日本は非宣教国であり、数えきれない宣教師たちが多大な犠牲を払って宣教に来てくださいました。それは本当にすばらしいことです。しかし、彼らの多くは聖書の福音だけではなく、彼らの文化も一緒に運んできました。中には聖書的でないものもありましたが、日本人はとても律儀なので、無批判に彼らの教えたことを守ってきたところがあります。日本に影響を与えたのがローマ・カトリック教会、自由主義教会、そして根本主義の教会であります。きょうは根本主義の背景から派遣された宣教師たちから受けた聖書的でないものを4つ述べたいと思います。
1.律法主義
律法は神のことばであり、天地が崩れ去っても残ります。イエス様ご自身は律法を守られましたが、パリサイ人や律法学者たちには厳しく反対しました。なぜかというと、彼らは律法の精神を忘れ、戒律を守ることが神に受け入れられることだと勘違いしていたからです。イエス様は彼らがやっているきよめの儀式、安息日、祈り、施し、ささげもの…すべてのことを正しました。それに対して、パリサイ人や律法学者たちは怒りを燃やし、イエス様を殺そうとしました。私たちは福音書やパウロの書簡から、救いは神からの恵みであることを知っています。キリスト教会でも、そのことを知って、伝道牧会に励んでいると思います。ところが、宣教師たちから指導を受け、救われた人がちゃんと成長できるように、たくさんの決まりを作ってあげました。それらは善意でやったことなのですが、知らない間に律法主義の罠にはまってしまったのです。つまり、決まりを守っていることが、信仰の篤いことの証拠だと勘違いしてしまうのです。
たとえば、聖日礼拝厳守です。十戒の第四番目が、「安息日を守れ!」という戒めです。しかし、もともと十戒は、エジプトから救い出されたイスラエルに与えた契約の条件です。彼らは土曜日を安息日として守っていました。現在、教会は日曜日を主日として礼拝をささげています。しかし、「日曜日に礼拝を守れ!」とは、聖書のどこにも書かれていません。これは、コンスタンティヌスがローマの国教にした時から制度化されました。教会はイエス様が日曜日の朝、復活されたので、その日に集まって、礼拝をささげるようになったのです。このことは律法ではなく、恵みなのです。私は牧師として、日曜日を公の礼拝することは反対しません。私も「聖日礼拝厳守」という指導を受け、今日に至っています。私は牧師ですから、このことは可能かもしれません。しかし、主婦や会社員は、毎週は不可能かもしれません。昔、本田弘慈牧師が「それでは、仕事を替えなさい」と指導したそうです。私もできたら、日曜日休める業種を選んだら良いと思います。でも、「絶対、日曜日の礼拝を守れ!」というのは反対です。未信者の夫や子どもたちは、「日曜日はお昼御飯がない」と泣いているかもしれません。強盗に襲われた旅人を祭司やレビ人は見て見ぬふりをして去って行きました。彼らは神に仕えることを優先したからでしょう。ところが、サマリヤ人は彼を介抱してあげました。日曜日、教会の礼拝に来る途中、だれかが道で倒れていたなら、見て見ぬふりをして去って行くべきでしょうか?遅刻してしまうこともあり、無理であれば他の日に礼拝を守っても良いのではないでしょうか?
