私は土木の現場監督を5年間勤めたことがありますが、その中でもっとも重要なことは何かということを学びました。それは「段取り八分、仕事は二分」という格言です。これは先を読んで、前もって準備をしておくということです。私の場合は、測量をし、施工図を書き、材料を発注しておけば、下請け業者が重機や人員を配置して自分たちでやるということです。段取りが悪いと、人が帰ってしまい、工期が遅れてしまいます。それと同じように、私たちクリスチャンは以下の四つのことを前もって準備する必要があります。
1.世の終わり
まず、第一に私たちは世の終わりに対する準備をする必要があります。マタイ24:42「ですから、目を覚ましていなさい。あなたがたの主が来られるのがいつの日なのか、あなたがたは知らないのですから。」マタイ24章は世の終わりの前兆とキリストの再臨について書かれています。でも、それがいつなのかわかりません。イエス様は、ノアの箱舟、臼を引いている女性、泥棒、しもべ頭など、4つのたとえを用いて、準備することの重要性を教えています。共通していることは「思いがけないときに来る。だから、目をさましていなさい」という命令です。マタイ25章になると、花婿を迎える愚かな娘と賢い娘のたとえが記されています。マタイ25:5「花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった」と、書いていますが、娘たちとは教会のことです。つまり、世の終わり、教会の人たちは霊的に眠ってしまい、世の終わりとキリストの再臨に全く備えなくなるということです。なぜかというと、これまで世の終わりがいつ来るかその日を明言して失敗に懲りたので、メッセージしなくなったということです。確かに、世の終わりのメッセージはとてもセンセーショナルで、極端になると仕事も勉強も日常生活すらもどうでも良くなります。昭和5年頃、ホーリネス教会でリバイバルが起こりました。しかし、再臨問題が加熱して、ある人たちは白い衣を着て、屋根に上り、キリストを待っていました。熱心過ぎるあまり、日常生活を後回しにしたのです。その後、教団は分裂し、「羹に懲りて膾を吹く」ということが起こりました。つまり、「再臨(世の終わり)の説教は危ない」ということで、あまり話さなくなったということです。
確かに急進的になるのは良くありません。これまでの教会の歴史においてそういうことが幾度も起こったからです。でも、世の終わりは聖書が言うように必ずやってきます。問題は、バランス感覚です。今晩来るか、10年後に来るか、あるいは50年後なのか、いつ来ても良いように備えるということです。そのためイエスさまは以下の前兆を見極めるように教えられました。偽キリストの出現、戦争や戦争のうわさ、民族間の紛争、飢饉と地震が起こるといわれました。しかし、イエス様は「これはすべての産みの苦しみの始まりなのです」(マタイ24:8)と言われました。つまり、世の終わりにそういうことがあるけど、それは始まりに過ぎないということです。確かに20世紀末、二つの世界大戦が起こりました。その後、アフリカや黒海周辺、西アジア、東南アジアで民族間の争いが起こり、今も継続しています。難民があふれ、行き場を失っています。飢饉も地震も激しさを増しています。温暖化によるハリケーンや洪水が世界各地に起きています。これから、偽預言が大勢現れて、多くの人を惑わすでしょう。不法がはびこり、多くの人の愛が冷え、犯罪率がますます高くなり、凶悪な事件が起こるでしょう。戦争や内戦は今も絶えません。ロシアとウクライナは過熱する一方です。イスラエル軍は、パレスチナのガザ地区でのイスラム組織、ハマスと戦闘をしています。それに加え、イランの支援を受けるレバノンのヒズボラへの攻勢を強めていて、首都ベイルートなどへの空爆を続けています。イスラエルは一向に戦争をやめようとしません。
これから起こる、最も決定的な出来事とは何なのでしょうか?使徒パウロがⅡテサロニケ2章でこのように教えています。Ⅱテサロニケ2:3-4「どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけません。まず背教が起こり、不法の者、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないのです。不法の者は、すべて神と呼ばれるもの、礼拝されるものに対抗して自分を高く上げ、ついには自分こそ神であると宣言して、神の宮に座ることになります。」これは、エルサレム神殿が再建され、不法の者、すなわち滅びの子が現れるということです。ヨハネ黙示録13章によると、「獣」と呼ばれる人物が現れ、人々の右手か額に獣の刻印を受けさせると書かれています。今はその準備として、「一つの世界、一つの経済、一つの宗教になるように」と叫ばれています。もし、この「不法の者、滅びの子」が現れたなら、手遅れと言っても過言ではありません。恐ろしい、迫害と艱難が直ちにやってくるでしょう。今は比較的穏やかであり、「そんなことは起こらない」とキリスト教会も思っています。そうではありません。世界は反キリストの出現の準備をしています。イエス様もパウロも「主の日は、盗人が夜やってくるように来る」とはっきり述べています。ですから、私たちは光の子どもらしく正しい生活をし、霊的に目を覚ましていることが重要なのです。世の終わりであるキリストの再臨は、今晩来るか、10年後来るか、あるいは50年後なのかわかりません。しかし、私は世界の情勢からして30年以内ではないかと考えています。
