- 本日の中心聖句
亀有教会副牧師 毛利佐保
<エレミヤ38:20-23 >
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38:20
エレミヤは言った。「カルデア人はあなたを渡しません。どうか、主の御声に、私があなたに語っていることに聞き従ってください。そうすれば、あなたは幸せになり、あなたのたましいは生きながらえます。
38:21
しかし、もしあなたが降伏するのを拒むなら、これが、主が私に示されたことばです。
38:22
『見よ。ユダの王の家に残された女たちはみな、バビロンの王の首長たちのところに引き出される。聞け。彼女たちは言う。あなたの親しい友たちが、あなたをそそのかして、押し切った。あなたの足が泥に沈むと、彼らは背を向けた。
38:23
あなたの妻たちや子どもたちはみな、カルデア人のところに引き出され、あなた自身も彼らの手から逃れることができずに、バビロンの王の手に捕らえられ、この都も火で焼かれる。』」
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エレミヤ書を順に見ています。本日は、南ユダ王国最後の王、ゼデキヤの時代の話です。
エレミヤが仕えた5人の王、ヨシヤ、エホアハズ、エホヤキム、エホヤキン、ゼデキヤの時代のことは、エレミヤ書の他に、第Ⅱ列王記、第Ⅱ歴代誌に記されています。
ここには、一気に畳みかけるように滅びゆく南ユダ王国の様子が語られています。
『主の目にかなった』良い王様であったヨシヤ王が、B.C.(紀元前) 609年にメギドの戦いで戦死しました。
その後続いた4人の王たちは、『主の目に悪であること』、罪を重ねて全く悔い改めようとしませんでした。
さばきに猶予を与えておられた主は、ついに「南ユダ王国滅びのスイッチ」を押されました。
◆優柔不断な王
①ゼデキヤ王の迷い
37章では、ヨシヤの子ゼデキヤが、バビロンのネブカドネツァル王に命じられて王になったと記されています。つまりこの時点で南ユダは、新バビロニア王国の属国とされてしまっていたということです。
その時ゼデキヤは21歳でした。若いですが、立派な大人です。
この時、エルサレムはカルデア人(バビロニア人)に包囲されていました。
バビロニアの属国だったので、監視下に置かれていたのです。
しかしそこにちょっとした転機が訪れました。
エジプトのファラオの軍がバビロニアに向けて兵を出したのです。
そこで、エルサレムを包囲していたカルデア人の兵がバビロンに引き上げはじめました。
その時、ゼデキヤ王は、祭司ゼパニヤと側近を預言者エレミヤのもとに遣わし、「どうか、私たちのために、祈ってください。」と願いました。
ゼデキヤ王は、それなりに信仰を持っていて、父であるヨシヤ王から絶大な信頼を得ていたエレミヤに一目置いていたのでしょう。
その時、主がエレミヤを通してゼデキヤ王に語られたことばはこうです。
<エレミヤ37:7-8 >
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37:7
「イスラエルの神、主はこう言われる。わたしに尋ねるために、あなたがたをわたしのもとに遣わしたユダの王にこう言え。『見よ。あなたがたを助けに出て来たファラオの軍勢は、彼らの地エジプトへ帰り、
37:8
カルデア人が引き返して来て、この都を攻め取り、これを火で焼く。
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おそらく彼らが期待していた言葉は、「バビロンの兵はエルサレムから引きあげた!今こそ立ち上がり、バビロンに反旗を翻せ!」ではないでしょうか。
ところが、真逆の預言が語られたのです。
優柔不断なゼデキヤ王は、なんの決断も出来ませんでした。
その後エレミヤは、ベニヤミンの土地に用があって出かけましたが、「カルデヤ人のところに落ちのびるのではないか?」と疑いをかけられました。
エレミヤは激しく怒った首長たちによって丸天井の地下牢に長い間入れられました。
ゼデキヤ王は、それを聞いて人を遣わしてエレミヤを呼び寄せました。
<エレミヤ37:17>
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ゼデキヤ王は人を遣わして、彼を召し寄せた。王は自分の家で彼にひそかに尋ねて言った。
「主から、おことばはあったか。」エレミヤは「ありました」と言った。
そして「あなたはバビロンの王の手に渡されます」と言った。
