近年はキリスト教会において「霊性」みたいなテーマでよく語られているようです。私自身は、「霊性」という隠遁じみた用語は好きではありません。きっと同じようなことだと思いますが、私は「内なる生活」と題して、聖書からメッセージをしたいと思います。
1.自分と語り合う
私たちが日中、活動していていると、色々なことが起ります。思ったとおり仕事が進まなかったというイライラや失望感があるでしょうか?あの人からあんなこと言われたという憤慨や怒りがあるでしょうか?一日の終わり、私たちは知らず知らずのうちに、感情が傷つき、精神的にもストレスが溜まっているものです。多くの人たちは、パーッと飲んでうさを晴らします。カラオケに行ったり、気の合う人と話して、嫌なことを忘れようとするでしょう。私は生協に良く買い物に行きますが、人の買い物かごに、ビールやワインが目に入ることがあります。「ああー、アルコールは精神生活の必需品なのかな?」と思います。そこへ行くと、私は、アルコールは飲みません。決して禁酒をしているわけではありません。私の恩師、大川牧師は「アルコールに逃げないで、自分と向き合う時間を持ちなさい」というようなことを聞いたことがあります。そういう訳で、何かあると部屋に籠り、静まる時を持ちます。ビル・ジョンソンも日中、秘書に「5分間だけ電話があっても私にとりつがないでくれ」と頼むときがあるそうです。それは、イエス様と二人っきりになって静まった時を持ちたいからなのでしょう。私が、電話が嫌いなのは、前ぶれもなく飛び込んでくるからです。イエス様はある時、弟子たちにこう言われました。マルコ6:31「『さあ、あなたがただけで、寂しいところへ行って、しばらく休みなさい。』出入りする人が多くて、食事をとる時間さえなかったからである。」イエス様ご自身もしばしば、「祈るために一人で山に登られた」ことがあります(マタイ14:23)。人々に触れて、ミニストリーしていますと、知らず、知らず、霊的エネルギが吸い取られているからです。私たちも、イエス様や弟子たちのように静まる時が必要です。
ある人たちは、「クリスチャンは時間を決めて神さまに祈るべきだ」とおっしゃるかもしれません。また、あるクリスチャンは祈りの課題を挙げて祈ったり、他の人のためにとしなすかもしれません。大変良いことです。しかし、私は祈る前に、自分と向き合う時間が必要ではないかと思います。自分と向き合うとは、自分の考えや感情と向き合うという意味です。私たちは日中の出来事、人現関係、うまくいったとか、うまくいかなかったとか…感情が苛立っているのではないでしょうか?それを家族や子どもに八つ当たりしてはいけません。お酒を飲んで憂さを晴らして感情を麻痺させても一時しのぎです。一番良くないのは、自分の感情を抑圧することです。「怒ってはいけない」「妬んではいけない」「がっかりしてはいけない」などと、自分を正そうとすることです。抑圧が溜まって来ると、ある時、どかんと爆発して大惨事を招いてしまうからです。多くの体の痛みや内臓の不調は、悪感情を抑圧しているせいであると言われています。そうではなく、良いとか悪いとかは考えずに、正直に自分の感情がどうなのか向き合うということです。ある人たちは、すぐ親しい人に電話したり、会って愚痴をこぼしたりします。現代はラインとかいろいろ便利な時代です。そうではなく、自分と語り合うのです。『ストレスを軽減する101の方法』という本をキャロライン・リーフ氏が書いています。その本の30番目をご紹介します。「最も重要な会話は、自分自身との会話です。だれもいないところで自分に何を言っていますか?自分の考え、言葉、行動でどんな世界を作っていますか?自分に正直になり、毎日、自分がどのように考え、どのように自分に話しかけているかを知るために時間を費やしましょう。自分が発した言葉や考えたことが自分の現実を作るのですから。」
みなさんはご自分と会話しているでしょうか?街中で、声を出して自分と会話すると頭がおかしいと思われるかもしれません。でも、最近は結構、べらべら、話している人を見かけます。良く見ると、耳に何かはまっています。おそらく、スマートフォンで誰かと話しているのでしょう。私がメッセージで度々、強調しているのは、人とばかり話してはいけないということです。テレビやソーシャルメディアも控えましょう。それよりも、自分と話し、神さまとお話しするのです。そうすることで、今の自分がどういうところで生きているのか、何をやってきたのか、今の状態を正しく知ることができます。「これからどうしようとか」先のことをあせらず、「今の私はどうなのか」という自分自身を抱きしめるのです。「抱きしめる」を英語で、embraceと言います。embraceは、「受け入れる」「悟る」という意味もあります。よく、日本では「自分の胸に手を当てて考える」という表現があります。まんざらこの表現は間違っていません。なぜなら、胸とは心臓であり、心臓は感情の一部を司っているからです。なぜ、人ではなく、自分と会話すると良いのでしょう?