2024.12.22「その名はインマヌエル マタイ1:21-23」

今日の箇所はクリスマスで良く聞かれるメッセージです。この世では、華やかなイルミネーションや豪華なプレゼントがつきものです。アメリカでは、ものすごいお金をかけたパフォーマンスで降誕劇を演じ、人々を集めようとしている教会もあります。しかし、それはショーであり、クリスマスが終わると何も残らないでしょう。しかし、本当のクリスマスが聖書にあります。

1.神がともにおられた方

 マタイ1章の「インマヌエル」という表現は、旧約聖書イザヤ7章14節に最初に出てきます。「それゆえ、主は自ら、あなたがたに1つのしるしを与えられる。見よ、処女がみごもっている。そして、男の子を生み、その名をインマヌエルと呼ぶ」とあります。「処女がみごもる」を、マタイは「おとめマリヤが男性なしで子どもを宿す」というように解釈しています。これはメシアの誕生のしるしであります。神さまはアダムからの原罪を受け継がせないために、聖霊によってメシアをみごもらせたのです。創世記3章には堕落の記事が記されています。アダムとエバがヘビに誘惑され、食べてはならない木から食べたので、人類に罪が入り、死が入りました。しかし、同じ3章に救いの預言が記されています。創世記3:15「わたしは敵意を、おまえと女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。彼はおまえの頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」。これは原始福音と呼ばれていますが、女の子孫とはまさしくマリヤから生まれたメシアであります。サタンはイエス・キリストを十字架にかけて殺したとき、うまくやったと思ったでしょう。しかし、それは罪なき人を十字架につけたというサタンの罪となりました。そのため、サタンは断罪され、頭を打ち砕かれたのです。昔、『パッション』というイエス様の十字架を生々しく描写した映画がありました。イエス様が大声で叫ばれて息をひきとられたとき、天から一粒の涙が落ちました。しかし、その涙が地面に落ちた瞬間、大地震が起きました。そのとき、サタンは頭を抱えて、もだえ苦しみました。まさしく、逆転勝利です。

 もう一つの着眼点は「その名はインマヌエルと呼ばれる」であります。ヘブル語で「イム」は「ともに」です。「ヌー」は「私たち」です。二つ合わせると「インマヌー」で「私たちともにおられる」です。「エル」は神ですから、全部併せて、「神が私たちとともにおられる」という意味になります。マタイ福音書はギリシャ語で書かれていますので、あえてヘブル語の意味を解説する必要がありました。でも、イエス様が地上の生涯で彼は「インマヌエル」だと固有名詞で呼ばれたことは一度もありません。ただし、人々から「あの方は神がともにおられる」と、思われていたことは確かです。ヨハネ3章にはイエス様とニコデモとの会話が出てきます。ニコデモは、イエス様にこう言いました。ヨハネ3:2「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられなければ、あなたがなさっているこのようなしるしは、だれも行うことができません。」イエス様はニコデモのお世辞には耳を傾けず、「あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」と言われました。もし、私がイエス様だったら「よく、分かったね。偉い。さすがイスラエルの教師だ」とほめたかもしれません。旧約聖書ではエリシャのような預言者は「神の人」と呼ばれています。私は「牧師らしくないですね」と言われますが、「神の人ですね」と呼ばれたことはほとんどありません。でも、分かる人にはわかるのです。ジョークばかり並べていますが、何を隠そう、本当は「神の人」なんです。なぜなら、このように、神のことばを取り次いでいるからです。

 私のことはともかくイエス・キリスト様のことに戻りましょう。実は、イエス様は聖霊によって身ごもったので、聖霊に満たされ、初めから神がともにおられた方だったのです。アダムとエバは神とともに歩んでいました。しかし、神に反逆し、霊が死んだので神とともに歩むことができませんでした。エノクは例外的に、神とともに歩んだ人でした。しかし、厳密には「神がともにおられる人」はいなかったのです。イエス・キリストだけが、神がともにおられた方、インマヌエルなるお方だったのです。日本の教会に「イムマヌエル綜合伝道団」というのがあります。その教団のホームぺージに、イムマヌエルは、昔の表記で、「神はわれらとともにおられる」の意味であるとありました。「その教団は、18世紀の英国国教会の中から真理を求めて生み出されたメソジストの流れにある」とのことです。ジョン・ウェスレーのスピリットを受け継ぎ、「きよめ」を強調し、世界宣教にも励んでおられます。私が座間キリスト教会の教会主事の頃、横浜の神学院の屋根に十字架を取り付けに行ったことがあります。二回目は、亀有教会の建設時です。オルガンを購入するときに礼拝堂を見学に行き、同じ機種のものを購入しました。「だからどうだ」と言われても困りますが、「神が私たちとともにおられる」ことを強調している教団が日本にあるということを言いたかったのです。横山兄姉がそこの出身です。

