらった鳩のように、部屋を出て行った記憶があります。50年後、修学旅行の写真を整理していたら、その先生も一緒に写っていました。私は家庭でも、学校でも不当な扱いを受けました。確かに私も我儘で悪かったかもしれません。でも、こちらの言い分とか、正当性はほとんど聞き入れてもらえませんでした。しかし、聖書に主は弁護者であり、擁護者であると知ったとき、無情の喜びに満たされました。ちなみに「擁護者」は英語で、vindicatorであり、「…に対する非難(疑い)を取り去る、汚名や嫌疑などから免れさせる」という意味があります。旧約聖書の詩篇には、弁護と擁護が交互に出てきます。

 詩篇35:24新改訳第三版「あなたの義にしたがって、私を弁護してください」欽定訳は、“Vindicate me, O Lord my God, according to Your righteousness”となっています。おそらく、聖書の弁護は、擁護という両方の意味が含まれているのでしょう。ダビデはこのように叫んでいます。詩篇26:1「【主】よ、私を弁護してください。私は誠実に歩みよろめくことなく【主】に信頼しています。」欽定訳はVindicate me, O Lord.となっています。ヘブル語の聖書は、「裁く、裁きを行う」という意味のことばが用いられています。ですから、ダビデは私のために「正しくさばいてください」と主に訴えているようです。ダビデはサムエルから次期イスラエルの王として油注ぎを受けました。彼はサウル王のもとで戦い、勝利を重ねました。ところが、ある時、娘たちが、「サウルは千を打ったが、ダビデは万を打った」と歌いました。それを聞いた、サウルは激しい妬みに燃え、ダビデの命を狙おうとしました。ある時、ダビデが王室で竪琴を弾いていると、サウルから投げ槍が飛んできました。ダビデは身をかわして逃れることができました。それ以来、ダビデは荒野や洞窟を逃げ回りました。どこへ逃げても、サウルの追手が迫り、13年間も逃亡生活を余儀なくされました。詩篇の多くには、ダビデの嘆きと叫びと祈りが記されています。どうして、神様はダビデにどのような苦しみに会わせたのかわかりませんが、確かに言えることは、不当な扱いを受ける私たちのためでもあったということです。ダビデのように苦しみや悩みから主によばわると、弁護者なる主から、逃れの道が与えられるという約束があります。

 ダビデがサウルの手から救い出された日に、このように賛美しました。詩篇18:1-3「わが力なる主よ。私はあなたを慕います。主はわが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。ほめたたえられる方。この主を呼び求めると私は敵から救われる。」詩篇には、巌、砦、岩、盾、救いの角、やぐらという言葉がたびたび出てきます。これらをまとめると、私たちを弁護し擁護してくださる神様をイメージすることができます。特に「救いの角」というのは深い意味があります。幕屋や神殿の祭壇の四隅に造られた角のような突起があります。その4つ角に動物のいけにえの血が塗られました。また、その角は逃れの場でもあったということです。ダビデはサウル王を殺すチャンスが二度もありました。しかし、「主に油注がれた者を手にかけてはならない」とそれを恥じてやめました。そして、正しくさばかれる方にいつもゆだねたのです。神様が訴える者から守ってくれる巌、砦、岩、盾、救いの角、やぐらであると理解している人は何と幸いでしょうか?

 新約聖書を見ると、イエス様がまさしく、弁護者であり擁護者であることが分かります。ルカ7章にこのような物語が記されています。ある時、イエス様がパリサイ人の家に招かれて食事をしていました。すると、一人の罪深い女性が、そのところにやって来て、イエス様の足を涙で濡らし、髪の毛でぬぐいました。さらには、自分の髪の毛でぬぐい、イエス様の足に口づけをして香油を塗りました。それを見ていたパリサイ人は「この人がもし預言者だったら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っているはずだ。この女は罪深いのだから」と心の中で思いました。イエス様は彼に、借金を帳消しされた人のたとえを話してから、どちらが多く金貸しを愛しますか?と質問しました。彼は「より多くを帳消ししてもらった人です」と答えました。ルカ7:44-47それから彼女の方を向き、シモンに言われた。「この人を見ましたか。わたしがあなたの家に入って来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、彼女は涙でわたしの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐってくれました。あなたは口づけしてくれなかったが、彼女は、わたしが入って来たときから、わたしの足に口づけしてやめませんでした。あなたはわたしの頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、彼女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」

 パリサイ人たちは彼女が犯した罪をあざわらっていました。一方、イエス様は彼女の心に確かな悔い改めと神からの赦しがあり、その証拠として、このようなことをしたのだと理解していました。イエス様は恥に恥を加えるのではなく、彼女の罪を覆ってあげ、彼女に「あなたの罪は赦されています」(ルカ7:48)と言いました。彼女は赦されるためにしたのではなく、赦されたことの感謝のしるしにそのようなことをしたのです。旧約聖書の主と新約のイエス様とは、矛盾していません。どちらも、私たちの誠実な心を汲んでくださり、弁護してくださるお方です。私たちはこのようなお方を知ると、ますます、神の前に誠実に歩みたくなるのです。