それは今の自分の状態を正しく知ることができるからです。自分は喜んでいるのか、悲しんでいるのか?満足しているのか、何か満たされない思いがあるのか?自分がしたことに満足しているのか、あるいは不満足で苛立っているのか?だれかから言われたことがしゃくに障り、憤慨しているのか?それが正しいとか、間違っているとか裁いたりしないで、とにかく今の自分の状態を受け止める、embraceするということです。3分もしないうちに、あなたの心は静まり、鏡のような湖面のようになるでしょう。たとえば、月夜の晩、鏡のような湖面であったらどうでしょう?その湖面が月を映すことができます。もし、湖面が風で波立っているなら、月を映し出すことは不可能です。同じように、心が静まると、次の段階に進むことができます。心が静まると、神さまの御声が思いの中に聞こえてくるということです。詩篇46:10「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ地の上であがめられる。」「やめよ」は英語の聖書では、Be still「静まれ」という意味です。神さまの声は、日常のざわめきの中ではかき消されて、聞こえません。この世の喧騒から離れ、静まる時を持つと、神さまの静かな御声が聞こえてきます。エリヤも経験しましたが、多くの場合、神さまの声は静かで細い声です。だから、活動をやめて、独りになって静まる時を持たなければ、聞こえてこないのです。
2.神さまと一緒に見る
第一のポイントでは、静かな時を設けて、自分自身と語り合うということをお話しました。このようなアプローチは「マインドフルネスmindfulness」ということで精神科医たちから、奨励されています。私もどういうものか、調べてみましたら、ジョン・カバット・ジンJon Kbat-Zinnという人が有名なようです。彼の本をざっと読みましたが、仏教やヨガのような瞑想法です。彼はこのように定義しています。少し引用します。「目を覚まし、自分自身や世界と調和して生きることとすべて関係しています。それは、自分が何者であるかを吟味し、世界観やその中での自分の居場所を問い直し、生きている一瞬一瞬の充実感に感謝する気持ちを育むことにつながります。そして何よりも、心を通わせることが大切なのです。瞑想は、この自動化された無意識の眠りから私たちを目覚めさせ、意識と無意識の可能性の全領域にアクセスして人生を送ることを可能にします。」あまり良く分かりませんが、無になるような瞑想です。しかし、キリスト教会の瞑想は、私たちを愛しておられる神さまとの人格的な交わりです。つまり、自分自身との会話の中に、聖霊なる神さまをお迎えすることです。クリスチャンであるなら、自分の最も深いところに、聖霊なる神が宿っておられます。これを「内住の御霊」と呼んでいます。第一のポイントでは、自分自身との語り合いについてお話しました。それは自分の感情や考えをありのままとらえるということです。それだけでも、マインドフルネスのように心が穏やかになるかもしれません。でも、私たちはそれだけではなく、次のステップがあります。それは聖霊様を自分自身の会話にお招きするということです。するとどういうことが起るでしょうか?今度は、自分の感情や考えを客観的に見ることができます。聖霊様と少し上から、捉えなおしてみるということです。心理学の「認知行動療法」と似ているところがあります。
詩篇139:23-24「神よ、私を探り私の心を知ってください。私を調べ私の思い煩いを知ってください。私のうちに傷のついた道があるかないかを見て…」と書かれています。詩篇の記者は何でもご存じであられる神さまから、心の状態を見てもらっています。「私のうちに傷ついた道があるなら教えてください」と願っています。彼は何か思いわずらっているのですが、それを神さまと一緒に探っていこうというイメージがあります。たとえば、自分の中に憤慨のような怒りがあるとします。「なぜ、私は憤っているのだろうか?」と、考えたとき、「きょうのあの出来事、あの人の無礼な態度、あの人の言葉によって傷ついたのではないだろうか?ああ、それが原因だったんだ」と分かります。もうちょっと、探っていくと、「ああ、私は人から軽く見られると弱いというか、傷つきやすいんだ」と分かります。そういえば、「あのときも」「あのときも」と過去の似ているようなシーンが浮かんできます。すると、「私に無礼な態度をとった人たちも悪いけれど、何か私にそれを呼び寄せている、傷ついた道があるのではないだろうか?」と分かって来ます。つまり、自分は無礼な態度や言葉を受けるにふさわしい、卑しい人物だという歪んだイメージがあることに気づきます。恐らく、それは私が生まれ育った家庭環境で、「お前は価値のない卑しい人間なんだ」ということが、刷り込まれてきたのです。親兄弟も悪いけど、サタンが背後に私を壊すために働いていたのです。詩篇139篇を読むとこのように書かれています。