私たちの信仰生活は天のエルサレムを目指す巡礼の旅と言えます。詩篇84篇の記者は神の宮を慕い求めています。私たちは毎週、このような礼拝を持っています。ここは必ずしも神の宮ではありません。私たち自身が神の宮だからです。でも、一緒に集まって、神さまに礼拝をささげるとき、私たちは天を目指す巡礼の旅をしているのだと思います。そして、この礼拝が終わるとそれぞれの場所に帰ります。しかし、それは帰るのではなく、神さまの祝福を運ぶために、神さまのもとから派遣されているんだと考えるべきです。
1.神の宮を慕う人
詩篇84:1-2「万軍の主よ、あなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。」旧約聖書では「主の住まい」というのは、「エルサレム神殿」のことです。なぜなら、ここには神殿を思わせることばがいくつかあるからです。大庭ですが、一般のイスラエル人は大庭まで入ることができました。エルサレムに行くと、嘆きの壁の前でユダヤ人が祈りをささげていますが、ヘロデが建てた神殿を取り囲む外壁のようです。ですから、大庭の外ということになります。3節には祭壇がでてきます。10節には「神の家の門口」とありますが、聖所に入る玄関のことでしょう。イスラエルの民は年に何度かエルサレム神殿を訪れました。ルカ2章後半に少年イエスが両親に連れられて、都に上った記事が記されています。イエス様は両親に「私が父の家にいることをご存じなかったのですか」と言っておられます。詩篇84篇が記された状況は定かではありません。ある学者はバビロン捕囚にあった人たちが、異教の地から慕って作ったのではないかと言っています。詩篇には都上りの歌がいくつかあって、実際に神殿に上った人と、「かつてはそうであったと」過去を偲んでいる人たちがいるようです。
この詩篇の記者は主の住まいである神殿を慕い求めています。2節「私のたましいは【主】の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。」最初にこの詩篇は巡礼の歌であると言いましたが、どこからか神の宮に向かって旅をしているのでしょう。どのくらいの距離なのか分かりませんが、期待しながら向かっています。日本でも伊勢神宮や熊野神社などにお宮参りに行く人たちがいます。この間、テレビで世界遺産の熊野古道について観ました。昔は川の中州にあったのですが、洪水で流されて、現在は山のふもとにあります。日本は精霊崇拝の国であり、石や川、山に神が宿っていると考えています。「よくまあ、あのような何もないところに行くものだなー」と思います。当教会のロビーに教会の絵がかけられています。あの教会はスペインのサンティアゴ・デ・コンポステラであり、12使徒の一人、聖ヤコブの墓が発見されたとされている所です。また、その巡礼路は、フランスからスペインへと向かう、4つの道があります。キリスト教三大巡礼路の1つされているそうです。多くの人たちが何十キロも徒歩で向かい、巡礼地のゴールがサンティアゴ・デ・コンポステラ教会なのです。私はDVDでその光景を見て、「日本の神社の巡礼と同じだなー」と思いました。いわゆるお参りでありますが、やっぱりそこに行かなければダメなんだという考えがあります。神さまは偏在なる神であり、どこにでもおられずはずです。でも、なぜ、特定の場所に行かなければならないのでしょうか?旧約時代のエルサレムもそうですが、そこに神殿があるからでしょう。ソロモンが神殿を献堂したときの祈りからこのようなことが分かります。神の御住まいは天であり、ソロモンが建てた宮には住まないということです。しかし、宮の祭壇の前で願う祈りは聞かれるということです。また、たとえ離れていても、宮に向かって両手を広げて祈るなら、その願いもかなえられるということです。主の宮はイスラエルの神がそこにおられるという臨在の保証でもあったのです。祭司たちが毎日、祭壇の上で香をたき生贄をささげていました。そのようなわけで神殿は彼らにとって特別な場所でありました。
理屈的にはエルサレムに向かって祈りをささげれば良かったのですが、やはり神殿に行って、犠牲をささげて礼拝したかったのです。イスラエルでは仮庵の祭りをはじめ、重要な祭りがあり、その度ごとに大勢の巡礼者がいた者と思われます。イエス様が十字架にかけられたのは過ぎ越しの祭りの時であり、大勢の人たちがエルサレムに集まっていました。クレネのシモンはたまたま都に来ていて、イエス様の十字架を運ぶはめになりました。お祭り気分ででかけたのに、とんだ災難でした。でも、あとから自分がどんなにすばらしい特権に預かったのか知って、驚いたことと思います。詩篇の記者は10節でこのように述べています。84:10「まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。」少しオーバーな感じがしますが、たかが神殿の庭であります。たとえ神の家の門口であっても、1000日分以上の恵みがあるということです。