教会では、洗礼準備会があり、このような指導を受けるでしょう。聖書を毎日読むこと、祈ること、什分の一献金をささげること、罪を犯したら悔い改めること、信徒の役目を果たすこと…いろいろ言われるかもしれません。でも、それを聞いている人はどう思うでしょうか?「ああ、救いは恵みだけれど、救われてからは恵みではなく行いが必要なんだ」と思うでしょう。ある教団では、受洗者と教会員を分けており、教会員になるためには、いくつかの誓約を守る必要があるそうです。おそらく、教会員として教会を支えていく義務を負うということでしょう?何だか、教会が組合と組合員で構成されているように思えてなりません。私たち自身が教会であり、組織や制度ではありません。私たちは救われたのも恵みですが、救われた後も恵みなのです。特に、聖化を強調する教団や教会では、「きよめられなさい」と言います。酒やたばこはダメ、男女関係を清く保ち、そして「古い自我に死になさい」という指導を受けます。昔の人々は「酒、たばこ飲まずの耶蘇教は、ああ面倒な宗旨なり」と揶揄したそうです。私は酒やたばこは体に悪いので飲まない方が良いと思っています。でも、酒やたばこを罪として扱うのは反対です。私は日本基督教団に属していたころ、いろんな牧師と会いました。彼らは酒やたばこをたしなみますが、人を裁かずとても紳士的でした。そこへ行くと、きよめ派の牧師は、すぐ人を裁くし、パリサイ人や律法学者と同じです。残念ですが、聖さを強調する教会の牧師が、姦淫の罪を確率が高いのです。なぜかというと、常に、「罪を犯してはならない」と抑圧されているからです。
パウロはガラテヤの教会にこう言っています。ガラテヤ3:3「あなたがたはそんなにも愚かなのですか。御霊によって始まったあなたがたが、今、肉によって完成されるというのですか。」肉と言うのは、人間の真面目さや行いです。私たちは恵みによって救われたのですから、救われた後も恵みよって生きるべきなのです。そのため、神様は私たちに聖霊を与えてくださいました。教会はできるだけきまりを少なくし、御霊に信頼すべきであります。ガラテヤ5:16「私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。」
2.教会第一主義
教会第一主義とは、「キリストを愛することは、イコール、教会を愛することだ」と考えることです。福音派の教会は、「奉仕とは教会内ですることが奉仕である」と言いました。教会内で行われる伝道集会を重んじ、その準備をします。チラシを配ったり、人々を集会に誘ってきます。献身者というのは、牧師や伝道者のことであり、信徒は「平信徒」と呼ばれたりします。教会成長をスローガンにかかげ、教会員が増えるように願います。また、チャーチ・プランティングを目指し、枝教会や子教会をできるだけ作ろうとします。ビジネス的な戦略がアメリカの教会からやってきて、今もそうしている教会がたくさんあります。何を隠そう、私もその一人であり、弟子訓練、セルチャーチなど、すべて教会成長、教会増殖が目的でした。ですから、大きい教会が良い教会であり、人数の少ない教会はダメな教会というイメージがありました。
しかし、奉仕というのは4つの壁に囲まれた建物だけでやることではありません。もちろん、教会内の掃除や礼拝のご奉仕は牧師としてとても感謝します。でも、イエス様と弟子たちは外に出て行って、人々にミニストリーをしました。また、私たちはこの世に出て行って、クリスチャンとして人々に仕えることは「世の光、地の塩」として大切なことです。そうしないと、私たちは教会に来られない人々と接することは不可能です。聖書には「弟子を作れ」と命じられていますが、「教会を大きくしなさい」「教会を成長させなさい」とは書かれていません。
原理主義の信仰を持った宣教師は、教会を第一にすることを信徒に教えました。とにかく、教会内で奉仕をすることが最優先されました。週報の印刷、掃除、集会の準備、求道者への個人伝道、送り迎え、祈り会、学び会…たくさんあります。ある人たちは、家庭を顧みず、教会の奉仕を最優先させてしまいました。家では妻や子供たちが泣いています。でも、教会を愛することは、イエス様を愛することです。教会ではどのような優先順位にすべきか、とても迷ってきました。神様が第一であることは間違いありません。それでは二番目は何にすべきなのか?奉仕か、家庭か、仕事なのか?すると、自分の趣味とか楽しみは第四番目か五番目になってしまいます。でも、キリストの弟子になることはこの世の楽しみを捨てることだから、仕方がないと考えます。聖歌にも「世の楽しみよ去れ、世の誉れよ行け、キリストにはかえられません」とあるからです。しかし、よく見るとキリストとありますが、教会とはなっていません。私たちはいつの間にか、キリストと教会をイコールにしてしまいました。何度も言いますが、教会とは私たち自身のことです。教会は、建物や制度、組織ではありません。マタイ7章にあるように、神様は第一であり、第一に愛すべきです。では優先事項の二番目は何なのでしょうか?結論から言いますと、神様は第一ですが、第二は他のことすべてです。ドーナツのように、中心は神様であり、その周りがすべて第二の範疇に属します。つまり、仕事、家庭、奉仕、趣味、楽しみ…すべて第二のものです。神様を第一にしながら、仕事、家庭、奉仕、趣味、楽しみをすれば良いのです。なお、教会成長はその実であることを忘れてはいけません。伝道のために人を愛するのではありません。