2024.11.17「因果応報から栄光へ ヨハネ9:1-2」

 「運命」と聞くと、ベートーベンの「ジャジャジャジャーン」を思い浮かべるでしょう。英語で「運命」を表すいくつかの言葉があります。一般的なのはdestinyです。昔、You are my destinyという歌をポールアンカが歌いました。fateというのは宿命、避けられない運命です。lotは巡り合わせ、くじ運です。doomは悪い運命、凶運です。人々は、不幸な自分の運命にあらがって生きているのではないでしょうか?私たちを愛しておられ、私たちに幸いを与えるために働いておられる全能の神と出会うなら何と幸いでしょう。

1.因果応報 

 ヨハネ9:1-2「さて、イエスは通りすがりに、生まれたときから目の見えない人をご覧になった。弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」弟子たちは生まれつきの盲人を見て「だれかが罪を犯したために、この人物は盲人なのだ」と考えました。誰かというのは、「その人自身かもしれないし、両親が犯した罪かもしれない」ということです。両親あるいは先祖から来た罪を、正しくは咎と言います。咎はヘブル語でアーオーンと言いますが、「曲げる、何かをゆがめる。何かを変えてしまう」という意味があります。つまり、両親を含め、先祖のだれかが犯した罪が正しく処理されていないために、後代にわたって影響を及ぼしているということです。たとえば、ダビデがバテシバと姦淫の罪を犯し、その夫を殺してしまいました。そのあと、預言者ナタンから糾弾されてダビデは悔い改めました。だけど、それでは終わりませんでした。Ⅱサムエル12:10,11「今や剣は、とこしえまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしを蔑み、ヒッタイト人ウリヤの妻を奪い取り、自分の妻にしたからだ。』【主】はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で奪い取り、あなたの隣人に与える。彼は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。』子どもたちですが、アブサロムはタマルのことでアムノンを殺しました。アブサロムはダビデの妻たちと白昼公然とそのような罪を犯しました。ソロモンはたくさんの外国人の妻をめとり、彼女らの偶像を拝みました。南ユダと北イスラエルにもそのような罪が広がっていることを見ることができます。確かに、因果応報的なものはあるということです。

 Jon Kbat-Zinn著『マインドフルネス』に「カルマ」のことが書かれていましたので引用致します。カルマとは、「あれが起こったから、これが起こる」ということです。BはAと何らかの形でつながっており、すべての結果には先行する原因があり、すべての原因には、少なくとも非量子レベルでは、その尺度であり結果である効果があります。全体として、私たちが人のカルマについて語るとき、それはその人の人生における方向性の総体と、その人の周りで起こる物事の傾向を意味しています。その原因は、先行する条件、行動、思考、感情、感覚的印象、欲望などです。カルマは、しばしば決まった運命という概念と間違って混同されます。カルマとは、特定の行動パターンに囚われる傾向の蓄積であり、その結果、同じような性質の傾向がさらに蓄積されることになるのです。だから、カルマに縛られて、原因はいつも自分の中ではなく、コントロールできない他の人や条件にあると考えてしまいがちです。…多くの人は、自分に何が起こったのか、何が悪かったのかを知らない。たいていの場合、両親や家族から始まり、ストリートの文化、貧困や暴力、信じてはいけない人を信じたり、簡単にお金を稼ごうとしたり、傷ついた心を癒やしたり、アルコールや心身を曇らせる他の化学物質で感覚を鈍らせたりと、長い出来事の連鎖がある。薬物もそうですが、歴史、剥奪、未熟な発達もそうです。・・・引用は以上ですが、先祖からのカルマを受けている本人はどうすることもできない、閉ざされた法則の中で縛られているということです。カルマは因果応報ととても近い概念です。