神さまは「私の内臓を造り母の胎の内で私を組み立てられた方であり」「神さまの目は胎児の私を見られあなたの書物にすべてが記されました。」「ああ、そうだ。私は神さまから造られ、神さまから愛されて、かけがえのない存在だったんだ」と言うことが分かります。神さまは私が胎内にいるときから、書物に色んなことを書き連ねています。少年時代も学校時代も、青年期のことも…。卑しい扱いを受けた私も悔しかったけれど、造り主であられる神さまも悔しかったのではないでしょうか。「私の目には高価で尊い存在を粗末にするな」と神さまご自身が怒っていたのかもしれません。そのうち、ああ、私は贖われた神さまの子どもなので、無礼な態度や傷つけるような言葉は私には相応しいものではないと分かります。あの人たちが私を見る目がなかったんだ。そのような人たちの無礼な行いや言葉は全く的外れだったんだ。彼らは本当の私の価値を知らなかったんだ。そうすると、先ほどの憤慨や怒りが消え去り、喜びが湧き上がって来ます。
これはマインドフルネスや世の中の心理療法では得られないものです。なぜなら、ご人格のある神さまを招いているからです。私たちはいろんな感情の中で翻弄されるときがあるかもしれません。不安、恐れ、憤慨、嫌悪、恥、無気力、喪失感…まるで毛糸の糸がからまっているような状態であり、どこからほどいたら良いのか分からないかもしれません。多くの人たちは、混乱した渦中の中に自分がいて、そこでもがいている状態です。そうではなく、私たちは聖霊と一緒に、少し上から、客観的に見ることができます。日常的に繰り返される問題には、ある共通点があるかもしれません。それはあなたの未解決のテーマなのかもしれません。現時点の問題を解決することも大切ですが、それ以上に大切なのは、その問題が一体どこから来ているかです。多くの人は何とかそれを取り返そうと頑張っています。過去の誰かよって奪い取られたものを、別の誰かから取り返そうとしています。しかし、それではいつまでたっても満たされません。過去の出来事は変えられませんが、神さまと一緒に再解釈することはできます。全く別な見方があるのです。神さまは過去の出来事の犠牲者になることを願っていません。神さまの書物では、確かに悔しい、悲しい出来事として書かれていました。神さまご自身も悔しくて悲しかったかもしれません。でも、神さまはそれを逆転させるような道を用意しておられます。「あれはあれで良かったんだ。」「いや、あのことがあったからこそ今があるんだ」と再解釈させてくださいます。このように聖霊と一緒に少し上から見ると、全く別の世界が見えてきます。
聖書に「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝せよ」とあります。最初は問題に翻弄され、「そんなことできるもんか」と思います。しかし、一つ一つ神さまの前に差し出しているうちに、整理されてきます。神さまと再解釈しているうちに、ああ、このことも神さまの御手の中にあり、すべてのことが益になるように働いていて下さるに違いない。そうやっていくと、まだ、問題が解決されていないのに、感謝と賛美をささげることができるのです。
3.神さまに導かれる
静まったら今度は、立ち上がる時です。私たちは、修道院で黙想生活をしているのではありません。「この地に御国が来るように」願い、そのために活動するように召されています。そのためには、御霊に導かれて生きることが肝心です。詩篇139:24「私をとこしえの道に導いてください」と書かれています。欽定訳には、lead me in the way everlasting.「永遠の道へと導いてください」となっています。つまり、この地上の人生から、永遠に至る道です。この世のある人たちは、「運命は自分で切り開くものだ」と言っています。でも、多くの人たちは、運命に翻弄されて生きているのではないでしょうか?昔、「ケッサラ~、ケッサラ~、ケッサラア~」という歌がありました。メキシコの盲目歌手ホセ・フェリシアーノの歌です。日本語でも訳されていましたが、「私たちの人生は階段を手探りで歩くようなもの」と歌っていました。「先が見えず、なるようにしかならない」という人生はとても寂しいです。しかし、聖書には良い知らせが書かれています。神さまは永遠の計画を持っておられます。「私にも神さまの計画があるのだ」と知るなら何と幸いでしょうか。詩篇139:6「あなたの書物にすべてが記されました」とあります。この書物はおそらく、私たちの日々の出来事が記録が記されているのではないかと思います。黙示録20章から「数々の書物」と「いのちの書」があることが分かります。「数々の書物」とは、複数形なので「行いの書」「計画書」「内訳書」などではないかと思います。神さまは私たちを造られたとき、この人にはこういうことをしてもらいたいという「計画書plan」とそれに伴う「内訳書detail」があったのではないかと思います。私は土木建築に5年携わっていました。設計図の他に、工事内訳書がありました。これは、材料は何を使うかということです。強度がいくらのコンクリートを使うとか、どのくらいの太さの鉄筋を使うとか書いてありました。私は神さまが私たちを設計したとき、この人に与える賜物と能力を用意されたと思います。さらには、指導者や協力者、工程表も同時に設定したのではないかと思います。
