イエス様を信じて、洗礼を受けたとします。それでOKかというとそうではありません。霊的に新しく生まれても、それまで生きてきた過去のものが心と体に残っています。悪癖、心の傷、悪霊による支配などがあると、その人の成長を妨げてしまいます。私も何度か解放のキャンプに参加したことがありますが、救われた直後が最も良いということが分かりました。洗礼を受けた後、それらのものを10年間も放置していると、癒しと解放が困難になります。本人も「信仰生活はこのようなものだ」と妥協しているし、悪霊も居座っており、なかなか出ていこうとしません。「鉄は熱いうちに打て」とありますが、信仰生活にもそのことが当てはまります。
1.心の傷の癒し
イザヤ書61章を見ますと、「心の傷ついた者を癒す」とあります。1970年代から、インナーヒーリング(内面の癒し)がキリスト教会で行われるようになりました。それまでは、罪を告白して赦しと解放を受けるというものが主流でした。それは自分の加害者的な罪を赦していただくということであり、とても重要なことです。ところが、そればかりだと自分の被害者的な心の傷は放置されてしまいます。私たちの生まれつきの性質は、自分が犯した罪よりも、自分が受けた傷の方が重く感じるのです。そのため、心の中に恨みとして残り、時々爆発してしまいます。それを李光雨師は「怨念晴らし」と呼んでいます。きょうは「怨念晴らし」の仕組みについては話しませんが、自分が受けた心の傷を癒す必要性について語りたいと思います。なぜ、キリスト教会がインナーヒーリングを行うようになったのでしょう?それは、クリスチャンの必要性が生じたからです。この世においては、フロイトやユングの考えを土台とする「精神分析」が主流でした。カウンセリングに共通していることは、その人の生育史から、原因がどこにあるか調べることです。医師と患者の両者が取り組むことは良いことですが、そこに神様は関与していません。なぜなら、この世の心理学は無神論だからです。これに対して、キリスト教会ではその人の過去の出来事にイエス様をお招きして、心の癒しを受けるということです。過去の出来事は変えることはできませんが、捉え方を変えることはできます。不思議なことに、イエス様の同情、慰め、あるいは弁護を受け取ることができます。その結果、その人は心の傷や苦しみを神様にゆだね、解放をいただくことができます。そこに、イエス様の復活の力が働いて、新しい心が与えられます。
洗礼を受けて、「ハレルヤ!私は霊的に生まれ変わり、幸せになりました」と行きたいところです。ところがある部分は新しくなっていても、ある部分は古いままということがあります。多くの人たちは、過去の傷やトラウマに蓋をして、何事もなかったように振舞います。ところが、心の傷が膿んだままなので、そこから悪いものが出てきて、自分や周りの人を汚してしまいます。アメリカのある地域で、工業廃棄物をドラム缶に詰めて、地下10数メートルに埋めました。やがてその上に宅地ができ、人々が住むようになりました。ところが、その地の住民に変な病気が出てきました。調査をしたところ、地下水が汚染されており、それを飲んだ人たちが病気になっていることがわかりました。その地域の地面を掘り起こしたところ、錆びたドラム缶から、毒物が染み出ていたのです。それらを全部掘り起こし、撤去するために莫大な費用がかかったそうです。同じように、上から蓋をして「何も問題ありません」というのは、問題を先送りにしているだけで、解決をしていないことになります。心の癒しを受けるため、最も重要なことは、過去の嫌だったことを面に出すということです。エペソ5:11-14 実を結ばない暗闇のわざに加わらず、むしろ、それを明るみに出しなさい。彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされます。明らかにされるものはみな光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ、起きよ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストがあなたを照らされる。」アーメン。確かに、過去の傷を直視することは痛みを伴います。でも、その痛みは手術の痛みであり、完治するためにどうしても必要です。特に過去のトラウマをもう一度体験することは辛いことです。でも、その痛みが半減し、四分の一になり、八分の一になり、やがては「ちくっと」するくらいに低下します。記憶は残っていますが、痛みが伴わなくなります。かえって、イエス様の癒しを感謝できるようになります。詩篇119:71「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました。」不思議なことに、嫌だったことが感謝に変わるのです。
