福音派は御霊に満たされることを強調し「人格的な成長のために不可欠だ」と言います。一方、ペンテコステ派は聖霊のバプテスマを強調し、「それは聖霊を受けることであり、奉仕の力の源だ」と言うでしょう。それに対して、福音派は「いや、私たちはキリストと信じたとき聖霊を受けました。聖霊の満たしは、イコール、聖霊のバプテスマです」と言います。すると、ペンテコステ派は「いや、あなたがたはまだ、聖霊のバプテスマを受けていない」と反論するでしょう。きょうは内側と外側から聖霊に満たされることについて学びたいと思います。
1.旧約聖書の聖霊
旧約聖書において聖霊はどのように人々に働いたのでしょうか?最も、顕著な例は、ライオンを倒した怪力サムソンでありましょう。士師記14:5,6「サムソンは彼の父と母とともにティムナに下り、ティムナのぶどう畑にやって来た。すると見よ、一頭の若い獅子が吼えたけりながら彼に向かって来た。このとき、主の霊が激しく彼の上に下ったので、彼はまるで子やぎを引き裂くように、何も手に持たず獅子を引き裂いた。サムソンは自分がしたことを父にも母にも告げなかった。」このところに「主の霊が激しく彼の上に下った」と書いてあります。欽定訳はcame upon himです。「上から彼の上に下ったという」イメージがあります。何度か、サムソンは上から下った聖霊によって怪力を発揮しました。ところが、彼の髪の毛が切られるとどうでしょう?「彼の力は彼を離れた」(士師記16:19)とあります。ということは、サムソンの上に注がれた聖霊は一時的であったということです。おそらく、エリヤやエリシャの力あるわざは聖霊によるものでしょう。またエレミヤ、エゼキエル、ダニエルは聖霊によって預言したのでしょう。ダビデの詩篇、ソロモンの知恵は聖霊によって与えられたものと考えられます。でも、それは一時的であったと思われます。ダビデは「私をあなたの御前から投げ捨てずあなたの聖なる御霊を私から取り去らないでください」(詩篇51:11)と祈っています。つまり、旧約時代、聖霊は、その人の上に留まったり、離れたとしたと考えられます。
では、旧約時代は私たちのように聖霊によって生まれ変わり、聖霊が内側に住むということはあったのでしょうか?おそらく、それはなかったと思います。なぜなら、イスラエルは主の戒めを守ることができず、何度も罪を犯し続けているからです。そのため、エゼキエルはこのように預言しています。エゼキエル36:26「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。」このことは、新約において成就されました。ヨハネ3章と4章は聖霊による生まれかわりと永遠のいのちについて記されています。また、ヨハネ7章ではイエス様が聖霊による内側からの満たしについて預言しています。ヨハネ7:38,39「『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。』このことは、預言であり、いつ実現するかというと、イエス様が栄光を受けられた後です。栄光とは、おそらく十字架による贖いを全うし、復活し、天に昇り、神の右に座られたときではないかと思います。ヨハネ14章、15章、16章では聖霊を「助け主」とか「真理の御霊」と言われています。ヨハネ15:26「わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。」イエス様が父のみもとから、ご自分の代わりに、地上に遣わすという意味があります。これらは、すべて預言であって、実際は古い契約の時代に属することです。
まとめて言いますと、旧約時代は一時的に上から聖霊が臨んで満たされることがありました。しかし、それは神の働きをするためのものでした。残念ながら、聖霊がイスラエル人の中に住むということはなく、人々は相変わらず罪を犯し続けました。ただし、神の霊を人の中に与えるといういくつかの預言はあります。その預言の中には、イエス様の発言も含まれているということです。
2.福音書の聖霊
福音書がすべて新しい契約かというとそうではありません。新しい契約が発布されるのは、イエス様が死なれた後です。ヘブル9:16,17「遺言には、遺言者の死亡証明が必要です。遺言は人が死んだとき初めて有効になるのであって、遺言者が生きている間には、決して効力を持ちません。」ヨハネ7章において、「イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。」といわれているのはそのためです。でも、私たちは福音書いくつかの例外を見なければなりません。それはまず、イエス・キリスト様です。イエス様は聖霊によってマリアから生まれたので、はじめから聖霊を内に宿していました(マタイ1:20参照)。イエス様はインマヌエルなるお方で、唯一「神がともにおられるお方」だったのです。イエス様はガリラヤのナザレにお住みになられ、30歳のときヨハネからバプテスマを受けました。そのとき、天が開け、神の御霊が鳩のようにイエス様の上に降ってこられました。それはどういう意味でしょう?イザヤ書61章のメシア預言の成就です。イザヤ61:1「神である主の霊がわたしの上にある。貧しい人に良い知らせを伝えるため、心の傷ついた者を癒やすため、主はわたしに油を注ぎ、わたしを遣わされた。捕らわれ人には解放を、囚人には釈放を告げ…」そうです。イエス様の奉仕の源は上から臨んだ聖霊によるものでした。イエス様は私たちと同じ人間でありましたが、神の霊、聖霊によって人々を癒し、奇跡を行うことができたのです。それは、私たちも聖霊によって同じことができるという保証であります。
