私たちが救いを受けてから、どのようなことをすべきか三回にわたって学んできました。そのあと、いろんなことがあるのですが、いざ話すと、これまで説教で話したことと重複してしまいます。それよりも、第四回目は総括的なことを話して、このシリーズの締めくくりとしたいと思います。きょうは、「成熟を目指して」という題で、エペソ3章後半のパウロの祈りから、3つのポイントで学びたいと思います。
1.内なる人が強められるように
パウロの祈りがエペソ3章14節から記されています。まず、最初の動詞にあたるものを調べたいと思います。エペソ3:15「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。」いろんな修飾語がありますが、文章を理解するためには主動詞がどれかということを見つけ出さなければなりません。主語が「御父」です。何が主動詞でしょうか?「内なる人が強められるように」ということです。強めてくださるのは、御霊であり、御霊の力です。肉体を強靭にするためには、運動とか食べ物です。この世では、肉体に関することが主でありますが、パウロはそうは言っていません。「内なる人のことを気に掛けなさい」と言っています。パウロはⅡコリント4章で外なる人と内なる人の二つに私たちのことを分けています。Ⅱコリント4:16「ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。」外なる人というのは、私たちの肉体です。パウロは肉体を幕屋(テント)にたとえています。一方、内なる人というのは、私たち自身のことであります。外なる人である、肉体は私たち自身の入れ物ということになります。パウロははっきりと書いてはいませんが、内なる人というのは、私たちの霊と魂のことではないかと思います。霊と魂をまとめて、「内なる人」と呼ぶのだと思います。霊魂と言うと、ちょっと異教的な響きがしますので、「内なる人」で良いと思います。
では、私たちの内なる人をだれが、どのように、どうなるように強めてくださるのでしょうか?エペソ3:15「どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。」私たちの内なる人を強めてくださる、根本的なお方は父なる神様です。神様が「その栄光の豊かさに従って」と書かれています。父なる神様はあらゆるものの源であられます。このお方が神の霊、御霊を私たちに送ってくださったのです。御霊と呼ぶ場合、それは私たちの内におられる聖霊のことです。聖霊が力をもって私たちに働いて、私たちの内なる人を強めてくださるということです。聖霊にはどのような力があるのでしょうか?ローマ8章には、「いのちの御霊」として紹介されています。いのちの御霊はどんなことに働いてくださるのでしょうか?ローマ7章からの流れから考えると、それは肉の法則に勝たせてくださる力です。私たちは古い人に死んでおり、律法からも解放されている存在です。でも、律法が近くにあると、古い人の残りかすである肉が反応してしまいます。「するな」と言われれば、したくなるし、「せよ」と言われれば、したくなくなります。まるで、天邪鬼を内に飼っているような状態です。もちろん、私たちの意志力で肉を封じ込めて、従わせることも可能です。そういう真面目なクリスチャンが私たちの周りに結構いらっしゃいます。そういう人は、自分にも厳しい代わりに、他の人にも厳しい傾向があります。あまりに律法主義的で、近くに寄りたくない感じがします。本来なら主の恵みで生きるべきです。主の恵みにあたるのが、御霊によって歩むということです。「歩む」とは生活することであり、御霊の支配と導きにしたがって生きるということです。そのためには、私たちの内なる人が砕かれて謙遜になり、従順になる必要があります。不思議な事に、聖霊は私たちの内なる人を強めるために、まず、私たちを砕いて、弱らせてくれます。自分の意思力や力ではなく、御霊により頼むようにさせてくださるのです。
内なる人の魂は知性、感情、意思の三つでできています。御霊は、それぞれにどのように働くのでしょうか?まず知性ですが、生まれつき頭が切れる人がいます。アイディア、創造性、洞察力にたけた人がいます。しかし、御霊はそういう生まれつきの知性を砕きます。失敗を許したり、あなたの知性を嫉妬して敵対する人も置いてくれます。箴言3:6,7「心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」とあります。第二は感情です。あなたは感情的に豊かで、愛と親切と同情心に富むかもしれません。人々もあなたをとても人格的だとほめるでしょう。でも、御霊はあなたの周りに愛せない人を置いて下さいます。同僚や伴侶、教会の兄弟姉妹かもしれません。あなたは砕かれて、御霊が与える愛、親切、あわれみを求めるようになります。それは、つまり御霊の実のことです。第三は意思ですが、これは自我と言うことができます。あなたは一度決めたことを遂行する意志力があります。でも、それは頑固でもあり、たとえそれが間違っていても変えることができません。悔い改めない心です。御霊はヨブやペテロ、マルタのような人たちを砕きます。そして、私ではなくあなたに従いますという、従順な人になるのです。純鉄は硬いけれども、もろくてすぐ割れてしまいます。しかし、精錬された鉄はしなやかで、硬いわりには割れません。
