クリスチャンは「私は救われました」と言います。確かに義と認められ、神の子となっているでしょう。でも、その人の生活ぶりをみるとどうでしょう?あるところは変わったかもしれませんが、相変わらず古い人のような生活ぶりかもしれません。ある人たちは「天国に行くまでは仕方がありません。なぜなら、罪は赦されていても、肉があるからです」と言い訳するでしょう。でも、どうしたら罪と肉から解放され、御霊に満たされた信仰生活を送ることができるのでしょうか?きょうはそのことをピリピ人への手紙を中心に学びたいと思います。
1.救いの始まりとは
最初に理解すべきことは、救いには始まりがあり、完成があるということです。ピリピ1:5-6「あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」パウロは第二次伝道旅行のとき、マケドニアに渡り、ピリピで伝道しました。そのとき、紫布の商人リディアとその家族が救われました。その後、占いの霊につかれた女性を解放すると、迫害を受け、鞭打たれ、牢に投げ込まれました。パウロとシラスが夜中に賛美していると大地震が起こり、牢獄の土台が揺れ動き、扉も開き、鎖も外れてしまいました。看守は囚人たちが逃げ出したと思い、自害しようとしたとき、パウロがそれを止めました。彼は「先生方、救われるためには、何をしなければなりませんか」と聞きました。二人は「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言いました。パウロが主の言葉を語ると、看守とその家族全員が、信じてバプテスマを受けました。このとき、パウロが言うように、看守とその家族は救いを受けたのです。これが、ピリピ1章に書かれている「最初の日」のことです。その後、パウロはローマに捕らえられ獄中から手紙を書いています。「最初の日から今日まで」と言っていますが、おそらく、最初の日から十年くらいたっていたと思われます。パウロはピリピの人たちに何と書き送っているでしょう?「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。」と言っています。ここで言われている「良い働き」というのは、彼らが救われたことです。しかし、パウロは「キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています」と言っています。ということは、彼らが救われたことは確かであるけれど、世の終わりキリストが再臨されるとき、救いが完成するということです。重要なことは救いの始まりも、救いの完成も神様の恵みでなされるということです。
ピリピの人たちは福音を聞いて信じたとき救われました。私たちもイエス様を信じてバプテスマを受けて「私は救われました」と証します。でも、救いは完成を待っているのに、救われたと言えるのはどういう意味でしょう?そのことをパウロはピリピ3章でこのように述べています。ピリピ3:9「キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです。」ローマ3章にも書いていますが、私たちはキリストを信じたとき、神から義と認められました。これを「信仰による義」と言います。これは法的な意味の救いであり、神様がキリストの贖いによって、もう罪に定めないということです。そのことはキリストを信じると即座に与えられる、神からの賜物(プレゼント)です。行いによるのではなく、恵みによるものです。他にも救いを表現することばが聖書にあります。ガラテヤ4章とローマ8章には「神の子とされた」と書かれています。私たちのアイデンティティ、身分とは神の子どもであるということです。たとえ罪を犯すことがあっても、神の子という身分は失うことがありません。さらには、「新しく生まれる」という表現もあります。私たちは霊的に新しく生まれた存在であり、永遠のいのちを持っています。義認、神の子、新生、永遠のいのちは、イエス・キリストを信じたときに即座に与えられる「救い」であります。ですから、私たちクリスチャンは「私はキリストを信じて救われました」と言って良いのです。でも、「キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」とありますので、完成していない分野もあるということです。
2.救いの完成を目指して