2.人生の終わり
第二は私たちの人生の終わりに対する準備です。私たちはこの世に生まれた限りは、必ず死にます。あと50年たったらCSとジュニアを除いて、ほとんどいなります。私は30年もいりません。今晩か、来年か、長くて10年数年後でしょう?車も10年乗っていると、いろんなところにガタがきます。ボディのひこみ、足回り、ミッション、エンジン…。人間の体も自動車部品のように交換が可能であれば良いのですがそうはいきません。現代はがんでなくなる人が50%だと言われています。でも、江戸時代の平均寿命は50歳でした。現代は良いものを食べ、医療が発達したので、30年位長生きするようになったのです。がんのせいではなく、平均寿命が延びたからいろんな疾病が出てきたのではないかと思います。とにかく、ある程度、寿命は伸びたけれど、死はだれにでもやってくるということです。この世では「終活」と言うようですが、お葬式やお墓、あるいは財産の整理のことを指すのかもしれません。私もいつ死んでも良いように、身の回りの整理をしなければならないと思うようになりました。テレビで「遺品整理」をする人を見たことがあります。最低は30万円くらいかかるそうです。家族に迷惑をかけないように、ダンシャリを心がけなければなりません。「今使わなくても、いつか使うだろう」としまっているものは、「将来、二度と使わない」と考えなければなりません。洋服、本、写真、趣味の品々…。家内の父と母が亡くなりましたが、実家にはお布団とか、毛布、衣類が山のように残っているそうです。私も一回、いや二回、頭を打って入院したのですから、心を鬼にして、ダンシャリを断行したいです。
では、究極的な意味での「人生の終わりに対する準備」とは何でしょう。まだキリストを信じていないなら、それは神と和解して永遠のいのちを得ることです。伝道者の書12:1「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない』と言う年月が近づく前に」と書いてあるとおりです。私たちクリスチャンは、今晩、心臓が止まっても神さまの前に立つことができます。不思議なことに、キリストを信じると死に対する恐れが消え去ります。ですから、人生の終わりに対する準備はキリストを信じることではありません。準備すべきことは、「キリストのさばき」です。キリストのさばきは、黙示録20章にあるような、永遠の滅びを決定するための「神の白い御座のさばき」ではありません。御国(千年王国)において、どのような報いを受けるかを決める信仰者に対するさばきです。Ⅱコリント5:10「私たちはみな、善であれ悪であれ、それぞれ肉体においてした行いに応じて報いを受けるために、キリストのさばきの座の前に現れなければならないのです。」このところにははっきり「キリストのさばき」と書かれています。これは、生前、信仰者としていかに忠実であったかどうか、審判されるところです。マタイ25章の前半には「タラントのたとえ」が記されています。これは自分に与えられた賜物や使命に対していかに忠実であったかどうか問われるということです。多く与えられた者はそれだけ責任があります。たとえ与えられたものが小さくても地面に隠して運用しないならさばかれてしまいます。また、マタイ25章の後半には「小さい者に対する親切」に関して記されています。一見、信仰義認と反するようですが、そうではなく、千年王国に入れないということです。でも、信仰者であるならやがて来る、新天新地には入ることができると信じます。この地上の生活はやがて来る御国(千年王国)での報いがあるかどうか決定する重要な期間です。「キリストを信じて洗礼を受けたのだから、天国に行ける」と安易に考えてはいけません。やがて来る御国は決して平等ではなく、報いを受ける場所であることを覚えなければなりません。