愛することの中に伝道も含まれているのです。どんなところでも、私たちのキリストを自慢していくと、結果的に人々が救われます。救われた人々の群れが教会になるのです。教会の数だけを増やそうとしても、牧師や教師の賜物の人はそんなにいません。キリストのからだとして、それぞれの賜物を差し出すとき、からだなる教会が健康に成長し、結果的に教会が大きくなり、子教会や枝教会も生まれるのです。教会は誰のものでもありません。イエス様がこのようにおっしゃっています。マタイ16:18「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。」アーメン。神さまは全知全能なので、私たちの奉仕やささげものを必要としません。奉仕の主役は神様であり、私たちは脇役です。神さまは私たちを通して働きたいと願っておられます。教会はキリストのものであり、教会の働きはキリストご自身が先頭に立ってくれるので、私たちはただ従えば良いのです。
3.聖俗二元論
これは信仰や教会に関することが聖くて、この世のものは俗的で汚れているという考えです。多く引用されているのが、これらのみことばです。Ⅰヨハネ2:15「あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。あなたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。」もう1つがヤコブの手紙です。ヤコブ4:4「節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。」聖書でいう「世」というのは、神から離れている人々のことです。そして、その人々の背後に悪魔がいます。私たちはこの世に住んでいますが、この世のものではありません。パウロは「この世の淫らなもの、どん欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようという意味ではありません。もうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう」(Ⅰコリント5:10)と言っています。重要なことは、この世自体が罪という訳ではなく、この世の楽しみが私たちを誘惑し、私たちを罪に陥らせるということです。肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢が私たちの心を占有し、神様から引き離してしまうということです。ですから、私たちはこの世にありながらも、この世を私たちの中に入れてはならないということです。
信仰や教会に関することが聖くて、この世のものは俗的で汚れているという聖俗二元論の考えはイギリスの理神論に対する折衷案から来ています。理神論とは神が世界を創造された後、一定の法則に任せてそれ以降、関与していないという考えです。やがてフランス革命が起こり、産業が発展してから、いよいよ人々の心が神から離れました。宇宙も、この世界も、人間も自然にできあがったという自然主義が支配するようになりました。教会では自由主義という神学として表れ、それと対抗して生まれたのが根本主義です。これは、聖書や祈り、宣教、教会に関することは聖なることであり神様がご支配していると考えます。また、この世のビジネス、政治、教育、芸術、娯楽などは神様が参与していない俗なる世界であると考えます。ですから、根本主義の教会はできるだけ、この世のことには関わらないようにと勧めます。同じくピューリタンの影響を受けた教会は文化や芸術を否定します。エリザベツ王朝のときは、ピューリタン教会はシェークスピアの劇場を封鎖しようとしました。根本主義の教会はお金を汚れたものと考えます。この世での仕事はもっぱらお金を得るためです。ですから、教会では献金のとき、「きよめてお用いください」と祈ります。私はそのように祈る必要はないと思います。お金は中立であり、きよくもきたなくもありません。ある人が、「お金は命の次に大切だ」と言いましたので、献金も信仰がなければ捧げることはできません。とにかく、根本主義の影響を受けた教会は、教会に関することはきよくて、この世のものは汚れていると二つに分けて考えるということです。
この考えはどのような弊害をもたらすでしょうか?私たちがこの世に出て働いているとき、罪と誘惑に会わないように守りを固めるということです。また、この世のものは汚れていると考えているので、政治や教育、医療にも不信感があります。選挙も行きたくないし、薬も飲まないし、予防接種も受けたくありません。聖書と讃美歌は良いけれど、テレビも映画もダンスもだめです。すべてが消極的になります。イエス様は、マタイ28章で「行って、すべての国民を弟子としなさい」とお命じになられました。これは、人々の魂の救いのため伝道することもそうですが、国自体をキリストの弟子とするということです。私たちは世捨て人のように隠遁生活をするのではありません。世に遣わされて、神の知恵、神の創造力、神の恵み深さをもたらす管として用いられる器だということです。ビル・ジョンソンも言っていますが、家庭、宗教、教育、ビジネス、医療、芸術、マスコミの世界に御国をもたらすということです。私たちは守りに入るのではなく、キリストと共に攻撃に回るべきなのです。
4.聖書主義