パウロはピリピ3章でこう述べています。ピリピ3:12-14「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。兄弟たち。私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、キリスト・イエスにあって神が上に召してくださるという、その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。」このところには、「完全」とか「すでに捕らえた」「賞をいただく」「目標」ということばが並んでいます。これらは、すべて「救いの完成」を述べています。つまり、救いには始まりがあり、完成があるということです。では、私たちは未完成の救いをいただいたのでしょうか?あるいは不完全な救いをいただいたのでしょうか?そうではありません。神様は私たちがキリストを信じたとき、完全な救いを与えてくださいました。たとえば、私たちが車を購入するとき、未完成のものを買って乗るでしょうか?そんなことはありません。テレビのCMで見ますが、昔のスポーツカーを自分で組み立てていくというものがあります。模型の一部がくっついた本を12ヶ月買い続けると、完成するのです。他に飛行機や船などがありますが、1つ1つ組み立てていくなんて気が遠くなります。それだったら、完成したミニチュアの方が良いでしょう。あまり良い例でなかったかもしれません。では、生まれたての赤ちゃんは人間でしょうか?たとえ赤ん坊でも、人間として完成しています。頭、目や耳、口、手足・・・すべてそろっています。ただ、小さくて、これから大人へと成長していくのです。でも、身体的に、存在価値においても、一人の人間には変わりありません。救いもこれと同じで、私たちは神の子どもであり、完全な救いをいただいているのです。
私たちはキリストを信じると、義と認められます。これは法的な意味で無罪であるばかりか、神の義に達しているということです。では、その人は今後、罪を犯さないのでしょうか?この意味はたとえ罪を犯したとしても、神の目から見たらキリストのゆえに義と認められているということなのです。もちろんこの世においては、犯した罪は悔い改め、ある場合は償いが必要でしょう。でも、義と認められ、罪が赦されているので、私たちの悔い改めが有効なのです。ヨハネはこのように言っています。Ⅰヨハネ3:6「キリストにとどまる者はだれも、罪を犯しません。」、Ⅰヨハネ3:9「神から生まれた者はだれも、罪を犯しません。神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。」このまま読むと、何かの間違いでないかと思ってしまいます。ヨハネは法的な意味だけではなく、「性質が変わったので、罪を犯し続けることができない」と言っているのです。これまでは罪を犯しても何とも思いませんでしたが、新しく生まれると、罪を犯すことが不自然になるのです。これは救いを得ている人の証拠です。私たちは外側において、義とされています。また、身分的にも神のこどもとされています。私たちはコリントの人たちのように、聖徒であり、聖なる者なのです。神様はこのように完成した救いを私たちにお与えになったのです。でも、それは救いのスタートであり、これから私たちの内側が義となり、神の子らしくなり、実質的に聖なる者になっていくということです。これを神学的にこの過程を聖化と言っています。
だからパウロは、「私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。」と言っているのです。ここで重要な表現は、「キリスト・イエスが私を捕らえてくださった」ということです。これは、キリストが私たちを捕らえ、完成に導いてくださるということです。1章6節の「キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださる」と全く同じです。私は土木の現場監督を5年間したことがあります。高速道路や浄水場、宅地造成などに携わったことがあります。その中で最も重要なイベントは、コンクリート打設工事です。大工さんが型枠を作り、支保工を施します。最後にコンクリートをその中に流し込むのです。1ヶ月未満で型枠をばらすと、構造物の出来上がりです。私は最初に与える救い、義認、神の子とされること、聖徒とされるのは、外の型枠のことではないかと思います。外の型枠どおりに、コンクリートが固まります。つまり、型枠が最も重要であり、これが完全でなければなりません。Ⅱコリント5:17「ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」これも救いのみことばですが、私たちクリスチャンは本当に新しくなったのでしょうか?実質的にはそうでなくても、神様の目から完成しているということです。後から、中身がそうなっていくのだと考えるのが本当でしょう。でも、神様は既にそれがなったようにおっしゃるのです。これは神様の約束であり、神様の信仰と言うことができるでしょう。神様が私たちを捕らえているので、私たちは完成を目指して歩むことができるのです。