 「インマヌエル」という固有名詞では呼ばれていませんが、ヨハネ14章から16章はそのことを示唆しています。弟子ピリポが「主よ、私たちに父を見せてください。そうすれば満足します」とイエス様に願いました。ヨハネ14:9-11イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられることを、信じていないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです。わたしが父のうちにいて、父がわたしのうちにおられると、わたしが言うのを信じなさい。信じられないのなら、わざのゆえに信じなさい。」まとめて言うと、イエス様の中に父なる神がともにおられたということです。そして、イエス様が言われていることは、うちにおられる父なる神が言われていることです。また、イエス様がなさっているわざは、うちにおられる父なる神がなさっていることです。これほど、「神がともにおられる」という表現を言い換えているところもないでしょう。イエス様は意識的にご自分のことを隠し、父なる神がご自分をとおして現れるように生活したのです。自分を誇示するのではなく、父なる神を顕されたのです。

2.神がとともにおられる人

 さきほと引用したヨハネ14章にすばらしいみことばがありました。ヨハネ14:23イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」これはどういう意味でしょう?イエス様を愛し、イエス様のことばを守る人に、父なる神がその人とともに住むということです。教会では一般的に、「イエス様を信じると神がともにいることになりますよ」と言うかもしれません。確かにそうですが、ヨハネは私たちにチャレンジしています。イエス様を愛する人は、イエス様のことばを守ります。「え?私はイエス様を信じているけれど、イエス様を愛しているだろうか?私はイエス様のことばを守っているだろうか?でも、イエスさまのことばって何だろう?」と考えてしまいます。英語の聖書には、イエス様がおっしゃったことばを、赤い活字にしている聖書があります。Red letter editionと言いますが、そこまでやる必要があるのか疑問です。そうなるとヨハネ福音書は全部、まっかっかになってしまいます。私が疑問に思うのは、たとえばヨハネ3章ですが、どこからどこまでがイエス様とニコデモとの会話か分かりません。それは、ヨハネの解説のか、イエス様が言われたことなのか線引きが難しいのです。もちろん、ダイレクトに言われたイエス様のことばは重要だと思います。でも、神さまが与えた聖書全体を聖霊の助けによって読むことが大切なのではないかと思います。でも、矛盾するようで申し訳ありませんが、どの聖書箇所も、贖い主イエスを通して読む必要があるということです。当時のパリサイ人や律法学者はイエス様を抜きにして読んでいたからです。極端に言えば、創世記からヨハネの黙示録まで、イエス様を啓示していると言って良いでしょう。

 本題に戻りますが、「神がともにおられる人」とはどういう人でしょう?実はインマヌエルということば、その思想はイザヤ書に遡ります。イザヤ57章にもインマヌエル預言があります。イザヤ57:15「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名が聖である方が、こう仰せられる。「わたしは、高く聖なる所に住み、砕かれた人、へりくだった人とともに住む。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである。」私たちはまず、神さまがどのようなお方かを知る必要があります。神さまは「聖である」ということは、罪がないだけではなく、超越的であるということです。また、神さまは「高くて、永遠の住まいに住む」ということは、物理的にも霊的にもかけ離れているということです。そのようなお方が、罪ある、地上の人間の中に住むことが可能でしょうか?世界にたくさんの神話がありますが、神さまは天上におられ、時おり、地上に姿を変えてやってくるというものです。人とともに住むということは、まずありません。もしも、神さまが、四六時中、あなたと一緒にいたら困るのではないでしょうか?一人、インターネットで何を見ているでしょう?家で家族とどんな会話をしているでしょう?学校や会社、教会で偽善者を演じていることはないでしょうか?逆に、「神さまが一緒にいては困ります」というのが本音ではないでしょうか?イザヤ書は矛盾したことを言っています。神さまは聖であり、いと高い所に住んでおられます。しかし、同時に、「砕かれた人、へりくだった人とともに住む」というのです。そして、「へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かす」ためとあります。