遠くから来た人たちは、その喜びもひとしおではなかったかと思います。ジョン・バニヤンの『天路歴程』は、基督者が天のエルサレムに向かう巡礼の旅です。84:5「シオンへの大路のある人は」とありますが、英語の聖書はpilgrimage「巡礼に向かう人は」となっています。「巡礼に向かう人は」どんな幸いがあるのでしょう?84:6「彼らは涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とします。初めの雨もそこを大いなる祝福でおおいます。」私たちは天の都へと旅をしているのですが、この地上では涙の谷を過ぎるときもあるでしょう。でも、巡礼に向かう人はそこを泉の湧く所とします。クリスチャンたちは天の御国で、必ず再会できるという希望があります。愛する人たちと、しばしの別れの涙を流すこともあります。でも、やがて天において、神さまのみ前で再会できるのです。だから涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とするのです。
私たちが先に召された人たちと会うとき、彼らはずっと若返っています。という私も気づいたら、彼らと同じように若返っています。そこには、涙も死も苦しみもありません。もう、どこにも行く必要がありません。なぜなら、神の幕屋が人々とともにあるからです。神は私たちとともに住み、私たちは神の民となるのです。
2.神の宮に住む人
詩篇の記者は神殿である、神の家に住む人たちがうらやましいと思っています。84:3「雀さえも住みかを 燕もひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます。」雀や燕はどんなところにも巣をつくることができます。でも、祭壇のところに巣をつくれるのでしょうか?私は田舎で育ちましたが、燕は玄関の軒下あるいは土間の梁に巣を作ります。家の人たちは、燕が出入りできるように少しだけ玄関の戸を開けておきます。ひなたちは、家の中であるなら安全です。他の鳥はそんなことをしませんが、燕は人が住んでいる家に堂々と巣を作ります。ですから、「燕もひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます」というのは、ありえることなのかもしれません。つまり、この記者は「雀や燕のように祭壇の近くに住む場所を得たら良いのに」と思っているのです。さらに4節には「万軍の主、私の王、私の神よ。なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。」おそらく、あなたの家に住む人たちというのは、神殿で仕えている祭司や賛美する人たちのことでしょう。また、動物の犠牲、ぶどう酒、オリブ油、パン、香などを準備し、いろんな器具を管理する人がいたでしょう。彼らは神殿の近くに住む家をもっていたと思われます。詩篇の記者は「あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています」と彼らのことを羨ましがっています。
現代では、教会に仕えているフルタイムの献身者と言えるかもしれません。私は座間キリスト教会においては「教会主事」でしたが、本当は雑用係り「なんでも屋」でした。印刷、ポスターやチラシ作製、礼拝テープの録音と郵送、週3回の掃除、送り迎え、早天祈祷会、聖歌隊、礼拝のアッシャーと人数のカウント、CS教師、そして会堂の営繕です。たまに礼拝の説教をしましたが、霊的な奉仕はほとんどありませんでした。しかし、33歳でこちらに赴任して、毎週メッセージをするようになりました。もちろん、教会主事のようなことも継続して行っています。私は「自分は教会守りなんだなー」と、つくづく思います。陸の孤島に立つ灯台守と似ています。聖歌523「灯台はるか、沖を照らせど、手にある灯、岸にまたたく、手にある灯、照らし続けよ、悩む、ふな人の目印とならん」。私のように教会に仕えている人は、落ち込む暇はありません。なぜなら、毎週、メッセージを語らなければならないからです。毎日毎回という訳ではありませんが、とりなしの祈りもします。サラリーマンと違い、毎日が仕事で毎日が休みです。祭日や祝日は全く関係ありません。でも、家族には申し訳ないので、子どもが小さいときは、クリスマスが終わって12月28日、29日頃に家族旅行に良く出かけました。いつか那須ハイランドパークに行ったときは、風が冷たくて、だれもいませんでした。係員が私たちをただで、観覧車とか乗り物に乗せてくれました。昔の牧師家族は生活が貧しく、迫害も受けたようですが、今はそういうことはありませんので、感謝です。教会は礼拝をささげる場所ですから、そこで仕えられるというのは、詩篇の記者のあこがれとも言えるでしょう。