内なる人の最も内側は霊です。霊には交わり、良心、直覚の3つがあります。あなたの霊が強められると、神様との交わりが頻繁になります。祈ることが苦痛でなくなります。神様と交わるのが楽しくなります。良心はどうでしょう?罪に対して敏感であり、神を恐れ、神のきよさを求めます。良心が魂に語りかけ、正しいことをするように促します。直覚は人知をこえた知識や悟りです。この世には知識や知恵がある人がたくさんおられます。しかし、クリスチャンの霊には御霊が宿り、神様と連動して、人々に隠されたことを啓示して下さいます。旧約聖書のヨセフ、ソロモン、ダニエルがそうでした。そして、イエス様がそうでした。イエス様は人々の思いを見抜くことができました。このように内なる人が強められると、あらゆる環境においても主の王道を歩むことができます。多くの人は、つぶやいたり不平不満を言ってしまいますが、私たちはそうではありません。万事を益としてくださる神様をほめたたえ、御霊によって歩むのです。
2.キリストが住まわれるように
キリストが住むとはどういう意味でしょうか?黙示録3:20「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」教会にとって、このみ言葉はキリストを信じていない、未信者に対して語られる伝道メッセージです。私もこのみ言葉によって、イエス様を心にお迎えし、救いを受けました。でも、このみことばは、ラオデキヤ教会に語られています。イエス様は彼らに「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っているが、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸であることが分かっていない」とおっしゃっています。つまり、彼らはクリスチャンでありながら、イエス様を心の外に締め出していたのです。神学的に物議をかもすかもしれませんが、イエス様を信じて救われていても、イエス様を心の外に締め出して生きることも可能だということでしょうか?パウロはどのように述べているのでしょうか?エペソ3:17,18「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」と、あります。「信仰によって」と言われています。言い換えると、信仰がなければ心のうちにキリストを住まわせることができないということでしょう。「信仰」というのは、分かりそうで、分からないことばです。へブル11章全体に「信仰」ということが説明されています。へブル11:6「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」信仰というのは、神に近づくことであり、報いを信じて求めることであることがわかります。つまり、信仰を持って人格的なイエス様を心にお迎えするということです。
福音書を読むと、イエス様に信仰をもって近づいた人たちがたくさんおります。しかも、その人たちはみなイエス様から「あなたの信仰はすばらしい」と称賛されました。長血を患っていた女性は、「イエス様の衣の裾に触りさえすれば、きっと癒される」と言いながら、イエス様に近づきました。自分が汚れていると思っていたので、迷惑がかからないように、後ろからそっと、衣の裾に触っただけです。そうすると、イエス様から力が流れてきて、癒されました。イエス様は彼女の信仰を喜ばれました。バルテマイと言う人は盲人で物乞いでした。「ダビデの子、イエス様、私をあわれんでください」と大声で何度も叫びました。イエス様のもとに連れてこられたバルテマイは何がほしいかと言われ、「目が見えることです」と求めました。イエス様はあなたの信仰があなたを救ったのですと言われました。他には、スロフェニキアの女性、ローマの百人隊長も、彼らの信仰が喜ばれています。つまり、イエス様を信じるというのは、神であり、今も生きておられる救い主を信じるということです。偶像礼拝のように、お題目を何度も唱えて、注意をこちらに向けさせるということではありません。イエス様を信頼し、イエス様と人格的な交わりを求め、イエス様と共に生活したいと願うことです。ある人は「キリスト教とは単なる宗教ではなく、今も生きておられるキリストと共に生きることです」と言いましたが、まさしくそうです。
