2024.12.15「ひとりのみどりご イザヤ9:6-7」

イエス・キリストの預言は旧約聖書で「はっきりしているのが30個あり、間接的なものはその十倍ある」と言われています。「いつ、どこで生まれて、何をして、どのように死ぬかまで」預言されて生まれた人物は他にいないと思います。イザヤは紀元前740年頃から活躍した預言者ですですが、彼もイエス・キリストのことをいくつか預言しています。6節はヘンデル作曲『メサイヤ』ではWonderful, Counselor, Mighty God, Everlasting Father, Prince of Peace.です。

1.不思議な助言者

 欽定訳ではWonderful Counselorです。口語訳では「霊妙なる議士」です。簡単に言うと、生まれてくるメシヤは頭が良く、知的にすぐれているということです。イエス様が12歳のとき、両親と共にエルサレムに上った時のことです。ルカ2:46-47「そして三日後になって、イエスが宮で教師たちの真ん中に座って、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。聞いていた人たちはみな、イエスの知恵と答えに驚いていた。」12歳の少年イエスが、律法の教師たちと対等にわたりあっていました。それ以降、公生涯に入るまでのことはベールに包まれています。マタイはイエス様の教えを「山上の説教」としてまとめました。それを聞いた人々の感想はどうだったのでしょうか?マタイ7:28,29「イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。」文豪トルストイは「山上の説教だけで、人は救いを得られる」と言ったそうです。確かに教えとしてはすばらしいですが、人が救われるためには十字架が必要です。人は、山上の説教が実行できないの知り、十字架の贖いの必要性を覚えるのではないでしょうか?

 イエス様は律法学者やパリサイ人たちから、突然、難問をふっかけられますが、神としての知恵によって即座に答えておられます。ある時、律法の専門家から「カエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と問われました。「納めなさい」と答えたら、イスラエルの復興を願う人たちから排除されるでしょう。「納めなくて良い」と答えたら、ローマに反逆する者として訴えられるでしょう。どちらに答えても不利です。マタイ22:18-22「イエスは彼らの悪意を見抜いて言われた。『なぜわたしを試すのですか、偽善者たち。税として納めるお金を見せなさい。』そこで彼らはデナリ銀貨をイエスのもとに持って来た。イエスは彼らに言われた。『これはだれの肖像と銘ですか。』彼らは『カエサルのです』と言った。そのときイエスは言われた。『それなら、カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい。』彼らはこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。」敵対者たちがことばの罠にかけても、イエス様は神からの知恵によって答えたので、彼らは驚嘆して立ち去りました。

 もう一つ、Wonderful Counselorを証明する記事があります。ルカ12章にありますが、ある人が「先生。遺産を私と分けるように、私の兄弟に言ってください」と願いました。イエス様はどうカウンセリングしたでしょう?マタイ12:14-16「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停人に任命したのですか。」そして人々に言われた。「どんな貪欲にも気をつけ、警戒しなさい。人があり余るほど持っていても、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」それからイエスは人々にたとえを話された。・・・要約すると、ある金持ちの畑が大豊作で、新しい倉を建てて穀物を蓄えました。そして、自分の魂に「さあ休め、食べて飲んで楽しめ」と言いました。ところが、その晩、神さまから「愚か者、おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われました。イエス様は、深淵な真理を子どもでも分かるように、たとえによって教えられました。神学者のように、難しいことを難しく語ることは簡単かもしれません。本当は、難しいことをわかり易く語るのが難しいのです。イエス様は生きた知恵であり、まさしく、Wonderful Counselor不思議な助言者でした。

 

2.力ある神

 欽定訳ではMighty Godです。イエス様は力あるわざ、奇跡をたくさんしておられます。マルコ福音書5章には、イエス様を乗せた舟が激しい突風にあって沈みかけた記事が記されています。弟子たちは眠っているイエス様を揺り動かして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言いました。マルコ4:39-41「イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。イエスは彼らに言われた。『どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。』彼らは非常に恐れて、互いに言った。『風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。』弟子たちは、「イエス様は自然界をも支配することができるのか?もしかしたら神ではないだろうか」と、恐れたのです。イエス様は様々な病をいやし、盲人や足萎え、耳の聞こえない人を癒されました。悪霊に縛られている人を解放したり、死んでいる人をよみがえらせました。5つのパンで5000人を養われた奇跡は、4つの福音書全部に書かれています。奇跡は人を驚かせます。イエス様は人にはできないことをなされました。それは、ご自身が「力ある神」であることの証明です。