Ⅰコリント3章には、「キリストという土台の上にどのような材料で建物を建てたかどうか」問われています。Ⅰコリント3:12-15「だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、それぞれの働きは明らかになります。『その日』がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。だれかの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。だれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、その人自身は火の中をくぐるようにして助かります。」この報いはノーベル賞やオリンピックのメダル、あるいは叙勲褒章(じょくんほうしょう)とは違います。この地上でそのような光栄に預かった人が、御国で同じような報いが受けるかというと全くそのようなことは関係ありません。たとえ、この世で報いを受けられなくても、神の御前で報いを受けられたら、すばらしいです。私たちは地上よりも、永遠につながる報いを得るために生活したいと思います。
3.季節
人生には季節があります。ライフ・ステージの備えともいえます。幼少期は親の愛情が必要な養育のときです。青年期は知識や能力を蓄えつつ、いろんなことにチャレンジします。壮年期は人間関係を重んじながら、能力や機会を用いて実を結ぶときでしょう。老年期はこれまでの実を楽しみつつ、来世の備えをするときでしょう。伝道者の書3:1「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある」と書かれています。キングジェームズ訳はthere is a seasonと書かれています。天の下、つまりこの地上では「定まった季節がある」ということです。種まきの季節でないのに種をまいても芽が出ません。刈り取りの季節なのに、ボーとして怠けていると、実を腐らせてしまいます。昔、「蟻とキリギリス」というイソップ童話を読んで複雑な思いをしたことを覚えています。現代ではキリギリスは「フリーター」のことを言うのでしょうか?でも、老後になって年金がもらえるかどうかわからないのに、「がんばれ!」ともいえません。私がもっとも言いたいことは、神がその人に与えたdivine destiny神の運命があるということです。その神さまが、私たちの運命が全うされるように働いておられるとしたらどうでしょう?私はordainということばが大好きです。Ordainとは、神あるいは運命があらかじめ「定める」という意味です。旧約聖書のヨセフがまさしく、そのような人生を送りました。幼少期はヤコブから溺愛され、甘やかされて育ちました。青年期はエジプトの奴隷として苦難と孤独をなめた人生でした。しかし、壮年期はエジプトの宰相になり、これまでの苦労が報いられました。老年期はイスラエルの部族を繁栄させるために用いられました。伝道者の記者はソロモンではないかと思われていますが、「蟻とキリギリス」のキリギリスだったのかもしれません。この地上で栄華を極めたかもしれませんが、御国における報いはゼロに等しいものだったでしょう。
私はこの年になって、「すべての営みには時がある」ということを若者に言いたいです。今の大学生はバイトばかりして勉強しません。若いときは記憶力や創造力がとても旺盛で、勉強や研究にとても向いています。年をとってくると記憶力もなくなり、新しいアイディアも生まれなくなります。確かに判断力や統合する能力は増しますが、情熱がありません。若い人の最もすばらしい資源は、情熱だと思います。年をとってくると体力も減退しますが、最も恐ろしいのは情熱が消え去ることです。この世では「気力」と言いますが、私はあえて「情熱」と申し上げたいです。情熱は英語でenthusiasmと言います。これはギリシャ語で、「○○の中に」というエンと、神というセオスが合わさったことばです。Enthusiasmを直訳すると、「神がかった」「神がうちにいる」という意味になります。つまり、情熱は神さまが青年に与えた恵みであると信じます。でも、たとえ年をとっていても、情熱があるなら青年と呼べるかもしれません。何を言いたいか?若さは神さまのプレゼントだということです。体力、知性、創造力、情熱においてすばらしい可能性(ポテンシャル)があるということです。だから、若いときに、キリギリスのように遊びほうけないで、勉強し、研究し、チャレンジすることが重要なのです。しかし、若さが神の贈り物であると本当に分かるのが老年期であるということが悲しいです。人生には季節があります。私も「この教会を去ったら、どうすべきなのか」、次のステップ、次のステージと考えていたら,ずるずると年をとってしまいました。亀有教会に赴任したのが1987年です。満40年は2027年ですから、あと二年半しかありません。宗教法人の代表役員というのは、簡単に交代できませんので、次の人と数年、並行しなければならないと思います。飛行機が飛んだら、最後は着陸しなければなりません。私たちは季節にあったライフスタイルをすべきです。どうぞ、「次のステップ」「次のステージ」を見据えた生き方をなされますように。でも、究極的なステップは、永遠の御国であることを感謝したいと思います。お墓に入ることではありません。永遠の御国に入ることです。
