2024.10.6「覆いの下 創世記3:1-8」

 たくさんの本を書いておられるジョン・ビビア師が“under cover”『覆いの下』という本を書きました。かなり前に、ある牧師から「この本を訳してくれないか」と頼まれたことがあります。数ページ読んだところ、青年牧師が主任牧師から理不尽な扱いを受けている実話がありました。青年牧師というのは、若い時のジョン・ビビア師でした。主任牧師が一度、認めてくれたのに、後になって「聖霊がそういっていないんだ」と言ってジョン・ビビア師の提案を却下したのです。その話に躓いて、2年間ほど放っておきました。しかし、良い翻訳ソフトと出会ったので、訳してみたら意外と有益な本でした。A4サイズ172ページの大作ですが、活字の苦手な人もいるので、25分間のメッセージにまとめたものを愛兄姉にお分かちしたいと思います。

1.罪のはじまり

 私たちは一般に罪というと、争い、嫉妬、盗み、姦淫、殺人のようなものを思い浮かべるかもしれません。確かにそれらも罪ですが、もっと根本的な罪があります。ジョン・ビビアは彼の本でこう述べています。「アダムは園の見知らぬ女性と一緒にベッドに飛び込んだり、麻薬を吸ったりしません。それでも彼の罪は非常に深刻だったので、すべての被造物が監禁され、束縛されました。人類の罪を定義するとき、アダムの状況を考慮する必要があります。彼は何をして人類に多くの破壊をもたらしたでしょう? 簡単に言えば、彼は神が彼に言われたことに従順でなかったのです。私たちクリスチャンは罪が実際に何であるかについての中心的な理解に欠けています。」罪とは何でしょう?普段とは別の角度から学びたいと思います。Ⅰヨハネ3:4「罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。」ギリシャ語原文では「罪とはアノミアである」と書かれています。アノミアは「無法、不法」という意味です。つまり、罪は無法であり、律法または神の真実性に服従しないことを意味します。ルカ福音書に「神の国の宴会のたとえ」が記されています。主人はしもべを遣わして、招いていた人たちに「さあ、おいでください。もう用意ができましたから」と言いました。ところが、みな同じように断り始めました。「私は畑を買ったので見に行かなければなりません。どうかご容赦ください」、「私は五くびの牛を買ったのでそれを試しに行くところです。どうかご容赦ください」、「私は結婚したので行くことができません」と言いました。畑を買うこと、牛を買うこと、結婚することは罪ではありません。しかし、罪とは無法であり、神の命令、神の権威に従わないことです。

 私たちは罪の始まりがどこから来ているのか、その罪とは何なのか改めて知る必要があります。それは創世記のエデンの園にあります。エデンの園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木が植えられていました。主なる神はアダムに「園のどの木から思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ」と言われました。その後、アダムのためにエバが造られました。アダムは、神さまの命令「善悪の知識の木から食べてはならない」ことを伝えました。そこにサタンの化身である蛇が現れ、エバを誘惑しました。エバは蛇に対して何と言ったでしょう?「『あなたがたが死ぬといけないからだ』と神が仰せられました」と答えました。神さまは「死ぬといけない」と言ったのではなく、「必ず死ぬ」と言われたのに、その命令を薄めてしまいました。ヘビは「あなたがたは決して死にません。それを食べるとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです」と言いました。ヘビはエバに対して「神さまはケチなんだ。善悪の知識をひとり占めしているんだ」と暗黙のうちに伝えたのです。エバが食べ、夫アダムも食べました。すると、二人の目が開かれ、自分たちが裸であることを知りました。その後、恐れと恥と呪いと死がやってきました。ここで疑問が生じます。「善悪の知識の木から食べただけなのに、罰が重すぎるのではないだろうか?」という疑問です。実は「善悪の知識の木」は神の主権を象徴しているのです。神はアダムとエバが自分の意思で、神さまに従うことを選んでもらいたかったのです。ところがヘビに誘惑されて、その木から食べてしまったのです。このことが罪の始まりです。では、罪とは何でしょう?神の権威に従わないこと、権威への不従順が罪なのです。