もう1つの例外は11人の弟子たちが内側に聖霊を受けたことです。復活された夕べ、イエス様が弟子たちの前に現れてこのように言われましたえ。その時点では、ユダが自殺し、トマスはそこにいませんでした。でも、翌週、イエス様を仰いでいるので11人ということにしておきます。ヨハネ20:21,22「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」こう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」このところには、いくつかの解釈があります。「一時的に聖霊が与えられたゆえに、ペンテコステまで待つことができた」という考えです。私はそれよりも、イエス様が「聖霊を受けなさい」と息を吹きかけたとき、文字通り、内側に聖霊を受けたと信じます。そのことにより、彼らは聖霊によって新しく生まれ変わり、聖霊を内に宿したということです。これは私たちが経験する聖霊による新生です。ですから、聖霊を受けるというのは、キリストを信じて内側に聖霊を宿すということだと思います。新約の時代は、聖霊を宿していないクリスチャンは一人もいません。ローマ8:9「もし、キリストの御霊を持っていない人がいれば、その人はキリストのものではありません。」みことばをそのまま読むなら、例外なくクリスチャンは聖霊を内に宿しているということです。でも、ペンテコステ派は「聖霊を受ける」ということを「聖霊のバプテスマを受ける」ことだと解釈しています。それはどこから来た根拠なのでしょうか?
イエス様は天にお帰りになられる前、弟子たちにこのような約束をお与えになられました。ルカ24:49「見よ。わたしは、わたしの父が約束されたものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」これはどういう意味でしょう?少なくとも11人の弟子たちは、聖霊を内にいただき、新しく生まれ変わっていました。でも、それだけではイエス様がお命じになられた働きを全うできないということです。ギリシャ語の聖書は「着る」「まとう」「覆う」という意味のことばです。これは力である聖霊を上から着なさいということです。これはまさしく、ルカ福音書の続編、使徒の働き1章が言っていることと同じです。使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。」アーメン。言い換えると、聖霊によって新生しているだけではダメで、上から聖霊が臨まなければ力あるキリストの証人になることができないということです。ダメということありませんが、上から臨む聖霊は、サムソンのように神の働きをするために必要だということでしょう。私は聖霊のバプスマということには無知でした。キリストを信じて、聖霊を内にいただき、そのあと、聖霊に満たされること、イコール聖霊のバプスマであると考えていました。多くの福音派もこのように考えておられると思います。つまり、聖霊の満たしと聖霊のバプテスマが同じという解釈です。でも、次のポイントで詳しく述べたいと思いますが、それだけだと力がありません。ある人たちは、神様に献身して、一生懸命奉仕をします。でも、燃え尽きる人がたくさんいます。それは自分の能力や勤勉さだけでやろうとしているからです。イエス様は公生涯に入る直前、聖霊を上からいただきました。また、弟子たちも「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」と言われていました。聖霊による力が必要なのです。
3.ペンテコステ以降の聖霊