4.リバイバル
すべてのクリスチャンは、リバイバルの準備をすべきです。使徒2:17「神は言われる。終わりの日に、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。」このところには、リバイバルには年齢が関係のないことが分かります。なぜなら、預言、幻、夢は聖霊による啓示と理解することができるからです。これらはこの世の人たちが言う語彙とは全く違います。だれでも聖霊が臨んだなら、預言や幻、夢を見ることができるということです。それはリバイバルであり、神の訪れです。ルカ2章に年をとった人物が2人登場します。一人はシメオンです。彼は幼子を腕に抱いて、神をほめたたえてこう言いました。ルカ2:29,30「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。」もう一人は女預言者アンナです。彼女は7年間夫もともに暮らしましたがやもめとなり、84歳になっていました。計算すると30歳前後から50年はやもめであったということです。人間的にはとても気の毒な人物です。でも、そのことにより彼女は宮を離れず、断食と祈りをもって神に仕えていました。彼女がシメオンのところに近寄って来て、感謝をささげました。その後、どうしたでしょう?「エルサレムの贖いを待ち望んでいたすべての人に、この幼子のことを語った」(ルカ2:38)とあります。つまり、福音を宣べ伝えたということです。これこそが、聖霊が臨んだ人たちの姿です。リバイバルが起こったら、年齢は関係ないというおことです。まさしく、Enthusiasm「神がかった」「神がうちにいる」ような人になるということです。
ところでリバイバルとはどういう意味なのでしょうか?revivalは復活とか再生という意味ですが、キリスト教会では霊的復興という意味で使われます。ペンテコステの日に起こったようなことが再び起こるということです。ペンテコステの日、聖霊が降臨して教会が誕生しました。そのことは使徒の働きに記されています。大勢の人が救われ、奇跡や癒しが起こりました。そして、世界中に福音が宣べ伝えられ、あちこちに教会が生まれました。今日的にリバイバルが起こると4つのことが起こると言われています。第一は眠っているクリスチャンが目覚めるということです。キリスト教会の大覚醒です。第二は未信者に飢え渇きが与えられ、大勢の人たちがキリストを信じて救われます。第三は新約聖書にしるされているような奇跡やしるしが日常的に起こります。第四は社会の変革が起こります。犯罪が減るので警察官が暇になります。政治や教育やビジネスに聖書の原則が適用されるようになります。でも、良いことばかりではありません。以下のことを知って備えることが、リバイバルの準備になります。リバイバルは神が一方的に起こしてくれる主のみわざです。私たちの役目は、一度起きたリバイバルをできるだけ長く持続させることです。リバイバルの平均寿命は3年と言われています。残念ですが、リバイバルを非難する人が必ず起こります。問題ばかりに目を留めるならば、聖霊の火を消すことになります。リバイバルには代償が伴います。迫害や辱めを受ける覚悟があるかどうかです。初代教会の弟子たちも議会の前に立たされ、鞭打たれ、今後イエスの名によって語ってはならないと脅されました。それにもめげず、信仰を貫き通しました。つまりリバイバルには代償を払う覚悟が必要だということです。私は自分が生きているうちにリバイバルが見たいです。日本のプロテスタント教会の歴史は100年あまりで、クリスチャン人口が1%にも満ちていません。世の終わりが近い今、この国にはリバイバルしかありません。リバイバルは神様次第ですが、まず、私たち個人がリバイバルされることが必要です。そして、一旦、リバイバルが起こったなら聖霊様のみわざを尊重し、人間的な思いを一切捨て去ることです。どんな迫害やあざけり、誤解やデマも批判も乗り越えてできるだけ、リバイバルの時間を延ばすことです。
自分の胸に手を当てて考えてみますと、「リバイバルへの情熱が薄らいでしまったなー」と思います。自分の人生の終わりとリバイバルを一緒に考えてはいけません。自分の代で見ることができなかったなら、次の代がリバイバルを見ることができるように備えなければなりません。アブラハムはイサクに財産を残しました。ダビデはソロモンに神殿の材料を残しました。私たちが残すべきものは信仰です。そして、日本の教会にもリバイバルが起こるという希望です。昔、ロシア北部の川にサケがたくさん上ってきたことがあるそうです。川沿いの人たちは網がなかったので、あまり捕ることができなかったそうです。人々が急に教会に押し寄せてもよいように、個人伝道法を身に着けておきましょう。個人伝道の方法として、「四つの法則」があります。神の愛、人の罪、キリストの贖い、信仰です。イエス様を救い主、そして主として心に受け入れるのです。