2024.8.25「教会の雰囲気 ガラテヤ4:1-7」

 1980年代、私が座間キリスト教会にいたころです。大川牧師は「日本の教会のイメージは暗い、堅い、つまらない」と、よくおっしゃっていました。私は当亀有教会に赴任して、6年後に新会堂建設に取りかかりました。設計に最も重要なのは教会のコンセプトです。私はそのとき、どうしたら暗い教会のイメージを払しょくできるか考えました。玄関はガラスの扉にして外から中が見えるようにしました。礼拝堂のクロスも白ではなく、ピンク・リボンを選びました。説教用の小さなスピーカーではなく、音楽ができる大きなスピーカーを設置しました。また、教室スタイルの座席ではなく、横の人たちが見える扇形にしました。どこからか、「グッド・デザイン賞」をもらいたいと思っておりました。でも、教会は建物ではなくて中味であり、人です。今日は「教会の雰囲気」と題して、3つ取り上げ上げたいと思います。

1.自由の尊重

 第一はお互いの自由の尊重です。自由の反対は、コントロール、支配です。ただ今お読みしたガラテヤ4章には、「子ども」と出てきます。ギリシャ語では、ネ-ピオス「幼児」という意味です。しかし、このところでは「未成年者」と訳すべきです。ローマ法によれば、相続人である子が14歳になるまでは、父の後見人の下に置かれたそうです。つまり、相続人であっても、「未成年者」のうちは、奴隷と少しも違わないということです。未熟なために、自由がなく、むしろ束縛された状態です。私たちがキリストを信じて贖われると、どのようになるのでしょうか? 4章7節に「あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神の相続人です」と書いてあります。7節の「子」は、ギリシャ語でフィオスであり、息子という意味です。もう、幼児ではなく、息子・娘であるということです。教会には、神の息子たち、神の娘たちが集まっているということです。私には4人の子どもがいます。いつの間にか、みな成人しました。子どもが小さかったころは、「あれしてはいけない、これしてはいけない」と、うるさく注意しました。なぜなら、怪我をしたり、ひどい場合は命を落とすからです。みんな小学校高学年で洗礼を受け、中学校くらいまでは、教会学校に出席しました。しかし、高校生になると礼拝に来たり、来なかったり、来なかったり、です。向こうにも意志があるので、うるさく言うとかえって反発されます。やがて、20歳を過ぎると、自分で決断して生きるように、細かいことは言いません。表現は良いですが、神さまのもとにある放任主義です。お祈りしてあげると、「アーメン」と答えますので、信仰はあるようです。

 神さまは私たちに自由意志をお与えになられました。言い換えると罪を犯すのも自由だということです。私たちは親として、ある程度のことは教えます。また、この世でも様々な法律がありますので、法に触れると罰せられます。成人になると、自分の行いに対して責任を持たなければなりません。また、どんな仕事につくか、何をしたいかということも子どもの自由です。親は医者にしたかったと思っても、ロックバンドにはまるかもしれません。この世では、子どもの意志を無視して、プロのスポーツ選手にしようと鍛えます。それで、うまくいく場合もあるかもしれませんが、あるところでドロップアウトするかもしれません。何でも子どもに指示する過干渉の母親がいます。何を着るか、どの学校に入るか、どんな仕事に就くか、どんな人と結婚するかまで口出しします。もし、うまくいかなかったらどうなるでしょう。子どもは「お前のせいだ!」と言うでしょう。なぜなら、自分で決断したのでないので、失敗は母親のせいになります。教会ではどうでしょう?牧師はいろんなことをやりたがります。教会が成長するために、弟子訓練、セルチャーチ、教会開拓を導入しようとします。海外で成功しているから日本でもうまくいくだろうと思うからです。ところがそれを役員会にかけると、必ず反対する人が出て来ます。牧師は「教会成長を妨げる悪魔の使い」みたいに、思ってストレスが溜まります。人には自由意志があり、自分の力ではどうにもならないものです。では、どうしたら自分の言うことに従わせることができるでしょう?親の権威、牧師の権威、上司の権威でプレッシャーをかけます。あるいは、マニュピレーションというホステスがよく使う、操作というのがあります。泣いたり、わめいたり、脅したり、ほめそやしたりします。