 これは道徳的な意味ではないと思います。表面的にはへりくだっていても、内側はそうではない人がたくさんいるからです。慇懃無礼といいますが、表面的な謙遜は、鼻につきすぐ見破られてしまいます。本当に謙遜な人は、砕かれた人であります。ダビデは言っています。詩篇34:18「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ霊の砕かれた者を救われる。」「ダビデは大きな罪を犯したので、それを悔い改め、心が打ち砕かれたのだ」とおっしゃるかもしれません。確かに、ダビデは自分の罪を知って、悔い改めました。しかし、そのことは私たちも多かれ少なかれ、同じです。でも、何か罪を犯したというよりも、聖なるお方の前に立ったら、自分の存在自体がヤバいと思うのが自然ではないでしょうか?私たちは実際、罪を犯さなくても、心で犯していることがたくさんあるからです。人を憎んだり、恨んだり、ねたんだりしています。実際に、殺してはいなくても、「あいつがいなくなれば良いのに」と思いで殺人を犯しています。とにかく、聖い神さまの前にたったとき、一片の罪もないという人はいないと思います。イザヤが主の栄光を見たとき何と言ったでしょう?「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の【主】である王をこの目で見たのだから」(イザヤ6:5)と言いました。主を恐れる体験をヌミノーゼと言うようですが、イザヤはまさしくそのような体験をしました。イザヤはそこで砕かれたのだと思います。それまでは、イスラエルの罪をさんざん糾弾していたのに、自分自身がまさしくそうだったと知らされたのです。

 新約時代は、イエス・キリストを信じることによって義と認められ、神の聖をいただきます。教会では、信じる内容を「信仰箇条」みたいに、いくつかあげています。本当に信じているか、役員会で審査してもらったりします。確かに「信じる」と言っても、どのように信じたのか当人でなければ分かりません。たくさん条件をつけると、人為的になり、かえって嘘っぽくなるかもしれません。イザヤ書にあるように心砕かれ、へりくだることです。ですから、信じることの中には、自分は罪人であり、神の前に立つことができないと認めることが含まれています。そして、私の罪のために十字架につき、罪を贖ってくださったイエス・キリストを信じることです。残念ながら、「罪」ということが、最初からわかる人はほとんどいません。私もそうでした。信仰生活を40年続けて「ああイエス様は私の罪のために死なれたんだな、ありがとうございます」とへりくだることができたということです。最初は私が信じた、信じてやったみたいに思っていましたが、年数が増すことに、「信じさせていただいた」というふうになるのです。その理由は、私たちが信じられるように、神が人となって、下まで降りて来て下さったからです。私たちが心砕かれ、へりくだる前に、イエス様の方がへりくだってくださったのです。イザヤ53:5「しかし、彼は私たちの背きの罪のために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ」とあるとおりです。

3.神がとともにおられる人生

 神がともにおられる人生とはどのようなものなのでしょう?3つ取り上げたいと思います。

➀安定感が与えられる人生

 私はイエス様を信じる前は、「これでいいのか?」という不安というか、不安定感が常にありました。特に夜、寝る前に、「私の人生、これで良いのだろうか?」という何とも言えない、空虚感がありました。言い換えると、もしだれかが「それでいいんだよ」と認めてくれたら、「ああ、そうなんだ」と安心します。しかし、イエス様を信じて、神さまがともにおられることを知ってから変わりました。何が変わったかというと、「これでいいのだ」という是認感が与えられたということです。空虚な気持ちから、満足感が与えられたということです。たまに、クリスチャンになっても、「これでいいのか?」と思うときがあります。しかし、それは一瞬だけであり、そのまますわりこんで悩むということはありません。何とも言えない「安定感」があります。