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またしても、ゼデキヤの期待とは真逆の預言でした。
ゼデキヤは21歳で王になって、その治世の9年、30歳でエジプトに反旗を翻しました。
この時すでに、エルサレムは再びバビロンによって包囲され、兵糧攻めにあっていたようです。
ゼデキヤはエレミヤを、地下牢ではなく、監視の庭に入れ、兵糧攻めによって都からすべてのパンが絶えるまで、毎日彼にパン一つを与えさせました。
優柔不断なゼデキヤ王は、神を恐れて、エレミヤを罰することができませんでした。
また、バビロンを恐れて、戦うことも出来ませんでした。
首長たちを恐れて、バビロンに降伏することもできませんでした。
兵糧攻めによって、民の士気が落ちて、飢えて死ぬのを待つばかりでした。
一方、監視の庭に入れられたエレミヤは、そこでも大胆に主のことばを語り続けました。
<エレミヤ38:2-3>
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38:2
「主はこう言われる。『この都にとどまる者は、剣と飢饉と疫病で死ぬが、カルデア人のところに出て行く者は生きる。そのいのちは戦勝品として彼のものになり、彼は生きる。』
38:3
主はこう言われる。『この都は、必ず、バビロンの王の軍勢の手に渡される。彼はこれを攻め取る。』」
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これを聞いた首長たちは怒って、「どうか、あの男を死刑にしてください。」とゼデキヤに訴えました。
ゼデキヤは、「見よ、彼はあなたがたの手の中にある。王は、あなたがたに逆らっては何もできない。」と言って、責任を放棄しました。
エレミヤは、監視の庭の中にある王子マルキヤの穴に投げ込まれました。
穴の中には水がなく、泥だけだったので、エレミヤは泥の中に沈みました。
そこにクシュ人(エチオピア人)の宦官エべデ・メレクが王に、「エレミヤが死んでしまう」と告げました。
ゼデキヤ王は、彼にエレミヤを穴から引き上げるように命じました。
穴から引き上げられたエレミヤは、再び監視の庭にとどまりました。
ゼデキヤは、いよいよ追い詰められて、三度エレミヤを召し寄せてこの先のことを尋ねました。
本日の中心聖句<エレミヤ38:20-23 >
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38:20
エレミヤは言った。「カルデア人はあなたを渡しません。どうか、主の御声に、私があなたに語っていることに聞き従ってください。そうすれば、あなたは幸せになり、あなたのたましいは生きながらえます。
38:21
しかし、もしあなたが降伏するのを拒むなら、これが、主が私に示されたことばです。
38:22
『見よ。ユダの王の家に残された女たちはみな、バビロンの王の首長たちのところに引き出される。聞け。彼女たちは言う。あなたの親しい友たちが、あなたをそそのかして、押し切った。あなたの足が泥に沈むと、彼らは背を向けた。
38:23
あなたの妻たちや子どもたちはみな、カルデア人のところに引き出され、あなた自身も彼らの手から逃れることができずに、バビロンの王の手に捕らえられ、この都も火で焼かれる。』」
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おそらくゼデキヤは、何度エレミヤと語り合ったとしても、主の御声には聞き従えなかったでしょう。
彼の肩には、アブラハムの時代からずっと続く、『選ばれた民』の歴史がのしかかっていました。
その選ばれた民が、「バビロンの王の手に捕らえられ、この都も火で焼かれる。」などとは、それが神の御心だとは、信じることは難しかったでしょう。
◆優柔不断な王
②王は何を恐れたのか
ゼデキヤ王の心は揺れ動きました。
①人知をはるかに超えた、神のご計画を信じて従うことができない。
②負け戦と解っていながら戦って国を失うという勇気がない。死にたくもない。
③首長たちや、ユダヤ人を恐れて、バビロンに降伏することもできない。
ダビデやパウロが窮地に立たされて、苦渋の決断を迫られているときに似ています。
ゼデキヤの優柔不断は、すべて自己保身によるものでしたが、ダビデやパウロは主に寄り頼み、主の決断を仰ぎました。
私たちの人生にも、大なり小なりこんな場面があるのではないでしょうか。