 神さまは私たちに自由意志をお与えになられました。エデンの園になぜ、食べてはならない知識の木を生えさせておいたのでしょう?アダムとエバはどうして山ほどある選択肢があるのに知識の木の実を食べたのでしょう?他にどんな木からも食べて良かったのです。もっと、問題なのは、「神さまはどうして、命の木と知識の木を園の中央に並べたのか?」です。案の定、蛇に化けたサタンが彼らを誘惑し、知識の木から食べて、彼らは堕落しました。良く考えると、自由意志ほど危険なものはありません。神に反逆し罪を犯してしまうからです。また、自由意志ほど価値あるものもありません。神さまはアダムとエバが自分の意思でご自分に従ってもらいたかったのです。「ノー」とも言えますが、「はい」とも言えます。たとえば、神さまを愛するとはどうでしょう?もし、神さまが人間をロボットみたいに作って、「あ・い・し・ま・す」と言われても何の愛も感じないでしょう。人間が自分の意思で、「愛します」と言うので価値があるのです。当然、そこには「愛しません」という自由もあります。でも、与えられた自由で、神さまに従い、神さまを愛するから価値があるのです。おそらく、自由意志は神さまが私たち人間に与えた最大の能力、最大の恵みなと言えるでしょう。私たちはこの自由を神に反逆して罪を犯すためではなく、喜んで従う者となりたいと思います。このように自由意志を尊重することが教会の文化です。この世においては、強制されたり、義務を負わせられたりすることもあるでしょう。イエス様がこう言われました。マタイ5:41「あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。」一ミリオン行くのはしょうがないことですが、もう一ミリオンは私の自由意志で行くのです。パウロは「奴隷たちよ。キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい」(エペソ6:5)と言いました。これは、職場で働いている人たちに、共通して言えることです。自由な道は、人にではなく、主に仕えるように、喜んで仕えることにあります。

2.御霊による歩み

 第二は御霊による歩みです。御霊による歩みの反対は、規則で縛るということです。昔、山崎長老さんがおられた頃、私に代わってうるさいことを言ってくれました。「礼拝を休まないように。遅刻しないように」とか、「信仰によって命の次に大切なお金をささげるのです」、「そろそろ洗礼を受けなさい」とか。しかし、私は心の中でそのように思っても、口には出しません。なぜなら、言うと逆効果になることを知っているからです。パウロもローマ7章で、「善を行いたいと願っているけれど、悪を行なってしまう」と悩んでいます。人間は救われた後も肉があるので、命令や規則には従いたくないのです。ところが、教会によっては、洗礼を受けた後、規則とは言わないけれど、信仰者として成すべきことを奨励します。毎日聖書を読むこと、聖日礼拝を守ること、十分の一献金をすること、何か奉仕をすることを勧めます。他に信仰者として、やってはいけないことを十戒や他の戒めから提示するでしょう。また、教会には独自の規則があって、それを署名捺印して、初めて教会員になるところもあります。それらを聞いている人はどう思うでしょうか?「救いは恵みだけど、救われてからは行いが必要なんだ。詐欺みたい」と思うでしょう。その人は、律法とはとらないかもしれませんが、義務とか、会則みたいに捉えるでしょう。学校では校則、会社ではコンプライアンスの遵守というのがあります。この世では、道路交通法をはじめいろんな法律があります。「救われたのは良いけれど、さらに規則が増えてしまった」と思うのではないでしょうか?

 ガラテヤ人への手紙の主題は律法からの解放です。パウロが宣べ伝えた福音は、信仰のみによって義とされるということです。ところが、あとからやってきたユダヤ人が、モーセの律法や割礼をはじめとする儀式を守らなければ救われないと言ったのです。ガラテヤの教会の人たちは、福音を聞いて信じたとき、聖霊に満たされ、すばらしい経験をしました。そのように救われた人たちに、なぜ律法が必要なのでしょうか?旧約聖書のイスラエルの歴史は、律法を守れなかった不従順の歴史です。それで、エゼキエルは「あなたがたのうちに新しい霊を与える。…こうして、彼らはわたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行う」と預言したのです。つまり、神からの新しい霊によって、神さまの戒めを守れるようになるということです。ところが、教会はその聖霊の働きを信用できず、いろんな規則を与えて、罪を犯さないようにします。それでは、イスラエルの轍を踏むことになります。パウロはⅡコリント3章で「文字は殺し、御霊は生かすからです」と言いました。文字とは石に刻まれたモーセの律法のことです。パウロ自身がローマ7章で「いのちに導くはずの戒めが、死に導くものであると分かりました」と言っています。律法が自分に罪を犯させ死をもたらしたということです。現代の私たちも戒めや規則が朗読されると、同じように自由がなくなり、息が詰まって死ぬのです。大川牧師が「教会は暗い、堅い、つまらない」とおっしゃったのは、律法主義の教会のことです。教会に入ったとたんさばかれている感じがするのです。つまり、だれが言うとでもなく、「あなたは戒めや規則を守っていないでしょう」という声がどこからか聞こえてくるのです。