 英語で安定は、stabilityといいましす。stabilityは船でいうと、復元力です。船はどうして転覆しないのでしょう。航海している船には強い風やうねり、三角波がおそってきます。でも、どうして船は転覆しないのでしょう。船の重点と浮点の関係で、船が傾いたとき、元に戻ろうとする力がはたらくのです。私たちはこの世に生きている限り、不安と恐れが常に付きまといます。しかし、聖霊によって神の愛が注がれているので、「神さまが支えてくれるから大丈夫」といううなずきのようなものが与えられるのではないかと思います。この聖霊が私たちを引き上げて、安心感を与えてくださるのではないかと思います。詩篇37:23,24第三版「人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。」アーメン。「確かにされる」はヘブル語でクーンですが、「堅く建てられる、固くされる、据えられる、回復される」という意味があります。主がともにおられ、私たちのぐらつく人生をしっかりと支えてくださるのです。会社や家庭の責任を負わされている人は大変です。「これでいいのか?」という不安があるでしょう。でも、神がともにおられる人生は、「主が支えてくださるから大丈夫」という安心感、安定感があります。

➁報いが与えられる人生

 日本人の多くの人たちは「ふうてんの寅さん」が好きです。いろんなマドンナと会いますが、結局は別れてしまって、うまくいきません。最後にテーマソングが流れます。「奮闘努力の甲斐も無く、今日も涙の、今日も涙の、陽が落ちる、陽が落ちる」であります。日本人には「奮闘努力の甲斐も無く」というところが共感を呼ぶようであります。大体、人が成功した話を聞くと、あまり面白くありません。嫉妬心がわくからです。逆に、失敗したという話を聞くと、共感を覚えて同情したくなります。私もクリスマスの歌で、「うまくいかなくっても」で涙したことがあります。しかし、それでは「ふうてんの寅さん」と変わらないということに気が付きました。私たちは神がともにおられるなら「必ずうまくいく」と信じる必要があります。なぜなら、ローマ8章28節には「万事が益となる」と書かれています。もっというなら、うまくいかない時があっても、神さまからの報いは必ずあるということです。多くの人は、「報いを求めるなんて、意地汚い」と思うかもしれません。人からの報いは期待しない方が良いですが、神さまからの報いはそうではありません。

 聖書に報いられた人の人生がたくさん書かれています。エジプトに売られたヨセフがそうでしょう。ナオミから離れなかった、モアブ生まれのルツもそうです。13年も荒野や洞窟で生活したダビデもそうでした。すべてを捨てて従ったペテロも最後には報われました。讃美歌121『まぶねの中に』の三節は「すべてのものを与えし末、死のほか何も報いられで」となっています。私もあの賛美を歌うと涙が出てきます。しかし、本当に報いられなかったのでしょうか。ヘブル12:2後半「この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです」とあります。イエス様は十字架の後に来る、大いなる報いを喜んでいたので、耐え忍ぶことができたのです。イエス様が私たちにチャレンジしておられます。マタイ10:42「まことに、あなたがたに言います。わたしの弟子だからということで、この小さい者たちの一人に一杯の冷たい水でも飲ませる人は、決して報いを失うことがありません。」

③孤独感からの解放される人生

 だれか分かりませんが「人は生まれるときも一人であり、死ぬときも一人である」と言いました。アダム以来、すべての人は、神から離れているので孤独です。どんなに楽しい時をすごしても、一人になったとき、ふっと孤独になります。また、いくら親しい人であっても死の川を一緒に渡ることはできません。しかし、その人がイエス・キリストを信じると、生まれ変わり、神がともにおられるということが分かります。孤独感が消え去り、たとえ死が襲ってきても大丈夫というような信仰が与えられます。マタイ28:20後半「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」とあるからです。世の終わりまでも、人生の終わりまでにもイエス様はともにいてくださるのです。

 昔、座間キリスト教会で一緒だった姉妹が長崎の諫早教会の牧師夫人になりました。その教会には付属幼稚園があり彼女も教えています。卒園記念として、園児たちに「どのみことばが好きか」アンケートを取ったそうです。圧倒的に多かったみことばが、ヨハネ14:18「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」でした。幼稚園児が「孤児」という言葉が分かるのか、疑問に思いました。きっと、「お父さんやお母さんから捨てられることだ」と理解したのかもしれません。おそらく、孤児ほど気の毒な子どもはいないでしょう。戦時中の日本には孤児があふれました。しかし、現代ではたとえ親がいても、児童放棄が絶えません。ですから、本能的に子どもたちは「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません」というイエス様を求めているのだと思います。大人でも、子どもでも、神がともにいるという安心感は欠かせません。私たちと神がともにおられるために、イエス様がこの地上に来てくださったことを感謝します。