①自分の置かれている状況が辛すぎて、これが神のご計画だとは思えない。(人知を超えた神のご計画)
②正面から戦って、砕け散って、人生が終わってしまうようなことは怖くてできない。(バビロンとの戦い)
③周りの反対に遭い、神のご計画に従うことができない。(首長たちやユダヤ人への恐れ)
①自分の置かれている状況が辛すぎて、これが神のご計画だとは思えない。・・・について。
・人間は、どんなに信仰心を持っていても、神の目から見て正しい行いを選択するとは限らない。
・目に見えない神よりも、目に見えるものや人間の方を恐れたり信じたりしてしまう。
・自我(エゴ)やプライド(自尊心)が邪魔をする。
②正面から戦って、砕け散って、人生が終わってしまうようなことは怖くてできない。・・・について。
・戦って得るものより、失うものの方が大きいと思えることはしたくない。
・自分の人生の時間を戦いによって無駄にしたくない。
③周りの反対に遭い、神のご計画に従うことができない。・・・について。
・身近な人の反対には逆らえない。(様々なしがらみがある)
・群集心理は恐ろしい。(自己保身)
神のおしえに反している行いでも、大勢の人が賛成するならば、それに流されてしまいます。
イエス様を十字架に架けたユダヤ人たちも、総督ピラトもそうでした。
また、置かれている環境によって、神観は大きく変わりますので、霊の戦いは厳しくなります。
この夏、私は9年ぶりに故郷愛媛の松山に帰省して、高校陸上部の仲間とコーチと会ってきました。
みんな県内に住んでいますが、松山市内ではなく、新居浜市とか西条市とか、香川県寄りのちょっと田舎の地域に住んでいる人もいます。
そこでは神社の祭りに命を懸けているそうです。
その熱心さは目を見張るものがあり、ケンカ神輿で死んでもいいそうです。
この地域では、親も子も周り近所も、産まれた時から無条件に神社の神を信じています。
ある意味、ものすごい信仰心です。
ここではカレンダーが祭りの日から始まっていて、一年の祭りに関わる行事が書き込まれているそうです。
私たちで言えば、クリスマスの12月から始まるということかな?と思いましたが、ピンと来ませんでした。
あー、田舎はこんな感じなんだー。情報が片寄ってるなー。聖書の話なんかできないなー。
と、打ちのめされましたが・・・。
春日井姉妹作の、御言葉入りのお薬手帳を渡したりして、何とかクリスチャン色を出してきました。
しかし、このような群集の中に置かれたら、ものすごい霊の戦いになるなーと思いました。
ゼデキヤ王の恐れは、いろいろあったかもしれませんが、南ユダの滅び、バビロン捕囚、70年後のエルサレム帰還は、間違いなく、神の壮大なご計画でした。
この事実を教訓にして、人ではなく主を恐れて、主の命令を守りたいと思います。
伝道者の書に書かれてある通りです。
<伝道者の書12:13-14>
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12:13
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。
神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
12:14
神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。
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◆優柔不断な王
③神の約束と祝福
<エレミヤ38:20>
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エレミヤは言った。「カルデア人はあなたを渡しません。どうか、主の御声に、私があなたに語っていることに聞き従ってください。そうすれば、あなたは幸せになり、あなたのたましいは生きながらえます。
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ここに書かれているように、聖書には、「~しなさい。そうすれば~されます。」という神の約束と祝福の定型文があります。
<ルカ11:9>など、新約聖書にもたくさん書かれています。
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ですから、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。