 神学者R.C.トレンチが『主の奇蹟』という本を書いています。「奇跡は自然そのものではないが、同時に自然に反するものでもない。私たちの知る自然を越えたものであるが、それに反するものではなく、また、不自然なものでもない。真の奇跡は、いっそう高度な、また純粋な性質を持つものである。すなわち、秩序整然とした世界から、この一致のない乱れた私たちの世界に下って来たものであり、少なくともその瞬間、この世界を上なる世界と調和させるものである。たとえば、病のいやしは自然に反するなどとは言えない。異常なのは病であり、健康ではないからである。いやしは原始秩序の回復であり、ここに見られるものは自然法則の違反ではなく、高い法則による低い法則の一時的中断にほかならないのである。」引用は以上ですが、近代ヨーロッパの人たちは、機械的宇宙論を信じていました。彼らは「この世は、創造主が創造されたのち、その御手を休め、ただ時おり修理される。創造主はこの世とかけ離れたところに存在し、この世ことに関知していない」と考えました。しかし、イエス様はこう言われました。ヨハネ5:17「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです。」さらには「わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざを行っておられるのです」(ヨハネ14:10)とも、おっしゃっております。イエス様がなされた奇跡の力の源は、父なる神ご自身であるということです。

 遠藤周作氏は『イエスの生涯』という本で、「永遠の同伴者」であるイエスを強調しました。ある人の書評です。「遠藤周作がイエスを無力であわれな人間として描いた本書は私には新鮮だった。世に伝えられる奇蹟を起こす伝道師ではなく、自ら信者と一緒に悩むという観点は遠藤周作の『人間としてのイエス』が描かれている。」私は彼の本を読んだことはないので、なんとも言えませんが、同伴者だけでは、人を救えないのではないかと思います。確かに神が人となられたお方であり、私たち以上に苦しみをなめたお方です。しかし、同時にイエス様は神であり、私たちを救ってくださる「力ある神」でもあります。福音書に描かれているイエス様は、弟子たちをはじめ、人々の驚嘆の的であります。「ナザレの人間かと思いきや、そうではなかった」という恐れに満ちています。ガリラヤの漁師たちが、どうしてイエス様にすべてを捨てて従ったのでしょうか?ルカ5章には「大漁の奇蹟」が記されています。ペテロたちは漁師のプロでした。イエス様が「深みに漕ぎ出し、網を下ろして魚を捕りなさい」と言われました。すると、ペテロは「先生。私たちは夜通し働きましたが、何一つ捕れませんでした。でも、おことばですので、網を下ろしてみましょう」と答えました。イエス様が、down your netsと複数形で言われたのに、ペテロはdown the netと単数形で答えています。全く、期待していなかったのです。しかし、そのとおりにすると、おびただしい数の魚が入り、網が破れそうになりました。なんと二艘の舟にいっぱいになり、両方とも沈みそうになりました。ルカ5:8-9「これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して言った。『主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから。』彼も、一緒にいた者たちもみな、自分たちが捕った魚のことで驚いたのであった。」この直後、イエス様から「今から後、あなたは人間を捕るようになるのです」と召命をしただきました。それで、すべてを捨てて、イエス様に従いました。大漁の奇蹟を体験したからです。どうしたらイエス様に従うことができるのでしょうか?弟子たちのように、私たちも、力ある神に出会う必要があるのではないでしょうか?