ペンテコステはあらゆる預言の成就のときです。第一は、エゼキエル書とヨハネ福音書の聖霊による生まれ変わりと満たしです。第二は、ルカ24章と使徒の働き一章の上から臨む力としての聖霊です。使徒の働き1章半ばには「120人ほどの人々が一つになって、集まっていた」とあります。その中には女性たちや、イエスの母マリア、およびイエスの兄弟たちも含まれていました。使徒2章には五旬節の日、つまりペンテコステの日、皆が同じ場所で祈っていました。ペンテコステは大麦の初穂をささげる日であり、過ぎ越し後の日曜日から、50日目にあたります。それはちょうど、イエス様が復活して、50日目(7週目の日曜日)にあたりました。使徒2:2-4「すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。」ペンテコステの日どのようなことが起きたのでしょう?最初にお話した2つのことが同時に起きたのです。第一は聖霊による生まれ変わりと満たしです。厳密に言いますと、11人はすでに聖霊を内側に受けていたので、109人ということになります。109人は聖霊によって新しく生まれ、そして内側が聖霊に満たされたのです。第二は聖霊が彼らの上に臨み、彼らは力を受けました。このことは、ルカ24章でイエス様が「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」と言われた約束の成就とも言えます。彼らは内側からも満たされ、外側からも満たされたのです。そのことを、ウィトネス・リーは『聖霊の働き』という本でこのように述べています。
ギリシャ語の「プレロー」は内側で満たすという意味です。使徒2:2「激しい風が…家全体に響き渡った」と書いていますが、原文は「家中を満たした(プレロー)」です。使徒13:52「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた」とありますが、やはり「プレロー」です。エペソ5:18「むしろ、御霊に満たされなさい」とありますが、やはり「プレロー」です。英語の聖書では、“be filled with the Spirit.”です。でも、もう1つ別の満たしもあります。それは、ギリシャ語の「プレソー」です。これは「外側で満たす」という意味です。風は内側で家を満たしましたが、聖霊はまた外側で弟子たちを満たしました。私たちはこれをバプテスマ用の水槽の水と比較することができます。バプテスマ槽は内側が水で満たされますが、だれかがバプテスマ用の水槽の中にバプテスマされるとき、彼は内側ではなく、外側が水に満たされます。ルカ1:15「その子は…まだ母の胎にいるときから聖霊に満たされ…」バプテスマのヨハネのことです。ルカ1:41「エリサベツは聖霊に満たされた。」ルカ1:67「父親のザカリヤは聖霊に満たされて預言した」とありますが、これらはすべて「プレソー」です。これはパウロも経験したことです。使徒9:17「あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです」とありますが、アナニアから祈ってもらうと実現しました。このように、日本語では「満たされた」と同じことばですが、ギリシャ語では内側の満たしと、外側の満たしの2種類あるということです。
それでは、聖霊による二種類の満たしの意味について学びたいと思います。まず、外側の満たしについて考えたいと思います。旧約聖書のサムソンは聖霊の外側の満たしでありました。バプテスマのヨハネも、パウロもそうでした。そして、もっとも顕著なのは、ペンテコステの日のことです。弟子たちが家の中にいたとき、それは激しい風のような聖霊で満たされ、彼らは外側で聖霊に満たされました。つまり、彼らはペンテコステの日に聖霊にバプテスマされたのです。バプテスマされるとは、何かの中に入ることであり、何かを私たちの中に取り入れることではありません。これは外側の満たしです。ペテロの場合は一度だけではありませんでした。使徒4:8「そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。『民の指導者たち、ならびに長老の方々』」。これは、ユダヤ人の指導者の前で尋問を受けたときのことです。使徒4:31「彼らが祈り終えると、集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り出した。」この中にはペテロも含まれていました。では、聖霊によって外側が満たされるのは何のためでしょうか?ルカ24章では「力を着せられる」、使徒1章では「力を受ける」と書かれていました。力はギリシャ語でデニュナミスであり、ダイナマイトのもとのことばです。言い換えるとそれは、奉仕の力です。聖霊は人が新生したとき、御霊の賜物も同時にお与えになられます。そのことはローマ12章、Ⅰコリント12章等に記されています。聖霊の外側の満たしは、それらの賜物を用いる力、油注ぎといえます。まるでそれは、車を走らせるガソリンのようです。いくら車が良くても、ガソリンがなければ走りません。インパーティション(授与)というのがありますが、それはその人の上に手を置いて祈ることです。パウロはテモテに「私の按手によってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください」(Ⅱテモテ1:6)と言っています。ということは、与えられた賜物はなくならないかもしれませんが、それを用いる力が枯渇することがあるということです。ですから、聖霊の外からの満たし、油の補給が必要なのです。