箴言22:6「若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。」と書かれています。英語の詳訳聖書にはこう書かれています。Train up a child in the way he should go and in keeping with his individual gift or bent.「子どもを行くべき道にトレーニングしなさい。その子の個人的なgift あるいは bentを保ちながら」となっています。gift は賜物や才能ですから分かります。生まれつき運動神経の良い人、音楽ができる人、知能が高い人、手先の器用な人がいます。Bentというのは本来「曲がり」という意味です。でも、「心の傾向、性向、性癖、適正」という意味もあります。つまりこういうことです。神さまが私たちを造られたとき、賜物と心の傾向も兼ね備えられたということです。私も4人の子どもを育てましたが、それぞれ違った賜物と心の傾向が生まれつき備わっているように思えます。好き嫌い、向き不向き、得意不得意というのが生まれつきあるのは事実です。また、私たちが持っている性格すらも全部ではないにしろ、半分くらいは神さまが与えたものではないかと思います。「自分の性格が嫌いだ」と言う人たちが多いようですが、神さまがそのようにしたのだったら、感謝して受け入れるべきではないでしょうか。CSの賛美に、「ばらは、ばらのように」「すずめは、すずめのように」とありますが、人と比べる必要は全くないと思います。で、何を言いたいかというと、神さまは「ご自分の計画がその人になるように、導いておられるのではないだろうか?」ということです。
神さまの計画をdivine destiny「神の運命」と言うべきであろうと思います。この世の人たちは、いわゆる運命によって翻弄されて生きています。この場合の「運命」はfate(宿命)やdoom (悪い運命)であり、divine destiny「神の運命」とは違います。聖書では、これを摂理とも言いますが、神さまが万事を益にしつつ、ご自分の計画へと私たちを導くということです。聖書ではエジプトに売られたヨセフがそうです。モアブ生まれのルツ、ペルシャのエステルも神さまの摂理の御手がありました。彼らは神の計画を全うした人たちです。それでは、神さまの導きとはどういう意味でしょう?神ご自身の計画、運命がなるように、私たちを導いておられるということです。これは「運命は自分の力で切り開く」と頑張っている人、あるいは「人生はなるようにしかならない」という手さぐりの人生とは全く違います。私たちは無目的で生きているのではありません。ちゃんと神さまの書物、つまり、行いの書、計画書、内訳書などがあるのです。そして、キリストを信じて救いを得ている人には「いのちの書」があります。このように、私たちのために、とこしえの道が備えられています。このようにとこしえの道が定まっているので、日々の導きが確かなものになるのです。神さまは全知なので、これから先、何が起こるかも知っておられます。そのお方が私たちと共におられて、「これが道だ、これに歩め」(イザヤ30:21)と語っておられます。ヨハネ10章には、「羊たちはその声を聞き分けます」と書かれています。
私は思いがけないことが起ると、「何でだよ!」と憤慨して生きてきました。クリスチャンになってからも、そういう傾向が残っていました。確かに人生、思いがけないようなことが起る可能性があります。でも、それすらも含めて、主の御手の中にあることを覚えたいと思います。英語にordainという言葉があります。これは、運命などを「定める」という動詞です。イエス様はヨハネ5章で「わたしの父は今に至るまで働いておられます。それでわたしも働いているのです」と言われました。つまり、私たちの運命が成就するように、神さまが働いておられるということです。ですから、たとえ思いがけないようなことが起ったとしても、それによって神さまの計画が妨げられることはない、神の運命は必ずなると信じたいと思います。パウロは「御霊によって歩みなさい」と言いました。ですから、私たちは日々、御霊によって導かれたいと思います。今は、車にナビがついており、目的地に設定すると、私たちを導いてくれます。途中、曲がってはいけないところを曲がると、「こっちですよ」と、修正してくれます。でも、何もしゃべってくれない時があります。でも、そのままで良いということなのです。神さまも何も語ってくれないような時があります。でも、それは「そのままで良い」ということなのです。でも、道を踏み外したら、そのときは「こっちだよ」と教えてくれます。主に導かれる人生は何と幸いでしょう。