救いの完成のことが、もう一箇所書かれています。ピリピ3:20-21「しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自分に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光に輝くからだと同じ姿に変えてくださいます。」やはり、世の終わり、キリストが再び来られるとき、私たちの救いが完成するということです。私たちの中から罪の性質が消え去り、滅び行く肉体も復活のからだをいただき、文字通り永遠の御国にふさわしい者となるのです。私たちは地上にあって、救いをいただきながら、完成を待ちつつ生活しているのです。
3.救いの達成の手段
これまで救いの始まりと救いの完成についてお話しました。ある人たちは、キリストを信じて天国行きが決まったのだから、気楽に暮らせばよいと考えるかもしれません。実は救いの始まりと救いの完成の間が問題なのです。このことは聖化と呼ばれ、神の子どもとして成長していくことです。前のポイントの例で言いますと、構造物の型枠に、コンクリートが流し込まれていくということです。通常のコンクリートはすぐ固まりますが、「聖化」の場合は、一生かけてゆっくり固まっていきます。救いの始まりから、救いの完成に至るプロセスも重要だといういうことです。パウロはこの地上において、どのように救いを完成していくのか、私たちの役割について述べています。ピリピ2:12「こういうわけですから、愛する者たち、あなたがたがいつも従順であったように、私がともにいるときだけでなく、私がいない今はなおさら従順になり、恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい。」パウロは、「恐れおののいて自分の救いを達成するよう努めなさい」と言っています。「え?私たちは救われたのではないですか?なのに、『救いを達成するように努めよ』とはどういうことでしょう?しかも、「恐れおののいて」とは怖いです。「聞いてないよ!」と言いたくなります。神様はあえて、私たちが栄光から栄光へと主の姿に変えられていく、完成へのプロセスを与えておられます。それは私たちの苦しみでもありますが、同時に天国を先取りする喜びにもなるのです。では、どのように神様は私たちを実質的に神の子どもらしくしようとするのでしょうか?神学的に聖化は2つの面で言われています。1つはアダムにつく古い人である罪からの解放です。ローマ6章には「私たちの古い人は十字架につけられた」と言っています。神様は罪の赦しだけではなく、罪からの解放の道を与えてくださったのです。2つ目は肉です。からだの中にしみこんでいる罪の残りかすがあります。ガラテヤ書5章にあるように、私たちはこの肉を主体的に十字架につける必要があります。怒り、反抗心、ねたみ、高慢、汚れなど、発見次第すぐ十字架につけるのです。これが、イエス様が言われた日々十字架を負うということです。罪から守られるためには、御霊に満たされ、御霊によって歩むということです。そうすれば肉の欲を満たすことがありません。主の御霊によって、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。
ヘブル12章では「私たちが真の子どもだから、父なる神さまが訓練するのです」と言われています。私たちは聖書の物語から、主が神の人を砕いて、そして再生するという事実を発見することができます。アブラハムは子どもが生まれないので、そばめによって子を儲けました。そのため彼は13年間の沈黙を通されました。99歳でやっとイサクが生まれました。ところが、主から、ひとり子イサクをいけにえささげるように命じられました。刃物を下ろす寸前にストップがかかり、完全なものと認められました。ヤコブは父と兄をだまして、ラバンの所に逃げました。ラバンはヤコブよりに狡猾であり、彼のもとで20年間仕えることになりました。故郷に入るヤボクの渡しで、ヤコブは天使と朝まで格闘しました。最後にもものつがいが触れられ、足をひきずるようになりました。彼の名前はヤコブからイスラエル(神の皇太子)になりました。モーセは40歳のとき同胞を救うべく立ち上がりました。そのときエジプト人を殺したために、ファラオから追われ、荒野で羊飼いなりました。40年の時を経て彼の性質が全く砕かれ、神の器になりました。これらは訓練であり、試練でした。でも、そのことによって彼らの自我や能力、生まれつきの性格が砕かれ、神様に完全に従うようになりました。このことは新約聖書の私たちにも当てはまるのではないかと思います。私も亀有教会に赴任した当初、「3年で100名礼拝になる、ならかなったらやめる」と断言しました。あれから、35年、礼拝が100名になったことは一度もありません。大川牧師から「どうして100名ならないの」と度々聞かれましたが、もう、言い訳の種はなくなりました。神様は私の願いは受け止めてくださったと信じますが、それよりも私の魂を砕くことがより重要だと考えられたに違いありません。