ジョン・ビビアが自分の本でこう述べています。「神の言葉に疑問を持ち、推論と欺瞞の道を歩むことによって、彼らは不従順の主人に自分の人生を開いたのです。パウロはこのように説明しています。『それゆえ、ちょうど一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り、こうして死がすべての人に広がったのです』(ローマ5:12)。彼らが不従順になる前は、憎しみ、怒り、赦さない気持ち、争い、ゴシップ、腐敗、詐欺、恨み、強要などはありませんでした。性的倒錯、薬物乱用、酩酊、殺人、窃盗もありませんでした。妻や子どもへの虐待もありませんでした。病気、疾病、貧困はありませんでした。自然災害、疫病、災いは、人類には知られていませんでした。動物界は完全に調和していました。地球の大気は平穏で、神の意志がすべての創造物を支配していました。不従順は、人類を悩ますこれらの恐ろしい行動の問題をもたらし、そのリストは世代を経るごとに増え、より汚いものになっていきました。彼らのたった一つの不従順の行為が、無法の秘密の力の始まりとなりました。その欺瞞から、人間は神からの供給と保護を失いました。サタンの反乱に倣って、サタンの支配と破壊への扉が大きく開かれました。サタンは、神の被造物を奴隷にすることで、自分を王位に就かせたのです(イザヤ14:12-14)。」

 私たちは創世記の出来事から、罪の原点、罪のはじまりが何であるか知りました。罪は無法であり、律法または神の真実性に服従しないことを意味します。簡単に言うと、神さまに従わないこと、不従順が罪だということです。アダムの不従順の罪により、すべての人間が神に逆らう者となりました。私たちは「そんな小さなことなのに?」と思いがちですが、そこから具体的な罪が生まれ、自然や災害や様々な病気が生まれたのです。イエス・キリストが来られたのは、人間の代表として、父なる神に完全に従い、救いの源になることでした。私たちはいくら人間的に正しくても、神を認めず、神に従いたくないという罪を持って生まれました。私たちは、神への不従順が罪の始まりだということを知るべきです。

2.不従順とその結果

聖書の中に登場する人物たちで、権威に対して不従順であった典型的な人物を挙げたいと思います。それはイスラエルの王として最初に選ばれたサウルです。Ⅰサムエル15:3「今、行ってアマレクを討ち、そのすべてのものを聖絶しなさい。容赦してはならない。男も女も、幼子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも殺しなさい。』」この命令をヒューマニズム的に捉えてはいけません。アマレクはモーセの時代からイスラエルを攻撃してきた、悪魔的な存在でありました。サムエルの命令は直接的で、非常に具体的なものでした。アマレクが持っているものは、人間であれ獣であれ、生きたままではいけません。息のあるものはすべて滅ぼさなければなければなりませんでした。サウルは兵を呼び集め、自ら先頭に立ち戦いに赴きました。男も女も、幼子も乳飲み子も、皆殺しにしました。何万人もの人がサウルとその大軍によって剣で殺されました。しかし、サウルはアマレクの王を助けました。なぜでしょう?当時の文化に合わせたのかもしれません。国を征服してその指導者を生け捕りにした場合、自分の宮殿に奴隷を持ち帰る、生きたトロフィーのようなものでした。また、サウルは何千匹もの動物を屠殺しました。しかし、彼は、羊、牛、子牛、子羊など、良いものはすべて残しておき、それを民に与えて、神に犠牲を捧げ、「聖典的」なことができるようにしたのです。人々は、動物を主のために犠牲にしている間、彼らは「なんて敬虔な王様なんだろう、いつも主を第一に考えている」と思っていたことでしょう。しかし、神さまは全く違う考えをお持ちでした。

Ⅰサムエル15:11「わたしはサウルを王に任じたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしのことばを守らなかったからだ。」それでサムエルは怒り、夜通し主に向かって叫んだ。」サウルは何万人ものアマレク人を殺し、一人だけを助けました。彼は命じられたことの99.9%を実行しました。私たちのほとんどは、彼の軍事作戦に従順さを見るでしょう。しかし、神さまは彼の不従順をご覧になられました。Ⅰサムエル15:13-15サムエルはサウルのところに来た。サウルは彼に言った。「あなたが主に祝福されますように。私は主のことばを守りました。」サムエルは言った。「では、私の耳に入るこの羊の声、私に聞こえる牛の声は、いったい何ですか。」サウルは答えた。「アマレク人のところから連れて来ました。兵たちは、あなたの神、主に、いけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを惜しんだのです。しかし、残りの物は聖絶しました。」サウル王は「私ではなく、兵たちがあなたの神、主に、いけにえを献げるために、羊と牛の最も良いものを惜しんだのです」と言っています。サウルは自分から兵士たちに責任を転嫁しました。サウルは指導し、指示する権限を持っていました。ですから、兵士たちの不従順を自分が責任を負うことになります。でも、彼は「私のせいではありません」と言ったのです。しかし、サウルが主の言葉に完全に従わなかったのはこれが初めてではありません。Ⅰサムエル13章に書いてありますが、ペリシテ軍との戦うとき、サムエルが来なかったので、自分で全焼のいけにえを献げました。後から来たサムエルが「あなたは何ということをしたのか」と怒りました。すると、サウル王は「兵たちが私から離れて散っていこうとしていたので」と言い訳をしました。本来は祭司しか、全焼のいけにえをささげてはならなかったのですが、サムエルを待ちきれなかったのです。サムエルはサウルの不従順に対して、「あなたの王国は立たない。主はご自分の心にかなう人を君主にしょうとしておられる」と預言しました。アマレクとの戦いにおいても、その前の全焼のいけにえのことも、人間的には大きな罪とはいえないかもしれません。しかし、サウルの罪は不従順の罪でした。私たちは部分的な従順は、神さまの目には全く従順ではないということを学ぶ必要があります。