パウロはガラテヤ5章1節「キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」と言いました。教会はせっかく恵みによって救われた聖徒たちに、奴隷のくびきを負わせてはならないのです。イエス様は数ある律法を、神様を心から愛することと、隣人を愛するというたった2つにまとめました。ところが、ガラテヤ人への手紙はどうでしょう?ガラテヤ5:13,14「兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という一つのことばで全うされるのです。」なんと、隣人を愛するというたった1つにまとめてしまいました。神から与えられた自由をそのように用いたら、律法を全うできるということです。さらに、パウロは「御霊によって導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません」(ガラテヤ5:18)と言いました。御霊は私たちに二つのことをしたのです。第一は、霊的に死んでいた私たちを生まれ変わらせてくださいました。その結果、何が善で何が罪なのか分かったのです。第二は、私たちの意志や努力ではなく、いのである御霊が神の戒めや命令を実行させてくださるということです。私ではなく、私の内に生きておられるキリストがそれを行なわせてくださるのです。ですから、教会がそして、私たちがなすべきことは、聖霊を信頼し、聖霊の御声に聞き従うということです。

当教会でも単立教会になるとき、「教会理念が必要だろう」という声があり、簡単なものを作りました。洗礼を受けた人や、他教会から転会した人に、説明しつつお渡ししています。最後にこのような文章があります。「この細則は、当教会の組織が円滑に運営されるために作られました。規則に縛られるのではなく、御霊の導きを求め、互いの関係を大切にしながら、問題を解決するように努めましょう」。アーメン。コリントの教会は、教会内で起きた問題を、外部の人たちにさばいてもらいました。もちろん、刑法に触れるようなことは例外でありますが、教会内の問題は教会内で処理すべきです。パウロはⅠコリント6章で「あなたがたのうちには、仲間と争いを起こしたら、それを聖徒たちに訴えずに、あえて、正しくない人たちに訴える人がいるのですか。…あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。」と嘆いています。私たちには聖書のみことばがあり、そこに罪をさばくための方法や基準が記されています。しかし、最も大いなることは、主イエス・キリストの血潮によってすべての聖徒たちの罪が贖われているということです。赦しの精神こそ御霊が働かれる教会です。風(聖霊)は思いのままに吹きます。聖霊は物ではなく、ご人格をもっておられます。好む教会と、好ましくない教会があるということです。聖霊が好まれる教会は互いにさばきあう教会ではなく、互いに赦し合う教会です。主が私たちの罪を赦してくださったのですから、私たちも互いに赦し合いたいと思います。Ⅰペテロ4:8「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」 

3.尊敬の文化

 第三は尊敬の文化です。ガラテヤ人への手紙4章を見ると、二種類の人がでてきます。幼児と息子です。幼児とは未成年者であり、後見人や管理人のもとにあります。彼らは相続人でありながら、奴隷と変わりありません。言い換えると彼らは律法のもとにあるということです。子どもが小さいとき、親はしつけのために叱ります。箴言13章には、「むちを控える者は自分の子を憎む者。子を愛する者は努めてこれを懲らしめる」と書いてあります。私も学校で良く叱られました。水の入ったバケツを持たせられたり、お尻を蹴られたり、「学校に来るな」とも言われました。それをみんなの前でやられるので、恥も受けました。今、思うと見せしめだったのかもしれません。騒がしい私を叱ることによって他の生徒をだまらせるという手法です。家庭でも学校でも、存在を否定され、恥と劣等感が染みついていました。奴隷はどうでしょう?奴隷が失敗したり、言うことをきかなかった場合は、鞭を打たれたり、食事を抜かされるかもしれません。ひどい場合は、どこかに売り飛ばされてしまうでしょう。奴隷は生き延びるために必死であります。他の人のことを考えたり、将来のことを考えたりする余裕は全くありません。もちろん、尊敬も尊厳もありません。家畜とあまり変わりないくらいです。現代は、そこまでひどい人はいないでしょう?世の人たちは自分のことを奴隷とは思っていないでしょう。その代り、一生懸命勉強して学位を取り、一生懸命働いて部長になり、なんとか結果を出して人から認められようと頑張っているのではないでしょうか?必要な資格を取り、より高い部署につき、良い給与をもらいたいと頑張っているのではないでしょうか?奴隷とは言いませんが、聖書的には奴隷の部類に入るでしょう。なぜなら、人から認められようと必死に生きているからです。