ウォッチマン・ニーは、魂が砕かれて聖化されることを、『霊の解放』という本で、「聖霊の按排」と言っています。人が救われるやいなや、聖霊はこの働き(魂を砕くこと)を始められます。しかし、聖霊がこの働きを通して完全な自由を得ることができるには、ある一定の時間が経過しなければなりません。いつ聖霊は完全な自由を持つことができるのでしょうか?それは、私たちが自分をささげる時です。人が救われた日は、聖霊が訓練する働きを開始する日です。そして、人が献身する日は、聖霊が訓練する働きを行うための完全な自由を持たれる日です。ある時、神は私たちの思想に触れられます。私たちは、自分は利口であり、何でも知っており、他人が思いつかないことを思いつくことができると考えています。このため、主は私たちが何度も間違ったり、躓くことを許されます。それは私たちが自分の思想に対して用心するようになるためです。また、神様は私たちの感情を対処されます。彼らは自分の感情によって、完全に操縦されています。彼らは自分の感情の中にこのように生きているので、自分の感情を正当化さえします。こういうわけで、神はあらゆる種類の環境を通して、彼らの感情を対処しなければなりません。彼らは自分の感情ではなく、神の恵みとあわれみによって生きることができるだけなのです。また、神様は意思に触れられます。自分がどんなに頑固で独断的であるかを見出すには、人は神の対処を経過しなければなりません。人は常に自分を信じており、自分の意見や、感情や、方法や、見解は正しいものと考えています。パウロは多くの方法で神の恵みを見出し、ピリピ3章3節で「肉を頼みにしない」と言いました。彼はもはや自分の肉に信頼しないと言ったのです。神様は思いと感情と意思を砕いてくださり、神様により頼む者にしてくださるということです。
一方、ウィットネスリーは『命の経験』という本で、「聖霊の管理」と言っています。聖霊の管理には二つの特徴があります。一つは一時的なもので、他は長期間のものです。一時的な管理は、ほんの短期間だけのもので突然やってきてすみやかに過ぎ去ってしまうものです。長期の管理は長い時間のもので、少なくとも数年、一番長いものは全生涯続きます。ですから苦痛は大きく、また砕きはきびしいものです。たとえば神がある兄弟に喧嘩好きの妻を与えるとします。あるいはある姉妹に非常に理不尽な夫を与え、毎日耐えられないほどの苦しみを経験させるとしましょう。キリスト者として彼らは離婚できませんので、妻は夫にとって生涯の管理になり、また同様に夫は妻にとって生涯の管理となります。長期の管理は、たいてい私たちがいつも接触する環境、たとえば家庭、職業、教会や親族の中にあります。これらの中で家族の管理は最も長期で、また最もきびしいものです。家族の中の子どもたちも管理の手段です。子どものない人々は、いつも子どもを持ちたいと願います。しかし彼らの願いにもかかわらず、ある人々は子どもがないままです。多くの子どもを持っている人は、もうたくさんだと思います。従業員は解雇できますが、子どもは自分が好きでなくても一緒に暮らさなければなりません。子どもたちは全生涯につきまとい、母親にとって長期間の管理となります。教会もまた人が厳しく管理される場所です。神は私たちが単独のキリスト者でおれないように定めておられます。それで、私たちは教会の中にあり、からだの中にいて、兄弟姉妹たちと取り組んで主に仕えなければなりません。しかし神はまたとても特殊な兄弟と姉妹を、私たちと一緒になるよう按排されます。彼らは主を愛し献身した兄弟姉妹ですが、一風変わった性格を持っています。彼らはいつも私たちと衝突して、私たちを苦しめます。これもまた聖霊の長期の管理です。
引用は以上ですが、「なるほどなー」と思ったところもあったでしょうか?つまり、神様があなたのそばに置いている人物は単なる偶然でもなく、不幸でもありません。神様は、あなたを管理するため、あえて側に置いて按排してくださっているのです。どうぞ、自分を砕いて、栄光の姿に変えてくれるために手伝っている、あなたの夫、あなたの妻、あなたの子ども、あなたの同僚、あなたの教会の兄弟姉妹に、あなたの牧師に感謝しましょう。ヘブル12:11「すべての訓練は、そのときは喜ばしいものではなく、かえって苦しく思われるものですが、後になると、これによって鍛えられた人々に、義という平安の実を結ばせます。」アーメン。