しかし、カウンセリングやインナーヒーリング(内面の癒し)の欠点は、過去ばかりに目をとめることです。完全な癒しを求めて内向きになります。残念ですが、天国に行くまで心の傷は完全に癒されることはありません。癒しは重要ですが、神様は不完全な私たちを用いてくださることも確かです。私たちは車を運転するとき、フロント・ガラス越しに前方を見ます。上と、両脇に小さなミラーがあります。たまに後方や左右を見るために、それらが付いています。面積の比率でいうと、フロント・ガラスが大きくて、バックミラーはとても小さいです。同じように、過去を見て、心の癒しをいただくことも確かに必要です。しかし、「神様がこれから用意しておられる運命は何か」と前方を見て進むことがもっと重要です。神様のすばらしいことは、万事を益としてくださることです。同じイザヤ書61章にはこのように書かれています。イザヤ61:2,3 主の恵みの年、われらの神の復讐の日を告げ、すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。シオンの嘆き悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、嘆きの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるために。彼らは、義の樫の木、栄光を現す、主の植木と呼ばれる。」主は、「灰の代わりに頭の飾り」を、「嘆きの代わりに喜びの油」を、「憂いの心の代わりに賛美の外套」を着けさせてくださいます。慰めと癒しを受けた本人は、「ああ、あのことがあったので、私は主の恵みをたくさん味わうことができた。確かに、あのことは残念なことだったけど、あれはあれでよかったんだ。主よ、あなたの救いと愛と癒しをいただくことができて、ありがとうございます」と、感謝がわいてきます。時々、過去のトラウマがぶりかえしてきても、「ハレルヤ!主よ、感謝します」と礼拝する機会となります。まさしく、scar(傷跡)がstar(星)になるのです。
2.罪の赦し
イザヤ書61:1後半「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」とあります。一方、ルカ4:18後半「捕らわれ人には解放を、目の見えない人には目の開かれることを告げ、虐げられている人を自由の身とし」とあります。おそらく、このところには2種類のものがあると思います。1つは自分が犯した罪によって捕らわれている状態です。もう1つは、こちらのせいではなく、一方的に虐待を受けている状態です。第二のポイントでは、罪の赦しを受けることによって、解放をいただくということを学びたいと思います。救われたばかりの人にとって、自分の罪が赦されたということを知ることがとても重要です。なぜかというと、救われる前は霊的に死んでいたので、何が罪なのかわからないで犯していました。ところが、霊的に目覚めると「私は何ということをしてしまったのか」という罪責感が目覚めます。言い換えると、霊における良心が活動して、自分が犯した罪を責めるようになるのです。洗礼を受けてまもなく、教会を去ってしまう兄弟姉妹が起こるのはそのためです。そのため、救いを受けたなら、自分の罪が完全に赦されていることを知らなければなりません。では、罪の赦しはどこから来るのでしょうか?一口に言うと、キリストが十字架で流された血に罪の赦しの根拠があります。
ウォッチマン・ニー著『キリスト者の標準』に、キリストの血は3つの問題を解決したと書かれています。少し引用させていただきます。罪は不従順の形をとって入り、まず第一に神と人との隔離を生じます。そのため人は神から引き離されるのです。もはや神は人との交わりを保つことができません。血は私たちのためではなく、神のためなのです。旧約聖書を通じて出てくる「罪」は百回以上ありますが、それは贖罪と関係を持ち、そのいずれも神と関係を持っています。神の聖と神の義は、人のために罪なき命が与えられることを要求します。ところで血には命があり、その血が私のため、私の罪のために注がれなければならないのです。このように要求されるのは神です。十字架で流されたキリストの血は、全面的に神を満足させたのです。第二に、神との交わりの障壁となる内在の罪は、その人の中に罪意識を起こし、神との疎遠を生じさせます。ここにおいて人は、目覚めた良心の助けを得て「私は…罪を犯しました」(ルカ15:18)と告白するようになります。血は神を満足させたので、当然私たちをも満足させるはずです。したがって、血は私たちの良心をきよめるという、人に対する効力を持っています。へブル10:22口語訳「心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。」良心のとがめは、神と私自身の間にある障害物を絶えず私に思い起こさせます。しかし今や、キリストの尊い血の働きによって、神の御前に新しいことがなされ、その結果、障害物が取り除かれたのです。第三は、罪はまた、神のみ前に人を訴える材料をサタンに提供します。つまり、「兄弟を訴えるもの(サタン)(黙示録12:10)が「あなたは罪を犯した」と言うのです。