サウロの不従順がどのような結果になったのでしょう?Ⅰサムエル15:22-23サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」このところに驚くべきことが書かれています。「従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪」だということです。英語の聖書には、For rebellion is as the sin of witchcraft.と書かれています。直訳すると「反抗は魔術の罪とひとしい」ということです。重要なのは、魔術の形式や方法ではなく、結果や目的にあります。魔術は人を悪魔の領域に直接開放します。その目的は、様々な手段を使って、情況を人をコントロールすることです。つまり、悪魔の領域との関わりから、支配者は支配される側になります。実際、苦悩の悪霊がサウル王を悩ませました。悔い改めなかったので、悪霊はサウルの人生に合法的にアクセスできるようになりました。その悪霊は、彼を嫉妬、怒り、憎しみ、争い、殺人、欺瞞の人生へと操りました。彼は神と自分の最も忠実なしもべの一人であるダビデを追いかけ、殺そうとしました。彼はダビデを裏切者と信じていましたが、実際ダビデは神の心にかなう者でした。悪霊に支配された結果、サウルは厚い雲に覆われた欺瞞の中で、真実をほんの一瞬しか見ることができませんでした。真実が嘘になり、嘘が真実になったのです。ジョン・ビビアが自分のことを証しています。「私はこのようなことを何度も見てきました。他人だけでなく、自分自身にもです。私が不従順に手を染めていた時期を振り返ると、自分が歩んできた欺瞞に泣きたくなります。そのようなとき、私は神の権威を律法主義者や誤った者と見なし、神の友人をしばしば敵と見なしていました。」不従順の結果、サウル王のように悪霊が場所を得て、欺瞞(ごまかし)の中に生きるようになるということです。不従順の結果、さまよえる人生になってしまいます。イエスさまは「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(マタイ16:24)と言われました。私をはじめ、「自分はそんなに間違っていない、神さまに良く従っている方だ」と思っているかもしれません。実はそうでなく、自己欺瞞に陥っている可能性があります。神さまのご命令に従わなくても大丈夫、雷に打たれることはないと思っているかもしれません。ところがそうではなく、サウロのように苦悩の悪霊が合法的にアクセスするようになるのです。私たちは、不従順の恐ろしさを知る必要があります。

3.従順とその結果

 権威に対して従順であった人たちとその結果を学びたいと思います。権威者から最も不当な扱いを受けたのはダビデです。主はサムエルに、次の王様はダビデであるということをお示しになり、サムエルはダビデに油を注ぎました。その後、ダビデは羊飼いを続けていましたが、ある時、父から戦場にいる兄たちに何かを持っていくように頼まれました。行ってみると、イスラエルとペリシテがにらみ合って、膠着状態が続いていました。ペリシテの戦士ゴリアテが「だれか代表を出して、俺と勝負しろ」と叫んでいました。サウル王は躊躇しましたが、少年ダビデは石投げで、一発で巨人ゴリアテを倒してしまいました。その後、ダビデは宮殿に召し抱えられました。ところが、サウル王に悪霊が臨んで苦しみ悶えていました。ダビデが琴を弾くと悪霊が鎮まり、サウルは平静を取り戻しました。ある時、サウル王とダビデが兵士たちを連れてペリシテ軍と戦いに出かけました。イスラエルが勝利して帰ってきたとき、婦人たちがこのように歌っていました。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と讃えました。これに対し、サウル王にメラメラと嫉妬が湧き上がり、ダビデが王の座を狙っていると疑い始めました。サウル王は、側で仕えているダビデに槍を放ち幾度も殺そうとしました。「まさか、そんなことをするとは?」とダビデは最初疑いましたが、どうも本気なようです。ダビデは宮殿を逃げ出し、野山や洞穴に住むようになりました。サウルはダビデを殺そうと数千もの兵士を派遣しました。なんと、このような逃亡生活が10年も続くのであります。彼の苦しみがいかばかりであったか、詩篇に度々「嘆きの歌」として書かれています。