 ガラテヤ人への手紙4章で、奴隷と等しい未成年者からどうなると書いているでしょうか?人がキリストによって贖われると、子としての身分を受けると書かれています。ガラテヤ4:6,7そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神による相続人です。子というのは、神の息子であり、神の娘という意味です。神さまは王です。王の息子は王子であり、娘は王女です。そして、神さまの相続人です。神さまのものが私のものであり、それらを自由に使えるということです。それまでは、相続人でありながらも、後見人や管理者のもとにあり奴隷と同じでした。自分のものなのに、自由に使うことができなかったのです。でも、今はどうでしょう。ちゃんと自分の考えや意思で生活することが許されました。一人前として認められているのです。奴隷はなんとか生き延びる日々を過ごしていました。救われる前のこの世の人たちは、「私は何ができるか」「私は何を持っているか」と、一生懸命頑張って生きてきました。では、王子と王女というのは、どのような価値観で、どのような生活をしているのでしょうか?

 ダニー・シルク師のCulture of Honor『尊敬の文化』という本があります。ダニー・シルク師は三種類の人がどのような生き方をしているか表にしています。第一はPoverty貧困層です。彼の所有物は人です。お金は使うためにあり、食べ物は質よりも量です、時間は今がもっとも大事、運命に振り回され、彼の推進力は生き延びることです。第二はMiddle class中間層です。彼の所有物は物です。お金は獲得するため、食べ物は良質なこと、時間は将来がもっとも大事、選択肢を信じ未来を良い方向に変える力を持っている、彼の推進力は実績を上げることです。第三はWealth富裕層です。彼の所有物は一点もの、血統書、遺産です。お金は節約して投資すること、食べ物は盛り付けが最も大事、時間は伝統と歴史が大事、彼の推進力は経済的、政治的、社会的なつながりです。このように考えますと、貧困層とは奴隷です。中間層はこの世の一般人です。そして、富裕層とは神の息子・娘と言って良いのではないでしょうか?私たちは王子、王女なので、生き延びるために今だけを生きていません。私たちは王子、王女なので、たくさん所有し、実績をあげるため努力する必要もありません。なぜなら、神さまの遺産を持ち、身分も、将来も保証されているからです。そうなると、私たちの推進力とは神の国のために投資することでしょう。人々に神の国の豊かさを提供することも可能です。クリスチャンが必ずしも経済的に豊かであるとは限りません。でも、バックに王なる神さまがいらっしゃいます。そのお方は全宇宙を所有し治めておられる方です。私たちは彼の息子であり娘です。テレビでアラブの王子の友達になった人が出ていました。ファーストクラスの上の飛行機で迎えられ、スーパーカーの助手席に乗ることができたそうです。パウロは言いました。「私は貧しくあることも知っており、富むことにも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:12,13)。

 私たちは王子・王女であっても罪を犯すことがあります。その場合、かつての奴隷のように鞭で打たれたり、あるいは罰則を与えられるべきでしょうか。残念ながら教会には「尊敬の文化」がありません。みんなの間で恥を加えた上、何らかかのペナルティを与え、「まだ、悔い改めが足りない」と言うでしょう。私たちの現在、過去、将来の罪がキリストによって贖われているなら、もっと別な方法があるでしょう。良く話し合って何が良くなかったのか反省し、これからどうすべきなのか正しい道を互いに見つけ出すべきです。なぜなら、もう奴隷ではなく、責任を取れる息子、娘だからです。という私も失敗したり、罪を犯すことがあります。その時、受けた恥が何よりもダメージを与えます。もしかしたら、教会は「吊し上げ」をして「牧師をやめろ!」と排斥するでしょうか?実際、そういうことが日本の教会で行われています。確かに公にしなければならない罪もあります。でも、その人が罪を告白したなら、ダビデの場合のようにペナルティを与えず即座に赦すべきです。それが尊敬の文化です。私たちはキリストの血潮によって、すべての罪が赦され、義とされているのです。罪赦された、ただの罪人ではありません。義とされた、王の息子、娘なのです。だから、罪を犯すことが普通ではありません。義を行い、義の道を歩むことがスタンダートなのです。罪を犯したら、すぐ義の道に戻れば良いのです。アーメン。