パウロが「信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」と願っていますが、私たちの心のすべての部屋に住まわせるという意味にもとれます。ヨハネ黙示録3章20節は友人としてのイエス様です。ただ一時、楽しい交わりで良いのでしょうか?そうではありません。ヨハネ15章のときもお話ししましたが、この「住まわせる」は英語のliveではありません。英語の聖書はabideであり、「とどまる」とか「ある状態を続ける」という意味があります。一時的ではなく、ずっと住んでいただくということです。エペソ3章のギリシャ語はカトイケオゥであり、「神が神殿に住む」「神・キリスト・聖霊が人に宿る」というのが本来の意味です。パウロがⅠコリントで私たちが神の宮であると言っています。Ⅰコリント3:16「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」、Ⅰコリント6:19「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」二か所とも、「知らないのですか」と強い口調で言われています。言い換えると、「あなたのうちに神の霊が住んでいることを理解していますか?」ということです。総合的に考えると、「信仰によって」とありますので、キリストが住んで下さるように、意識して、強く願う必要があるということです。つまり、私たちの心のすべての部屋をイエス様に明け渡すという意味です。イエス様は私たちの奴隷ではありません。確かに友ではありますが、王なるお方であり、人生のマスターです。マスターというのは、ユダヤ人でいうラビ(師)です。福音書を読むと、12弟子たちが、イエス様と一緒に生活し、イエス様から指導を受けていることがわかります。私たちも彼らと同じように、イエス様のみそばで共に生活したいと思います。
多くのキリスト教の指導者たちが「クリスチャンとは小さなキリストです」と言います。おそらく、私たちのふるまいや言葉を通して、人々がイエス様を知るという意味でしょう。確かに分かるような気はしますが、「小さなキリスト」というのはどうでしょう?イエス様は信じられないことをおっしゃっています。ヨハネ14:12「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」ユダヤの教えでは、同じことを二回言うのは、そのことを強調するためです。イエス様は「わたしを信じる者は、わたしが行うわざを行い、さらに大きなわざを行います」とおっしゃいました。このところには、小さなキリストはありません。キリストと同じか、あるいはキリストよりも大きいというニュアンスがあります。私たちの内からキリストが現れたとき、福音書に記されているキリストよりも、大きくなるという意味です。そうです。私たちの内に住んでおられるキリストは、私たちを通して、この世に現れたいと願っておられるのです。ガラテヤ2:20「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」信仰によって求めるなら、イエス様が大きく現れて下さるのです。
3.キリストを知ることができるように
エペソ3:17後半~19節「そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。」かなり文章が長いですが、「キリストの愛を知ることができますように」が主動詞ではないかと思います。知るは、英語の聖書ではcomprehendであり、単なる理解ではなく、「見抜く、把握する、悟る」という意味があります。パウロはコロサイ人への手紙では、「奥義」と言っています。コロサイ1:27「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」一方、エペソ人への手紙3章では、奥義の代わりに「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する」とか、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知る」と言っています。文脈から考えると、キリストの愛だけを知るのではなく、キリストがどのようなお方であるかを知るという意味だと思います。私たちは信仰が大きいとか、信仰が弱いとか、信仰が足りないとか言います。でも、その信仰どこから来るのでしょうか?どのようにしたら信仰が大きくなり、強くなるのでしょうか?その答えはとても単純です。「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する」、「人知をはるかに超えたキリストの愛を知る」ことです。キリストを知れば知るほど、私たちの信仰は深まり、信仰が強くなるということでしょう。言い換えると、キリストのことを知らないと、信仰も弱くて、小さくなる、ということです。「キリスト教」とか、「キリスト教会」とよく言われますが、そこから来ているのでないかと思います。どんな高尚で、深淵な神学も、キリストをはずしてしまうと、砂の上に建てた家、「砂上の楼閣」ということになるということでしょう。