 聖書に因果応報の概念に近いみことばがあります。ガラテヤ6:7,8「思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。」使徒パウロの趣旨はおそらく因果応報ではなく、善を行えば必ず報いがあるという勧めであります。ところが、この法則からインナーヒーリングの理論を持ち出しているのが、サンフォード師ご夫妻が創設したエリヤハウスです。私は生で2年間学び、たくさんの祝福を得ました。現在日本中の教会でビデオクラスとミニストリーが行われています。しかし、どの学問もそうですが、前提があるということです。サンフォード師ご夫妻は因果応報の前提に立っているということを否むことはできません。例えば、幼いときに両親をさばいたことは種をまいたことになります。そこから苦い根が生え、枝を張り、花が咲き、実を結びます。その実は苦い根のさばきという実です。問題の解決は悪い実を辿りつつ、原因の根をさがすということです。最初の罪を悔い改め、十字架の死と復活の命を与えるというものです。アーメンです。私はその癒しの方法を同意し、賛成します。ただし、1つの弊害があります。それはその人を見たとき、「ああ、この人の苦い根は何だろうな?」と生い立ちや過去の出来事を追い求めてしまうということです。これはどのカウンセリングでも共通したことです。現在の問題の解決はすべて過去にあるという前提です。サンフォード師ご夫妻が書かれた『内なる人の変革』を読みました。ご夫妻が結婚したのち、お互いの欠点を責め合いました。お互いの「苦い根」と「苦い根の期待」が鎖のように引き合っている絵がありました。まさしく、因果応報の世界です。因果応報は確かに存在すると思います。しかし、第三のポイントでお話しますが、過去においても主の御手があったということです。過去を変えることはできません。それは事実だからです。しかし、全能なる神はそれらの出来事をひっくり返して、すべてを益にしてくださるということです。その人の弱みが強みになり、傷scarが星starになるということです。そして、問題解決は確かに過去にもありますが、もっとすごいのは神の運命、divine destinyです。永遠なる神様はあなたの生い立ち、環境、いやな出来事、失敗を計算づくであり、逆転勝利を与えるように働いて下さるということです。

2.怨念晴らしの世界

 自分に対する因果応報を知り、エリヤハウス等のカウンセリングを受ける人は幸いです。なぜなら、多くの場合は過去、特に生まれ育った環境とか罪が原因しているからです。ところが、自分が犯した罪よりも、自分が受けた傷の方がもっと大きく感じている人が大多数です。つまりこの人は被害者であり、その埋め合わせを求めています。たとえば、生まれた環境から来た不条理があるでしょう。家が貧しかった、親が離婚した、死別したという子どもはどうしようもない問題を持ってしまいます。あるいは災害や事故、病気やケガでハンディを背負うかもしれません。仏教的には、先祖のだれかの因果だといわれるかもしれません。なぜなら、自分にはどうしようもできなかったからです。多くの場合、そういう人たちは怨念晴らしの世界で生きる傾向があります。一口で言うと「何くそ人生です」。「怨念晴らし」ということばは、当教会ではよく聞く言葉ですが、「恨みをバネにして生きている人」のことです。両親から不当な扱いを受けた人は、何とか公平で正しい生き方を求めます。不当なことをしている人を見つけたら、「ちゃんとやれ」と正さずにはおられません。正義のように見えますが、本当は自分の傷から来ている行為です。牧師も怨念晴らしの対象になりやすい職業です。特に父親に対する傷のある人は、権威に対して、ものすごく反抗的です。牧師も一応権威をまとっていますので、牧師が公明正大でないと、何とか警告しなければ収まりません。牧師の方は相手が言っていることがまともなので、「悪かった」と詫びるしかありません。しかし、後味がなんとも言えません。なんだか、汚された感じがするからです。へブル12:15「だれも神の恵みから落ちないように、また、苦い根が生え出て悩ませたり、これによって多くの人が汚されたりしないように、気をつけなさい。」英語の聖書は、「苦い根」は、root of bitternessです。bitternessは「苦々さ」という意味ですが、他に「痛恨、恨み、敵意、辛辣さ」という意味があります。そういう人と触れると、何だか、汚された感じがします。聖霊に満たされた暖かさとは全く逆であり「冷たい」感じがします。

 この世では、「何くそ人生」でも、全く問題ありません。多くの人は口惜しさをバネにして生きています。「いつか見返してやるぞ!」みたいに頑張っています。そういう人は、エリヤハウス等のカウンセリングには全く興味を持ちません。なぜなら、過去をあばかれると、塞いでいた心の傷と痛みを再び体験することになるからです。ですから、そういう人たちは「否認」しています。「私には何の問題もありません」と言うのです。「怒り」「反抗心」「中毒」・・・などの悪い実がたくさん見えるのに、認めようとしないのです。私もクリスチャンになる前は、「ちくしょう、ちくしょう」で生きてきました。「うっせぇ、うっせぇ、うっせぇわ」という歌がありました。この間、ユーチューブをチェックしてみたら再正回数が3億5千万回でした。それだけ世の中のことにうっぷんがたまっている人が多いということでしょう。恨みや怒りを持っている人が正しいことをしても、うまくいきません。なぜなら、動機が汚れているからです。ヤコブ1:20「人の怒りは神の義を実現しないのです」とあるとおりです。