次は内側が聖霊に満たされることについてです。まず、最初の段階はイエス・キリストを信じることです。そのときに、聖霊が内に宿ります。ヨハネ4章でイエス様は「私が与える水を飲む者は、その人の内で泉となり、永遠のいのちの水が湧き出ます」と言われました。ところが、ヨハネ7章では「私を信じるものは、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水が川のように流れ出るようになります」と言われました。これは、内側の聖霊の満たしと言うことができます。使徒6:3「そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい」とありますが、これはプレローという内側の満たしです。使徒7:55「しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て」も内側の満たしです。きわめつけは、エペソ5章のみことばでしょう。「また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい」。ビリーグラハムは「御霊に満たされるためには、罪を悔い改め、服従してゆだねることである」と『聖霊』という本で述べています。しかし、逆もあります。私たちが御霊に満たされると罪を捨てたくなり、すべてをすてて神様に従いたくなるのです。ルカ11章には「求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ11:13口語訳)と書かれています。聖霊は最も良い神様の贈り物であり、神様の方が、私たちが与えたくて仕方がないのです。内側の満たしは、人格的な成長、キリストの御姿にためには欠かせないものであり、すべてのクリスチャンが求めなければならないものです。内側が聖霊に満たされているなら、怒ったり、悲しんだり、罪を犯すことができません。もちろん、私たちには肉があるので、何かのことで反応することはあります。しかし、それは一瞬です。香港のベン・ウォン師は「私は5分以上、落ち込んだことがない」と言いました。時には、むかっとくることがあるでしょう。でも、5分間がリミットです。その後は、「ハレルヤ!主よ、感謝します。赦します。愛します。アーメン」。すると、すぐ聖霊に満たされます。常に、聖霊に満たされた状態が標準的なクリスチャンであることを認めたいと思います。このように言った私自身がものすごいチャレンジになります。
今日は、「内側の満たし」と「外側の満たし」と二つに分けて学びました。聖霊に対する立場は千差万別と言えます。チャックスミス師が『カルバリーチャペルの特徴』という本でこのようにおっしゃっています。「カルバリーチャペルを他の教会と明確に区別できるものは、聖霊に関する私たちの立場です。私たち信仰者はその歩みの中で、聖霊によって力を受ける体験をすると信じています。その体験は、人が回心したときに聖霊が内側に住まわれることとは明らかに異なった体験を指します。パウロがエペソの人々に、彼らが信じたとき、また信じた後に「聖霊を受けましたか?」と聞きました。どの訳の聖書にも、明確に聖霊による体験があること、そしてその体験は救いにおけるものとは明らかに異なることを教えています。」引用は以上ですが、私は最初、ビリーグラハム師の立場をとっていたので、チャックスミス師の立場に疑問を持っていました。でも、「上から聖霊によって満たされることが、聖霊のバプテスマである」と言えたのは10年そこそこだと思います。結論を申し上げますと、このようなことです。聖霊は神様から与えられたもっともすばらしいThe giftといえます。なぜなら、旧約時代は聖霊が人の内にお住みになるということがなかったからです。しかも、聖霊によって新しく生まれ変わり、神とともに歩むことが可能になりました。ところが、リバイバルが起こると、聖霊の働きも顕著になり、どちらかと言うと聖霊の賜物や力が強調されます。また、聖霊による不思議な体験を伴うこともあり、それが標準になったりします。聖霊の品性と聖霊の力のバランスが必要です。時にはバランスが崩れて、片方だけを強調するときもあるでしょう。「そういうこともあるんだ」と思って、他方からも学ぶ柔軟な姿勢が必要です。体験は人それぞれ多様性があるので、その体験で神学を作ってはいけません。ビル・ジョンソンは「イエス・キリストご自身が神学である」と言いました。イエス様は、きよくて愛のあるお方でした。また、イエス様は力あるわざをいつでも行いました。イエス様はその両方を持っておられたお方です。私たちはイエス様を模範にすべきです。私たちに与えられた聖霊はキリストの御霊であることを忘れてはいけません。聖霊が私たちの中に住み、神と共に歩むことが可能になりました。聖霊が上から臨み、私たちは神のわざを行うことが可能になりまいした。