それでは、血はサタンに対してどのような働きをするのでしょう。それは神を人の側において、サタンと対決させるのです。血は神との障害物を取り除き、人を神へ、また神を人へと結び、両者の関係を回復させます。人は神の恵みにあずかり、神は人の側にいて下さるため、なんの恐れもなく、サタンに立ち向かうことができるのです。Ⅰヨハネ1:7「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」と書いてあります。神は光の中にあって私たちのすべての罪をごらんになり、キリストの血を根拠に、それらの罪を赦すことがおできになられます。したがって、サタンは何の根拠をもって、私たちを訴えることができましょう。サタンは神の御前で私たちを訴えるかもしれませんが、ローマ8:31「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」神は御子の血を示されます。しかもそれは、サタンに弁解の余地を与えない、十分な回答です。ローマ8:33,34「だれが、神に選ばれた者たちを訴えるのですか。神が義と認めてくださるのです。だれが、私たちを罪ありとするのですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」アーメン。
キリストの血の効果をもう一度述べさせていただきます。第一はキリストの血はおもに神のためのものです。キリストの血は神を満足させたので、私たちを無条件に赦すことがおできになります。私たちがキリストの血を感じようと感じまいと、神様が血は尊いと言われたので、そのことを信じれば良いのです。第二は、キリストの血は、キリスト者の神への接近を自由にしました。だから、私たちは自分のためになしたわざではなく、主イエスの功績によってのみ神に近づくのです。たとえば「今日は特別に親切であった」とか、「忍耐があった」とか、「今朝、主のために良いことをした」とかいうようなことによって、神に接近できるのではありません。いつでもキリストの血によって大胆に、神に近づくことができるのです。第三は、キリストの血は訴える者への勝利を与えてくださいました。イザヤ書61:1「捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ」とあります。サタンは私たちの罪を訴えて、私たちを牢獄に閉じ込めようとします。私たちもその訴えを聞いて、「ああ、そうだな」と、牢獄にとどまろうとします。サタンは大嘘つきです。サタンは「お前は罪を犯した。しかも絶えず犯し続けている。お前は弱い。だから神は、これ以上、お前に憐みをかけることはできない」と言います。このようにサタンの告訴は、彼の最も効果ある武器の一つです。私たちは自分の行いが良いとか悪いとかではなく、いつでもキリストの血によって応答すべきです。キリストの血はすべての罪から私たちをきよめて下さいます。私たちはキリストの尊い血に対する信仰によって、「サタンよ、退け。私は罪赦された者である」と、立ち向かうことができるのです。
このように、洗礼を受けてクリスチャンになった直後、罪の赦しの確信をいただくことはとても重要です。聖歌463「われあがなわれて」の2節、3節を紹介いたします。「十字架の血潮にきよめられて、ハレルヤを叫ぶ、身とはなりぬ。贖い、贖い。我は歌わん。ハレルヤ、ときわに、われは歌わん。負い目は払われ、重荷はなし、きよめの血潮に日々あらわる。贖い、贖い。我は歌わん。ハレルヤ、ときわに、われは歌わん。」アーメン。
3.悪霊からの解放
私は2,000年くらいから、アバラブ教会エディ・レオ師のセミナーに参加し、学びと解放をいただくことができました。本場インドネシアにも2度ほど出かけ、解放のミニストリーを間近に見ることができました。日本では石原良人牧師が、「解放のキャンプ」を始め、牧師をはじめ多くのクリスチャンが参加しました。今から、石原先生が書かれた『解放のミニストリー』を参考にしながら、「悪霊からの解放」について説明させていただきます。「クリスチャンでも、悪霊にとりつかれることはあるのか」という疑問があると思います。マルコ5章に出てくる、ゲラサの人は、悪霊に完全に支配されていました。イエス様が彼に名前を聞いた時、彼の中にいた悪霊たちが答えたのですからよっぽどのことです。しかし、彼の場合は極端であり、一般的には、肉体か魂のどこか一部を握られることです。エペソ4:26,27「怒っても、罪を犯してはなりません。憤ったままで日が暮れるようであってはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」「機会」はギリシャ語ではトポスであり、「場所」とか「余地」という意味です。石原師の本には、そこのことが、「足場」「生ごみ」「モビール」の3つのたとえで説明されています。