 ところで、イエス様の時代、最も「怨念晴らしの世界」で生きていた人たちとはだれでしょう?ヨハネ9章でいう「ユダヤ人」というのは、パリサイ人、律法学者、あるいは祭司たちです。彼らはイエス様を目の仇にしていました。テキストを見ると、生まれつきの盲人がイエス様によって目が開かれました。彼は「あの方が私の目に泥を塗り、私が洗いました。それで今は見えるのです」と答えました。するとどうでしょう?ヨハネ9:16「すると、パリサイ人のうちのある者たちは、『その人は安息日を守らないのだから、神のもとから来た者ではない』と言った。ほかの者たちは『罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行うことができるだろうか』と言った。そして、彼らの間に分裂が生じた。」彼らは盲人の目が開かれたという奇跡を喜ぶことができませんでした。反対にイエス様を、律法を破る罪人にしてしまったのです。彼らは自分たちを「モーセの弟子だ」と言いました。つまり、自分たちは神から律法を託されているので、人々を罪に定めることができるということです。しかし、目の前のイエス様が御父と共に律法を与えた御子であることをどうして認めることができなかったのでしょうか?それは、嫉妬です。もし、イエス様を神の子、キリストということを認めたなら、彼らは失業するからです。さらには、自分たちの身分や権威すらも失墜してしまいます。イエス様が、ぶどう園のたとえをマタイ21章で語っておられます。主人は神様で、息子はイエス様のことです。農夫であるユダヤ人は、「あれは跡取りだ。さあ、あれを殺して、あれの相続財産を手に入れよう」と話し合いました。つまり、神様から任されている宗教的特権を取られたくなかったのです。だから、イエス様を殺そうとしたのです。でも、なぜそれが怨念晴らしなのでしょう?怨念晴らしの人は、自分に対して不当な扱いをした人だけを恨んでいるのではありません。自分をそのような不条理に会わせることを許した神様をも恨んでいるのです。「神様はひどいお方だ」と本当は思っているのです。ユダ人は、そういう神様に仕えているのですから、喜びなどあるはずがありません。彼らの喜びは、モーセの律法によって人々を断罪することでした。 

世の中で人々から敬われる仕事があります。警察官、政治家、学校の教師、医師や弁護士、そして牧師です。牧師は日本では大したことはありませんが、キリスト教国ではミニスター(聖職者)と呼ばれます。なぜ、そのような仕事を好むのでしょうか?それはステータス(肩書)です。自分に劣等感がある人ほど、より高いステータスを求めます。心の中では、「自分は生まれも育ちも良くなくて三流だ」と思っています。はじめからそういうものが備わっている人は、ステータスを誇る必要はありません。なりたくてなったのではなく、人から推薦されて自然になったからです。しかし、怨念晴らしの人は、自分を推薦し、奪い取り、勝ち取る人生です。当時の宗教家たち、パリサイ人、律法学者、祭司長たちはほとんどがそういう人たちでした。もし、自分が神様から召され、神様から立てられているという自覚があるなら、目の前のキリストを敬ったはずです。しかし、目の前のキリストを殺したいと思ったのは、せっかく手に入れたステータスを失いたくなかったからです。怨念晴らしの人は、常に葛藤しています。葛藤がその人のテーマです。

3.逆転勝利への道

 ヨハネ9:3イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。」ある人たちは、「たとえ目が見える奇跡が起こらなくても、イエス様を信じられたのだから良かったんだ」と言います。そういう人たちは、病気も障害も神様が与えたものだから、甘んじて受けるべきだという信仰を持っています。だから、病気の癒しや奇跡が起こらなくても良いのです。むしろ、そういうことを期待する人はご利益信仰だと軽蔑します。しかし、ヨハネ9章全体を見ると、本当はそうではないことが一目瞭然です。この人に神のわざが現れることは、生まれつきの盲人の目が開かれたことなのです。なぜなら、イエス様はこの奇跡を通して、ご自分が世の光であることを証明されたからです。ヨハネ9:5「わたしが世にいる間は、わたしが世の光です」と書いてあります。イエス様が「なぜ、彼の目に泥を塗って、シロアムの池で洗え」と面倒なことをおっしゃったのでしょうか?彼は生まれつきの盲人で、物乞いをして生活をしていました。普通だったら「どうして私は盲人として生まれたんだ。親が悪いのか、先祖が悪いのか?他の多くの人たちは目が見えるのに、不公平だろう。神様、なんで、私が盲人になることを許したのですか?」と文句を言えたはずです。つまり、この青年も怨念晴らしで生きることができたのです。イエス様は彼をテストしたのです。1つは、地面に吐いた唾によって、泥を作り、彼の目に塗ったことです。もし、これがあなただったら、どうしますか?たとえ、目に見えなくても、「ぺっ」という音が聞こえます。そして、泥が塗られたという感覚があるでしょう。「きたないなー。なんてことするんだ」と怒ることもできたはずです。もう1つは、そのまま歩いてシロアムの池まで行って、「そこで洗え」ということです。これも、大変、屈辱的なことです。でも、彼は2つのテストにパスして、シロアムの池で目を洗いました。そうすると、見えるようになったのです。これは奇跡です。でも、イエス様の一方的な奇跡というよりは、盲人の青年の従順さも必要だったのです。