ある時、ダビデがエン・ゲディの荒野にいることを知ったサウルは、三千人の戦士を連れて出発しました。旅の途中、彼らはダビデが隠れている洞窟で休みました。サウルと兵士たちが水浴びのために服を脱いだ後、聖書によると、ダビデの部下たちが彼を促しました。「今日こそ、主があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われた、その日です。」(Ⅰサムエル24:4)と。そして、ダビデは気づかれないように忍び寄り、サウルの上着の裾を切り落としました。その後、ダビデはそのようなことをしたことに良心の呵責を感じていました。彼は「私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ」と部下に言いました。ダビデはこの言葉で部下を戒め、サウルを攻撃することを許しませんでした。そして、サウルは洞穴を出て、自分の道を進みました」。ダビデは、自分の人生に苦難をもたらした指導者に対して、まだ優しい心を持っていました。それからしばらくして、ダビデはハラキの丘にいることを部下がサウルに報告しました。サウルは同じ三千人の兵士を連れて再びダビデを追いかけました。サウルの執拗な追跡が、ダビデを打ちのめしたことでしょう。自分が相手にしているのは邪悪なリーダーであることを悟りました。「このような人物に神の油注ぎがあるだろうか?」と思ったに違いありません。ダビデは、ヨアブの弟で血気盛んなアビシャイと一緒に、密かにサウルの陣営に忍び込みました。神は彼らを深い眠りにつかせていました。二人は全軍の中を忍び込み、サウルが眠っているところにたどり着きました。アビシャイは「神は今日、あなたの敵をあなたの手に渡されました。どうか私に、槍で一気に彼を地面に突き刺させてください。二度することはしません。」とダビデに懇願しました。ところがダビデは何と答えたでしょう?Ⅰサムエル26:9-10「殺してはならない。主に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか。主は生きておられる。主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ。」補佐役はサウルに剣を突き刺すことは、完全に正当化されると思ったでしょう。しかし、ダビデの応答はどうでしょう。「殺してはならない。主に油注がれた方に手を下して、だれが罰を免れるだろうか。」今の言葉で言えば、「言葉や行動で彼に触れてはならない。誰が自分の指導者を攻撃して、罪を免れることができるだろうか」ということです。ダビデは主の権威を恐れ、サウルを殺しませんでした。ダビデは自分で復讐するのではなく、神の御手に委ねたのです。この試練の後、ダビデはユダとイスラエルの王に立てられました。

どの時代であっても、不当なことをしている指導者にどこまで従うかということが問われます。しかし、原則的には権威は神さまが与えたものであるというところから始めなければなりません。ダニエルと三人の若者はバビロンの王たちに仕えました。ところが、偶像を拝まなかったために、殺されかけました。主は彼らを危機から救い出し、バビロンの王は「彼らの神こそまことの神である」と言いました。新約聖書では国の指導者に従うこと、妻が夫に従うこと、子どもが両親に従うこと、従業員がオーナーに従うこと、信仰者が霊的指導者に従うことなどが記されています。アダム以来の人間は、神の命令と権威に逆らう性質があります。特に親から傷を受けている人は、すべての権威に逆らいたくなるでしょう。自分の父親がいい加減であったり、横暴であった場合は、「私が正さなければならない」と思ったかもしれません。自分が大人になり、会社の上司や教会の牧師に「こうすべでしょう」と進言するかもしれません。たとえ正論でも、権威に逆らうなら、その人から守りがなくなります。牧師はそういう意味で教会員にとって試金石です。つっかかったり、張り合ったり、軽く扱うことはないでしょうか?パウロは「権威に反抗する者は、神の定めに逆らうのです。逆らう者は自分の身にさばきを招きます」(ローマ13:29)と言いました。きょうの説教題はunder cover『覆いの下』です。もし、その人が権威に逆らうなら、覆いの外で生きることになり、主の守りがなくなります。そればかりか自分の身にさばきを招くことになります。でも、その人が権威を重んじて従うなら、覆いの中で生きることになり、主の守りがあるということです。福音書にローマの百人隊長が出てきますが、イエス様から「イスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません」と褒められました。なぜなら、彼は権威の下で生きていたからです。だから、イエス様の権威によって、自分のしもべは癒される信じることができました。アダムとエバは神の権威の外で暮らすことを選びました。神さまが定めた権威を認め、その覆いの下で暮らすなら祝福と平安の中で生きることができるのです。