 

3.永遠の父

 欽定訳ではEverlasting Fatherです。でも、どうしてイエス様が「永遠の父」なのでしょうか?父とは神さまのことであり、イエス様は神の子ではないでしょうか?イザヤ書の注解書にはこのように書かれていました。「父は、民に対する父の関係を示す。みどりごが、イスラエルの民に対する保護者であることを示し、あわれみに満ちた姿を明らかにする」とありました。分かりそうで分からないですね。そういえば、エリシャが、エリヤが天に引き上げられるときこう叫びました。Ⅱ列王記2:12「…『わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち』と叫び続けたが、エリヤはもう見えなかった。彼は自分の衣をつかり、それを引き裂いた。」エリシャがエリヤに対して「わが父、わが父」と叫んだのは何故でしょう?エリヤが彼の霊的な父であったからです。この世においても、バッハのことを「音楽の父」と呼びます。それは、西洋音楽の基礎を構築した作曲家であり音楽の源流であるとも捉えられるからでしょう。しかし、私たちは聖書を読む限り「父とは父なる神さまのことであり、イエス様のことではない」と言いたくなります。ですから、イザヤ書の預言、ひとりのみどりごが「永遠の父」と呼ばれるということに反感までいかなくても、疑問を抱くのではないでしょうか?

 弟子のピリポが「私たちに父を見せてください」とイエス様にお願いしました。ヨハネ14:9イエスは彼に言われた。「ピリポ、こんなに長い間、あなたがたと一緒にいるのに、わたしを知らないのですか。わたしを見た人は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください』と言うのですか。」つまり、御子イエスと父なる神は一体であるということです。そして、イエス様が話していることは父が言われていることであり、イエス様が行われているわざは、うちにおられる父が行われているということです。イエス様は父なる神さまを啓示したお方ですが、いわゆる預言者たちのように指をさして示したのではありません。父なる神が、イエス様のうちにおられるということです。そして、イエス様はうちにおられる父なる神を現したということです。ですから、イエス様を「永遠の父」と呼んでも、間違いないということです。そして、神さまを「私たちの父」と言うことができるのは、イエス様が許可したからです。マタイ6章で「あなたの父に祈りなさい」と言われましたが、これはイエス様を信じる人だけができることです。なぜなら、私たちはイエス様を見て、父なる神のことがわかるからです。イエス様を抜きにして神を求めるなら、イスラム教の「アッラーの神」になるでしょう?善であり、あわれみ深い父なる神は、イエス様を通してでしか知りえないのです。

 このところに、「永遠の父」とあり、Everlasting Fatherです。Everlastingとは、「永久不滅の、不朽の、永続する」という意味があります。残念ながら、私たちは「死ぬべきもの」であり、「変わりゆく」ものです。でも、どうしてそのような私たちが「永遠の父」と呼べるようになったのでしょう?そして、みどりごイエスを「永遠の父」と呼んでどうなるのでしょうか?ヨハネ20:31「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。」とあります。「永遠の父」を現された、神のキリスト・イエスを信じるとき、永遠の世界に結びつくということです。それまで、生まれつきの私たちは永遠に神から離され、永遠の滅びに向かっている存在でした。数学の平行線のように、神さまと私たちは永遠に交わることはありませんでした。ところが、そこに神の子キリスト・イエスが介入して、私たちと神さまとを結びつけてくださったのです。私たちの信仰もありますが、イエス様の恵み深い働きによるのです。リベラルの神学者は「イエスと出会った、イエスに出会った」と言いますが、私たちはそれ以上の関係だと思います。もちろん出会いも大切ですが、イエス様の方から、私たちの人生に介入してくださったと言う方が正解でしょう?いちじく桑の木の上で隠れていたザアカイにイエス様は何とおっしゃったでしょう?ルカ19:5「ザアカイ、急いで降りて来なさい。わたしは今日、あなたの家に泊まることにしているから。」ザアカイはイエス様と出会ったのではありません。イエス様の方から、彼の名を呼び、出会ってくださったのです。そして、招いてもいないのに「今日、あなたの家に泊まることにしているから」とおっしゃいました。このように救いが私たちからではなく、イエス様の方から、優先的にやってくるとは何と幸いでしょう。

 