3.贖い主なる主 

 贖い主なる主とは、言い換えると罪をさばく神の義とさばかれて当然の罪ある人間の両者に立つ贖罪者です。イザヤ53:5-6「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、【主】は私たちすべての者の咎を彼に負わせた。」この箇所は、「苦難のしもべ」と言われている有名な箇所です。でも、ユダヤ人はこの方がイエス・キリストのこととであるとは全く理解していませんでした。それに、なぜ、神様が私たちの罪を負って苦しみ、むごい死に方をするのか、理解できなかったと思います。その理由は、イザヤ書全体のテーマが「主は聖である」ということだからです。イザヤ書1章から読むと分かりますが、イスラエルの神、主は、罪をさばかずにはおれない聖なるお方です。イザヤは南ユダの罪をことごとくあばき、さばいている書物です。とくに、イザヤ書1章から39章は罪の告発とそのさばに満ちています。ところが、不思議なことに、イザヤ書40章以降から66章までは、贖いと回復のメッセージに変わっています。ある学者たちは、「そんなのありえない、これは別の著者だ」と言うくらいです。でも、保守的な神学者は「このことがあるからすばらしいのだ。イザヤ書は第五福音書である」と言います。では、どうして、そのように変化したのでしょうか?おそらく、神様は、いくら罪を責めても無駄であるということが分かったのではないでしょうか?それだったら、苦難のしもべであるメシアを遣わして、これに罪を負わせて、罪を赦すしかないとお考えになったのではないかと思います。神様が無知であったというのではなく、人間がそれ以上に救いようがなかったということでしょう。

 常識から考えると、裁き主である裁判官が、弁護士になったり、さらには贖い主になるということを理解できません。裁判官が「罪あり」と有罪判決を下しました。そのあと彼は席を立ち、犯罪者の罪を身代わりに負い、処罰を受けるようなものです。私たちは三位一体の神様を信じていますが、父なる神と子なる神はまったく別のお方ということではありません。裁判官が父なる神とします。子なる神が私たち人類の罪を負って、さばかれるとき、それは他人事なのでしょうか?私はそうではないと思います。父なる神と子なる神が同格であり、同じ命を持っているからこそ、罪を身代わりに受けることができたのだと思います。イエス様は十字架上で苦しみ死なれましたが、それは父なる神も同じように苦しまれたのだと思います。そのことは、福音書からもわかります。イエス様が十字架につけられたのが午前9時でした。ところが、12時から午後3時まで闇が全地を覆った(マタイ27:45)と書かれています。ウェブにある方の説明が記されていました。当時、パレスチナからはるか遠く小アジア半島にフレゴンという人がいました。彼は日記をつけるのが趣味という人でした。彼は「第202回のオリンピック大会の第4年目、日食が起こった。それは古今未曾有の大日食であった。昼の第6時(すなわち正午)、星が見えるほどの夜となった。ビテニアに起こった地震でニケヤの町の多くの建物が倒壊した」と記しています。これは、日食ではありません。過ぎ越しのときは満月なので、そういうことはありえないそうです。天文学的には説明できませんが、歴史的には実際に起こったことのようです。ヨエル書はこのように記しています。ヨエル2:31-32「【主】の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽は闇に、月は血に変わる。しかし、【主】の御名を呼び求める者はみな救われる。」まさしく、罪の贖いが完了し、主の御名を呼び求める者はみな救われる恵みの時代が到来したということです。

 しかし、イザヤ書61章読むと、主の贖いは罪の赦しだけにはとどまらないことが分かります。本当の贖いとは、プラスマイナス・ゼロになるのではなく、損なわれたものが倍になって返ってくるということです。イザヤ61:3,7「シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、【主】の植木と呼ばれる。…あなたがたは恥に代えて、二倍のものを受け、人々は侮辱に代えて、その分け前に喜び歌う。それゆえ、人々は自分の地で二倍のものを所有し、とこしえの喜びが自分のものとなる。」これは、千年王国(御国)の預言と言われています。でも、イエス・キリストを信じて、罪が贖われた者は、この地上においてもその何割かを味わうことができます。

 最後に、旧約聖書において主のあわれみを述べている聖書箇所を引用して終えたいと思います。哀歌3:22-23実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。それは朝ごとに新しい。「あなたの真実は偉大です。」この聖句は、賛美にもなっているくらい有名です、「あわれみ」は、ヘブル語で「ヘセド」であり、神学的には「契約の愛、条件的な愛」のことです。英語ではmercy(あわれみ)、kindness(善)です。「あわれみの愛」は、旧約聖書の神の愛と言うことができます。ルカ18章に書いてありますが、取税人が神殿で「罪人の私をあわれんでください」と祈りました。しかし、これは厳密には旧約時代の祈りです。ローマ・カトリック教会では、「キリエ・エレイソン(主よ、あわれみたまえ)」と賛美します。問題は「新約の私たちがこのように、主のあわれみを求める必要があるか」ということです。以前、高木慶太師の『信じるだけで救われるか』と言う本から引用したことがあります。キリストの十字架そのものが主のあわれみであり、罪人の私たちをあわれんでくださったのです。十字架による罪の贖いが完成した今は、主のあわれみを引き出す祈りはしなくて良いということです。だから、ヘブル書の記者はこう言っています。「ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:16)。

 主のあわれみはキリストあってすでに注がれていることを感謝します。私たちの罪は完全に贖われ、義と認められているのです。罪の負い目はもうないのです。だからと言って、罪を犯さないということではありません。私たちは罪を犯す罪人ではなく、罪を犯すことはあるけど義人なのです。主のあわれみは、キリストの贖いによって、アガペーの愛、無条件の愛になっていることを感謝します。私たちは主の恵みによって、無条件の愛を受けつつ、生活したいと思います。