根本主義的な教会は、自由主義神学の反動として生まれました。「聖書は神の霊感によって書かれたものであり、誤りがない」と私も考えています。ところが、ある宣教師たちは、「神学を学ぶな」、「神学校は墓場(セミタリー)だから行くな」と言いました。そして、聖書をそのまま読み、そのまま実行することを勧めました。しかし、教会にはいろんな神学が入ってきます。なぜなら、信徒たちがいろんな集会に行って、いろんなことを学んでくるからです。牧師は「そういう集会に行くな!」と、禁じるし、よその教団教派の牧師には説教させません。「違った霊が入ると混乱する」と恐れているからです。純粋培養もいいかもしれませんが、いつかは破綻をきたしてしまいます。多くの教団や教会はある程度まで大きくなりますが、その後、分裂してしまうことは良くあります。ですから、神学を学ぶことはとても重要です。組織神学、聖書神学、実践神学は聖書を読むときのガイドになり、信仰の骨組みになります。もちろん、神学を聖書より上にしてはいけません。なぜなら、人間の考えも多分に含まれているからです。常に聖書に聞き、聖書によって修正させられる謙虚さが必要です。教団や教会によっては「水と油」の関係がよくあります。たとえば、カルヴァン派とメソジスト教会は「選び」のゆえで一致しません。福音派の教会は、ドイツの新正統主義を「リベラルだ」と言って、拒絶します。でも、聖書を良く見ると、各書が一致したことを述べている訳ではありません。著者たちは、自分のモチーフ(主題)に従って、あるところは強調し、あるところは省いています。必ずしも時系列に述べていません。ですから、聖書が書かれた当時に遡り、語彙を研究し、言わんとしていることを汲み取る必要があります。
もう1つは聖書が完成してから、奇跡やしるしは不要になったという考えです。これはペンテコステ派やカリスマ派に対する反動として生まれました。「いのちのことば社」のチェーン式バイブルには第一コリント13章のことをこのように解説しています。「キリストが再臨していない、現在の不完全な時代には、成長の段階がある。キリスト教会の発足当時は、まだ未熟の時代であり、教会の成長と確証のために、目を見張るような、聖霊の賜物による働きが必要であった。しかし、新約聖書が完成した今は、そのような賜物の必要性は消えた」とあります。確かに、Ⅰコリント13:10「完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます」と書かれています。しかし、これは聖書の完成を意味するのではなく、キリストが再臨したときのことです。再臨まで、聖霊の賜物は存在し続けるというのが、聖書的な解釈です。これは、ディスペンセーション主義(時代区分)の極端な神学から来たものです。教会の歴史を調べて分かるのですが、リバイバルが起こったときに、イエス様の時代のように奇跡やしるしが起こりました。それは、クリスチャンへの励ましであり、また未信者が救いを求める良い機会にもなります。彼らは預言を危険扱いし、「正しいのは聖書のことばと教会の説教だけだ」と主張します。しかし、ペテロはペンテコステの日、ヨエル書から「あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。その日わたしは、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると彼らは預言する」(使徒1:16,17)と言いました。「終わりの日(The last days複数形)は、ペンテコステからキリストの再臨の日までの期間のことです。ですから、今日も必要があれば、神さまは夢、幻、預言、ある時は御使いによって語ってくださいます。ペテロはトランス状態に陥り、大きな敷布に入った汚れた動物を見ました。それを食べろと言われ、彼は三度も断りました。しかし、そのことがローマ兵コルネリウスのところに行くためのしるしだったのです。パウロもトロアスで幻を見たので、マケドニアに渡ることを決心しました(使徒16:9-10)。もちろん、聖書を読むことが基本中の基本ですが、神さまは必要とあらば、預言や夢、幻によっても語ってくださいます。ビル・ジョンソンが言っていますが、「神さまは聖書よりも大きい」のです。聖書を書き加えてはいけませんが、神さまは聖書に書かれていないことを私たちに教えてくださると考えるのは行き過ぎでしょうか?
Ⅰコリント9章でパウロは「律法を持たない者のようになりました。律法を持たない人たちを獲得するためです」と言いました。これは文脈化のことを言っています。聖書の福音そのものは変えてはいけません。問題はカルチャー、文化です。ヨーロッパやアメリカからやってきた宣教師や宣教団体は、聖書の福音だけではなく、彼らのカルチャーも一緒に運んできました。また、韓国からの牧師たちは儒教の教えの入った福音を持ってきました。カルチャーはその人が来ている洋服みたいなものであり、仕方がないかもしれません。日本には西洋の洋服を着たキリスト教が入ってきました。しかし、キリスト教の原点はイスラエルであり、アジアであったことを忘れてはいけません。私たちは文脈化する、つまり、聖書的なものと、そうでないものを分ける必要があります。そして、日本という文化にあったキリスト教が生まれても良いです。全部、西洋的にする必要はありません。日本は対決する文化ではなく、人を傷つけない優しい文化を持っています。内村鑑三は「私は2つのJを愛する」と言いました。2つのJとは、JesusとJapanです。