昔は、「恵まれた教会の近くに引っ越しなさい」と言われたものです。聖日礼拝、毎朝の早天祈祷会、水曜祈祷会の出席、そして教会の奉仕ができるようになるためです。本来、奉仕というのは私たちが遣わされている家庭や職場、地域社会がそうなのですが、「教会の働きに関することが奉仕だ」という時代がありました。「イエス様を愛する人は教会を愛することと同じだ」とも言われ、教会にいりびたりになり、家庭崩壊につながりました。もちろんバランスが必要ですが、そういうことも考慮しつつ、やはり教会の近くに住むなら恵みが多いと思います。当教会においても、子どもをCSに通わせるために引っ越した人もおられるでしょう。大阪に野口富久牧師がおられますが、一度、常磐牧師会の集まりにお招きしたことがあります。驚いたのは、役員さん全員が教会から徒歩10分くらいのところに住んでいるということでした。伝道牧会だけでなく、親睦のため度々集まっているということでした。そのため、牧師と役員が仲が良くて、一致していました。ちょっとカルトぽくて、気持ち悪いと思いましたが、利点もあるでしょう。韓国のソウルにはたくさんの教会がありますが、恵まれた教会の近くに本当に引越しするそうです。なぜなら、日曜日だけでなく、早天祈祷会や様々な祈祷会に出られるからです。韓国のオンヌリ教会の見学に行ったことがあります。あの教会は団地の中にありましたが、団地から聖書を小脇に抱えた人たちがぞくぞくと出て来て、教会に向かっていました。ビル・ジョンソンが牧会しているレディングという小さな町に、クリスチャンが2万人位集まっています。そのため、犯罪もなくなり、町の雰囲気が良くなったそうです。
詩篇の記者は神殿内で神に仕えている人たちを羨ましがっています。何度も言いますが、昔のように教会内で奉仕することが奉仕ではありません。しかしながら、自分の時間や賜物を提供し教会の諸活動に参加するということは大きな恵みであると思います。ある教会では、洗礼を受けると、強制的に教会の奉仕をあてがわれるそうですが、それは問題だと思います。奉仕の責任を与えて、教会に縛り付けるのは主の恵みを愚弄しているとしか思えません。私たちが心からささげるのが礼拝であり、また教会の奉仕です。もう一度、みことばをお読みいたします。詩篇84:3,4「雀さえも住みかを 燕もひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます。万軍の【主】私の王,私の神よ。なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。」何か奉仕できるということは恵みであり、特権です。中世の教会では特別な人しか賛美できず、奉仕もできませんでした。しかし、今は万人祭司として、神さまにお仕えできることを感謝したいと思います。大和カルバリーのように大きな教会はプロ級の人しか、音楽の奉仕ができません。ある教会では、「指導者に従います」と一筆書かなければ、奏楽のチームに入れないそうです。そこへ行くと、当教会は、信仰と賜物があれば一緒に賛美ができます。説教は賜物と油注ぎが必要ですが、証しはだれでも可能です。昔、順番にやってもらいましたが、時間が長引いて私の説教が短くなったときがあります。ですから、今はやめています。公の礼拝ではなく、小さな集会では自分の証を言えるような雰囲気になっています。当教会には、いろんな奉仕がありますが、義務ではなく、神さまから示された人が自主的にやるようになっています。
3.神の宮を持ち運ぶ人
詩篇84:11,12「まことに神である【主】は太陽また盾。【主】は恵みと栄光を与え誠実に歩む者に良いものを拒まれません。万軍の【主】よなんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。」これは礼拝者の幸いを歌っています。神さまを礼拝する者に3つのものが与えられます。第一は、恵みと栄光を与えるとあります。その前に神さまが太陽であり、盾であると書かれています。つまり、神さまがあなたの太陽また盾となって、主の恵みと栄光を与えるということです。第二は、誠実に歩むものに良いものを拒まれませんとあります。第三は、主を信頼する人は幸い、祝福を受けるということです。「万軍の」というのは、本来、戦いの神さまの意味ですが、英語の聖書にはalmighty全能のというふうに訳されています。このように礼拝者にはいくつかの祝福がついてくるということです。つまり、祝福を得るために、人々が神の宮に集うのではありません。これはご利益宗教です。私たちの場合は、喜びをもって神の宮に行くとその結果として、祝福をいただくということです。神の祝福は目的ではなく、ボーナスのように賜るものです。私たちは毎週、このところに集まって礼拝をささげていますが、同じような祝福が与えられているのだと信じます。残念ながらそのことが、すぐには分からないかもしれません。しかし、10年、20年、30年、続けていると明らかに違ってきます。自分たちの知らないところにも、祝福が及んでいるのです。60歳になって、秋田工業高校の同級会があり、郷里に帰りました。私は高校生のときは劣等意識で悩みまくっていました。あの頃、快活で輝いていた級友はどうでしょう?みんな暗い顔をしていました。定年も迫っていることもあり、いろんな悩みごとを分かち合っていました。私には希望がありましたが、彼らは卒業してから、何が起きたんだろうと不思議に思いました。