探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。
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神のことばは生きていて、昔も今も私たちに語りかけてくださっています。
旧約聖書を学んでいると、神の愛と恐ろしさの両方を思い知りますが、神の寛容さも知ることができます。
アブラハムのとりなしの祈りを聞かれたり、ニネベの滅びを考え直されたりなど、たくさんの記述があります。
主は、南ユダの滅亡までに、預言者エレミヤや他の預言者たちを通して、本当に忍耐強く、寛容に、悔い改めを待っておられました。
私たちも、イエス様が再び来られる再臨の時まで、様々な人生の場面で、神の御心を仰ぎ、決断をしていかなければなりません。
ここでみなさんに、ひとつのエピソードを紹介します。
神の約束と祝福について、共に考えていただきたいと思います。
『エッケ・ホモ』(この人を見よ)という壁画をご存知でしょうか。
イエス様を「十字架に架けろ!」と騒ぐ群集に対してピラトが、「エッケ・ホモ(見よ、この人だ)」(ヨハネ19:5)と言った箇所を題材にして描かれたものです。
スペイン東部のボルハという町にあるカトリック教会には、茨の冠を被らされたイエス様の壁画がありました。
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この絵は1910年に、エリアス・ガルシア・マルティネスという画家が描いた。
教会の漆喰の壁に直接描いたもので、劣化が激しく、修復の必要があった。
もともと芸術的価値に関しては、さほど高い知名度はなかった。
しかしある事件によって世界中に知られることになった。
2012年の夏、あまりに損傷が激しいことに心を痛めた地元の82歳の女性、セシリア・ヒメネスが、修復することになった。彼女はアマチュアの風景画家で、絵画修復には素人であった。
その修復画は、最初の絵とは似ても似つかない、猿が毛衣を着たようなイエスになってしまった。
当初、教会の神父や町の有力者は、「教会の絵画が故意に破壊された」と大騒ぎした。
ところが、この絵画がネットニュースになり、この作品とともに写真に収まろうとする観光客が教会に殺到したことにより、思わぬ経済効果が生まれた。
人口5千人の田舎町に、1年に5万7千人も観光客が訪れた。
町は大賑わいで、レストランや酒場、ホテルなど町は活性化した。
教会を運営する慈善団体は入場料を取るようになり、この絵をモチーフにした、ぬいぐるみやボールペン、お皿などを作って販売をはじめた。著作権収入を、ヒメネス49%、教会51%で分けるように契約をした。
絵画の作者マルティネスの子孫が、絵画を復元、または、別の場所に移すように求めた。
しかし、町の弁護士とヒメネスの弁護士が著作権料の分配などで交渉し、地元の住民からの復元反対の署名もあり、現在もそのままになっている。
2022年には、10周年の式典が行われ、修復者のヒメネスは主賓として招かれ、車椅子で参加した。
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思いがけず地元の救世主になったヒメネスですが、彼女は敬虔なカトリック信者です。
身体に障害を持った息子の介護に多くの人生の時間を費やし、楽しみと言えば、教会に来ることと、絵を書くことぐらいだったそうです。
彼女の弁明によると、修復は、まだ途中だったそうで、絵の具を乾かす間2週間旅行に行って帰ってきたら、大騒ぎになっていたということらしいです。
絵に近づかせてもらえなかったらしく、そのまま修復させてもらえていたら、問題なかったと言っています。
みなさん、このエピソードをどのように受け取りますか?
神の寛容とユーモアによる祝福と受け取りますか?
それとも、このような修復は神への冒涜、商売は罪だと受け取りますか?
受け取り方は様々だと思いますが、このような判断しかねる出来事も、時が経てば、御心だったかどうかわかるのではないでしょうか。
ヒメネスさんは、現在地元の施設に息子と入り、慎ましく、穏やかに暮らしているそうです。
私たちは、人生の岐路で、祈って主に聞いても、間違った選択や決断をしてしまうかもしれません。
しかし、間違った時は素直に悔い改め、主の約束に従うならば、祝福は必ずあると信じます。
主は恐れ多い方ですが、寛容であり、私たちを愛し、しあわせにしてくださる御方です。
私たちの信仰を揺るぎないものとしてくださり、暗闇から引き上げてくださるように、祈り求めていきましょう。