4.平和の君

 欽定訳ではPrince of Peaceです。でも、どうしkingではなく、princeなのでしょうか?ちなみに、悪魔、サタンは「この世の君」と呼ばれています。では、イエス様が君と呼ばれているのでしょうか?使徒3:15「いのちの君」と書いてあります。使徒5:31「そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。」使徒の働きから2箇所引用しましたが、欽定訳では両方とも、Prince となっています。おそらく、Princeというのは、kingである王様の代理、あるいは名代ではないかと思います。もし、王様が直接来たら、力と権力によって反逆している人たちを滅ぼしてしまうかもしれません。しかし、Princが和解をもたらすために、王様の代わりに来られたら幸いです。平和の君とはまさしく、人となられたイエス・キリストであります。父のみもとから、この地に平和をもたらすために、来られたからです。もし、みどりごとして、来られたら、こちらの方は緊張することはありません。再臨時は、さばき主として、白い馬にまたがって来られますが、初臨はそうではありませんでした。ゼカリヤ9:9「娘シオンよ、大いに喜べ。娘エルサレムよ、喜び叫べ。見よ、あなたの王があなたのところに来る。義なる者で、勝利を得、柔和な者で、ろばに乗って。雌ろばの子である、ろばに乗って」とあります。ヘンデルのメサイヤでは、”Rejoice, rejoice, rejoice, greatly, O daughter of Zion!”と賛美します。

 イエス様がもたらす平和はこの世が考えている平和とは違います。一般的に「平和とは戦争がないこと、世界中の人たちが仲良く暮らすこと」と定義するでしょう。しかし、イエス様は福音書でこう語られました。マタイ10:34-36「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。」世の人はこういうところを読むと、「ああ、キリスト教はあぶない宗教だな。うちの子供を教会に行かせるわけにはいかない」と言うでしょう。日本人によく聞かれるのは、「和を乱すな」とか「絆を大切にする」であります。しかし、イエス様は「私は平和ではなく剣をもたらすために来ました」と言われました。この意味は、「生まれつきの家族関係、血縁関係を一度壊しなさい」ということです。そして、今度は「神さまが与えた、家族なんだと改めて捉え直す」ということです。自分の子供でさえも、自分が生んだとか、作ったのではありません。「神さまが与えてくださったのであり、自分の子供であって、自分の子供ではない」という考えです。子どもを道連れに、無理心中する親がいますが、とんでもありません。子どもは神さまがその家庭に預けた存在であり、全く別の人格を持っています。イエス様を信じることによって、夫婦間や親子間に剣が入ることがあるでしょう。しかし、それは良いことなのです。人間的な土台を壊して、神さまを土台に据え替えるためにはどうしても必要なのです。

 ローマ5章でパウロは「こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」と言いました。私たちはだれよりも、神との平和を持つことが最優先にされるべきなのです。なぜなら、アダム以来、私たちは神さまに敵対して生きて来たからです。神との平和を持っていない人が、平和を作り出すのは不可能です。この世の人たちが、平和運動のために互いに争っているのはそのためです。まず、私たちはキリストによって与えられた和解をいただいて、神との平和を持たなければならないのです。パウロはⅡコリント5章で「キリストの和解を受けなさい」と言いました。父なる神が、私たちと和解を与えるために、御子イエスを十字架に渡されました。神さまの方から和解の手が延べられているのです。パウロは願っています。「ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい」(第三版Ⅱコリント5:20)。ですから、救いとは、キリストにあって、神さまの方から延べられた和解の手を私たちが握り返すことにあるのです。ちっとも悪くないお方が、「どうか仲直りしてください」と懇願しているのです。偉大な神が頭を下げて「救われてください」とお願いしているのです。しかし、その手を振り払って、「そんなのいらないよ」と拒絶するならどうなるでしょう。世の終わりに、神の前でさばかれて、永遠の滅びに行くしかありません。神の前でさばかれる、最も大きな罪はとは何でしょう?殺人とか強盗ではありません。キリストを信じなかったこと、神さまの愛を拒絶したことが最も大きな罪なのです。イエス様は「平和の君」として、へりくだって来られました。このクリスマスはへりくだって地上に来られた方を思い浮かべ、感謝するときです。

 小さな子供がお母さんに「クリスマスっていつなの?イエス様はいつお生まれになったの」と聞きました。お母さんは「坊や、あなたがイエス様を心にお迎えした日が、クリスマスなのよ」と答えたそうです。この世では、主人公抜きの誕生パーティが行われています。当人不在の誕生パーティが果たしてあるでしょうか?私たちは神が人となって来られた、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるお方の誕生をお祝いしたいと思います。あなたが救い主イエス様を心にお迎えした日が本当のクリスマスなのです。イエス様はむさくるしい馬小屋で生まれました。だから、あなたの心にも宿ってくださいます。