ところで、新約時代は、神殿はありません。なぜなら、私たち自身が神殿になったからです。Ⅰコリント3:16「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。」Ⅰコリント6:19「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」その当時、ギリシャやエペソには、異教の神殿が立ち並んでいました。そこに人々がお参りに行くのです。そして、そこで汚れたことが行われていました。日本の神社が主催する祭りも、性的な乱れがあります。人々があえて偶像の神々に行くのは、汚れたことを公然と行えるからです。バビロン捕囚の前のエルサレム神殿も偶像が祭られ、汚れたことが行われていました。神さまはある時から、もう人間が作った神殿には住まないとお決めになられたのです。つまり、神殿から主の栄光が去ったということです。イエス様がおられたヘロデの神殿もそのような状態であり、「宮きよめ」を主が行いました。その時、イエス様はこの宮を壊して、三日後に、新しい宮を建てるとおっしゃいました。新しい宮というのが私たちのことなのです。イエス・キリストを信じた人に、神の霊である聖霊がやどり、そこにお住みになられるということです。つまり、私たちのからだが、神の神殿になるのです。これは画期的なことであり、想像もつかない事でした。残念ながら、ローマ・カトリックは、今もなお教会堂が聖なるところ、サンクチャリー(聖所)と言っています。もう、そのような神殿はないのです。この教会も神殿ではなく、これは建物です。私たち自身が教会であり、神の神殿なのです。
このように考えると旧約聖書の神の宮をめざして巡礼に行くということがなくなります。なぜなら、私たちが神殿なのですから、どこか遠くに行く必要はありません。もちろん、私たちは天のエルサレムを目指して生きる巡礼者です。それはそうですが、私たちは考え方を改める必要があります。もし私たちが神殿なのなら、一緒に集まっては、また散っている存在です。神殿とは教会であり、私たち自身が教会ということです。神殿に行く、あるいは教会に行くのではありません。私たちが神殿であり、私たち教会だったらどういうことになるでしょう?神の臨在を持ち運ぶ器、神の祝福をもたらす管ということになるのではないでしょうか?こういうことを考えるとどうなるでしょう。礼拝が終わり、神さまからの祝福をいただきます。でも、お家に帰るのではありません。正しくは神さまのもとから遣わされるということです。あなたが神殿であり、あなたが教会なのですから、あなたを通して神さまが現れてくださるということを期待すべきです。かなり前、香港のベン・ウォンを招いてのセル・セミナーがありました。そのとき、「日曜日に教会に行くのではない。あなたは教会に行くことはできない。なぜなら、あなた自身が教会なのだから」とおっしゃっていました。どうしても、私たちは教会という建物の中ですべてのことをやってしまいます。何度も言いますが、教会は建物ではなく、私たち自身が教会です。クリスチャンの集まりが教会なのです。そして、私たちが神の宮、神殿なのです。このことが分かると、発想の転換が生まれます。マタイ28章でも「あなたがたは行って」と言われているし、マルコ16章でも「全世界へ出て行き」と命じられています。ということは、私たちがこのように集まって礼拝をささげた後は、家に帰るのではありません。神さまのもとから家庭や職場、地域社会に福音を携えて派遣されるということです。私たちが神さまの祝福の管となり、それぞれ遣わされた場所に神さまの祝福を運ぶのです。私たちは、毎週、毎週、集まっては散り、集まっては散りということを続けながら、天のエルサレムを目指している存在です。詩篇の記者がエルサレムの神殿を慕い求めたと同じように、私たちは天のエルサレムを慕い求めながら進むのです。この世では、「終の棲家(ついのすみか」という言葉があります。もちろん、最後に安住する所があれば幸いです。一休禅師が「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」と唄ったそうです。私たちの場合は、天のエルサレムを目指す旅であります。私たちは、このところで、毎週、毎週、礼拝をささげていますが、それは主とお会いする準備をしているようなものです。年を重ねると確かに地上での人生は短くなります。しかし、天のエルサレムでは栄光の肉体をいただけるので、問題はありません。天路歴程の主人公は、川を渡り、エルサレムの門を見上げました。彼が肉体の衣を脱ぎ捨てると、突然、身が軽くなり、すばやく門に達することができました。私たちたちも、やがて、地上の肉体を脱いで、天のエルサレムに喜び勇んで入るのです。