まず、私たちは4つの福音書を読んで、イエス様がどういうお方であるか知る必要があります。聖書を読むディボーションの際、第一番目にすることは「観察」です。最も重要なことは、自分がその物語の中に入って、実存的に体験するということです。あなたは、嵐の小舟の中で弟子たちと一緒に乗り込んでいます。風の音と波しぶきが顔で感じられます。ペテロが「私たちは溺れそうです、何とかしてください」と、舟のともで休んでおられるイエス様を揺り動かしています。イエス様は「信仰の薄い人たちだな」とぼやきながら、風と湖を叱られました。すると、凪になり、あざやかな夕日が見えてきました。弟子たちは「この方は一体どういう方なのだろう」と驚きました。「これはどういう意味なのだろう」とすぐ解釈しようとしないで、ありのまま読むということです。そのあと、「イエス様は自然を支配する力があるのだな。すごいなー」思うでしょう。また、ヨハネ8章には、朝早く、姦淫の場で捕らえられた女性のことが記されています。男たちが石を持ちながら、あらわな姿をした女性を取り囲んでいます。彼らはイエス様に「モーセの律法なら石打にすべきなのですが。あなたは、どうしますか」と質問を浴びせています。イエス様はしゃがんで地面に何かを書き始めました。なんとその周りにいた、一人ひとりの罪でした。イエス様は立ち上がり「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい」と言われ、再び身をかがめて、地面に何かを書かれました。彼らはそれを聞くと、年長者から始まって、石を置いて去っていきました。イエス様は彼女に「私もあなたをさばかない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません」と言われました。イエス様だけが人の罪をさばき、イエス様だけが人の罪を赦すことがおできになる方です。さばきよりも、恵とまことが勝利しました。それは、エペソ3章の「人知をはるかに超えたキリストの愛を知る」と言うことです。
もう一つは、パウロなど使徒たちが書いた書簡から、イエス様がどういうお方であるのか、知る必要があります。そこには、イエス様が地上に来られる前のことが書かれています。さらには、世の終わり、どのようになるのか?イエス様が治める御国がどのようなものなのか?今、イエス様はどのようなことをなされているのか?いろいろなことが分かります。福音派の教会は「イエス様が私たちのために十字架に死なれ、三日目によみがえりました。この方を信じるなら罪赦され、救われます」と言います。間違ってはいませんが、救いを得るための決まり文句みたいです。そして、三日目によみがえられたのちのことが語られていません。だから、「その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する」ことができないのです。マルコ16章の最後にどのように書かれているでしょうか?マルコ16:19,20「主イエスは彼らに語った後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。弟子たちは出て行って、いたるところで福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされた。」このところに、2つのことが書かれています。第一は、イエス様は父なる神様のところに座っておられ、王として支配しておられます。しかし、それだけではありません。第二は、キリストは地上で弟子たちと共に働き、みことばを、それに伴うしるしをもって、確かなものとされています。しかし、そんなことが可能なのでしょうか?そうです。現在、イエス様は「キリストの御霊」として、私たちのところに来られています。聖霊は神の霊でありながら、同時にキリストの御霊です。イエス様はこちらにいらっしゃっています。ですから、2,000年前、弟子たちがイエス様と一緒に生活したように、私たちもイエス様と共に生活することができるのです。今も生きておられるイエス様を体験することが、まさしく、「すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する」ということなのです。私たちは知的にイエス様がどういうお方なのか、聖書を読んでいるべきです。また、私たちはイエス様がどういうお方なのか、キリストの御霊と交わって体験的に知る必要があります。言い換えると、主の臨在の中で生きるということです。これまでキリスト教会は神学校のレクチャーの焼き直しのようなメッセージをしてきました。まさしくそれは、西洋のカリキュラム的な教育からきたものです。新約聖書の時代は、イエス様を囲んで質疑応答したり、一緒に出かけた場所で「これはこうなんだ」と教えを受けました。イエス様は今も生きており、私たちと一緒に歩んでくださいます。成熟するために、聖書からイエス様について学ぶだけではなく、主の臨在の中で、イエス様ご自身を体験的に学ぶことが必要なのです。