最初は「足場」です。私たちはキリストの贖いをとおして神によって無条件の罪の赦しを受けていますが、実生活の中で、悪魔は私たちの過去に行ってきたすべての罪の行動を見てきたので、その罪を持ち出して訴えます。それはちょうど敵のために用意された要塞のようであり、建設中の「足場」のようです。悪魔は私たちの過去の偶像との契約や罪、心の傷を足場として用い、救いを受けた後でも容赦なく、その人を縛り、自由を制限し、神の栄光のために生きられないように邪魔をするのです。自分の側に悪魔が居座るための要塞や足場を残したままにしておけば、悪霊どもは私たちの関わりをそのまま持ち続け、影響力を行使できます。それゆえ、私たちはキリストにある自由を自分自身のものとするためにも、要塞をつぶし、足場をできるだけ取り外す必要があります。ではどのように要塞を取り除き、足場を外していけばよいのでしょう?それは、告白という武器を用い、キリストの御名の権威を用いて、悪霊とのかかわりを断ち切っていくことです。引用は以上ですが、ここに「告白」という表現が出てきました。Ⅰヨハネ1:9「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」クリスチャンになるために、罪を告白する必要はありません。このみことばは、クリスチャンのためのものであり、解放を受けるために、神様の前に罪を告白する必要があるのです。すべての罪ということではなく、悪霊の足場になっているような罪を告白するのです。
第二は「生ごみ」のたとえです。悪霊は自分の領域を越えて、勝手に私たちの体に取りつくことはできません。不法侵入はできないのです。それはちょうど、生ごみにねずみやカラスが集まるのに似ています。生ごみを出すころ、カラスがやってきて袋を破り、そのごみを道路いっぱいに散らかします。カラスを追い返しても、人がいなくなるとすぐ戻ってきます。真のカラス対策は生ごみを取り除く以外にありません。同様に、「解放」も悪霊を追い出すことに焦点を当てるのではなく、罪に目を向けます。生ごみを放置してカラスを追い出してもすぐに戻ってくるのと同様に、悪霊を追い出すことができたとしても、もし罪を告白し、断ち切ることをしなければ、悪霊は戻ってくるからです。この場合、生ごみとは、悔い改めていない偶像礼拝、占い、性的罪、人を赦さない罪などです。エペソ4章でも言われていましたが、「恨み」は悪霊が最も好む餌であることを覚えておく必要があります。マタイ18章には「もし兄弟を赦さないなら、負債をすべて払うまで、獄吏に引き渡す」と書かれています。獄吏とは悪霊のことだと思います。
三番目のたとえは「モビール」です。小学生のころ工作で、ハンガーみたいなものの下にヒモをつけて、バランスがとれるように何かをぶらさげたころがあるでしょう。石原師は「束縛のモビール」と題して、家系図を示しています。個人は家族、家族は家系へとつながっています。石原師はこの働きを始めて、不思議な事実を発見しました。それは親子というのは、いつでもつながっているということです。ある日、ある兄弟の「解放」を手伝っていました。彼はその場は「解放」されるのですが、家に戻るといつの間にか調子が狂ってきます。やがて彼の兄と弟に女性問題が頻繁にあることがわかってきました。そればかりか、その父も同じ問題で家族を振り回していました。その祖父も同じ癖があったことを突き止めました。不思議なことですが、このようなケースは少なくありません。私たちがどのように歩むかは、その人だけでなくその子どもたち、子孫にまで影響を与えていくことは間違いのない事実です。申命記28章の中に主に従うことの祝福と呪いが書かれていますが、このみことばの中にも、呪いが子孫に及ぶことが明らかにされています。そのようなときは、「解放」がその人自身だけで終わらず、親や祖父母の霊的な影響からも断ち切る必要があります。
最後に大変重い話題になってしまいました。しかし、癒しと解放のテーマにおいて、もっとも重要な事とは何でしょう?それは主イエス・キリストを文字通り、「主」として心にお迎えし、自分の主人として従うということです。ルカ11章に家から追い出された悪霊のことが書かれています。家とは私たちのからだのことであり、悪霊は住むべきからだを探しているのです。家から追い出された悪霊が水のないところをさまよいながら、休み場をさがしました。でも、見つからないので、出て来た家に帰ってみると、家はきちんと片付いていました。彼は自分よりも悪い七つの他の霊を連れてきて、入り込んでそこに住み着きました。そうなると、その人の最後の状態は、はじめよりも悪くなるということです。悪霊を追い出してもらったままにしてはいけないということです。主であるイエス様を心の王座にお迎えする必要があります。きれいでも空っぽの家は危険です。今度、再び悪霊が訪ねてきたら、「私は主のものだ。二度と入ってくるな」と立ち向かうのです。この世においては、中立とか、空っぽの状態はとても危険です。困ったとき、私たちを助けて下さる救い主だけの信仰では不足です。イエス様を主として、心の王座にお迎えいたしましょう。そうすれば、キリスト様の権威をいただきながら、勝利の道を歩むことができます。