 彼は本当に幸いでした。彼ははじめて光を見て、はじめて物を見ることができたからです。その後、宗教家たちから何度も呼び出されています。彼はこのように証言しました。ヨハネ9:25 彼は答えた。「あの方が罪人かどうか私は知りませんが、一つのことは知っています。私は盲目であったのに、今は見えるということです。」これが有名なAmazing Graceの一節になっている箇所です。これは霊的な意味ではなく、肉体的な意味です。彼は肉体の目が癒されて、見えるようになったのです。因果応報ではなく、神のわざが彼の上に現れたのです。もし、彼が盲人のままであったなら、神のわざが現れたとは決して言えません。私たちは西洋のキリスト教から来た合理主義を捨てる必要があります。イエス・キリストは神であり、生まれつきの盲人の目を癒されたのです。その奇跡は、イエス様が世の光であることのメッセージなのです。でも、それだけでは終わりません。彼は肉体の目が開かれただけではなく、霊の目も開かれることになるからです。彼はその方を最初は預言者だと言いました。ところが、イエス様と直接会う機会が与えられました。彼はまだ半信半疑でしたが、どうなったのでしょうか?ヨハネ9:35-38 イエスは、ユダヤ人たちが彼を外に追い出したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」イエスは彼に言われた。「あなたはその人を見ています。あなたと話しているのが、その人です。」彼は「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝した。イエス様は彼と出会い、「あなたは人の子を信じますか」と問いかけました。彼は目の前の方がだれかわからないので、信じるに至ることができませんでした。そして、「主よ、私が信じることができるように教えてください。その人はどなたですか。」と願いました。彼は「主よ」と呼んでいますが、目の前のお方が「主」である方が分かった、つまり一致したということです。彼はおそらく「主がどういうお方なのか」という概念があったのでしょう。でも、目の前のお方が「主」であるとわかると、完全な信仰に変わりました。言い換えると霊的な目が開かれたので、「主よ、信じます」と言って、イエスを礼拝したのです。彼のこれまでの因果応報的な人生から全く解放された瞬間です。Ⅱコリント5:17「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」

 ここから結論的なことを言わなければなりません。「なにくそ人生の怨念晴らしの世界からどうやったら解放され、逆転勝利の人生を送ることができるか」ということです。パリサイ人たちは肉眼の目が見えたので、かえって霊的な盲目になり、キリストを信じることができませんでした。一方、この青年は生まれつき盲人だったので、イエス様から癒しを受け、目が開かれました。イエス様は彼の因果応報の鎖を解き放ってくださったのです。それだけでは終わりません。彼はイエス様を主として信じ、礼拝しました。これは霊的な目が開かれ、永遠のいのちが与えられたということです。彼の後の人生はどうなったでしょう?「ああ、私は盲人として生まれてきてよかったんだ。だから、イエス様と出会い、御救いをいただくことができたんだ。ありがございます。神様!」となったのです。私たちの生まれた生い立ち、不幸な境遇、たいした素質のないこと、病気や事故、不当な扱い、喪失、裏切り・・・「ああ、あれでよかったんだ。あのことがあったので、私は救われたんだ。信じる前から、神様の仕込みがあったんだ」と恨みを手放すことができるのです。この人のエネルギーが怨念ではなく、感謝になります。つまり、逆転勝利の歯車が動き始めるのです。逆転勝利のできている人は、自分の過去の不幸を自慢することができます。他の人が聞いたら「馬鹿じゃないの。なんで、自分の恥をさらすの?」と言われるでしょう。でも、その人は「こんなにひどい人生だったので、イエス様を信じることができたのです」と証できるのです。パウロはこのように言っています。ローマ8:28「神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。」この「知っている」は知的な意味ではなく、体験的に知っているということです。逆転勝利を与えるため、イエス様はあなたに出会って下さいます。